リトル・イエロウ
リトル・イエロウ


 チントンシャンシャン、チントンシャン。
 雑踏ざわめく町から外れ、ぽつねんと建つこの妖しき館。まぼろし座と云いまして、所謂見世物小屋にございます。ハテ不気味なこの館、中に囲うは名の通り、この世ならざるバケモノばかり! サテ蛇女、火吹き男、珍しきところで妖混じり。
 嘘ではないし、法螺でもない。疑うならば直に見よ。お代は見てから、見てからだ。
 サア皆様ご覧あれ、怖くなんかありません。サア寄っといで、寄っといで! まぼろし座、まもなく開演でございます!




 見世物小屋まぼろし座の雑用係である斬切(ざんぎり)の初仕事は、その背に娘のすすり泣く声を受けることだった。胴を貫く二枚の刃が娘の声を拾い上げ、斬切の中で増幅させる。否が応でも体の芯に染み込む湿り声に、彼はほとほと辟易していた。錠前の付いた首輪がもたらす緩やかな圧も、彼をうんざりした気持ちとさせるには充分な仕事を果たしていた。
 斬切は人ではない。人が妖、アヤモノなどと呼ぶ存在であった。一言では形容しかねる珍妙な外観も珍しくないアヤモノの中で斬切は比較的人型に近い種族ではあったが、彼をアヤモノたらしめているのは全身から生える剥き身の刃であった。まず額を割るように一枚、片腕に一枚ずつ、両の爪先に一枚ずつ、そして胴を横に薙ぐ二枚。黒と赤の己が体を裂いて銀色の花は鈍い光を放っていた。その総てが刃引きされたなまくら刀であることを除けば、彼の前で狼藉を働こうと考える愚か者は早々現れないであろう。
 斬切と娘の間は木製の格子で遮られていた。少し突けば崩れてしまいそうなおんぼろ籠の中で、娘はシクシクと泣いている。斬切は娘の見張りとして立ってこそいるが、彼は娘に背を向けていた。本気で逃げ出そうとすれば、非力な娘とて粗末な箱から飛び出す位は出来たはずだ。しかし娘がそうしないのは、恐らく何処へと逃げる当てがないからだ。異形である己が身を受け入れてくれるのは、この不気味な館の中にしかないと感じているからだ。
 長い睫を涙で濡らす娘のかんばせは、どこか垢抜けない雰囲気こそあったが美しかった。日の光を知らぬきめ細やかな白い肌、黒い艶髪。柳眉を歪ませてさめざめと泣く娘から平凡な人生の幸福を奪い取ったのは、彼女の細身を覆う巨大な翼であった。
 羽の先を白く染めた土色の翼は、巨雀(おおすずめ)というアヤモノに似ていた。しかしながら似ているのは翼だけ、籠の中で悲しみに暮れる娘の姿は甲高い声を上げて縄張りを飛び回る気性の荒いそれとは全く真逆であった。衿をだらしなく開いて鎖骨の浮き出た胸元を剥き出しにしているのは、背負う異形を着物の中に隠すことができないからだろう。年相応に膨らんだ双丘の頂を辛うじて隠す処まで肌蹴た紬(つむぎ)は、諸処が薄く擦り切れていた。斬切たちの主――まぼろし座の座長が、娘が纏う桃色の小紋を剥ぎ取った代わりに与えたものだ。誰の物かもわからない紬の色褪せた朽葉色は、娘の哀れさを引き立たせるには充分すぎる程であった。
 人の中には、彼らアヤモノのような姿や異能を以て生れ落ちる子どもたちがいると云う話は斬切も知っていた。彼らはこの大倭国(やまとのくに)では往々にアヤ混じりと呼ばれている。しかしアヤ混じりの殆どは人の姿を残したまま念力や炎を操ったり、耳や皮の一部といった目立たないような処にアヤモノの名残が現れたりする程度で、娘のような立派な翼を持つものは大変に珍かであった。
 恐らくはその稀少さ故にかどわかしに遭ったのだろうが、斬切は娘を助けてやろうとは思わなかった。彼はまぼろし座の座長に対して恩義も忠義もなかったが、よしんば外に出したところでこの娘が生き延びることのできる保証はどこにもなかった。十中八九、此処と似たような暮らしを強いられるに違いない。彼らは同じ穴の貉として、この館に住まう他はなかったのだ。
 斬切はせめてもの情けに、足元に咲いていた野花を手折ると籠の中へ差し入れた。娘は初め、斬切の刃に悲鳴を上げた。なまくら刀が喉を掻き切ることを怖れ、籠を揺らしながら汚らしい籠の奥へ背を添わせた。しかし籠の外のアヤモノが持つ物に気付くと、娘はか細い指を恐る恐る近付けて、ついにはそうッと痩せた茎を摘んだ。僅かに触れ合った指先は、斬切の鋼の身には溶けるように熱かった。
 名も知らぬ黄色の野花を手にした娘の口元がかすかに綻ぶ。散々泣いて枯れた声で、娘は斬切に礼を言った。




 チントンシャンシャン、チントンシャン。
 赤い幕が垂れるまぼろし座の内は、摺(す)り鉦(がね)と三味が奏でる囃子と喧騒に満ちていた。汗のすえた臭いと、行燈の油臭さ、客が草履に付けて運ぶ馬糞の臭いが混じり合う。世辞にも空気の流れが良いとは言えず、客が発する熱気とも相まって、館内に長く留まれば息詰まる心地であった。館内を照らす行燈は多くなく、隣客の顔すらもおぼろげだ。空気の悪さで頭が鈍り、姿もよく見えぬとあれば、浮世のものを夢まぼろしと見誤る事もあろうというものだ。
 館内をコの字に巡る通路の両脇には、演者たちの立つ舞台が並んでいる。コの字の窪みの部分に位置する曲芸用の大舞台に立つのは、でっぷりと肥えた腹を洋装に収めたまぼろし座の座長だ。先の丸まった付け髭が斜めに歪んでいる事にも気付かぬ様子で、男は抑揚の利いた口上をまくし立てている。しかしながら、茹だった赤ら顔に浮かぶ汗を忙しなく手拭いで拭う座長の口上に耳を傾ける者はおらず、観客の心は舞台上の演者たちに釘付けにされていた。大仰な煽り文句とともに演題が綴られた舞台の上で、演者たちは思い思いに一芸を披露していた。
 三つ首の黒竜が怠惰に口元から火を放つ隣では、頭と胴のみを残しただるま男がその火を使って器用に葉巻を呑んでいる。美麗な悪食女が犬歯を覗かせて頭から大蛇を貪る傍ら、肩口で頭部を分けたアヤモノの双子は薄ら笑いを浮かべて客に手を振り続けていた。そこから少し目線を上げれば、秘所のみを隠した襦袢姿の女、下半身が牛の男、両の手ばかりが肥大したアヤモノの姿等を描いた劇画がおどろおどろしい風に飾られていた。
 斬切は客の間を縫い、舞台の一つに歩み寄った。〈奇怪、天ヨリ堕ス翼人〉、金糸雀(かなりあ)の舞台である。彼女はまぼろし座の新顔にして二番人気の、翼を持つ娘であった。
 金糸雀は舞台より伸びる重たい鉄鎖にそのほっそりとした四肢を繋がれていた。異形の翼が作り物でないことを明らかにするため、彼女は客に対し背を向けている。斬切と出会った当初は土色であったその翼は、すっかり櫨(はぜ)で染めたかのような黄色味の強い色に変わっていた。光源の少ない館内であれば本物のかなりあ程鮮やかなものではないにしろ、殆ど黄色に見えるだろう。翼の色を際立たせる青の絣(かすり)の隙間からは、金糸雀の白い柔肌が覗く。
 小鳥は無遠慮に指を伸ばす野卑な男の手に怯えていたが、斬切の姿を認めると強張った口元を少しだけ緩めた。芸を急かす座長に追い立てられ、金糸雀は胸の前で両手を組む。
「歌を忘れたかなりあは、後ろの山に棄てましょか」
 やや舌足らずな娘の声は、ともすれば喧騒にかき消されてしまう程に細く震えていた。金糸雀がこの館で見世物となって早一月、彼女は未だまぼろしの世界に順応することができずにいた。しかし幸いにもその不慣れさが、拙さが、彼女を神秘的たらしめている。斬切は観衆に向かって威圧的に胸を張り金糸雀を警護する振りをしながら、小鳥の鳴き声に耳を傾けていた。
 ようやく一曲歌い終えた金糸雀は、ホウと安堵の息を吐いてそっと斬切に微笑みかける。斬切は目礼だけでそれに応え、館内の警らに戻ることにした。斬切が舞台を離れるのを待っていたのか、客の一人が金糸雀の舞台にお捻りを投げ入れる。
 金糸雀のように見目の良い演者は無遠慮な客に腕を引かれ、着物を裂かれ、時には血を流す事もそう珍しくはない。幾ら首に所有印を巻かれていようとも、刃を削ぎ落されていようとも、全身を刃物に覆われている斬切の姿は其処にあるだけで不埒な輩への抑止力となっていた。まぼろし座の公演中に於ける彼の主な仕事は、危険に遭い易い一番人気のあざむき姫と金糸雀との間を往復することであった。




 御天道様もすっかり沈めば、公演を終えたまぼろし座に束の間の休息が訪れる。館の裏には演者たちの寝床である幾つかの掘立小屋が建ち、間に演習場を挟んで彼等の食事を賄う竈からは薄い白煙が立ち上っていた。竈の火を守り、演者たちに食事の配膳をする事も斬切の仕事の一つであった。彼は縁の欠けた茶碗に盛られたかて飯と汁物、少しばかりの漬物を黙々と配っていく。いつも最後に食事にありつく金糸雀の碗には、他の演者たちとは異なり、紅花で染められたモロコシ混じりの飯の上に目刺が一匹乗せられていた。彼女は芸ではなく外見それが売り物である。痩せこけていては商いにならない。
 斬切は、金糸雀の盆の上に館の裏で摘んだ野花を密かに添えた。最初の切欠は出会いの時だ。情けとして一度限りの気紛れであったはずのそれは、いつの間にか彼の日課と転じていた。日々その辺りに生えている目についたものを手折る斬切は花の種類を知らないし、金糸雀も気にしている様子はない。ただ、花を送られるという行為そのものが嬉しいようだ。同時期にまぼろし座へ編入したからか、日々のささやかな献身のお蔭か、金糸雀は斬切に一等懐いている風だった。とは云え斬切もまた健気な金糸雀の事を憎からず思っているのは事実であった。
 公演が終わるといの一番に籠の中へ押し込まれてしまう金糸雀の巣の前には、悪食女が地べたに胡座をかいて陣取っていた。見た目こそ衆人と変わらぬもののアヤ混じり同士で気が合うのか、悪食女はよく金糸雀の事を気にかけていた。演者たちが一所で食事をする中、悪食女は一人離れた巣の中で食事を摂る金糸雀の元に通う。斬切が二人の食事を運んで来ると、悪食女は意地の悪い笑みを浮かべながら斬切を見上げた。
「ほウら、王子様のお出ましだ」
「もう、ねいさんたら!」
 朱に染めた頬を膨らませ、金糸雀は抗議の声を上げた。咎められたりはしないかと恐る恐る斬切の様子を窺う金糸雀は、親に叱られるのを待つ子どものようであった。斬切はいつも釣り上がっている目元を緩め、盆がようやく通る程度の小さなくぐり戸から食事を押しこんだ。
「ありがとう、風切さん」
 金糸雀は舞台の上とは異なり娘らしい笑みを見せてそれを受け取った。籠の中でも矢張り四肢を繋がれた金糸雀は、まぼろし座に来たときから変わらぬ鳥の餌のような食事に不満そうな視線を落とした。しかしそれ以外にものがないことはわかっているのか、合掌の後にのろのろ箸を動かし始める。
 金糸雀は、斬切のことを風切と呼ぶ。曰く、姿が見えずとも傍にいるときは風を切る音がするからだという。確かに斬切は手隙の時間を鍛錬に充て虚空になまくら刀を振るっていたが、そも、斬切という名は大倭国に於ける彼ら種族の呼び名であった。無論このまぼろし座に彼以外の斬切はいないのだから、個を差す呼び名がなくとも不便はない。しかし金糸雀は自らが名付けた風切という名を気に入っているらしく、事あるごとに甘い少女の声で風切さん、と呼ぶのであった。
 斬切自身は己の名にさしたる拘泥もなかったので、金糸雀の好きに呼ばせていた。当の金糸雀とて、その名は演題から取られただけで真名を別に持つ。しかし娘の真名を呼ぶものは、この館内の何処にもいない。斬切とてそれは変わらず、彼がどの名で呼ばれようとも国の異なる生まれにはおおよそ耳慣れぬ名であり、幾らか字面が変わったところで意地を張る意味はないのであった。
「随分と懐かれたもンだ、ネエ風切」
 チュンチュンといじらしく鳴く金糸雀を、食事の輪からは少し離れて飯を掻き込んでいたあざむき姫が喉奥に笑いを押し込めながら揶揄した。顔に火を点す金糸雀は、茶碗を片手に慌てて暴れ回る。その拍子に目刺が宙を舞ったが、鈍臭い金糸雀にしては奇跡的に妙技を発揮し、目刺はかて飯の黄海に無事着水した。「上手、上手」あざむき姫が気のない賛辞を贈る。
 あざむき姫はまぼろし座の古参であり、〈食わず嫁〉の演題を担ぐ一番人気のアヤモノだ。双口(ふたくち)と呼ばれる種族であるところの彼女は、表こそ可愛らしいかんばせである一方、その裏に牙の生え揃う醜悪なあぎとを持つ。本来であれば表裏一対ずつであるそれは、あざむき姫に限ってはあぎとが更に二つに裂け、双口と言わず三口と呼ぶべき姿をしていた。彼女の姿は人の手で施されたものらしく、その証拠に片方のあぎとの口蓋には光源もなく煌めく摩訶不思議な宝珠と、人の爪先らしき肉が埋め込まれていた。彼女はその他の部位に関しても色々と余計な手を加えられ、純粋にアヤモノと呼べるような存在ではなくなっている。例えば「内緒話ができないように」改められた喉は器用に人の言葉を語るものの、アヤモノのみに通ずる音を発する事は出来ずにいた。
 彼女や金糸雀のような奇種を擁することは見世物小屋として全く珍しいものではない。しかし大半の見世物小屋が浮世離れした大道芸に偏るのに対し、まぼろし座はどちらかと言えば大道芸よりも奇種の陳列に重点を置く型の見世物小屋であった。人々に飽きられぬよう転々と小屋を移す見世物小屋が多い中、まぼろし座が一定の土地に根を張っても興業が成立しているのは、奇種観覧という性格があるが故だろう。
 また、舶来物が多いということもこの座の売りの一つであった。斬切を始め、あざむき姫、シヤム双生児の氷菓、三つ首等は本来であれば大倭国には生息していないアヤモノである。氷菓に至ってはあの姿こそが種族本来の姿であるのだが、健常を異常として謳っているのはひとえに大倭国の人々が氷菓の姿を知らないが為だ。
 まぼろし座という見世物小屋の性質上、小屋の規模に対して数の多い演者を纏め上げているのがこのあざむき姫であった。彼女はアヤモノにしては物識りであったし、他人の世話を焼くことを楽しんでいる節があった。彼女には斬切も金糸雀も随分と助けられている。稀に度の過ぎる揶揄が飛ぶこともあったが、それは彼女なりの親愛の証であった。まぼろし座の面々はその程度の揶揄では到底揺るがぬ恩を彼女から受けている。
「そう不満気な顔をしなさンな。小鳥は随分笑うようになったじゃアないか。アンタのお蔭サ、色男」
 妙に色気のある流し目とともに、あざむき姫は藤袴に包まれた足を組み替えた。彼女の視線の先には熱心に悪食女の語らいに耳を傾ける金糸雀がいる。目を丸くして驚き、顔を青くするほど慄き、時折笑う金糸雀の姿は、まぼろし座へかどわかされてすぐの頃からは想像も出来ない。
 人に置き換えるとすれば童女に近い外見でありながら、熟れた女のような艶のある仕草という不均衡さが、あざむき姫の妖しげな魅力そのものとなっているのだろう。恐らく彼女はまぼろし座の中で一際不幸な身の上であったが、それを微塵も感じさせぬ立振舞で斬切たちに慈愛の手を差し伸べていた。そして斬切たちもまた、口には出さぬが各々の形であざむき姫のことを慕っていた。
「ハリボテみたいな翼が生えてたッて、金糸雀は年頃の娘ッ子なんだ。笑うくらいは許されたッていいだろうサ」
 あざむき姫は温く薄い茶を後ろのあぎとで一息に飲み干すと、肉厚な舌でベロリと口端を拭った。あざむき姫の所作の節々に見える粗暴さは、まぼろし座の花形という皮を纏った彼女の本質を匂わせる。
「アンタもだヨ、この朴念仁」
 あざむき姫が手の甲で軽く叩く斬切の躰が狐のように小さく鳴く。斬切はその言葉の真意が読めずしばし身を固めた。斬切の今は仕合せでこそないが、不仕合せという程ではない。粗末ながらも食事と、雨風を凌ぐ床があるのだ。確かに彼の身を縛る所有印は窮屈ではあるが、悲しきかな、それにも次第に慣れつつあった。余り多くを求めては際限がない。
 あざむき姫は要領を得ない様子の斬切に向かって阿呆陀羅、と溜息混じりに空の茶碗を投げ渡した。




 斬切は数多くの小鉈(こなた)を従え、己と同じく小鉈の軍勢を率いる敵の大将を睨み付けていた。
 斬切という種族は、斬切となる前の未成熟な姿である小鉈というアヤモノを率いて縄張り争いや狩猟を行なう。より多く、より強い群れを従えている斬切ほど縄張りが広く、争いに負けた斬切はその領域から淘汰されるのが常であった。
 その斬切はまだ将になりたての若い個体であったが、小鉈たちとともに窮地を乗り越え、彼らを勝利へと導いていた。闘争を好むという性質上血の昇り易い斬切としては幾分慎重であった彼は、己の行軍路に対して大層気を配っていたが、目前の強敵との邂逅がいずれ訪れるであろう未来であったことはひしと感じ取っていた。只、今は時期尚早だ。己が若く経験不足である事を自覚していた彼にとって、この邂逅は先延ばしにしておきたかったというのが本音であった。
 敵将の斬切は彼よりも大きく、その身のあちこちに癒えぬ傷痕を遺していた。若い斬切と較べ、歴戦の猛者と呼んでも差し支えないであろうその敵将は、ぎんぎらとした狂おしい眼光で若い斬切の出方を窺っていた。
 勝ち目は薄かったが、退く事だけは出来なかった。彼らに背を見せてしまえば、瞬きの間に若い斬切も小鉈もすべからく蹂躙されてしまうだろう。必ずや勝利を、という気負いは若い将にも少なからずあった。しかし彼にはその釈迦の糸を掴み取る自信があったし、それを裏付ける勝利の数々を経験していた。
 若い斬切は左腕を胸の前で横に構え、右の刃を縦に振り下ろした。戦場に響く刃が擦れる澄んだ金属音が戦いの火蓋を切った。散開する小鉈たちに対し、敵将は左腕を顔の高さまで挙げるのみだ。敵の小鉈も同じく散開し、やがて刃の打ち合う音が戦場を埋め尽くした。
 混戦だった。敵の小鉈の練度は、若い斬切が率いる小鉈よりもずっと高かった。彼らもよく奮闘してはいたが、時が経つにつれ徐々に戦線は後退していた。この戦力差であれば、小鉈たちを抑える隊と若い斬切を直接狙う隊に二分することもできただろう。わざわざ敵将が戦力を彼に合わせているのだと思い至った斬切の全身は、屈辱で赤黒く染まった。敵将が回りくどい手を用いる理由は明快だ。斬切たちを正面から心根ごと砕く為。この領域に於ける頂点は己の群れだと若い斬切の心身に刻み込む為だ。
 若い斬切は敵将に侮られていた。しかし彼が敵将の油断を逆手に取ることの出来る力を持っていないのもまた事実だった。若い斬切はほぞを噛み、せめて小鉈たちだけでも逃がすべく退路を探し始めた。無論、そんなものは何処にもない。敵将が放つ鈍色の威圧感が、彼の敗走を許さない。若い斬切の視界に敗北という名の青い幕が下りた。
 終ぞ、若い斬切が撤退の命を出す事はなかった。堤が堰切れる極限、弓反りになるほど刃を押し込まれても、彼の忠実な兵たちは臆病風に吹かれて退く事はしなかった。彼らは愚かに、一心に、疑う余地なく将の勝利を確信していた。己の将がこの窮地を切り抜ける一手を講じるはずだと信じていた。若い斬切の声は鍔迫り合いの音に溶け、陣形が中央から瓦解していった。
 その後は息つく間もなかった。若い斬切の群れは暴力という名の波に押し流された。滅茶苦茶に体中を打たれ、彼の意識は混濁した。黒く蠢く塊の中から、短い悲鳴が途切れ途切れに聞こえてくる。それが小鉈たちのものか己のものか、若い斬切には判別がつかなかった。
 霞がかる若い斬切の視界の中で、一匹の小鉈が助けを求めて白い爪を伸ばしていた。しかし若い斬切がその手を取る前に、敵の小鉈が蜜に群がる蟻のように彼を押し潰す。黒い塊となった彼の悲鳴はやがて、聞こえなくなった。




 斬切はまなじりが裂けるほどに目を見開き覚醒した。床から身を起こし、荒い呼気を整える。胸に流れ込む夜の冷気が、徐々に彼の心を宥めていった。
 夢だ。悪夢だ。
 斬切がまだ自由の身だった頃の夢だ。
 幸いにも、斬切の隣で眠りを貪る三つ首が起きだす様子はなかった。弾き飛ばしたぼろ布を手繰り寄せた折に、首に巻かれた所有印が鋼の躰と擦れて鈴に似た音を発てた。皮肉にも、その忌まわしき拘束具が今は浮世のよすがとなっていた。
 斬切同士の縄張り争いに負け、手元のぼろ布よりも惨めな姿となった彼は、道端に倒れていた処を人間に拾われた。気性の荒い種族である斬切は市場に出る事が殆どなく、大人しく反抗心の薄い彼は商品として金銭価値を付けられた。全身を刃引きされたのもこのときだ。買い手を求めて各地を転々する中でまぼろし座の座長が彼を買い取り、斬切は見世物小屋に飼われることとなったのだ。
 あのとき散った小鉈は、嘗ての彼自身だ。弱い斬切の下に就いた小鉈は、いずれ他の斬切と、配下の小鉈に淘汰される。強い斬切の下に就いた小鉈だけが生き延びて、次代の将となる。彼が無事に斬切として生き永らえているのは、全く幸運の賜物というべきであった。そして彼は今、異国の地でその幸運を踏みにじって生きていた。
(此処まで零落れて尚、仕合せと呼べるのか)
 斬切は自問に重々しくかぶりを振る。いつかあざむき姫の言葉に対し、彼は己を仕合せと評した。確かに野垂れ死ぬよりは幾らか増しやも知れぬ。しかしそれは斬切として、仕合せなのだろうか。
 斬切とは将の名だ。将であることを棄て、飼い犬と成り下った己が斬切を名乗ることができようか。
 斬切が夜の帳に囁く物音を聞いたのは、失意のまま再び床に身を横たえたときだった。初めは思い過ごしかと目蓋を閉じた斬切だったが、先の悪夢ですっかり昂った気はその囁きをしっかと拾い上げる。目が冴えて眠れなくなっていた斬切は、枯れ尾花を確かめるべく三つ首の顔を踏まぬようソッと床を抜け出した。
 暗雲から僅かに覗く月光が、辛うじて道を照らしていた。夜目の利く斬切にとっては、それだけの光があれば充分であった。雨が近いのだろうか、湿った空気が斬切の鼻孔に粘りつく。ボウ、何処からか夜鳥の鳴き声が届いた。
 程なくして、斬切は己が好奇心のままに足を運んだ事を酷く後悔した。
 其処は金糸雀の巣であった。彼女を繋ぎ止める粗末な座敷牢はその口を開き、奥には娘に覆い被さる肥えた男の姿があった。彼らの主、まぼろし座の座長だ。男は年頃の娘が聞くに堪えぬ罵倒を浴びせ続け、醜く腰を揺すっていた。金糸雀はか細い力で必死に抗っているらしく、嗚咽に混じった漣(さざなみ)のような細鎖の音が止むことはなかった。
「何が人だ、莫迦らしい。人に翼が生えるものか! 獣ならば浅ましく股を開け、妖風情が!」
「ちがう、厭、イヤッ! 誰か助けてッ、誰かッ、か……!」
 肉が肉を打つ鈍い音がした。恐らくは、座長が金糸雀を殴ったのであろう。斬切は両手で耳を塞ぎ、短い呼吸を繰り返しながら覚束ない足取りでその場を離れた。
 金糸雀の千切れた懇願は、悪夢の残滓そのものであった。闇の中で伸ばされた白い繊手は、彼に救いを求めた小鉈の最期を生々しく想起させる。金糸雀は、何と言った? 彼女は紛れもなく、斬切の名を呼ぼうとしていた。
 何故私の名を呼んだ!
 斬切は今すぐ大声で喚き散らしてしまいたかった。遮二無二に走り去ってしまいたかった。金糸雀に見つかるのが怖ろしくて、できなかった。
 斬切はかつて多数の兵を見殺しにした。驕りと慢心で群れを壊滅させた。指の間をすり抜けて、金糸雀の悲鳴が聞こえてくる。彼女の声が強くなる程に、彼が見捨てた小鉈が、月光の陰から非難がましく斬切を見詰めている気がした。
 何故、抗わなかった。何故、我々を救わなかった。何故、何故、何故。
 斬切は己の床へ逃げ帰り、ぼろ布の中で赤子のように丸くなった。三つ首が眠たげな声で何やら文句を言っていたが、それはすっかり斬切の頭の中を通り過ぎて行く。
 金糸雀の悲鳴が徐々にすすり泣きへと変わる中、彼は最後まで彼女を助けようとはしなかった。夜が明けるまで固く目蓋を閉じて、まんじりと床が軋む音を聞いていた。




 あの夜から、一日経った。金糸雀は頬を腫らして泣いていた。
 二日経った。金糸雀は座の面々に心配を掛けまいと笑って過ごしていた。
 三日経った。金糸雀は心を削ぎ落した表情で空を見上げることが多くなった。
 四日が経っても、斬切は金糸雀の顔をまともに見ることが出来なかった。
 幸いにも金糸雀は囚われの籠の鳥であるからして、斬切が巣へ近付かなければ接触は殆どないようなものだった。唯一顔を合わせる機会である配膳の時間だけは、悪食女に食事を運んで貰った。
「金糸雀がお前に逢いたいと云っていた」
 竈を訪れた悪食女が、四日目の夕にそう言った。
 火の入った竈の上では具の少ない汁物が煮立っている。傷や欠けの多い盆の上にはわずかばかりの漬物と稗飯が盛られていた。その中には金糸雀の黄色い食事も連なっていた。彼女の盆の上に、花はない。
 いつもは食欲をそそる麹の香りが今は胃を重くしていた。研ぎ石の上に包丁の刃を滑らせていた斬切は動きを止め、悪食女を一瞥した。悪食女は侮蔑するでもなく、詰るでもなく、ただ乾いた視線で斬切を見下ろしている。斬切は彼女から視線を外し、再び包丁を研ぎ始めた。包丁の切先から抜ける高い摩擦音が二人の間に虚しく響いた。
「確かに伝えたぜ」
 悪食女は斬切の返事を待たず、金糸雀の餌と自らの取り分を空いた手に立ち上がった。彼女は入口で足を止め、思い出した風に首だけを斬切の方へ向ける。アヤモノを食い千切る鋭い犬歯が口端から覗き、厚い唇から獣のような笑い声が零れ出でた。
「行かねばお前を喰ってやる、と云いたいが、お前は硬くて不味そうだ」
 五日目も斬切は、矢張り金糸雀の下へは行かなかった。
 六日目、斬切はあざむき姫に呼び出された。平屋続きの狭い部屋とは云え、演者の中でも個室を与えられている者は数少ない。その中の一人である彼女は、斬切が訪れたときには己の寝床に体を横たえ、硝子の煙管をくゆらせていた。
 彼女の部屋は小さな煙管入れを除けば私物らしいものがなく、とても一番人気の演者のものとは思えない殺風景な部屋だった。煙草の甘い香りが部屋中に漂う。斬切はあざむき姫から勧められた綿の潰れた座布団の上に腰を下ろした。
 すぼめた唇から長く煙を吐き出して、あざむき姫はおもむろに口を開いた。
「話がある、と云えばおおよそ察しはつくかい」
 斬切は身を強張らせた。金糸雀のことだ。眉間が縮まる感覚に、無意識下であざむき姫を睨み付けていることに気付く。しかし彼女は斬切の不躾な態度に気分を害する風でもなく、出来の悪い子どもを諭すように、頬杖をついたまま艶のある声を出した。
「そうおっかない顔をするでないヨ。アタシは説教なンぞするつもりはないのサ。ねいから聞いたろう。ちィとだけでいいんだ、あの小鳥と話をしておやり」
 あざむき姫の言い分は理解っているつもりだった。斬切は何事もなかったかのように、あるいは哀れみの情を以て彼女に接しなければならないのだ。理解ってはいるが、心がどうしてもそれを拒むが故に、彼はこうして尻のむずむずする思いをしている。
 世話焼きなあざむき姫の事だ、斬切への助言もちょっとした親心から来たものだろう。しかし彼女のお節介は、斬切の神経を逆撫でるには充分であった。
 何も知らぬ癖に。斬切の心を屈辱と怒りが染めてゆく。あのまぼろしを、非難に満ちた昏い瞳を知らぬから。斬切は座布団から腰を浮かし、殆ど叫ぶように熱を吐き出していた。
「You know nothing!」
「I don't know. But. I can consider your feel.」
 答えなど、返ってこないはずだった。斬切は大倭語(やまとことば)を聞き取る事は出来ても、己が生まれの異州語(いしゅうことば)しか話せない。当然、あざむき姫は彼の言葉を聞き取れないはずだ。しかし彼女の口から柔らかに紡がれたのは、やや訛りこそあれど斬切がこの島国に来てから初めて聞いた母国語であった。
 驚愕で怒りを忘れる斬切に、あざむき姫はいつもの人を喰ったような笑みで喉を鳴らした。斬切は数拍遅れて、彼女も異国の生まれであった事に思い当たる。あざむき姫が体を揺らす節に合わせ、紫煙が宙でとぐろを巻いた。
「何だい、その顔。鳩が豆鉄砲喰ったような顔じゃアないか。そんなにアタシがアンタのお国言葉を喋ったのが不思議かい」
 大倭語に切り替えたあざむき姫は、煙管の口をちろりと舐めて紅の瞳を細める。昔取った杵柄サ、煙を吐き出しながら答えるあざむき姫の視線は斬切ではない何処か遠くを見詰めていた。
「アンタ、何時まで自分の殻に篭ってるつもりだい」
 ピシャリと放たれたあざむき姫の叱咤と甘い紫煙が斬切の喉を通り、臓腑に落ちる。今の斬切は、自ら籠の中に身を置く小鳥だ。己に生える翼を忘れて、動けぬ飛べぬと我儘を言っているに過ぎない。斬切は口を一文字に引き結び、己の膝小僧を睨み付けた。とてもあざむき姫の顔を見られなかった。
 あざむき姫は斬切の意に反し、彼が伏せた顔を下から覗き込んだ。膝の上で握られた斬切の拳に手を重ね、優しく解いてゆく。斬切の胸元にしな垂れかかりながら斬切を見上げるあざむき姫は、情婦の仕草に慈母の笑みを湛えていた。彼女の瞳に映る斬切は、酷く情けない顔をしている。その姿は、小鉈だったころの己そのものであった。
「アンタは見世物小屋の化け物に怯えてるだけサ。目を閉じるのはもうお仕舞。あの子の手を引いて小屋の外に出るンだ、風切」
 七日目と八日目、斬切は夜通し竈に籠っていた。
 そして九日目の夜、斬切は金糸雀の巣を訪れた。




 九日前とは一転、満月が銀色に輝く夜だった。月光を反射する斬切の躰は、まるで星粒が空から落ちてきたかのようだった。
 金糸雀の巣は背の低い引戸の欄間から僅かに外が垣間見えるばかりの、薄暗く湿った部屋だった。彼女も個室を与えられている身ではあったが、それは身を休める部屋と云うよりは身を縛る牢と呼んだ方が近しいものであった。引戸には幾重にも鎖が絡まり、無骨な南京錠が小鳥の逃亡を阻む。娘の手足を括るにはあまりにも重すぎる鉄鎖が座敷の畳を毛羽立たせ、煎餅布団の黄ばんだ包布に赤錆を塗り付けていた。その点、飼い鳥のかなりあの方がまだ自由であったろう。何せ彼女は人の形をした肉を持つばかりに、こうして手足を繋がれている。鋼の身である斬切をしても、鉄の臭いを強く感じる巣だった。すっかり萎れた一輪の野花が欠けた徳利に飾られているのが、この部屋のみすぼらしさを引き立てていた。
 両腕を投げ出し、座敷に足を流して座る金糸雀の姿は、糸の切れた絡繰りそのものであった。あの夜に打たれた腫れは引いていたが、瞳に生気がなく、額に落ちた後れ髪の影はまるで幽鬼のようであった。金糸雀は入口に立ち尽くす斬切の姿に気付くと、薄ら唇に弧を描いた。ざらりと擦れる鎖の音が斬切の心を掻き毟る。斬切は欄間から格子越しに金糸雀を見下ろした。金糸雀は柔らかい喉を晒して斬切を見上げた。
 二人は暫く声を忘れたかのように見詰めあった。例え紡がれるのが恨み辛みと彼を罵る言葉であったとしても、斬切は辛抱強く小鳥が鳴くのを待ち続けた。金糸雀の後ろから、巣の暗がりから、無数の小鉈が彼の事を覗いているような気がした。それでも斬切は、あの夜のように逃げ出す事だけはしなかった。
 永遠のように思える時間が経った。金糸雀がようやく聞き取れる程の声で風切さん、と彼の名を呼んだ。その声色はどうしようもなく優しかった。
「またお話できるだなンて、夢みたい。わたしッたら知らない内に、風切さんに嫌われるような事をしてしまったンじゃあと思っていたの」
 斬切は嘆息しながら小さく頭を振った。己の浅ましさに溺れ身勝手に金糸雀を避けていたのは斬切だと云うのに、この小鳥は己に非があるのだと胸を痛めていたのだと云う。金糸雀は斬切の反応に剥き出しの胸を撫で下ろすと、座敷の上で膝ひとつ分前に出た。月明かりが金糸雀の白い肌を照らした。
「風切さん。愚かな娘を憐れんでくださるのなら、どうぞわたしの話を聞いてくださいな」
 元よりそのつもりであった。斬切の首肯を認めた金糸雀は暫しの逡巡の後、唇を震わせながら告白を始めた。
「わたし、あの男と――座長とまぐわったの」
 年頃の娘にとって、何と酷な事をさせているのであろうか。しかしながら斬切は、彼女の身を襲った不幸に知らぬ振りをしなければならなかった。図らずも険しくなる斬切の顔色を窺いながら、金糸雀は細々と言葉を紡ぐ。
「罵られて、打たれて、無理にほとをこじ開けられて。辛かった、怖かった、悔しかった。だけれども、わたしはあの男に襲われた事よりも――人としてではなく、アヤモノとして扱われた事の方が強く心を揺すったように思います」
 金糸雀の心は今、羞恥よりも憤りが勝っているらしかった。彼女の煮え滾る腸に応じるように鉄鎖がざわめく。金糸雀が言の葉を重ねる度に、昏かった彼女の瞳に光が差してきた。
「アヤモノが厭と云う訳ではないのよ。風切さんの事は大好き。あざむき姫や、まぼろし座の皆も。でも、わたしはずっと、そう、こんな翼が生えていても、人のつもりで生きてきました。それを総て否定されてしまったかのようで」
 金糸雀は殆ど鎖の届く限界まで身を乗り出していた。月の輝く夜空へ飛び立つかのように、金糸雀の翼が大きく広がる。しかし、彼女は一人では飛べない。羽音の代わりに鎖を鳴らして、金糸雀は助けを求めていた。
「風切さん。わたし、人なの。人なのよ」
 金糸雀の瞳が、美しい黒髪が、むき出しにした肉の薄い肩が、月光を受けて輝いている。斬切は彼女の姿に月の姫の御伽草子を思い出した。いつか金糸雀が斬切に語って聞かせた、月から堕ちた娘の話。しかし姫の前にいるのは帝ではない。月光を背に受け、正面に影を落とす斬切の姿は差し詰め死の使いだろうか。
 金糸雀のまなこからほろほろと星の欠片が零れ落ちる。金糸雀はいつものように顔を伏せるのではなく、もう、頭を垂れるのは厭だと云わんばかりに斬切を見上げたまま涙を流していた。
 金糸雀の背後から小鉈の幻影が顔を覗かせる。暗がりに光る瞳が斬切の答えを待っていた。彼は右腕を天に掲げ、小さく肯いた。月光に煌めく刃は突撃の合図。もう背は見せぬ。後はすべからく、薙ぎ払うのみ。
「Do you want freedom?」
 斬切は己の言葉が金糸雀の耳に拾われるとは思ってもいなかった。よしんば伝わったとて、金糸雀に渡来の言葉を理解することはできないはずだ。しかし斬切の意するところは伝わったのだろう。「助けて」金糸雀は海向こうの呪いに縋り付いた。
「わたし、人として生きたい」
 金糸雀のささやかな夢を、願いを、斬切は叶えてやりたかった。金糸雀の鳴き声を待ち侘びていた、斬切の右腕が振り下ろされる。音もなく断ち切られた鎖が土の上に落ちた。
 二日掛けてようやく研ぎ上げた刃は、将であった頃迄とは行かぬものの、ある程度の切れ味を取り戻していた。すっかり勘も業も鈍り片腕を仕上げるのが精々だったが、粗末な籠から小鳥を連れ出すのには充分であった。
 斬切は一歩、二歩、金糸雀の巣に足を踏み入れる。座敷の縁に座る金糸雀の前で膝をつけば、彼女の繊手が斬切の背に絡みついた。刃を潰しているとは云え、胸部の薄い鋼板は金糸雀の痩せた腹に食い込む。しかし斬切は金糸雀の為すがままに任せていた。彼女の触れた処が、溶けるように熱い。出会いのときに僅かに触れた、血の沸き立つ熱は変わらなかった。
「風切さん、冷たい」
 鼻を啜りながら覆しようもない不満を述べる金糸雀は、斬切の項の辺りを何やら弄り回していた。金糸雀の指が表を這い回るこそばゆさに斬切は身を引こうとするが、「あン、動かないで」金糸雀に御され動くことも儘ならない。
 暫くモゾモゾやっていた金糸雀は、首周りの開放感とともにようやく斬切から身を離した。肩が軽く感じたのは、金糸雀が離れたせいだけではなかった。やつれた笑顔を見せる金糸雀の細い指が、長らく斬切の首を締め上げていた所有印の首輪を摘み上げている。非力な娘の手でも容易く外す事の出来るそれはすっかり擦り切れ、垢や埃で黒ずんでいた。その汚れは、斬切がどれだけの間、自ら行動を起こす事なく惰性に身を委ねていたのかを如実に物語っていた。
 次は斬切の番だった。彼は金糸雀を縛る四肢の鎖を飴細工のように断ち切っていく。何時ぶりか自由となった両手足を物珍しげに眺める金糸雀の視線は、まるで己でない何かを見ているようだった。
 斬切はいつまでも動こうとしない金糸雀の手を取った。これから二人は見世物小屋から逃げるのだ、あまり長居をしてはいられない。しかし金糸雀は首を横に振り、おもむろに斬切へ背を向けた。紬(つむぎ)を下ろして翼の生えた背と乳房を露わにする。長い黒髪を左胸に流した金糸雀は、首だけを斬切の方へ向けた。
「切り落としてください。この翼は置いてゆきます」
 斬切は金糸雀の決意を前に幾ばくか躊躇いを見せたが、金糸雀が折れる気配は感じられなかった。斬切は柔肌を傷つけぬよう指先で恐る恐る金糸雀の肩甲骨を撫でた。小さく息を呑む音が聞こえる。
 金糸雀の翼を支える骨は思いの他軽かった。強度はあるが所詮鳥の骨、斬切の刃ならば断ち切ることは容易だろう。金糸雀の翼を改める斬切の指先から温い熱が広がっていく。付根まで血の通うこの翼を断てば、血潮が彼女の白い背を染め上げる事は明白であった。
「風切さん」
 眉尻を下げた金糸雀が不安げに斬切を呼ぶ。頬が赤く染まっているのは緊張からだろうか。斬切は彼女の肩を指先で三拍叩いた。最後の拍はやや強め。金糸雀は意を決したかのようにうなずき、枕を口に押しこんだ。
 斬切は左手を金糸雀の翼に添えた。まだらに染まる偽りの黄色。出会った頃の土色は、美しくこそないが優しい色だった。一拍、二拍。
 三拍目が金糸雀の肩を叩くことはなかった。斬切の刃が振り抜かれ、金糸雀の背に灼熱が宿る。
 斬切は背を弓なりに反らす金糸雀の、残る片翼を押さえつけた。白い背中に玉の汗と鮮血が散る。すかさず冷たい刃を押しつけた。金糸雀の細い指が床の包布を強く握り込む。アヤモノでも人でもない娘は激痛に目を見開きながらも、喉奥から悲鳴を漏らす事はなかった。枕を食んだ口から零れた唾液が金糸雀の顎を伝う。
 金糸雀は己の躰を支える力を失くし、前のめりに倒れ込んだ。その肩を斬切が支える。斬切の視界に広がる彼女の背には、白骨をむき出しにした翼の名残が残るばかりだ。とろとろと流れ出る鮮血は暫く止まりそうもない。
「嗚呼、漸く人に為れた」
 脂汗を浮かべながらそう言い放つ金糸雀は、斬切が見た中で一等美しい笑みを浮かべていた。金糸雀の背に潜んでいた小鉈の姿は、もう見えない。




 金糸雀は見る間に衰弱していった。
 久しく歩くことを忘れた金糸雀の足は枯れ枝のように痩せ細り、まるで己の重さを支えることができずにいた。肩を支えてやるにも辛そうで、終いに金糸雀は斬切に背負われる事となった。
 翼の名残から垂れる鮮血は止まる事を知らず、斬切が歩を進める度に彼女の紬や晒(さらし)を端から赤く染めていく。一粒血玉が落ちる度に、金糸雀の生命そのものが零れ落ちていた。まるで人になった金糸雀を、翼という半身を失ったアヤ混じりを、世界が許さないかのようだった。
 金糸雀が人になった夜、闇に紛れてまぼろし座から逃げ出す二人を見送ったのはシヤム双生児の氷菓だった。彼らはあざむき姫の使いだと云い、彼らに晒と薬を手渡した。斬切たちと氷菓は幾月の付き合いであったが、彼らが双生児の声を聞いたのはそのときが初めてであった。氷菓は斬切に背負われた金糸雀を笑った。
「You're silly!」「Silly. silly.」
 横に二つ並んだ綿雲のような顔が、甲高い声で訛りの強い異州語を繰った。不思議と腸が煮えなかったのは、氷菓の声色の奥に親しみと、羨望を感じ取ったからだろうか。彼らは晒の一部で氷嚢を作ると金糸雀の傷に当ててやり、斬切に干し肉と水筒を持たせた。
 氷菓は斬切たちを引き留めるでもなく、見世物小屋の客を見送るのと同じく、薄ら笑いを浮かべながら短い手を振って彼らの背を見送った。
 当然、血濡れの娘を背負うアヤモノが白昼堂々と町を歩けるはずもない。斬切と金糸雀は人目を避け、夜の闇に紛れて移動していた。斬切は金糸雀の故郷であるという北に向かっていた。弱りつつあるこの哀れな小鳥に、一目でも故郷を見せてやりたかった。
 金糸雀は斬切の背に揺られながら様々な話をした。己の幼き頃の話、記憶の薄れつつある故郷の話、そして時たま、まぼろし座の話。彼らが直接言葉を交わすことはなかったが、意味を乗せない音で一つ二つの短かな是非や相槌を打つ斬切の小さな反応を金糸雀は楽しんでいる風だった。
「ネエ風切さん、ねいさんッてね、猫鼬のアヤ混じりなんですッて。猫鼬ッてアヤモノは、蛇と戦うためだけに毒の利かない躰なのよ。ねいさんにもその血が流れているから、毒のある蛇でも平気でムシャムシャ食べてしまうのねえ。毒が平気なンだもの、猫鼬ッてきっと恐ろしい姿をしているのだわ。風切さんは、猫鼬をご存知」
 斬切は金糸雀の言葉に小さく首肯すると、金糸雀は彼の背中で吐息交じりに小さく笑った。
「ふふ、風切さんは物識りね。わたし、なんにも知らないのだわ」
 しかし斬切が白いでっぷりとした獣の姿を娘に語る事はない。金糸雀と同じように、斬切もまた大倭語を話す事が出来なかった。大倭国に渡ってきた頃よりは大分増しになったとは云え、斬切は金糸雀の拙い語りを聞き取るだけでも精一杯だ。彼女が少し早口になってしまうだけでサッパリ話が解らなくなってしまう事もしばしばであったが、斬切は金糸雀の舌足らずな甘い鳴き声を聞いているだけで心地好かった。
 斬切は月明かりの下を延々歩き続け、遂に縦長な大倭国の北端まで辿り着いた。彼らがまぼろし座から逃げ出してから七日目の事であった。灰色の空は薄く伸びた雲と交じり合い、海との境に近くなるに従って色を失っていった。濃い潮の香りが鼻孔をくすぐり、冷たい風が斬切の身を裂いた。墨を溶かしたかのように黒くうねる海の向こうには薄らと島が見える。あれが金糸雀の故郷なのだろう。
「矢ッ張り、風が違うわ。本土の風は湿って重いもの」
 金糸雀は望郷を滲ませる声でそう言ったが、斬切には彼女の言う違いがわからなかった。耳元で囀る娘の声は老婆のようにすっかり乾き切り、美しかった黒髪は脂で絡みついていた。今の金糸雀はまぼろし座の花形として持ち上げられていた娘とはとても思えない姿であった。この七日で晒と薬はとっくに使い切ったが、遂に金糸雀の背を流れる血が止まる事はなかった。今も、生命の滴が数拍刻みで砂浜に吸い込まれている。
 チントンシャンシャン、チントンシャン。
 潮風に乗って、懐かしさすら覚える囃子の音色が斬切の耳に届いた。近くに見世物小屋があるのだろうか。テンツクテンツクと拍を刻む鼓の音を聞いている内に、こうして地の果てに辿り着いたことが夢のように思えてくる。
 金糸雀が人となってから彼女の足となり続けた斬切の鋼の躰は、背中から金糸雀の体温と溶け合ってすっかり温くなっていた。斬切は血の気の失せた娘の熱が日に日に冷めていく事に気付いていたが、決して金糸雀に打ち明けようとはしなかった。
 幾ら人目につかぬようにする必要があるとはいえ、流石に夜の海を渡る危険は冒せない。斬切は昼の内に海を渡るつもりで、手頃な小舟を探して波打ち際を歩いていた。
 陽の下を歩くのは久方振りに感じる。柔らかい砂は斬切と金糸雀の重さの分だけ、彼の足を深く沈めた。波は荒く泡立ち斬切たちを拒んでいたが、金糸雀曰く北の海ではこの光景が常であるらしかった。
「ネエ風切さん」
 金糸雀が斬切の名を呼んだのは、彼が砂上に足跡を残し始めて暫く経った後だった。潮風に吹き飛ばされてしまいそうな声に耳をそばだて、斬切が足を止めた反動で、痩せ細った金糸雀の脚が揺れた。
「ずうッと内緒にしていた事があるの」
 云ってもいいかしらん、とわざわざ確かめる金糸雀の言葉を斬切は促した。背負った金糸雀の顔は良く見えないが、きっと笑っているのだろう。そういえば、逃げ出してからはまともに金糸雀の顔を見ていない事を思い出した。金糸雀の鳴き声は楽しげに弾んでいた。
「あざむき姫が言ってたンです。アヤ混じりの中には、アヤモノの言葉が聞こえる人もいるンですッて。あの翼はわたしに何の得もなかったけれど、ふふ、風切さんの声が聞こえた事だけは、仏様に感謝しなくちゃ」
 何でもない風に語られる金糸雀の言葉に、斬切の心の臓が跳ねた。届くはずがないと思っていた。しかし斬切の声は、音としてではなく言の葉として、金糸雀に届いていたのだ。その事実が、後悔の波となって胸に押し寄せる。もっと語りかけておけば、もっと耳を傾けておけば。固く目を瞑る斬切の肩に回された腕を抱き寄せ、金糸雀は愛おしげに頬を寄せた。
「わたしね、風切さんの落ち着いた声、優しくッて好きよ。ネエ、わたし、風切さんのお国の言葉、少うしだけ覚えたの。あざむき姫がね、教えてくれたのよ。聞いてくれる」
 後悔と愛おしさが喉に詰まり、斬切は声を出せずにうなずいた。小鳥は甘い声を出して春風のように鳴いた。
「アイラヴュー、ミスタア・風切」
「……Me too. my little yellow.」
 声を忘れた斬切は、そう答えるのが精々だった。それでも金糸雀はくすぐったそうに鼻を鳴らし、長く細く息を吐いた。まるで羽でも生えたかのように斬切の背が軽くなった。
 斬切はくすんだ空に羽ばたく金糸雀の姿を見た。――否、骸は斬切が背負っている。まぼろしだ。あの娘は飛べぬはずだ。
 まぼろしの金糸雀は決して動かなかった土色の翼を広げ、地上に別れを告げた。金糸雀の形をした錘を背負う斬切に手を振った彼女は、しなやかに両腕を伸ばし、飛び切りの笑顔で風に乗って、故郷の空へ飛んで行った。
 呆然と彼女の姿を見上げながら、斬切は思う。矢張り金糸雀は人にはなれなかったのだと。ひたすら人であることを望んでいた彼女は、魂となってすら、大空を舞う小鳥であった。
 斬切は遺された骸を小舟に乗せ、荒れる海原へソッと押し出した。彼は金糸雀を乗せた小舟が少しでも彼女の故郷へ届くよう、北の荒波に願った。斬切が見つけた一隻の小舟は、象牙の船でも、銀の櫂でもないただのささくれた木船であった。
 潮風が、金糸雀が生きていた熱を奪ってゆく。
 斬切は波に運ばれていく金糸雀の姿をいつまでもいつまでも、その鋼の躰がすっかり冷え切ってしまうまで見送った。


赤星 ( 2014/10/02(木) 00:19 )