からやぶとんぼ
◆
この世界は虚構で出来ている。
砂漠の中で不自然に広がる円形のバトルフィールドも、黄砂を孕む温い風も、砂嵐に濁る空も、フィールドの反対側で両手の爪をこすり合わせるガルーラも、俺に棘だらけの背を向けるサンドパンも、それらを認識する俺さえも。
全て、すべて作りものだ。
「ガルーラの ブレイククロー!」
だから、丸みを帯びたゴシック体が視界を横切るなどという不可解な現象にも驚くことはない。右下に表示された緑色のバーがスラッシュ音とともに短くなり、三分の一ほど身を削った辺りで動きを止めた。乱数三発。耐久を厚めに振っているとはいえ、仮にもガルーラの火力でこれは少し減らなすぎる。この一回の攻撃で、それまでのプレイングで積み重なっていた数々の疑問が確信に変わりつつあった。三値を知らないエンジョイ勢か、知りたての初心者か。両者の間には明確な意識の差があるが、この場においてはニアイコールだ。
だいたい“ブレイククロー”て何だ。トレーナー免許取りたての学生か。シナリオならともかく「実戦」運用に耐えうる技じゃないだろそれ。副次効果とその名前の響きが魅力的なのは認めるが、瞬間火力がお粗末すぎて採用候補にも挙がらない。
あまりにもあんまりな選択肢に、自分の先ほどの推察すら忘れて呟きかけた声を寸でのところで呑みこんだ。機械の殻を挟んだすぐ隣には、ガルーラを繰る相手が自分と同じく固い椅子の上に身を預けている。視覚はバイザーで完全に遮られているものの、聴覚は外野が思う以上に外の音を拾う。隙間だらけの黒いドームは、リアルファイトから雛を守る防壁にもならない。代わりに細い溜息を吐き出した俺を、零と一で構成されたエースがプログラム通りにちらりと横目で振り返った。
ターンの切れ目。S通りに動く世界で、砂かきサンドパンの先手は確定。仮に向こうが石火を打とうが不意打とうが、この体力を削りきるのは難しいだろう。気合のハチマキ二連続発動のようないつぞやの大会を超える伝説級の乱数が来ない限り、俺の勝ちは揺るがない。
「サンドパンの じしん!」
サンドパンが強く踏んだ四股と鳴動するかのようにフィールドが揺れた。待機モーションのまま体を揺らすガルーラの白い腹に、砂の下から突き出した槌が叩き込まれる。みるみる内に半分以上を残していた左上のゲージが溶け、一瞬ポリゴンの輪郭をちらつかせたガルーラの体は霧散する。相手の残数なし。俺の勝ちだ。
幾度となく耳にしたファンファーレを聞き流しながら、俺は両目を覆うバイザーを首元へ下ろす。目の前に広がる景色は広大な砂漠の中央に展開された不自然なフィールドから、青白い電光を放つモニター群にとって変わった。店内ランキングの上位に俺のハンドルネームが躍るが、もはや何の感慨も湧かない。メモリーチップの排出を待って椅子から身を起こした俺は、ゆっくりと内側から機械仕掛けの殻を押し上げた。
俺より先にホログラムヴィジョンから孵化した「対戦相手」は、俺よりずっと下の子どもだった。俺と同じくメモリーチップを握る彼は、恐らくはまだ自分のパートナーを持たせてもらえない年齢なのだろう。なにがエンジョイ勢だか、したり顔で考察していた自分を思い出し顔に熱が上る。
彼は外に待たせていたらしい友人と合流すると、すぐに人込みの中へ飛び込んでいってしまった。俺はその背中を見送る。
彼らにとってのホログラムヴィジョンは本物のパートナーを持つまでの繋ぎだ。ホログラムヴィジョンの本来のあるべき姿。本物が手に入ったら、彼らは机の引き出しにしまったメモリーチップのことなど忘れて冒険の旅に出てしまうのだろう。
まぶしい。
俺には、彼らを待つ輝かしい未来の一片すら残っていない。
◆
少年たちにあてられた熱を冷ますべく、ふらふらとあてもなく町中をうろついた俺を待っていたのは、更なるまぶしい生き物だった。賃貸の安さだけが取り柄の我が城。その前に誰かが立っているのを見つけたとき、俺は踵を返して逃げたくなった。夜警さえやり過ごせば、大学のゼミ室で一晩潰せるだろうか。実行に移すよりも先に待ち人が俺の帰還に気付いてしまったので、浅はかな作戦も儚く崩れ去ってしまったのだが。
「おかえり」
おんぼろアパートの二階の手すりに身を預け、ひらひらと右手を振るのはよく見知った顔だ。俺の、妹。ノースリーブシャツとショートパンツという活動的な服装から健康的な肢体を惜しげもなく晒しているのは、ここが森の中ではないからだろう。前に見たときはショートカットだったはずの髪は、ベリーショートにまで短くなっていた。見る度に短くなる髪は、終いに剃髪までしてしまうのではないかと思うほどだ。
「待ってたよ、お兄。元気そうで何より」
「なんで来た。どうして俺がお前を家に上げると思っている」
「可愛い妹の出迎えじゃあないか、そう冷たくしないでよ。オカズを冷蔵庫にしまうくらいの時間は待っててあげるからさ」
俺の攻撃的な態度を意にも介さず、妹は手を頭の後ろに回してにやにや笑いを浮かべている。のれんに腕押し、糠に釘。こいつは昔からそうだ。完璧超人特有の余裕綽々っぷりが、癇に障る。
いつもはつま先でそっと上る階段を蹴り飛ばすように踏みつける。錆びた鉄の格子階段がけたたましい悲鳴を上げた。
どうせ追い返そうと奮起したところで労力を浪費するだけだ。俺は溜息で心情をアピールしながら、擦り切れたストラップの付いた鍵をポケットから取り出す。シリンダー錠が回る音がやけに重く聞こえた。
我先にと部屋の中へ入りたがる妹を制した拍子に、彼女の体臭が鼻先をかすめる。その瞬間、俺は反射的に眉をしかめていた。太陽と、土埃と。
「……獣臭い」
「ワイルドでしょ、草食系にはちょいと危険な香りかな」
「お前、家の中でボールから出すなよ」
「わかってるって」
妹はおざなりな返事をしながら、するりとドアの細い隙間を抜けて家の中へと入ってしまった。勝手な奴だ。もっとも、これくらいの身勝手さがないと自由奔放な連中とは付き合っていけないのかもしれない。
一息つくや否や妹は家主の断りなくシャワーを浴び、扇風機の前を陣取ると至福の表情を浮かべながら冷凍庫のアイスを貪った。しかも、その手にあるのはとっておきのハーゲンダッツである。まったく、ふざけるなとしか言いようがない。
彼女は普段、所謂ポケモントレーナーとして各地を渡り歩いている。年頃の少女が連れもなしに旅を続けていることと、親に仕送りを打診していないことから、トレーナーとしてある程度食って行ける程度には優秀なのだろう。
そういった人種が一所に腰を落ち着けて何かをする必要が生じた場合、難儀するのが拠点の確保だ。数日の滞在であれば、国が補助金を出して運営している各宿舎で仮住まいを整えればいい。しかし、それが一週間、一ヶ月と続くのであれば話は別だ。補助宿舎の滞在可能日数は決まっているし、かといってホテルや民宿に宿を取れば出費がかさむ。自然、縁者の住む場所へ足を運ぶ者が多い。そして妹は、その根城を俺のおんぼろアパートに求めていた。
断りたかった。
「同性の友達くらいいるだろ。そっちに頼めよ」
「いやだなお兄、一緒に町の外で野宿してくれと言えって?」
妹は姿勢を正して俺に向き直ると、睨み付けるように俺をまっすぐ見つめた。表情は切れ味鋭い真剣そのもの。父方の血が濃い妹はやや緩和されているものの、目つきが悪いのは俺ともども家系の為せる業だ。
「食費は出すし、家事もやる。ポケモンは絶対に部屋で出さない。お兄の嫌がることも極力しないよう努力する。だから少しの間、ここに置いてほしい」
妹の視線に触れた部分が、じりじりと焦げるように熱い。おれはその熱を振り払うように、手の甲を上にして二度払った。妹はモヤシが陽の光にあたるとダメになることを知らないらしい。
「今日の夕飯はタコライスだ、いいな」
「お兄は甘いなあ!」
まったく同意だ。そして、諸手を上げて破顔する妹は偉大なる兄のことをもっと敬うべきである。
◆
紅白の球が青空を舞う。赤い稲妻が四本、妹の周りに落ちた。
妹がポケモンのコンディションを見たいというので、夕飯の食材調達の帰りに立ち寄ることとなったポケモンセンター敷地内の一角。夕暮れだというのに、俺たち以外にも多くの利用者が所狭しと蠢いていた。その辺で連れ歩きしているのを見るものもいれば、生き物かすらも怪しいものまで様々なポケモンがいた。普段こういう場所には寄りつかないので、異世界に足を踏み入れたかのような感覚に陥る。
妹の号令に従い、彼女のポケモンたちが一列に並ぶ。妹は彼らの全身を触りながら、素早くポケモンたちのチェックを済ませていった。素人目にはその触診で何がわかるのかまったく理解不能だが、妹は真剣な顔でふんふん唸っている。彼らの内の一体が、妹をこの町に滞在させる理由だった。
茶褐色の体表、山の如くどっしりとした巨体、太い尾、そして腹部の育児嚢。袋からのぞくつぶらな瞳の幼体を愛おしげに撫でるそのポケモンの瞳には、紛うことなき慈愛の光が宿っていた。
ガルーラだ。
しかし妹のガルーラは、ホログラムヴィジョンの3Dモデルに慣れ親しんだ俺に違和感を抱かせる生き物だった。育児嚢から顔を覗かせている幼体は、タイル状をした黄土色の体表を袋の外に晒している。明らかにガルーラの幼体ではないチビ助は、母親の育児嚢に何とか収まっているといった体だ。
俺の見間違いでなければ、俺の知識が正しいのであれば、袋に収まるチビ助はサンドというポケモンだった。
チビ助を凝視する俺の視線から子どもをかばうように、ガルーラが俺にたくましい背を向ける。妹は手を顔の前まで持ち上げると、一度両手を打ち合わせた。それを合図に、ポケモンたちは思い思いの場所へ散らばっていく。妹のポケモンはよく躾けられていた。
あの若きガルーラは、サンドのことを自分の子どもだと思い込んでいるらしい。
彼女の本当の子どもは、既にこの世にはいない。「不幸な事故で」と語る妹は詳細を話さなかったが、俺とて見えてる地雷原に足を突っ込む気はない。まあともかく、何らかの理由で子どもを亡くしたガルーラは、ある日どこからかサンドを拾ってきたらしい。ガルーラの袋の中に収まるサンドは衰弱していたこともあり、妹も強く彼らを引き離すことができなかったという。
元々サンドが甘えたがりな性格だったことも相まって、衰弱から回復した後もガルーラたちは本物の親子のように離れようとしない。しかし、それが許されるのも今だけだ。サンドはまだ子どもで、どうやら平均的よりも小さめな個体であることが功を奏してはいるが、このままサンドが成長すれば間違いなくガルーラの育児嚢を突き破る。それでなくとも現在の時点で、ガルーラの動きが以前よりも鈍っているらしい。そりゃそうだ、腹に錘を入れてたら狼だって水に沈む。
妹は、いよいよ本腰を入れてガルーラに子離れをさせようと意気込んでいた。この長期滞在で、袋の外がチビ助にとって安全な場所であるということを、ゆっくりとガルーラに教えていくつもりのようだ。
ポケモンとは、まったく不可解だし理解不能だ。
◆
妹が居候を始めてから数日が経過した。妹は実家にいたときと変わらず強引グマイウェイ野郎で、実家にいたときよりも料理がうまくなっていた。生意気にも俺に気を遣っているのかポケモンの話題を挙げることはなかったが、馬鹿正直な妹の様子から子離れの経過があまり芳しくないことくらいはさすがにわかる。だからといって、俺からその話題を振るのは何となく気が引けた。結局、俺たちはくだらない話題で共通の時間を過ごしている。
食事の片づけを妹に任せた俺は、中身の薄い鞄を持って少し早めに家を出た。大学の講義は午後からだが、あの家から少し身を置きたくなったのだ。
妹が旅に出て、俺が進学のために一人暮らしを始めて。少し、人がいない空間に慣れすぎてしまったのかもしれない。妹が来てから、あの家には他人の気配が溢れている。いつもより多い食事、洗濯物、生活音。妹がまとう、獣のにおい。
少し体重をかけるだけで金切声をあげる階段を下りると、アパートの狭い庭で妹のポケモンたちが遊んでいた。もちろんガルーラ親子もいる。
ポケモンたちは俺の姿を認めても、すぐに興味を失って思い思いに向き直る。きっとポケモンたちは、俺が彼らに抱いている感情をうっすらと察しているのだろう。彼らは決して愚かな生き物ではない。愚かなのはきっと、俺の方だ。
そんな中、唯一空気を読まないのが件のチビ助だ。母親ほど外の世界に臆した様子のないチビ助は、なぜか俺を見つけるとちまちま走り寄ってくる。一度厄介払いにキャンディを与えてしまって以来それをいたく気に入ったのか、俺はチビ助の中で「甘いものをくれるおじさん」になっているらしかった。
生憎、キャンディおじさんのキャンディは品切れだ。チビ助を無視して足早にアパートの敷地に背を向ける。切なげな鳴き声を上げながら俺の後ろをついて歩くチビ助の足を止めたのは、鋭い、嗜めるような一声だった。子を窘める母の声に、俺の肩もわずかに揺れる。
ああいう声はどうも苦手だ。やめなさい、と高い声で俺の手を引く母を思い出す。子を思う故の厳しさだということがわかるからこそ、余計に。
チビ助自身もガルーラに強く逆らう気はないらしく、あっさりとアパートの方へ引き返していった。念のため、一度後ろを振り返りチビ助の姿がないことを確認する。からっぽの道路に安堵の息を吐きながら、俺は少しずつ歩調を緩めた。こりゃあ時間がかかりそうだと呟いた、自分の言葉に一番がっかりした。持っていた荷物をうっかり足の上に落としてしまった気分だ。
メインストリートに出れば、道を歩く人々の多くが大小様々のポケモンを連れ歩いていた。昼間は交通規制がかかっているため車通りは少ない。例え走っていたとしても駆け足で追いつく程度だし、それならポケモンに荷車を引かせた方がずっと速い。
じゃれあいに夢中で周囲に注意の向かないヒノアラシとアチャモがぶつかってきそうだったので、片足を上げて避けてやる。風のように足元を駆け抜けた二体を追う新米らしきトレーナーが、俺に向かって小さく会釈した。
勝手気ままな生き物に振り回されるのは大変だろう。新米君の小さくなる背中へ中身のない同情を送る。喧騒の中、新米君の姿は光に溶けて消えていった。
◆
俺はポケモンが嫌いだ。
いや、「嫌い」などという強い言葉を伴う感情ではない。苦手とも少し違う。しかし無関心とするには、ポケモンは人に近すぎた。
接し方がわからない。
これが一番しっくりくるように思う。
すぐ隣に、当たり前にポケモンが息づくこの世界で、俺の実家はポケモンと無関係な生活を送る家庭だった。愛玩動物としても人生のパートナーとしてもポケモンを育てず、ポケモンと無関係な職に就き、自分から積極的にポケモンに触れない人生を送る人間はこの世界にも少なからず存在する。そういった人種に過去のトラウマが原因でポケモンのことを嫌っていたり、体質的な問題でポケモンから遠ざかった生活をしていたりといった明確な理由は存在せず、ただ単にたまたまポケモンと深く接する機会のないままそれぞれの人生を歩んでいるのだろう。
訳知り顔で話す俺もそのご多分に漏れず、学校の授業で人間に慣らされた小型のポケモンを少し世話したくらいだ。大学でも彼らとは無関係な数式と戯れる日々を送っている。
妹はそれをよしとせず、義務教育を終えるや否やモンスターボールを片手に家を飛び出していった。昔から、あいつは俺がためらって踏み出せない一線を軽々と飛び越えていく。
妹に限らず、ポケモンとともに暮らし人生を謳歌する姿を羨ましいと思わないでもない。しかし同時に、俺はポケモンを持つべきではないとも思う。理由は、自分が一番よく知っている。
自分の面倒だけでも手一杯な俺が、どうしてほかの生き物を気に掛けられるというのだ。
ポケモンは生き物だ。だから、餌がいる。排泄物も出す。衛生にも気を配らなければならないし、種族によっては特殊な世話が必要になる場合もある。加え、散歩やバトルで適度にストレスを発散させなければならない。考えただけで手間のオンパレードだというのに、六体も平等に愛情を注ぐなんてとてもじゃないが正気の沙汰ではない。俺だったら確実に気が狂う。それを恒常的に行なっているトレーナーは、やはり俺とは別次元の生き物なのだろう。好きが高じて馬鹿の領域に足を突っ込んでいる。
その点、バーチャルの世界はまったく気軽だ。生理的な世話は必要ないし、データを少しいじってやれば思い通りに動く。通い慣れた道の先、俺が目指す黒い卵、俺の巣。ホログラムヴィジョン。
本来はポケモンの携帯を許されない年齢層向けに開発された学習マシンだ。あらゆる種類のポケモンの能力値を平均数値化したものがデータ化されており、設定するだけで誰でも簡単に疑似ポケモンバトルが楽しめる。仮想敵を定めた育成シミュレーションも可能なためこれを利用するトレーナーもまま存在するが、基本的には実物のための補助システムであり、世間一般的な認識としてはゲーセンの筐体とほぼ変わりない。つまり、ゲーム。現実ではクソほどの役にも立たないホログラムヴィジョン内でのみ通用する能力値を暗記したり、良質な個体を粘ってみたり、頻繁にホログラムヴィジョンに入り浸って戦績の優劣を競ったりするのは俺たちギークくらいである。
仲間内の溜まり場になってから久しいホログラムヴィジョンの周囲には、すでにいつもの面子が集まっていた。一つの画面に野郎三人が顔を突き合わせているギーク丸出しの様子は、身内であってもまったく擁護できない。
「……狩りが近くで増えてるらしいな」
「そういうの、オレら真っ先に狙われるじゃん。やだやだ」
「うす」
「お、初狩りの男が来たぞ」
誰が初狩りだ、人聞きの悪い。年端もいかぬ少年を大人げなくボコったのは認めるが、俺だって対戦相手がスクールの学生などとは思わなかったのだ、仕方あるまい。
それにガチ趣味勢を豪語する俺としては、種族値の暴力で襲ってくるお前らを余裕で狩れるほど強くない。いらんところで風評被害を出さないでほしい。そう反論した所で、ギークたちはにやにやと異性が遠ざかるような笑みをこぼすだけだった。
「さすが上位ランカーはやることが違いますな」
「マジリスペクトっス」
まったく、人の話を聞いちゃいない。煽り混じりにからかわれて、俺は同士を肘で小突く。まあ、同じことがあったら間違いなく似たような反応をするのだが。
メモリーチップや計算ツール、ノートパソコンがひしめき合うテーブルの一角にスペースを作った俺は、彼らと同じくデータの調整のために鞄を肩から下ろした。肩にかかる重量から解放されたことに安堵したのも束の間、俺の視界には足元で蠢く黄土色の塊が映りこむ。アパート周辺で振り切ったはずのつぶらな瞳が俺を見上げていた。
どうしてお前がここにいる!
思わずカエルを潰したような悲鳴を上げた俺の反応をきっかけに、仲間内もチビ助の存在に気がついたようだった。奴らがチビ助を覗きこむと、なぜか俺の陰に隠れてくる。チノパンを引っ張る爪が痛い。
「どうしたの、それ」
「ついに二次元の壁を超えてリアル嫁をゲットしたか、同士よ」
「馬鹿、違う。妹のだ」
「ほう、妹とな」
どっちに転んでも面倒くさい奴らだな、お前ら。
ギークに怯えるチビ助を放っておきたいのは山々だが、後で事が妹に知れたらと思うと、面倒でもチビ助を家に帰す方が得策だった。俺は広げた荷物を渋々畳み、再び肩に掛け直す。鞄がどっと重く感じるのは気のせいじゃあないはずだ。
◆
会ったばかりの仲間に別れを告げて、ホログラムヴィジョンが設置されているゲーセンを後にする。妹に電話をかけると、安心したような柔らかい声を出した。
「よかった、こっちも探してたんだ。今から迎えに行くよ」
一度は断ってみたが、兄の気遣いは「徒歩より飛んだ方が早い」と無碍にあしらわれてしまった。現在地に近いフレンドリィショップを待ち合わせ場所にして、俺は通信を切る。
見下ろせば、無邪気に小首をかしげるチビ助。子どものようなわがままに振り回される身にもなってほしいが、文句を言ったところでこいつの耳には届かないだろう。俺はおとなしく、嵐が過ぎ去るのをじっと耐えるだけだ。
フレンドリィショップに移動して妹の到着を待つ。手持無沙汰に購入したキャンディを頬に詰めるチビ助の姿はまあまあ微笑ましかった。赤いセロファンが俺の手の中で摩擦音を立てるたび、チビ助の耳が面白いほど機敏に反応する。仮に俺が延々とキャンディを与え続けていれば、ガルーラの育児嚢よりも先にチビ助の頬袋が破裂するだろう。
そういえば、人間の甘味料をポケモンが摂取していいものだったろうか。しかも、大量に。急に不安になって袋の成分表示をひっくり返してみるが、俺の不安を解消してくれる記述はどこにもなかった。
バレたら妹に怒られるやもわからん、とぼんやり考えていた俺は、俺の方に向かって近づいてくる人影の存在に意識を引き戻された。ショップの入り口近くに立っていたので動線の邪魔なのかと思い、数歩右にずれる。すると人影も同じく方向を調整し、俺に向かって一直線に向かってきた。
これが異性であれば胸の一つも高鳴りそうなものだが、生憎俺の胸ぐらを掴みあげるのは厳つい顔のスキンヘッドである。彼の積極的なアプローチに俺の心臓は早鐘を打っていた。
「何ガンつけくれてんだ、あァ?」
母親の目つきの悪さをがっつり遺伝してこの世に生を受けた俺は、視線を一点に集中しているだけで相手を睨み付けているように見えるらしい。この手の絡まれ方は一度や二度ではきかないほどに経験しているが、俺にできる対処法と言えば見てませんすいませんと呪文のように平謝りするほかない。
乱暴に揺さぶられた拍子に、肩からノートパソコンの入った鞄が滑り落ちた。一度小さく跳ねた鞄は、スキンヘッドの後方へ転がっていく。持っていたビニール袋の口から、からからとキャンディが零れて散った。
ああ、あいつらが話していた「狩り」って俺のことじゃなくて、もしかしてこういう。
だったら早めに教えといてくれてもよさそうなもんだが、そこはそれ、気の利かないギークである。ここでスキンヘッドの手をチビ助が叩き落としてくれたりとか一イベントでもあれば俺の心証も滝登りなのだが、当のチビ助は俺の足元に散らばったキャンディに夢中である。ふたりなのに孤立無援、いっそのこと清々しい。
勝手にヒートアップしているスキンヘッドがいよいよ片手で握り拳を作り始めたので、先の発言がブーメランであることと、来るであろう顔への衝撃に備えて俺は目を瞑った。
最初に聞こえたのは、獣の唸り声だった。次に妹の制止の声。薄目を開けて様子を伺えば、スキンヘッドの逞しい上腕二頭筋の向こう側から、茶褐色の戦車が俺たちへ向かってアクセルベタ踏みで突進してきていた。
スキンヘッドは懸命な判断でさっさと俺を突き飛ばすと、素早い身のこなしでガルーラ戦車の射線から離脱する。臀部を強かに打ち付けたマヌケな姿勢ではとっさの回避行動を取れるはずもない。アスファルトを叩く音がおそろしく轟く中、俺は頭を抱えて身を丸めることしかできなかった。
硬質な何かを叩き割る音があちこちから聞こえた。頭の上にはらはらと欠片が降ってくる。いつまでもやってこない痛みに恐る恐る頭を上げると、俺の頭上スレスレをガルーラの太い腕が通過していた。その先にはフレンドリィショップの放射線状にひび割れた外壁。少しでも軌道が逸れていたらと考えると、遅れて背筋を悪寒が駆け上がった。
珍しく顔を青くした妹が駆け寄ってくる。跳ねる心臓を抑えながら足音のする方へ顔を向けた俺へ叩きつけられた現実は、ただただ非情であった。
ガルーラの太い足の下敷きになった俺の鞄は、中にノートパソコンが入っているとは思えないほどにひしゃげていた。見紛うことなく谷折りだった。 俺の、ホログラムヴィジョンのデータが入ったノートパソコンが。
意識が遠ざかっていくような感覚とともに、目の前が真っ暗になっていく。訳もわからぬまま、名も無き感情を溢れるままに叫び散らした。恥も外聞もなく泣き喚くのは、自制が利くようになってからは初めてかもしれなかった。
◆
どうやって家に帰ってきたのか覚えていない。
気が付いたときには、俺は自室で膝を抱えていた。床の上に散らばるガラクタは、ついさっきまで形を成していたはずのものだった。俺の十数年を注ぎこんだものだった。まったく、どうしようもなく、みじめであった。
パソコンが粉砕された直後はみっともなく喚き散らしてしまったが、少し落ち着いてみると思っていたよりショックを受けていない自分がいることに気がついた。十年来の趣味を一瞬にして失った割には意外だった。否、発狂を通り越して感覚が麻痺しているだけなのかもしれない。頬を伝う塩辛い水はその名残だろう。
ガルーラは諍いを続ける人間二人に挟まれた我が子を救うために鉄拳を振るった。たまたまガルーラの進行方向に俺のパソコンが転がっていた。たった、それだけ。まったく不幸な事故だった。妹は今回のことに責任を感じているようだが、そこまで重く受け止める必要もないだろう、と思う。
俺たちが義務教育で一番初めに習うのは、ポケモンは良き隣人であると同時に小さな災害であるということだ。彼らは非力な俺たちではとても及ばない力で手助けをしてくれるが、言い換えれば非力な俺たちは彼らの力で簡単に傷つくし、死ぬ。野生、トレーナー付きを問わずポケモンが関わる傷害、死亡事故は珍しいものではない。町中を歩いているだけで野良バトルの飛び火が直撃することもあるのだから、物品破損で済んだだけ幸運だと思わねばなるまい。もし仮にガルーラの拳が俺の頭部に直撃していたら、俺は今頃ここと同じく薄暗いひんやりとした部屋で、手を組んで横たえられていたことだろう。
恒常的に炎や雷を体のあちこちから飛ばしている奴らに対して無防備に近寄るほうが悪いのだし、それで命を落としたとしても責任は負えない。あまり狼藉を働き過ぎる個体は殺処分や厚生施設送りになるというが、本当にそうであるならそもそもトレーナーの方にも管理責任を問うべきである。トレーナーは規定によって、損害を与えた相手に対しある程度の賠償を受け持つ義務があるが、今回に限ってはノートパソコン買い替えの資金を少しばかり受け持ってもらえれば御の字だろう。
どうせ、いくら金を積んだとしてもデータの復旧は難しい。
ホログラムヴィジョンは改造や不正を防ぐため、一つのアカウントにつき一つのセーブデータしか管理できない。当然バックアップも取れないため、データが壊れてしまえばそれで終わりだ。もちろん、物理的に壊れた場合も同様である。
これを機に、ホログラムヴィジョンから卒業するのも悪くないのかもしれない。今はまだ遊び倒していられるが、これからは卒業論文や就職活動で忙しくなる。そうすれば、ゲーセンに立ち寄る時間も少なくなる。友人たちとはホログラムヴィジョンを通じて知り合った仲だが、共通の趣味はそれだけではない。彼らとの交友がまったく途切れてしまうこともないだろう。
重たい息を吐きだした俺は、もうひとりの闖入者をうつろに見つめた。無邪気な裏切り者、チビ助である。
ノートパソコンの残骸を物珍しそうにつついているチビ助は、やがてつぶらな瞳をくるりと俺の方へ向けた。どうして俺が半べそなのか微塵もわかっていないようで、むき出しの基盤を引っ掻いている。
お前のせいだと当たり散らすには少し時間が経ちすぎた。怒りよりも呆然とした喪失感が上回り、チビ助を追い返す気力もない。膝を抱えたまま床の上に体を横たえると、チビ助は小首を傾げながら俺の方へと近寄った。
薄暗い室内でもわずかな光を反射して輝くチビ助の瞳が「遊んで」と物語っていた。ポケモンの表情は変化が少なく俺にとっては非常にわかりにくいが、目は口ほどに物を言うのはどんな生き物でも変わらないようだ。
「いいから放っといてくれよ」
発した声は自分が思う以上に苛立っており、情けなく、そして哀れだった。しかし一向に気にする様子のないチビ助は、俺が片手を振って追い返そうともその手にじゃれてくる始末だった。そんなに菓子がほしいのか。余計な嗜好をチビ助に教えこんでしまったかもしれない。
チビ助は俺が構ってくれないと見るや、ぷくりと頬を膨らませた。怒りの表現方法がカートゥーン染みてやがると思ったのも束の間、チビ助は頬袋から小さな塊を吐き出した。俺の顔面めがけて飛んできたそれを慌てて回避する。
「なにしやがるっ」
俺の罵声をスルーして、チビ助は自ら吐き出した塊を拾い上げると俺に向かって差し出した。唾液まみれのそれは、安っぽい赤セロファンに包まれたキャンディ。俺がさっきチビ助に買い与え、足元にぶちまけたそれだった。
随分食い終わるペースが早いなとは思っていたが、まさか溜め込んでいたとは。セロファン飲み込んだらどうする気だ。人工物の危険性を認識していないのだろう、それを教えるのはトレーナーであり人間の役割だ。
「くれるのか」
得意げにキャンディを差し出すチビ助の手から、指先でセロファンの端をつかむ。きったねえな、おい。しかしキャンディは素直に俺の手には渡らず、キャンディを離そうとしないチビ助との間でセロファンが突っ張った。渡したくないなら差し出すな。
「……いいから、お前が食え」
俺は少し力を込めてチビ助からキャンディを奪い取ると、切なげな声を上げるチビ助を尻目に唾液まみれのセロファンをむしりとった。中から現れた黄色いキャンディをチビ助の口に放り投げる。
チビ助は砂のこすれたような音を弾ませると、転がるように俺の部屋を後にした。あれがチビ助の笑い声だと気づくのに数秒を要した。
よき隣人かどうかはわからないが、小さな災害とはよく言ったものだ。まるで砂嵐。巻き込まれたほうはたまったものではない。
そろそろ嘆くのにも疲れたので、俺はわざとらしく声を上げて立ち上がった。まずはこの残骸を片付けようと、自室を出て数歩先の居間へ向かう。
「あ……」
黄ばんだふすまを開けた瞬間、妹が弾かれたように顔を上げた。数分前の俺と同じく膝を抱えた妹の目元は赤く潤んでいる。
どうしてお前が、泣いている。
「お、お兄、あの、わたし」
「いいから顔洗ってこい、ブサイクだな」
鏡見てから言いなよ、とでも返ってくるかと思ったが、妹はちり紙みたいに顔を歪ませて俯いてしまった。お前、こんなキャラじゃなかっただろ。まるでこっちが悪い奴みたいじゃないか。
「なんでお前が俺より落ちこんでるんだ」
「だって、わたし、お兄の、お兄がずっと、大事にしてきたもの」
自分の言葉が引き金になったのか、またぞろ妹の涙腺が決壊した。べそべそ泣き続ける妹を介抱するのは子どものとき以来だ。ホログラムヴィジョンのことを「ゲームなんて」と馬鹿にしていた記憶しかなかったが、少なくとも俺がそのゲームに強く入れ込んでいたことは知っていたらしい。
「も、出てく、迷惑かける」
迷惑をかけられたのは今に始まった話じゃないし何をしようと妹の勝手だが、正味ここで出て行かれても俺の目覚めが悪い。俺は室内に干されていた洗濯物から比較的きれいなタオルを引き抜いて、妹の顔に押し当てた。熱のこもった頭で下す決断ほど後悔するものはない。
妹がようやく落ち着いたのは、タオルがじっとりと湿り気を帯びた頃だった。どうやら妹も、あのガルーラには以前から手を焼かされていたようだ。子どもを亡くした影響からか腹の子どもに並ならぬ執着心を持っているようで、サンド絡みで暴れまわったことは今回が初めてではないらしい。それまではポケモンの自主性に任せて強く子離れを促さなかった妹が一念奮起したのも、ガルーラの姿を見かねたベテラントレーナーに手厳しく進言されたからのようだった。
「わたし、トレーナーに向いてないのかな」
妹にしては随分と弱気な発言だ。二歳違いの妹は、俺が思っていたよりも完璧超人ではないことを今更ながらに思い知る。
「少なくとも俺よりは向いてる。頑張ってるだろ、お前は」
「わたしがなにしてたか知らないくせに」
「お前が家を飛び出してからのことは知らんが、お前がここに来てからのことは知ってる」
妹は俺に日中のことをなにも話さなかったが、ポケモンたちが妹によく懐いているのは一目瞭然だった。ポケモンセンターの近くを通れば「おかしなガルーラを連れたトレーナー」の話を小耳に挟む。例えばバトルが強いとか、例えばしっかり育成されているとか。その関係に至るまで、その評価に至るまで、妹は努力を重ねてきたのだろう。
俺はトレーナーではないが、素人ながらに妹が誇るべき身内であることくらいはわかる。しかしそれを正直に伝えるのが途中で気恥ずかしくなり、変にひねくれた結果ぎこちないフォローになってしまった。
なぜか妹がまた泣いた。
「馬鹿、なんで泣く!」
うろたえる俺を尻目に、妹は言葉にならない声を出して首を横に振るだけだ。もっと慰めの言葉を尽くせというのか、お前は俺の彼女か。いないけど。いないけど!
妹がしゃくりながら弱々しく俺を呼んだ。ちょっと待て、まだ言葉がまとまってない。
「……がんばってタコライスつくる」
それが妹なりの感謝の言葉だと気づくのに十数秒を要した。お前、チビ助よりわかりにくい。
◆
ホログラムヴィジョンから離れた俺の生活は、それ以前のものとさほど変化はなかった。
データ調整に充てていた時間がぽっかり空いた分、暇潰しに勉強をしてみたり、家の掃除をしてみたりと、むしろ充実した生活を送れているのではないかという説さえある。ノートパソコンが大破して以来、仲間内とは連絡を取っていない。互いに学部が違うので一週間ほど顔を合わせないことなど珍しくもないが、俺は彼らにホログラムヴィジョンをやめるということを未だ伝えられずにいた。遅かれ早かれ知れることなのだが、きっと、それを伝えることで彼らと疎遠になることを恐れていた。
俺からホログラムヴィジョンを取ったら、なんにも残らないということに気付かされた数日だった。
そこまで生涯を捧げていたつもりはなかったんだがなあ。
俺は講義の数時間前に家を出て、大学に向かっていた。取り留めもないことをぼんやりと考えていると、気付けば足が無意識のうちにゲーセンの方角へ向いていた。気付いて途中で角を折れ、大学へ進路を取り直す。やがて見える古臭い外門をくぐれば、俺が通う大学だ。
理工学部は大学構内の最奥に位置する。付属図書館にも学食にも近い人文学部棟を羨む俺のポケットが震えたのは、大学生協のコンビニで早めの昼食を調達していたときだった。着信画面を確認すれば、よく見知った名前だった。俺は二、三コール逡巡して、結局通話ボタンを押した。
「もしもし」
「よう、久々。最近見なかったけど、リア充か? うらやま」
「……まあちょっと、ゼミの方がな」
「あー、単位はな。乱数六年とか洒落にならんしな、隣にいるけど」
電話口から少し離れた場所で、うるせー、という悪態が聞こえてきた。いつも通りのくだらないやり取りに、俺は乾いた笑いをこぼす。とてもじゃないが、ホログラムヴィジョンをやめようとしているだなんて言えなかった。
「で、本題。お前のサンド、どっかいなくなってないか」
友人の思いがけない問いかけに、気の抜けたサイコソーダのような声が出た。
「いや、俺のじゃないし、妹のだし。つーかなんでそんなこと聞くんだ」
「さっきその辺でちょろちょろしてるのを見たから、もしかしてと思って。この辺でサンドってあんま見ないだろ」
「お前ら、今どこだ」
「農生東棟側。ほれ、噴水のある」
「わかった、そっち行くわ」
通話を切るや否や、俺は買ったばかりの昼食を鞄の中に突っ込んで走り出した。どうして走ったのだろう、と走りだしてから考えたが足は動くままにしておいた。農学生命学部は現在地からはそう遠くないが、研究の名目で構内のいたるところに草花や樹木が植えてある。小さな森と化した敷地内を動き回られると、見つかるものも見つからない。
再び着信。今度は妹からだった。
「お兄、どうしよう。ガルーラがまたいない」
妹の息は荒く、声は湿っていた。電話の前から長らく探していたことが窺える。
今しがた聞いた情報を妹に伝えると「わかった、わたしもそっちに飛ぶ」と即答した。あまり思いつめていなければいいが。
とりあえずチビ助だけでも確保しておいてやろう。俺は妹を理由に走りだした自分を納得させた。
農学生命学部は、先述の通り草木や樹木が覆い繁り、構内でこの区画だけ別世界のようになっている。中央にはいつぞやの代の学部長が予算を喰い潰して建てた噴水が涼しげに水柱を上げていた。今日は少し汗ばむ気温だからか、学生のポケモンたちが水遊びを楽しんでいる。この噴水の建設費と維持費に金を出すなら建立当初そのままの理工学部棟を改築しろよ、とは俺たち理工学生の誰もが一度は口にする台詞だ。
ともかく、目撃情報はこの辺りだ。どうチビ助を探すかという事案に関しては秘策がある。図らずもの調教が役に立つときが来たのだ。
おうい、と昼食を買った際についてきたビニール袋をてのひらで揉みながら呼び声をかければ、チビ助はすぐに草むらから飛び出してきた。キャンディの袋は買うときにも開けるときにもシャカシャカ音がなるので、ビニール袋の摩擦音に反応すると思ったのだ! ……思ったのだが、まったくチョロすぎるだろこいつ。俺の姿を認めたチビ助はとことこ走り寄ってきたが、俺の手にキャンディの袋がないことを悟るとこの世の終わりみたいに肩を落とした。丸めた背中に哀愁が漂う。いや、背中が丸いのは元々か。
チビ助がまたぞろどこかへ転がっていかないように注意を向けながら、妹へ報告をすべく携帯電話を開く。しかし俺の指は通話ボタンを押すことはなかった。
つい数日前に聞いたばかりの咆哮が、俺の身を竦ませる。同じく振り返る学生たちの視線を集めるのは、褐色の肌を持つ獣だった。
「ガルーラ」
目は血走り、歯茎まで剥き出しにした母親は、喉奥を低く鳴らしながら視線を左右に巡らせていた。興奮を抑えきれていない尾が不規則に叩きつけられる。苛ついた様子の彼女の育児嚢には、何も入っていなかった。
彼女は探しているのだ、自らの子どもを。
居もしない子どもを。
いつもの調子でチビ助が、ガルーラの元へ駆け寄った。ガルーラが射殺さんばかりの視線でチビ助を見下ろす。なんか、まずくないか、これ。
大学の連中は何事かと一度振り返りはしたが、すぐに興味をなくして自らの目的地へ歩を進めだした。ポケモンと人間の小競り合いは町中を歩いていても珍しいものではない。攻撃が飛び火してきそうだとか、どちらか一方が怪我しそうだとか、余程のことでない限りは手出しをしないのが一般的な反応だ。ましてや、戦闘向けにポケモンの育成をしている人間が少ない大学構内ではなおさら、知らぬ存ぜぬを突き通すのが普通だろう。俺だってそうしていた、当事者でさえなければ。
俺がチビ助に声をかけようかためらった数秒、それが明暗を分けた。
ガルーラはチビ助に向かって、その鋭い爪を振り下ろしたのだ。芝生を割って舗装されたアスファルトの歩道が割れ、破片がチビ助の硬い皮膚を叩く。尻餅をついて呆然とガルーラを見上げるチビ助に直撃はしなかったようで、ひとまずは安堵の息を吐いた。
しかし、状況は思ったよりもよろしくない。あれだけチビ助に過保護だったガルーラが容赦なく攻撃を加えるということは、チビ助を子どもとして認識していないということだ。ガルーラは、恐らく亡くした自分の子どもを探している。サンドのチビ助はガルーラの子どもではないのだから、攻撃対象となる。当然といえば当然だった。
何が起きたのかをいまいち理解していないチビ助は、同じく自分の身に危険が迫っていることを理解していない。今度はガルーラの凶刃を避けられないだろう。俺のポケットの中で、セロファンがかさりと鳴った。
やめなさいと、後ろで小さく母の制止の声が聞こえた気がした。俺だってやめてしまいたかった。甘美な錘を振り払い、安いセロファンに包まれた勇気の欠片を握りしめる。
ままよ、と投げたキャンディは、ガルーラの頭に無事命中した。彼女の注意が足元のチビ助から俺の方へ向く。
で、どうすんの、俺。
もちろんポケモンなんて連れてないし、生身でポケモンとやりあえるような身体能力も持っていない。お節介焼きのヒーローが間に割って入ってくれない限り、俺はノートパソコンと同じ末路を辿ることになるだろう。
ガルーラが腰を低く落とし、片足を半歩引いて重心を前に傾けた。ガルーラの殺気が俺を押し潰す。ひどく、恐ろしい。まったく、ポケモントレーナーってのはいよいよもって気狂いである!
風を切って迫る褐色の大砲玉がやけにゆっくり見えた。走馬灯って本当にゆっくり見えるんだな、その経験を今後に生かせそうにはないが。
ガルーラにちょこまかと並走する小さな塊が視界の端に映ったのは、俺がいよいよ死を覚悟したときだ。
チビ助だった。チビ助はぴゅんとガルーラを追い抜くと、くるりとターン。俺とガルーラの間に割って入ったチビ助は体のバランスをとるために両手足を突っ張ったのであろうが、四肢を広げるその姿は俺をかばうように見えた。相棒の背中越しに見る世界。体躯の大きさも、背中の棘も、鋭い爪も違うけれど。ホログラムヴィジョンで幾百回も、幾千回も見た光景だった。
体を丸めて飛び出した小さなカタパルト砲は、狙いを少し逸れてガルーラの右肩に着弾した。ガルーラの巨躯を止めるまでには至らないものの、体幹をわずかに揺らがせる。ガルーラは右足をストンプして踏みとどまると、左腕を引き絞った。
警告の声も出せぬまま、ガルーラが拳を振り抜いた。丸まったまま軽々と吹き飛ばされたチビ助は地面に打ち付けられ、俺の背よりも高く跳ねた。落ちてくる砂色のボールをよろめきながらキャッチする。思ったよりも重量があるそれに、俺はたまらず尻餅をついた。
はじめて触れるチビ助は硬く、生暖かかった。見た限りで大きな外傷はないが、文字通り変化なく、丸まったまま動かないチビ助に不安ばかりが募る。
「おい、チビ。チビってば」
揺すったり叩いてみたりするものの、効果は薄い。迫るガルーラ。無情にもちょっとだけ死期が伸びただけだった。三途の旅の相方が出来ただけ御の字だろうか。
俺は微動だにしないチビ助を腹に抱えて、くるみこむように背を丸めた。ガルーラの攻撃の前には、この貧相な殻もあまり役には立たないだろうか。
「お兄!」
そのときの俺には、それが女神の一声に聞こえた。
目と鼻の先にいたガルーラを、突風が攫っていった。赤い軌跡が俺の網膜に焼き付く。空から降ってきた妹は芝生の上で受け身を取り、獣のように荒々しい動作で後ろ足を突っ張った。少女らしさを残す格好にはやや不釣り合いな、ボロボロのトレッキングシューズが芝生を噛む。白いブラウスに付着する土を払いもせず、妹は細い喉を晒して青空を仰いだ。チビ助を抱きしめたまま、釣られて俺も空を見る。
それは、赤い鳥ポケモンだった。データ上での存在だけなら知っている。白の鶏冠、発達した後足、羽の裏は暗い紺色の体毛で覆われている。ウォーグル。上空でじたばたと暴れるガルーラの肩に鉤爪をくいこませ、空中でホバリングしていた。
ガルーラが再び吼えた。理性を忘れた獣の声は、我が子を探して哭いているようにも聞こえた。
「私は少し、君に甘えすぎていたね。今日はちょっと怒るよ、“フリーフォール”!」
妹が今まで聞いたこともないような鋭い声で、右手を振り下ろした。ウォーグルは矢のように通る甲高い鳴き声でそれに応える。力強く翼を一仰ぎし、滑空から宙返りで逆さまになる。そのまま一気に加速すると、まるで隕石のように噴水の中へガルーラを叩きこんだ。
噴水に溜まっていた水がすべて吐き出されたのではないかと思うくらい高く水柱が上がり、放射状に散った水しぶきが俺たちの上にざんぶと降りかかる。今、ガルーラ、頭から叩きつけられたよな。考えられる最悪の結末に顔を青くした俺を、妹が振り返る。俺の言いたいことをなんとなく察しているようで、彼女は顔にかかった水滴をぬぐいながら笑った。憑き物の落ちたような表情だった。
「これくらいじゃ死なないよ、大丈夫」
修羅の国すぎるだろ、トレーナー界隈。
着水スレスレで離脱したウォーグルが、悠々と旋回しながら妹の元へ戻ってきた。ウォーグルが羽ばたく度に水滴が舞う。水の粒に太陽光が反射して、妹の周りがきらきら輝いた。
俺の妹、かっけー。
◆
開口一番、妹に無茶をするなと怒られた。妹の言う無茶とは、相当な高さから飛び降りることを差さないらしい。
「怪我したらどうするの!」
「そんなことより、チビ助だチビ助!」
「あのねえ、サンドの体ってお兄が思ってるよりずっと硬いの。あれくらいの攻撃じゃなんともないよ」
妹の言葉通り、俺の腕の中で微動だにしなかったチビ助はセロファンの摩擦音に反応して身を伸ばした。現金な奴である。妹曰く、周囲の安全が確保できるまで小さく丸まってやりすごす習性であるというが、まったく肝が冷える。……本当に死んだかと思ったぞ。今度ばかりはご褒美にキャンディを口の中へ放り込んでやると、やっぱりじゃりじゃりと砂のこすれたような笑い声を上げた。
妹はガルーラとウォーグルを戻したボールをじっと見つめていた。先ほどの凛々しく輝いていた妹とは違い、今にも泣き出しそうな表情だった。
「今回の件で、ガルーラもさすがに気づいたろ。本当の子どもがもういないってことに」
「そうだといいけど」
「それでなかったら、今度はチビ助の代わりにピッピ人形でも詰めとけ」
俺はようやく立ち上がると、妹の頭を乱暴に撫でてやる。やめてよ、と半ば本気で俺の手を払い落とした妹の手刀は容赦なかった。
妹の視線が俺の腕の中に向き、潤んだ目が細くなる。妹の視線に合わせて見下ろすと、そこには抱いたままのチビ助がぶら下がっていた。チビ助は胸の前で横にした腕から落ちないように短い前足を絡みつけている。宙ぶらりんの後ろ足の振動が腕に伝わる毎に、チビ助の体重でのしのし負荷がかかる。抱いていると言うよりは腕と胸板でチビ助を挟んでいるような体勢は、双方にとって辛いものだった。
「わはは、ぶきっちょな抱き方」
「仕方ないだろ、ポケモンの抱き方なんて知らない」
妹は大口を開けて笑いながら俺の腕のポジションを直した。やはり笑顔のほうが妹らしい。尻を支えればいいことに気づかなかったのはちょっと恥ずかしいが、無知ゆえということで誤魔化しておく。俺の腕は相変わらず辛いままだが、楽になったのかチビ助はおとなしくなった。
「随分懐かれたね」
「また旅に出るんだろ。どうすんだよこれ」
「この子だけ、お兄に預けるってのはどう」
勘弁してくれと呟いた声は、俺を呼ぶ野太い声にかき消された。妙に懐かしく感じる声だった。
「すげえ音したけど大丈夫か?」
「なんでこんなにこの辺濡れてんの」
「おお、これが噂のリアル妹」
一目でそれとわかる、黒っぽい服ばかりを着たギークたちだった。ほとぼりが冷めた頃に現れるのがこいつらのこいつらたる所以である。今までどこに隠れていやがった。友人たちは物珍しそうに俺と妹、チビ助という取り合わせを眺めている。ええい見世物じゃないぞ、散れ、散れ。あとイモウトスキー、お前はちょっと黙れ。
しかし、久々に顔を合わせた友人たちに言わなければならないことがあるのもまた事実だった。チビ助を抱く腕に力がこもる。裏返りそうになる声を抑えて、俺は慎重に言葉を発した。
「久々なところ悪いが、ひとつ、頼みがある」
「お、珍しい。言ってみ」
やはり俺に、殻の外は眩しすぎる。現実のポケモンは面倒だし、厄介だし、恐ろしい。殻の外に転げ落ちたメモリーチップを、ほうほうの体で持ち帰ってきた俺を笑いたくば笑うがいい。所詮俺は根っからのギークである。
“からをやぶる”からの“とんぼがえり”。セオリーとしては下の下、エンジョイ勢ですらそんな戦法をする奴はいない。しかし、まったく無意味ではないと思いたい。なぜなら、俺の腕の中にはチビ助がいる。
殻の中に引きこもる俺だって、輝く彼らに憧れくらいは持っている。高く飛べない俺のような人間が、殻の中にそっと星の欠片を持ち帰ったって罰は当たらないはずだ。
俺のハンドルネームは≪サンドマン≫。嫁であり相棒のサンドパンを愛する、その界隈ではそれなりに名の通った一「トレーナー」だ。
「実はホログラムヴィジョンのデータが全部吹っ飛んだ。厳選用のデータを少し譲ってくれないか?」