悪魔の背中
悪魔の背中


 友の眠っていたはずの場所には、穴だけが残っていた。
土中から地上へ這い出したような、外へ広がる土の盛り上がり。彼はどこへ行ったのだろう。彼の手掛かりがあるかと考えたぼくは、人の顔ひとつがようやく入る大きさであるその穴を覗きこんだ。
 湿った土と、かすかに腐った葉のにおい。当然ながら、暗くて何も見えない。明かりを持ってこようとふと顔を上げたぼくは、そこで悪魔と目が合った。
 それを「目が合った」と表現していいものだろうか。ぼくとそれの視線が絡んだ瞬間、目と思しき器官の奥に溜まった闇が、ぼくの内側をごっそりと削ぎ取っていった。魂ごと意識を引きずられる感覚に恐怖を覚えたぼくは、頭を振って気を保つ。
 朽ちた老木のような色をしたそれは、土で汚れたぼくの前でふうわりと浮かんでいた。背中にある一対の翅は微動だにせず、それがどのようにして浮かんでいるのか、ぼくには見当もつかなかった。

 ぶうん。

 それからだ、頭の中に耳障りな羽音が、悪魔の翅が震える音が響くようになったのは。
 この生き物が友の変わり果てた姿なのか、それともまったく別の何かなのか、ぼくには判断がつかない。
 まるで抜け殻のような、生き物と呼べるかすら怪しいそれは、図鑑のページの大半を空白で埋めながらも、確かに生き物として分類されていた。
 ああ、頭が痛い。




 キミの背中には天使がツイているんだねえ。ある芸術家はそう評した。
 得体の知れないこの男は、思い出したようにふらりとぼくのアトリエを訪ねてくる。ふんふんへたくそな鼻歌を歌う芸術家は、ぼくとは違って生粋の創作者だ。彼の作品は、眩しく映る。きっと彼の眼下に広がる世界は、ぼくが一生窺い見ることのできない世界なのだろう。
 しかし、ぼくの背後で不気味に浮いている存在を天使と呼ぶなんて、いささかお花畑が過ぎる。天使らしい要素なんて、せいぜい頭上の輪くらいのものだろう。
 ぼくがそう返すと、キミの頭も大分あったかいよ、と芸術家は笑うだけだった。
「私ね、今度の作品はスカイフィッシュを題材にしようと思うんだ」
 芸術家はおもむろに、アトリエの床に無造作に置かれていた生物図鑑の一冊を拾い上げた。硝子玉のような瞳が、ぼくが付箋を挟んだ頁に興味を示す。正確には隣側の頁のようだが、そこに何が記されていたのかぼくには覚えがない。
 スカイフィッシュ。高速で空中を飛び回っているとかいう、未確認生命体。あまりの速さに、それが空を泳ぐところを視認したものはいない。概ね、そんな感じの生き物だったと記憶している。
 抜け殻の何を見てシンパシーを感じたのかは知らないが、そもそもこの芸術家の話に脈絡があった試しはない。はあ、とかふうん、とか、曖昧な相槌を打つに留まる。
 子供だましの証明写真の中にしか存在しない生き物が、はたして実在するのだろうか。
「夢がないねえ、キミは。おっと、今は夢を見られないんだっけね」
 この頭痛は、かねてから続く羽音のせいだけではないと信じたい。
「信じる者は救われる。神も悪魔も死神も、いないと思えば死んでしまうのさ」
 何かを哀れむように目を伏せた芸術家の言葉は、なぜだかぼくの背後に投げかけられているように聞こえた。




 ぼくの友が姿を消してから、ぼくは一丁前にスランプというものに陥っていた。
 ぼくの絵はだいたい、幻想的だとか、その類の評価を受けることが多い。それもそのはず、ぼくの絵は夢にインスピレーションを受けた作品ばかりだ。
 十中八九の人間はぼくの絵に首を傾げるが、ぼくは残りの奇特な一割のおかげで何とか絵描きとして食べている。それがまったく描けなくなったのだから、粥をすすることすら難しくなるのは時間の問題だった。
 ぼくの小さな友と一緒に眠る夜は、不思議とよく強烈な夢を見たものだ。視覚が退化し、強烈な光が苦手な友は、昼間はアトリエの庭にある大木の洞に身を潜めていた。夜半に濡れた木の香りがしたら、彼がぼくのベッドに潜りこんでくる合図だ。
 つるりとした卵のような表皮がぼくの腕を滑る。ぼくの輪郭を確かめるように二本の触覚が頬をなぞるこそばゆさを覚えながら、ぼくは深く夢の中へ落ちていくのだ。
 あの白い、小さな体の中に幻想郷が詰まっているのだと言われてもぼくは驚かないだろう。驚かなかっただろう。
 しかし、ぼくの友はもういない。いるのは、朽ち果てた抜け殻だけだ。




 ぼくはある夜、試しにその抜け殻と同衾してみることにした。あまりにも筆が進まなくて、藁にもすがりたい思いだった。頭痛が酷くて眠れない日が続いていた。せめて抜け殻の中に、夢の残滓だけでも残っていれば、と思ったのだ。
 いつもぼくの背後に浮かんでいるそれを引き寄せて、くたくたのシーツの中へ押しこむ。抜け殻はさしたる抵抗を見せず、すんなりとぼくの腕の中へと収まった。
 目と鼻の先にいるはずなのに、抜け殻から呼吸をまったく感じられない。それが身じろぎをするたびに、乾いた表皮が指先に引っかかった。抜け殻からは、日に焼けた木の皮の匂いがした。
 友とは何もかもが違った。
 これではおそらく、夢を見ることは叶わないだろう。失望に包まれたぼくは、重たい溜息を吐いて腕の力を抜いた。微動だにせぬ腕の中の抜け殻を見る。見て、しまった。
 抜け殻はぼくに背を向けていた。いつもぼくの背後にいるので気付かなかったが、それの翅の付け根には、ぽっかりと孔が開いていた。
 月光が差し込む寝室の中で、それは何よりも暗く深く、闇を湛えていた。
 最初に抜け殻を見たときと同じだ。ぼくは取り付かれたように再びそれを引き寄せると、背中の孔へつつい、と顔を近づけた。ぶうん、頭に響く羽音が警告のように大きくなる。
 最初はただの闇だった。しかしぼくの意識が孔の奥へ進むに従い、次第に闇の向こうから光が差し込んできた。最初は針の先のような点が、次第に大きく、強くなっていく。まるで、長いトンネルの中を歩いているかのようだった。
 そうして途方も無く、ただただ光に向かって歩いていたぼくの視界が不意に開けた。そのときだ。

 ぼくは、背中の虚の中に、幻想郷を見た!

 目に刺さるほど鮮やかな空色に、この世の全ての色を詰めこんだかのような色とりどりの花の色。気ままに踊る小鳥たちの朗らかなさえずり。前髪を撫ぜる爽やかな風に乗って運ばれてくる、冷たい水と甘い蜜のにおい。
 ぼくはこれが抜け殻の背中の虚の中の景色だということをすっかり忘れていた。まるでこの世の物ではないような世界を、ぼくは暗闇の中からじいっと食い入るように凝視していた。

 ぶうん。

 どれくらいそうしていただろう、数十分か、数時間か、あるいは一瞬だったかもしれない。突然ぼくの背を誰かが強く引っ張った。ぶるりと暗闇がうごめき、孔の奥の奥までのめりこんでいたぼくの意識は脳幹の辺りまで引き戻される。
 それと同時に、ぼくの体は冷たいアトリエの床に転がっていた。ベッドの上から落ちたらしい、と気付くのに幾ばくかの時間を要した。ぐしゃり、虫を潰したような音をたてて床に散らばっていたスケッチが悲鳴を上げる。
 あれは、いったい。アトリエの床に寝転んだままのぼくを、抜け殻が静かに見下ろしていた。




 あれは悪魔に違いない。
 あの抜け殻はぼくに見果てぬ幻想郷を与えた。この世の物とは思えぬ、筆舌に尽くしがたい極彩色の世界と引き換えに、ぼくの友という贄をさらっていったのだ。
 ぼくは未だに筆を握っている。あの日垣間見た幻想郷をキャンパスに落とし込むためだ。日々薄れ行く幻想郷が別のものに摩り替わらないうちに、ぼくはこの絵を完成させなくてはならない。
 地平線の果てまで続く緑は友の瞳の色。風に揺れる花は友の肉の色。草間から覗く土は友の肌の色だ。白いキャンパスに一つずつ色を置いて行く行為は、さながらぼくの友を黄泉還らせていくかのようだ。
 時折、あの深淵をもう一度覗き込みたい衝動に駆られる。しかし、その誘惑に負けてしまったら、ぼくは二度と筆を持てなくなるだろう。予感めいた一かけらの理性、あるいは恐怖心によって、ぼくはそれを実行できずにいる。
 ぼくの背後に音もなく佇む悪魔の背中から、粘っこい油絵具の臭いを裂いて、柔らかい土とちぎれた緑の匂いが漂ってきた。やはり、がらんどうの抜け殻の中にはぼくの愛してやまない、ぼくだけの幻想郷が広がっているのだ。
 頭痛はいつの間にか止んでいた。




 筆がキャンパスをこするざらついた音に紛れて、ぶうん、とかすかな羽音が響く。途端、何もいないはずだった空間から、それは姿を現した。
 黄土色の体に薄い翅を持つそれは、スケッチと汚れた布が散乱するアトリエの宙にぴたりと静止していた。ぶうん、薄い翅が空気を震わす。まんまるな夕焼け色の瞳は、青年の丸まった背を映していた。夢を見てから寝食に気を回していないのだろう、彼が絵画用のエプロンの下にまとうのは、背中に穴の空いたスウェットだった。
 鉤爪のような鋭い前足の先には、青年のスウェットと同色の切れ端が引っかかっている。彼は一心不乱に、彼の友のために筆を動かしていた。彼のキャンパスは、この世にあるだけの色をこぼれんばかりに詰めこんだものだったが、その賑やかさとは対照的にどこか寒々しさを覚える世界だった。
 青年の傍らに浮かぶ抜け殻だけが、羽音に対してゆっくりと無感情に振り返る。
 途端、抜け殻から伸びた影が鋭く起き上がり、黄土色の塊をかすめていった。それは敵意であり、警告。もうお前の居場所はないと、そう告げているようだった。
 ああ、青年の世界で、夢を抱く小さな友はすでに死んでしまったのだ!
 ギイ、黄土色の塊が、はじめて羽音以外の音を発した。酷くかなしい、鳴声だった。
 青年がようやく筆を止め振り返ったとき、そこにはただ、抜け殻だけが佇んでいた。

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赤星 ( 2014/10/02(木) 00:33 )