そうしてぼくは、世界に墜ちた。
◆
光に灼かれた目に代わり、最初にぼくの世界を形作ったのは音だった。
腹の底に沈む轟音。上下左右から襲う不可視の暴力がぼくを押し潰す。目と耳を奪われ膝をつくぼくの世界で、澄んだ冷たい音が重い幕を切り裂いた。
「一度退く! エモンガ、頼んだ!」
爆音で麻痺したぼくの鼓膜へぼんやりと届いた声は、まるで覚えのない声だった。空気を細かく震わせる振動が、ぼくの肌をちりちりと叩く。強く手を引かれるがままにぼくは立ち上がった。わけもわからぬままどこかへ連れて行かれることは恐ろしかったが、このまま置き去りにされるかもしれないと思うと、手を振り払う勇気は湧いてこなかった。
もつれる足をただ動かす。ぼくを導く冷たい湿った手は、とても不快だった。
◆
ぼくの名前は〈ダクテン〉と言うらしい。
らしい、と言うのはぼくも伝え聞いた名であるからだ。ぼくを助けてくれたポケモンが、確かにぼくのことを〈ダクテン〉と、そう呼んだ。ミジュマルという種を名乗る彼は、こちらが驚くほどに親切なポケモンだった。謎の脅威から逃げ切った後も、終始無言で不審であったぼくを仲間たちからかばい、パラダイスと呼ばれる彼らの拠点に帰って早々、ぼくを〈ダクテン〉の部屋に押し込んだ。いやに手慣れた風だったのが少し気にかかるが、今はそれすらもありがたい。右も左もわからないぼくは、忠犬よろしく彼の帰りを待っている最中というわけだ。
〈ダクテン〉の部屋は、非常によく整頓されていた。居住区といえどポケモンの住むそれだ。正直なところあまり期待はしていなかったのだが、その部屋は想像を裏切り、土間であること以外はほとんど人の住む部屋そのものだった。
部屋に入ってまず目に入る明らかな人工物は、小さな文机と、ぼくの背丈ほどの小さな本棚だ。棚にはある程度の数の本が収まっている。ポケモンの文化に書記言語が存在したことにぼくは大きな衝撃を受けた。興味本位で手頃な場所にあった本を一冊抜き取るが、何かが記されていたであろうページのほとんどが破り捨てられていた。窓の下に置いてある、木の皮で編まれた大きなバスケットの中には、太陽の匂いをたっぷり吸い込んだふかふかの藁が敷き詰められている。部屋の奥に立てかけられた姿見には、荒んだ目をした一体のポケモンが所在なさげに立ち尽くしている姿が映っていた。
夏の濃い草色の体表が、蛇のように滑らかなラインに沿って広がる。肌触りは、まるで本物の植物のようにつるつるとロウがかっていた。尾の先端には薄い葉が一枚。頼りないほどに細い手足は、蛇足という言葉をそのまま具現化したかのようだった。初めて見るポケモンだった。だが少なくとも、二足歩行のできる種でよかったと思う。四つ足は、常に頭を垂れて生きるのは、すぐに自分が人間であったことを忘れてしまいそうだった。
人間。そう、ぼくは人間だった。マサラタウン出身の、ポケモントレーナー。同業者たちの間に名を馳せることができるほど強くはなかったが、悲観的にトレーナーを諦めるほど弱くはなかった。ぼくは手持ちのポケモンたちと食い扶持には困らないほどほどの勝率を維持しながら、のんびりと全国津々浦々を練り歩いていたはずだった。
なぜポケモンの姿になってしまったのか。どうやってここに来たのか。そもそもここはどこなのか。野生のポケモンが人間の真似事をして暮らすだなんて初耳だ。そんな珍しい集落の存在は噂であっても耳にしたことがなかった。少なくとも、ぼくが既知の場所ではないのだろう。人間に戻る方法は、みんなのところへ帰る方法はあるのだろうか。
謎が不安を、恐怖を呼び、ぼくは思考の海で溺れ死んでしまいそうになる。不意に鳴ったノックの音が浮き輪となって、ぼくを現実へと引き戻した。随分と人間臭い真似をするな、とぼくはぼんやり思った。
「大丈夫かい、顔が青いよ」
そう言う彼の方が、ぼくなんかよりもずっと青かった。頭部と四肢は白いが、胴の部分は薄い青色の短毛がびっしりと覆い尽くしている。木の実を抱えた腕の下から覗くのは、腹部にぴったり貼りついた二枚貝の片側だった。それが何のための器官なのか、ぼくにはさっぱりわからない。彼はやや強引にぼくを床の上に座らせ、自身も正面に腰を下ろした。
ミジュマルは大きな葉を数枚重ね、その上に木の実を適当に並べていった。ポケモンにも土の上に食べ物を置くことを嫌がる感覚があるのか、とぼくは少し感心してしまった。幸いにも木の実だけは見たことのある種類のものばかりだったので、少し迷いながらもノメルの実を選んだ。鮮やかな黄色いアーモンド形の実の先端にかじりつく。脳を揺さぶるほどの酸味が舌の上を暴れまわったが、ぼくが夢から目覚めることはなかった。
「少しは落ち着いたかい、ダク。死にかけるところだったのだし、気が動転する気持ちは仕方がないと思うけれどね」
彼は腹の貝を取り外すと、器用にウイの実の外皮を剥きながら苦笑した。青紫の皮の内側から緑色の果肉が覗く。ミジュマルは手を止め、ぼくの目をじっと見つめた。ぼくは彼の視線に耐え切れず、唇を噛み締めながら俯く。彼の決定的な一言が恐ろしかった。
「ダクテン。ボクのこと、わかるかい」
ぼくは暫くの間沈黙し、申し訳ないと思いながらもわずかに首を横に振った。ミジュマルは特に激することもなく「そうか、やっぱり」と呟いた。ぼくの答えを知っているかのような反応は、努めて感情を出さないように淡白な声を作り出しているかのようだった。
「また忘れてしまったんだね」
また。またと言った。〈ダクテン〉は何度か記憶を失ったことがあるのか? ぼくが困惑するのを見て取ったのか、彼は優しく微笑んだ。まるで何度も同じことを繰り返してきたかのように、彼はぼくの疑問のほとんどを解消してくれた。
「ボクはミジュマル。キミは冒険チームのリーダーで、ボクがサブリーダー。キミとボクはパートナーだったんだ。もちろん、これからもそうであり続けることを願っているよ」
冒険チームのパートナー、それが〈ダクテン〉とミジュマルの関係。彼らが近しい間柄であるならば、ぼくが〈ダクテン〉ではないことくらいはすぐに露呈してしまう。ぼくの気分は一気に底を突き抜けた。
「キミも記憶がなくなって混乱していることだろう。原因はわかっている。キミはちょっぴり困ったことに、あるアイテムを使うと記憶の一部が抜け落ちしてしまう不思議な体質らしくてね」
ミジュマルの情報は、あくまでも彼の視点から見た〈ダクテン〉の異変だ。〈ダクテン〉の記憶が失われたのではないということは、ぼくが一番よく知っている。
彼は木の実の下に埋もれていた黄色い種子をぼくに差し出した。硬い表皮に包まれたそれは向日葵の種に似ている。ミジュマルはぼくの反応を伺っている。しかしぼくには皆目検討もつかなかったので、この種が何なのかと彼に尋ねた。
「それは復活の種。不思議のダンジョンで致命傷を負ったときに、ダメージを肩代わりしてくれるアイテムさ」
ミジュマル曰く、復活に伴う記憶喪失はどうやら〈ダクテン〉にしか現れない症状らしかった。彼自身も含め〈ダクテン〉以外のポケモンが記憶を失った例は聞いたことがないという。なぜぼくだけが? その問いに対して答えを持っていないミジュマルは残念そうに首を横に振った。兎にも角にも、情報が足りなさすぎる。考えを整理する時間が欲しかった。
ミジュマルはぼくの気持ちを察したのか、わざとらしい掛け声とともに立ち上がった。皮を剥いただけでほとんど口をつけていないウイの実を拾い上げる。彼は少し早口に、部屋のあちこちを指差した。
「まあ、あまりボクがやかましく言っては、余計にダクが辛くなるだけだろうからね。ボクはここでお暇するよ。木の実は腹が減ったら食べてくれ。紙は文机のブックエンドに、ペンとインク壺は一番上の引出しに入っている。キミって奴は、記憶を失くすと決まって紙とペンを欲しがるんだから」
「あの」
「わからないことや思い出したことがあったらいつでも言ってくれ。出来る限りは応えよう。……そう心配しなくてもいいさ、ボクはずっと君の味方だ。今までは、徐々に記憶が戻ることもあったし、そうじゃないこともあった。思い出せたら御の字だし、足りない部分はこれから埋めよう」
ミジュマルは扉に手をかけたまま振り向いた。自分では気がついていないのだろうか、目尻が少し濡れている。
「おやすみ、ダク。また明日」
ぼくの目の前で、ゆっくりと扉が閉まる。木製の質素な扉の向こうから押し殺したようなすすり泣きが聞こえたが、やがて遠くなっていった。
◆
〈ダクテン〉というポケモンについて、わかったことがいくつかある。
まず、ツタージャという種族であること。見た目通りの草タイプで、身軽さが武器のポケモンだ。ここまではキモリ種によく似ているが、ツタージャはそのスマートな見た目に反してタフな種族だ。ミジュマルの話では、進化すれば更に丈夫になるらしい。習得技は味方をサポートするものが多く、もし育成の機会があれば先発で活躍しそうだなあとぼくは詮ないことを考えた。
加えて、〈ダクテン〉は非常に身体能力が高い。人間とポケモンのそれを比べるのもおかしな話だが、彼の小柄な身体は宙を舞い、襲い来るポケモンを次々と打ち負かした。ぼく自身が身体を動かしているという意識は薄く、身体が最善行動を覚えていると言うべきだろうか。それでもミジュマルに言わせれば「まだ本調子ではないね」とのことだ。ぼくが〈ダクテン〉になった日も、難関ダンジョンの奥で凶暴化したポケモンたちに取り囲まれ、ミジュマルたちを庇い消耗しきった末の事故だったとのことだった。本来であればそのダンジョンのレベル相手なら苦にもならない実力だというのだから恐ろしい。
そして、冒険チームのエースである〈ダクテン〉はえらく宿場町の面々から頼りにされていた。町を歩けば誰彼構わずぼくに声をかけてくるし、不思議のダンジョンでの事故を知っているらしく――小さな町だということもあるし、ポケモンたちはぼくが思っていたよりもずっと噂好きだ――通り過ぎさま口々に労りの言葉をかけてきた。快く付き添いを買って出てくれたミジュマルがいなければ、ぼくは早々にボロを出してしまっていただろう。
しかし彼らの様子から、〈ダクテン〉は社交的で分け隔てなく優しく、勇気ある好青年であるらしいことは充分に伝わってきた。ぼくとはまったく対極にいるタイプだ。じきに彼らを失望させることを思うと、心配されるたび罪悪感に苛まれる。
今はまだ療養中という名目で表立った活動はしていない。しかし〈ダクテン〉のこれまでの功績から、あまり長く引きこもっていられないこともまた事実だった。冒険チームに寄せられる依頼の中には、華のエースである〈ダクテン〉を指名してくるものも少なくはない。ただでさえ〈ダクテン〉率いる冒険チームは少数精鋭だ。〈ダクテン〉が空けた穴は、ミジュマルを筆頭に他の誰かが埋めている。
忙しい合間を縫って毎日ぼくに付き合ってくれるミジュマルと部屋の前で別れ、自室に滑りこんだぼくは藁のベッドに沈みながら重い溜息を吐いた。
ぼくはいつまで、彼の期待を裏切り続けるのだろうか。いつまで待っても、彼の知る〈ダクテン〉は帰ってこないのに。
日が暮れるとポケモンたちは眠りに就く者が大半だったが、元人間であるぼくにとって、まどろみに身を委ねるにはまだ早い時間帯だった。火打ち石を二、三度打ち合わせてランプに火を入れる。〈ダクテン〉もどちらかといえば夜更かしを好むポケモンだったらしく、部屋から明かりが漏れていても咎められることはなかった。
静かな夜に、ランプの芯が焦げるわずかな音が響く。当然ながらテレビもラジオもない。娯楽のない夜は退屈だった。最初の数日はそれでも眠りの妖精が訪れるまでまんじりともせず過ごしていたのだが、それも限界がある。ぼくは初日以来、全く手を付けていなかった本棚の書籍へ手を伸ばした。この部屋だけではなく、宿場町のあちこちでも書籍を見かけたことがある。もっとも、見かけたと言っても売上管理の帳票くらいだが、もしかしたら一冊くらいは娯楽小説が混ざっているかもしれないという淡い期待からだった。
最初にぼくが手に取った、ページの破れた本は戻し方が半端だったせいか背表紙が少し浮いていた。なぜ〈ダクテン〉はこの本を破り捨てたのだろうか。ぼくはランプの仄かな光の下で、それを丁寧に開いた。
赤紫色の表紙にはタイトルも、著者名も記されていない。一枚開くと、ページの頭に「Day 21」と走り書いたような字が見えた。ポケモンたちが扱う足形文字ではない。ぼくの知っている言語だ。呼吸を忘れる。その本には、人間の残り香が漂っていた。
慌てて次のページをめくる。筆記体かつ、お世辞にも読みやすい筆跡とは言えなかった。ぼくの読解力不足も重なって翻訳は困難を極めた。これほど自分の無学さを呪ったことはない。単語を拾うことしかできないのがもどかしいが、ぼくの手中にあるこれはどうやら彼の日記であるらしい。しかしぼくの翻訳が正しければ、この日記の著者もぼくと同じく自らの境遇に混乱し、何とか状況を打破しようとしている風に見えた。これは〈ダクテン〉の日記ではないのか?
誰かの日記はページを進めるたびに筆跡が荒くなっていった。読み取れない部分も多いが、その筆の節々から彼が怒りを感じていることは実によく伝わってくる。そして例の破れたページを挟んで、次の一文で日記は終わっていた。
「……“I'm Thomas! Not Sonant!!”」
トーマス。日記の主の名前。彼は〈ダクテン〉ではない。もしかしたら、彼はぼくと同じく〈ダクテン〉になってしまった被害者なのかもしれなかった。それなら、ぼくは何番目の〈ダクテン〉なんだ? トーマスは、ぼくの前に〈ダクテン〉だった彼らは一体どこへ行ってしまった?
ぼくはトーマスの日記を文机の上に放り投げると、ふらふらと覚束ない足取りで藁のベッドの上に倒れこんだ。日記に封じこめられた彼の憎悪に中てられたせいもあるだろうが、またひとつわからないことが増えてしまったことに対してぼくの頭は考えることを放棄していた。
夢なら早く醒めてくれと願いながら、ぼくはゆっくりと暗闇の中へ落ちていった。
◆
遠くに華やかな赤の大輪が見える。見間違えるはずもない、あれはぼくのフシギバナだ。ぼくが一番最初に選んだポケモン。あいつがゼニガメを選んだと聞いたから、あいつに負けたくなくてぼくはフシギダネを選んだ。けれど旅を続けていく内に動機なんてどうでも良くなって、今ではフシギバナ以外のパートナーなんて考えられなくなった。
他の手持ちもそうだ。一番道路の草むらでなけなしのモンスターボールを使い果たしながら捕獲したポッポは、ぼくの投擲をことごとく避けてみせた機動力を活かして立派なピジョットに成長した。初めはぼくたちをひどく警戒していたコンパンは、モルフォンに進化してからはフシギバナと双璧を為すぼくのパーティの主砲だ。波打ち際に打上げられていたメノクラゲは、ドククラゲに進化した今でも少し身体が弱いところがあるけれど、バトル中はみんなの盾となって戦線を支えてくれている。平均サイズよりも小さなガラガラは、進化してもまだまだ甘えたがりでよくぼくの背にのしかかってくる。公式ルールの登録上限数である六体目は、まだ見ぬ誰かのために空席だ。
みんな、ぼくの大切な仲間だ。
しかしその懐かしい姿はみんな、ぼくに背を向けている。
なあ、ぼくだよ。帰ってきたんだ、こっちを見ておくれよ。
みんなはぼくに気付く様子はなく、誰かを囲んで楽しそうに笑っている。
誰だ、ぼくの居場所を奪うのは。返せよ、そこはぼくのものだ。誰にも譲らない。
ぼくはみんなを力尽くで押しのけて、輪の中心にいる人物の肩を怒りのまま引き寄せた。驚いた表情がぼくを見下ろす。冴えない作りの顔だ。放ったらかしのままの前髪がうっすらと目にかかっている。
――ぼくだ。
ぼくが、ぼくを見下ろしている。
いや、ぼくじゃない。ぼくはここだ、ここにいる。今はツタージャになってしまっているが、ぼくが本物だ、それは間違いない。
では、ぼくの目の前にいる人間のぼくは、一体誰だというのだ?
ぼくが〈ダクテン〉の肉体に入りこんでしまったかのように、あれはぼくの肉体を使っている誰かだというのか? ぼくの居場所は、人生は、全てこいつに奪われてしまったとでもいうのか?
ガラガラがツタージャのぼくを突き飛ばす。尻餅をついたぼくと〈ぼく〉を遮るように、みんなが次々と割って入った。〈ぼく〉を守るために、ぼくに敵意を向けている。かつては頼もしくあった油断のない目つきで、冷ややかにぼくを睨みつけている。
足元が脆く崩れ去る感覚に血の気が引いた。ねえ、ぼくだよ。本物はぼくなんだ。そいつはぼくの身体を勝手に使っている偽物なんだ。
フシギバナの陰から顔を出した〈ぼく〉が口元を釣り上げた。〈ぼく〉めがけて放ったツタは、フシギバナの縄のように太いそれにいとも容易く弾かれてしまった。〈ぼく〉はニタニタと笑いながらフシギバナに寄り添う。やめろ、やめろ!
「お前の身体は、お前の未来は、ぼくが代わりに充分堪能してやるよ、〈ぼく〉」
◆
「うわッ、なんかやつれてんなあ。ユーレイかと思った」
悪夢で目を覚ましてしまっては、すぐに眠気がやってくるはずもない。喉の渇きを潤すために厨房へ行くと、夜食を物色していたらしいエモンガと鉢合った。既にいくつか木の実をつまんだ後のようで、口端に木の実の欠片が残っている。
エモンガはぼくを共犯者にしたいのか、貯蔵庫の中からいくつかの木の実をぼくに押し付けてきた。あまり空腹ではなかったが、ぼくは勧められるままノメルの実に手を伸ばす。気付けのつもりで、ぼくは酸味の強い先端部をかじった。
「オマエ、ホントにノメル好きだよな。オレはすっぱすぎて苦手」
そう言うエモンガはうまそうにモモンの実を頬張っている。甘味が好きなのだろうか、周りに散らばる木の実の芯も甘い味のものが多かった。
ぼくが〈ダクテン〉になってからはずっとミジュマルが傍についていたため、彼以外のポケモンと一対一で話すのは初めてだった。ぼくは本物の〈ダクテン〉のことを多くは知らない。ここで軽率に関わり合いを持つのはリスキーだとわかってはいたが、ぼくはエモンガと話をしてみたいと思った。いや、エモンガでなくともよかったのだ。ただ、あの悪夢を見た後に、ひとりでこの夜を越えるのはとても心細かった。
「……お礼、を」
「ん?」
「言いそびれていた。この間は、助けてくれてありがとう」
「んー、あー、あー。気にすんなよ。オレは目眩ましをしただけだ。それに、ダクがピンチになったのも元はといえばオレたちを庇ったせいだからな。こっちこそサンキューな」
エモンガは照れているのか、視線を自らの横へずらした。手の内のヒメリの実を弄ぶ。エモンガはしばらく言葉に迷っていたようだが、やがて意を決したかのように口を開いた。
「なあ、ダクよ。やっぱ、忘れちまったのか? オレのこと、みんなのこと――ミジュマルのこと」
ぼくはエモンガの問いに、ただ謝ることしかできなかった。質の悪いことに、ぼくはそもそも〈ダクテン〉ではないのだから、思い出すことすらできない。
「いや、悪い。別に謝って欲しかったんじゃないんだ。オマエのせいじゃないんだから、気にすんな。しかし難儀なモンだよな、命の代わりとはいえ記憶を失うだなんて」
「少し、変なことを聞いても?」
「なんだよ、ミジュマルには言いにくいことか」
「ぼくは何度、記憶を失っているのかな」
ぼくたちの間に沈黙が下りた。トーマスという前任者の存在を知ったぼくが次に抱いた疑問は、何度〈ダクテン〉が入れ替わっているのかということだった。〈ダクテン〉だったトーマスが、〈ダクテン〉に入っていた魂というべきものが、どこかへ行ってしまったのだとしたら。もしその行く先を知ることができれば、ぼくが人間に戻る手がかりが見つかるかもしれないと思ったのだ。しかしいくらぼくが無知だからといって、ミジュマルにそれを直接尋ねるほど厚顔無恥ではないつもりだった。人知れずスケープゴートとされたエモンガの答えは、ぼくが想像していたものとは少し異なっていた。
「オレの知る限りでは、今回で三度目だ。オレとノコッチがここに来たのはチームが発足してからしばらく後のことだから、もしかしたら回数はもう少し上かもしれない」
ぼくよりも前にいる三人の〈ダクテン〉。最初のオリジナルを除けば、ぼく以外に少なくとも二人が〈ダクテン〉に乗り移っているということだ。もしかしたらその秘密が〈ダクテン〉の部屋に残された日記の中に隠されているのかもしれない。
すっかり黙りこくるぼくに対し「なあ」エモンガが硬い声色で呼びかけてきた。ぼくは思考を中断して顔を上げる。視線の先には、エモンガの真剣な表情があった。
「オレも、ひとついいか。もしかしたら気を悪くするかもしれないが」
「構わない」
「オレは、オマエ以外に過去の記憶を失ったポケモンを知らない。だからみんなそうなのかもしれないし、オマエだけなのかもわからないが、ダクが記憶を失うたび、オマエが別人になっちまってるんじゃないかと思うことがある」
エモンガの言葉に、ぼくの心臓が大きく跳ねた。冷水を浴びたかのように冷や汗がどっと背中を流れる。彼の指摘はもっともだ。事実、ぼくは〈ダクテン〉ではないのだから。
「記憶を失えば、多かれ少なかれ性格が変わっちまうこともあるだろうさ。でも、オマエは記憶を二度失くしても、いいヤツであることに変わりはなかった。三度目のオマエは正直まだよくわからないが、これだけは言わせてくれ」
エモンガの反応は新鮮だった。ミジュマルを始めとして誰も彼も、記憶を失ったかわいそうな〈ダクテン〉を労り、優しい言葉をかけてくる。今までぼくは〈ダクテン〉を疑う存在との接触がなかった。当然だ、ぼくが偽者であることがバレないように過ごしてきたのだから。しかしエモンガは、ぼくに〈ダクテン〉ではない誰かの影を見ている。エモンガが意図していたことではないにせよ、それは初めてこの世界でぼくが〈ぼく〉として認められた瞬間でもあった。
「オレとノコッチはオマエたちに返しきれない恩がある。他のみんなだってそう、何があってもオレたちはオマエの味方だ。だから、お願いだから、ミジュマルを悲しませるような真似はしてくれるな。頼んだぜ、リーダー」
◆
日記の解読は着々と進んでいた。
本棚に収まる日記の三分の一は、独逸語で遺されているものだった。真面目なお国柄のイメージそのままの記録量だったが、それが活かせなければ話にならない。恐らくは、彼が歴代の〈ダクテン〉の中で最も長命だったと思われる。
ぼくの主な情報源となったのは、ぼくの先代にあたる〈ダクテン〉の日記だった。彼はなんともありがたいことにぼくと同じ日本人で、非常に読みやすい日本語の記録を遺してくれていた。
“十九日目
もう十九日だ。ようやく心的余裕を持つまでに回復したので、日記を書く。ポケモンが紙や筆記具、通貨などの文化的技術を持っていたことは驚きの一言に尽きるが、今ばかりはありがたい。記録としてだけではなく、万が一私と同じ境遇の誰かが現れたときのためにもなるだろう。一ページ目から幸先が悪いが、この記録の半分は遺書のようなものだ。無論、まだ死ぬつもりはない。
まずは、先々代の名もなき〈ダクテン〉に感謝しよう。選択必修だったとはいえ、もう二度と触るまいと心に誓った独逸語に助けられるとは夢にも思わなかった。先代〈ダクテン〉のThomasは日記の冊数こそ少ないが、任期はかなり長いようだ。遺されたページはわずかだが、もしかしたら今後、参考になるときがくるかもしれない。……”
先代〈ダクテン〉は、どうやら文章を書き慣れている人間のようだった。日記というよりは、私小説のような感覚でぼくはそれを読み進めていた。既に懐かしさすら覚える母国語の並びを、ぼくは数日もの間まるで飽きずに追い続けている。
先代もダンジョンの中で突然〈ダクテン〉の意識に乗り移ったようだった。自分が人間だったことや、どんな人生を歩んできたかということはしっかり覚えているが、〈ダクテン〉となった前後だけは記憶がはっきりしないという。ぼくも同様に、自分が眠っていたのか、それとも起きていたのか、それすら覚えていなかった。
彼は早い段階で〈ダクテン〉たちの日記を読破し、ある程度自分の状況を把握していた。先代は自分が五代目の〈ダクテン〉だと記していた。すると、ぼくは六人目。〈ダクテン〉は不思議のダンジョン内で六回も生命を脅かすほどの致命傷を受けたということだ。それが多いのか少ないのかぼくには判別がつかないが、それほど不思議のダンジョン内部には危険が満ちているということだろう。更に言い換えれば、ミジュマルは六回も相棒の擬似的な死を経験しているということだった。
“私という魂が〈ダクテン〉の中に入ってしまったとして、果たして魂の抜けた私の体はどうなってしまったのだろう。もしこの世界が夢の中の出来事であれば私の時間は止まったままだが、世界はきっとそんなにうまくは回らない。
私がいなくなったことに、誰か気づいてくれているだろうか。私の周りは過干渉を好まないタイプが多いから、一、二週間程度の音信不通なら気にも留めないだろう。まさに類友だ。父さんや母さんは心配してくれているだろうか。失踪のとき、大学は休学扱いに……してはくれないだろう、やっぱり。それとも、よくあるフィクションみたいにぼくの存在そのものが人々の中から消えてしまっているのだろうか。それならそれで気が楽になる。残してきたフワンテのことだけが少しばかり気がかりだ。寂しがりなあいつをまたひとりぼっちにするのは可哀想だ。
もし、もしもだ。Ifの話で、先代のThomasが入れ替わるように私の体に入っていたとしたら、どうかうまくやってほしいと思う。エモンガやビリジオンから話を聞くに、Thomasくんは少々そそっかしい男のようだ。その辺は多分、ラッキーあたりがうまくフォローしてくれるだろう。彼がいい奴だったということは〈ダクテン〉の評判を聞けばなんとなく伝わってくる。
……こんなにも未練がましくもしもが思いつくのだから、やっぱり私は元の姿に戻りたいのだろう。また復活の種を発動させれば私は死に、新しい〈ダクテン〉の魂がこの体に宿る。でも、それで本当にいいのだろうか。私と同じ犠牲者を増やしていいのだろうか。そもそも私が死んだとして、私の魂はどこへ行くんだ? 元の体に戻れる保証なんてどこにもない。もしかしたら、だなんてただの妄想だ、願望だ。そうあってほしいというだけで命を投げ出せるほどの勇気は持ち合わせていない。
それに、多分、またミジュマルが悲しむ。彼はこちらが心配になるほどのおひとよしだ。どうしてこんなにも甲斐甲斐しく私の世話を焼いてくれるのかはわからないけれど、私は彼のために〈ダクテン〉として生きるのも悪くないかもしれない、と思い始めている。……”
◆
〈ダクテン〉の周囲にいるポケモンたちは、総じて気の良いやつらばかりだ。〈ダクテン〉とミジュマルの徳が為せる業と言うべきだろうか。一部には過去に彼らを貶めようとした経緯を持つポケモンもいるようだが、少なくとも現段階ではすっかり角が取れて丸くなっている。
ぼくの無謀に付き合わされているノコッチも、そんな気の良いやつの一体だった。ぼくに目をつけられてしまったばっかりに、彼はぼくとたった二人で高難易度に指定されているダンジョンへと潜る羽目になっている。
少しでも視線を左へ向ければ見つかってしまいそうなほどに近距離まで迫ったクリムガンを何とかやり過ごす。〈ダクテン〉の戦闘能力であれば、今しがたすれ違ったクリムガンレベルの相手くらいなら数体は相手取れるだろうが、今回ばかりは長丁場だ。できるだけ交戦を避けて奥へ進む必要があった。
クリムガンがこちらへ背を向けた隙に、素早く背後を通り抜ける。クリーム色の丸い体を弾ませてぼくに続くノコッチからは、挙動に伴う物音がほとんど聞こえてこない。普段のおどおどした性格からはまったく片鱗を見せないステルス技術の高さが彼を選んだ理由だ。
「随分深くまで来ちゃったなあ」
ノコッチがおっとりと誰に言うでもなく後ろを振り返ったのは、幾度目か忘れてしまうほどにフロアを下った頃だった。本来であれば、こういった階層の多い高難易度のダンジョンには最大編成数の四人でパーティを組んで挑むのが一般的であるらしい。今のぼくたちのように、たった二体でこそこそと不思議のダンジョンに潜るのは自殺行為だと道中で散々ノコッチに説得された。事実、何度か逃げきれずに交戦した際、致命傷を受けたノコッチは復活の種を消費している。最大限の準備をしてきたつもりの冒険バッグの中には、役目を終えてただの種と化したものがいくつか混じっていた。
誰だって死を恐れて〈お守り〉を持ちたがるものだ。それが確実に自らを守ってくれるものであるなら、なおのこと。
ミジュマルの話通り、種の効力によって復活したノコッチはぼくが数秒前まで接していた彼と同一の存在だった。やはりぼく以外のポケモンにとって、復活の種はダンジョンでの冒険において重要なバックアップソースであるらしい。
「復活の種は、あといくつ残ってる?」
持ち込んだ種は十。道中で二つ拾って、残りは四つ。消費ペースとしては悪くはないはずだが、ノコッチはしきりに種の残数を気にしていた。彼は、自分だけ道中で種を消費していることに負い目を感じているらしかった。
「ごめんね、僕ばかり種を使ってしまって」
ノコッチは声のトーンを数段落として大分しょげている。元々、持ち込んだ種は全てノコッチのために用意したようなものだ。実際に復活の種の効力をこの目で確認したかったということもある。ぼくの無茶に付き合わされ、あげく知らずの内に実験台にされているノコッチは、ぼくに怒りこそすれど申し訳ないと思う必要性は微塵もない。
「せっかく色々と思い出してきたのに、また忘れてしまうのはごめんだよ」
「そ、そうだよね。やだなあ、僕ったら」
自虐的に場を茶化すことには成功したのか、ノコッチの声が少し明るくなる。思い出すなんて嘘だ。先代が遺してくれた記録を、さも自分の思い出であったかのように語るだけ。勉強と一緒だ。経験ではなく知識。どんな小さなことでも「思い出したんだね」と我が事のように喜ぶミジュマルの笑顔を見る度に、罪悪感で首が締め付けられる。
〈ダクテン〉として生きることは、一生周囲をだまくらかし続けることだ。それは先代も充分理解していたはずだ。それでも彼は、ミジュマルのために自殺した。人間であった自分を殺して〈ダクテン〉になったのだ。
果たしてぼくに、そんな覚悟ができるだろうか?
「ところでダクテン、ぼくたちはどこに向かっているのかそろそろ聞いてもいい?」
確かに深く聞いてくれるなと言ったのはぼくなのだが、簡単に引き返せないところまで来てしまってからようやくその疑問を口にする辺り、純粋というよりも愚直という表現のほうがしっくり来る。これでは世話焼きのエモンガが目を離せないわけだ。
「きみね、そんなだから悪い虫に引っかかるんだよ」
「返す言葉もないよ……」
「答える前にひとつ、約束してほしい。今日のことは他言無用だ。今日これまでに起こったことと、今日これから起こることは、きみとぼくだけの秘密」
ぼくは人差し指を口元で立てて、しい、と息を漏らす。緊張からか、ノコッチの喉仏が上下に動くのが見えた。ぼくは彼の不要な緊張をほぐすため、いつも手持ちのポケモンたちにやっていたように丸い頭を軽く撫でた。数拍遅れてノコッチの頬が朱に染まる。どうやら照れているらしい。
ぼくだって好きで危険を冒しているわけではない。ノコッチと遠路はるばるこんなところまでやってきたのは、深いダンジョンの先、里から離れた山奥に住むという奇妙なポケモンに会うためだ。しかも彼はただのポケモンじゃない、元人間のポケモンだという話だ。
先代はどこからかこの情報を掴み、彼の元を訪ねるつもりでいたようだ。もっとも、彼の元へ辿り着く前にぼくが〈復活〉してしまったのだが。
不思議のダンジョンでは何が起こるかわからない。冒険家の間の常套句だ。先代がモンスターハウスと俗称されるポケモンたちの群れに遭遇してしまったのはまったく不運と言う他ないし、同じダンジョンをぼくたちがほぼ無傷で突破しようとしているのはまさしく幸運の賜物である。
ぼくたちはその後いくらかの種をノコッチが消費した以外は順調にダンジョンを突破し、いよいよ元人間の庵へ近付いていた。樹齢を重ねた木々の奥、身体の小さなぼくたちを悠々と覆う洞には一枚の布がかけられていた。風除けなのだろうか、所々にこびりついた泥がついている。
ぼくは先行して安全を確認する、という名目でノコッチに洞の外で待つように指示した。彼はこの場所に対する質問を一切せず、ただ「わかったよ」と首を縦に振った。
足元は暗いが、ポケモンとなった身はわずかな光源であっても不自由がない。脹らんだ節であったり、絡みあった根であったりが階段のように重なってぼくを大樹の地下へと誘う。ぐるりと螺旋階段を大きく回ると、手作りの扉が来訪者の前に立ち塞がっていた。覗き窓も、ノッカーもない。三度扉を叩いてみるも、木の硬い感触が拳骨に響くばかりで中からの反応はなかった。
もう一度扉をノックして、それでも駄目なら諦めよう。そう決めて握った拳は、固く閉ざされていたはずの扉をゆっくりと押し開けた。蝶番の軋む音が不気味に響く。
ぼくは数拍躊躇った後、生唾を飲みこんで一歩踏み出した。やはり内部は洞の中と同じく仄暗い。ごめんください、と張った声は自分が思っていたより硬かった。家主が戻ってくる前に家探しを、とも一瞬考えたが、果たして何を探すのだと内なる良心が引き止める。冒険バッグから携帯用ランプを取り出して火を入れた。淡い橙の光に照らされた室内をぐるりと見渡す。
そこは必要最低限の家具しか置かれていない簡素な部屋だった。部屋の中央に敷かれたラグマット、床に放り投げられたクッション、木材を組んで作られたベッド。壁側に寄せられた文机と書棚。壁にかけられた細かい刺繍のタペストリーだけが唯一インテリアらしいアイテムだった。
この世界に暮らすポケモンたちには文化がある。しかしそれでもどこか人間の真似事にしか見えないことが多い中で、この部屋の雰囲気は〈ダクテン〉の部屋にとても良く似ていた。人間が拵えたと思わせる部屋だった。
ここに住まうポケモンが元人間だという噂にも、にわかに信憑性が増してくる。折角ここまで来たのだから是非にでも会いたいと期待を募らせるぼくの背中を、不意に悪寒がずるりと撫でていった。
「悪いが、盗るようなものは置いてないぜ」
背後に全く気を配っていなかったのはぼくの落ち度だが、それにしたって気配をほとんど感じないほどに希薄な存在感だった。まるで道端で出会った友人に声をかけるときのような気軽な声色は、老人よりも枯れ果てた水分の感じられないものだった。
驚きで取り落としそうになるランプごと振り返る。激しい揺れにランプの金具が悲鳴を上げた。炎に照らされるのは夜更けの色。赤い瞳が、暗闇の中で爛々と輝いていた。
先代が遺した手がかりのひとつ、ダンジョンの奥地に住む仙人。元人間の噂を持つゲンガーがそこにいた。
ぼくは口内をすっかり乾かしながら、まずは勝手に侵入した非礼を詫びた。自分は物盗りなどではなく、ゲンガーに会うためにここまで来たことを告げる。
「俺に話? 生憎俺は口下手でね」
ゲンガーは不審そうに赤い瞳を細める。ここは隠し事をせず、素直に手札を切るべきだろう。
「ぼくも、人間でした」
「……ははァ、なるほど。入りなよ、茶くらいは入れてやる」
ゲンガーはぼくを室内に招き、照明に自らの鬼火で火を灯して回った。ぼくは勧められるがまま茶を啜る。木の皮を煎じたものだろう、渋みが強く癖のある味だった。
「上のノコッチは呼ばなくていいのか」
「彼は生まれついてのポケモンです。彼には悪いけれど、この話を聞かせる訳にはいかない」
ゲンガーはぼくの前に腰を下ろすと、さて、とわざとらしく前置いた。土を焼いただけの質素なポットの口からは、湯気がうっすら立ち上っている。
「で、君は何を知りたい」
「どうしてこの世界に来てしまったのか、どうしたら元の世界に戻れるのか。それが知りたくてここまで来ました」
ぼくはこれまで知り得てきた情報の全てをゲンガーに語った。ゲンガーは時折喉を潤しながらぼくの話を最後まで聞いてくれたが、一度としてぼくに説明を求めることはなかった。彼にとっては既知の情報だったのだろう。粗方ぼくが話し終えると、ゲンガーはなるほどねェと頷いた。
「期待させといてなんだが、俺も大したことは知らない。推測も多い。それでも?」
ぼくは先を促した。ゲンガーはどう説明したものか少しの間考えていたが、唐突にぼくの出身国と生年月日を尋ねてきた。戸惑いながらも素直に答えると、彼は「そりゃァいい」中身の残った湯呑をぼくたちの中心に置いた。
「君、ビデオゲームはするか? RPG。君は俺より一世代前のようだが、ウィザードリィとか、イースとか、ドラクエとかなら流石に通じるだろう」
「まあ……人並みには」
「話が早くて助かる。君を一言で例えるなら、勇者だ」
はあ、とぼくはとんでもなく間抜けな相槌を打った。何を言い出すかと思えば勇者と来たものだ。ぼくは中学生が考えたような夢物語を聞きに来たのではない。あんまり他人との交流がなさすぎて、ゲンガーの頭がおかしくなってしまったのではないかとぼくは内心がっかりした。もしかしたらここにも元に戻る手がかりはないのかもしれない。ぼくの気も知らずに、ゲンガーは淀みなく勇者の定義を語り続ける。
「勇者ってのはひとりでに生まれるものじゃない。かつてない困難が民衆の前に立ち塞がったとき、その困難に立ち向かっていく勇気ある者を指す名だ。言い換えれば、その他大勢の誰かに助けてほしいという願いから勇者は誕生する。それが君だ」
「あの、言っていることがよく」
「命の声、という存在を知っているか」
命の声。初めて耳にする単語だった。この世界が危機に陥ったとき、世界すべての生命の祈りから生まれる星の代弁者とも言うべき存在なのだという。ポケモンであって、ポケモンではない存在。ゲンガーはポットから茶をなみなみと注いだ湯呑を指差した。
「これを君、〈ダクテン〉としよう。湯呑は肉体、茶は魂だ。最初の〈ダクテン〉は、魂まですべて世界の祈りから生まれた」
ゲンガーは湯呑を手に取る。中の茶が大きく波打ち、数滴土の床の上に落ちた。目の高さで吊られた湯呑が不安定にぼくの目の前で揺れる。
「しかし、何らかの原因で〈ダクテン〉の存在が維持できなくなるとする。例えば、ダンジョンで致命傷を受けるとか」
ゲンガーはぐいと湯呑を傾け、茶を喉奥に流しこんだ。空の湯呑が再びぼくたちの間に置かれる。
「命の声はこの世界の生命の理とは外れた存在だ。なにせ誰の腹からも生まれないからな、拠り所がない。だから、この世界の何をもってしても完全に繋ぎ止めることができない。必死にしがみついていても、どこかしらが千切れてしまう」
ゲンガーが言うには、復活の種が〈ダクテン〉の魂を肉体の中に留めておけないのは縁がないからだという。人間の姿であれば与太話だと一蹴してしまいそうなオカルトチックな話であっても何故か疑う気になれないのは、彼が生死の境が曖昧なゴーストタイプだからだろうか。
「肉体だけ残っても、魂のないそれはただの肉塊だ。やがて朽ちる。この世界に神がいるかどうかは知らないが、まあ、それに準ずるなにかが困るらしいな。神は、空になった肉体に次の魂を補充することで〈ダクテン〉を維持する仕組みを作り出した」
ゲンガーはまるで神を模すかのように、湯呑の中へ茶を注ぐ。肉体の中へ魂を注ぐ。これがぼく、〈ダクテン〉。〈ぼく〉の魂は代替品に過ぎない。
ゲンガーが湯呑を持ち上げ、今度は自らの脇で飲み口を逆さまに返した。流れ落ちた茶は土間へ染みきらず、小さな水たまりを作る。茶がじわじわと土に吸われて消えていく様子を、ぼくは呆然としながら見つめていた。
「肉体から零れ落ちた魂、君で言うなら死んだ〈ダクテン〉たちの魂がどこへ行くのかはわからない。あらゆる生物の死と同じように存在が消滅してしまうのかもしれないし、呼ばれた新しい魂の代わりにその肉体の中へ入りこんでしまうのかもしれない」
「それって」
「君に代わって、先代の〈ダクテン〉が君の肉体を使っているかもしれないってことだ。もちろん、ただの憶測にすぎないがな」
ゲンガーの言葉に、僕の目の前は真っ暗になった。
あの悪夢が蘇る。ぼくじゃない誰かが、ぼくの代わりにぼくとして生きている夢。ぼくの過去も、未来も、誰かにすべて奪われる夢。口内がからからに乾いていく。口に運んだ茶はすっかり冷めていた。舌に木の皮の渋みが残る。
「死んだ〈勇者〉の命を繋ぎ留められないのなら、どうして世界は新しい命の声を作らないんですか」
「祈りなんていう漠然とした意識集合体が姿形を持つには莫大なエネルギーが必要だ。そう簡単に量産できるもんじゃないだろう」
その理由はもっともだった。しかし現に、ぼくとゲンガー、少なくとも二体の命の声が同時に存在している。ゲンガーが生きているのに、なぜ世界は〈ダクテン〉を作った? ぼくの胸中に疑問が湧き起こる。魂が欠損するたびにどこからか補充するシステムがあるくらい世界にとって〈貴重品〉なのだから、基本的に複数の固体は存在しないはずだ。
「……あなたも、命の声なんですよね」
「肉体だけな。俺は九人目だ。もうかれこれ二百年近くポケモンをやってる」
二百年。何事もなく告げられた単位に目眩がする。ポケモンの中には長寿の種も少なくはないが、三桁ともなれば自分が人間だったときのことを忘れてしまいそうな年月だった。
しかし、しかしだ。二百年以上も前から命の声が具現化するほどに世界が危機的状況に陥っていたにも関わらず、彼は里を離れた山奥で世俗との関わりを断つような生活をしている。それは、なんだかおかしくはないだろうか?
「あなたも〈勇者〉だった?」
「八人目までは、多分な。俺は違う。俺は、逃げ出した」
ゲンガーはおそろしくどんよりとした昏い目をぼくへ向けた。握られた拳がかすかに震えている。まるで内側から湧き上がるなにかを堪えているかのようだった。
「いくら肉体が戦闘技術を覚えていたとしても、突然放り出された見知らぬ世界で誰が献身的になれる。俺には見知らぬ誰かのために命をかけることなんてできない。根っからの臆病者なんだよ、俺は。だから逃げた。命の声が負うべき責務を果たさなかった」
その先はわかるだろう、とゲンガーは目で語った。彼が逃げ出したから、世界を救わなかったから、新たな〈勇者〉を作らざるを得なかった。そうして〈ダクテン〉が生まれた。
ぼくは反射的にゲンガーを押し倒していた。丸い身体に馬乗りになって、伸ばしたツタを彼の首へ巻きつける。呼吸が荒くなる。ゲンガーはさしたる抵抗を見せず、ぼくにされるがままだった。
「じゃあ、あなたのせいで、ぼくが、こんな姿に、なったとでも」
「かもな」
「あなたが、あなたが〈勇者〉になっていれば……!」
「君はポケモンにならずに済んだかもしれない」
ツタがいっそう深くゲンガーの首に絡みついた。彼は苦しそうに眉根を寄せる。力をこめるたびにぼくの思考が赤く染まっていった。彼のせいで、彼のせいで、ぼくは!
「だが、仮に俺が至極真当に〈勇者〉を務めたところで、志半ばで死なない保証がどこにある? 君はポケモンになった。〈ダクテン〉の肉体に引き寄せられた。君の魂は、引き寄せられやすい性質を持っているのかもしれない。仮に君が〈ダクテン〉にならなかったとして、次の〈俺〉に、君がならない保証がどこにある?」
ぼくに首を絞められているにも関わらず、ゲンガーの口調は凪のように静かだった。しかし、ぼくを諭す穏やかな声には青い炎にも似た怒りが確かに燃えていた。
「ただ、不運だったんだ。君も、俺も」
ぼくはゲンガーのたった一言に胸を打たれた。眼窩から流れ出る涙もそのままに、彼を拘束していたツタを緩める。彼も、ぼくと同じ被害者なのだ。この世界の生贄とされて、二百年もの間孤独に戦ってきたのだ。
「君にとっては残念な知らせだが、どうせ俺たちは人間になんて戻れやしないだろう。ゴーストタイプになったおかげか、魂の形が視えるようになったんだ。名前の通り、君の魂は既にくすんで濁った後だ。抜け殻の肉体と混じりあって、すっかり歪んでしまっている」
ゲンガーは長い、長い息をついた。魂すべてを吐き出してしまいそうなそれは、生きることに疲れた者の仕草だった。
「俺は臆病者だ。戦うことが恐ろしい、死ぬことがとても恐ろしい。だから、緩やかな滅びを選ぶ。それが俺の魂をこの肉体に縛り付けた神とやらへのささやかな復讐だ。君、確か六人目って言ってたな。先代たちの中には、恐らく〈勇者〉の責務を全うするために戦い、散っていった正義感あふれる〈君〉がいたことだろう。だがしかし、だ。死に急ぐために戦いを挑んだ〈君〉だって、きっといたはずだぜ。君はどうする、〈ダクテン〉」
◆
ゲンガーの庵から戻ったぼくは、再び〈ダクテン〉の部屋に引きこもるようになった。何をする気力も湧かず、一日中ごろごろと横になっては思い出したように日記をめくる。一冊だけ、トーマスの日記だけはどうしても開くことができなかった。叩きつけるように書き殴られた最後の一文が、今は苦しいほどに共感できるからだ。
ぼくがやさぐれている間も、ミジュマルだけはやはり甲斐甲斐しく世話を焼いてきた。ぼくに食事を運び、根気よく外の話を聞かせてみせた。日の終わりに必ず「また来るよ」と言い残して去る彼の笑顔の下には、いつも寂寥感が漂っていた。ぼくはそれに気づかないふりをする。
人間に戻ることはできない、というゲンガーの言葉が重く心にのしかかる。〈勇者〉の使命を成し遂げる、つまり世界を救うことができればあるいは、という可能性は捨てきれないが、世界を救うと一言で言っても具体的になにを求められているのか皆目検討がつかない。そもそもぼくにそれを成し遂げられる自信はまるでない。
すると次に考えなければならないのは、今後の身の振り方だ。ぼくの選択肢は二つ。先代たちと同じく〈ダクテン〉として生きていくか、みんなにすべてを打ち明けて〈ぼく〉として生きていくか。どちらにしても、今までの人生と比べてかなり窮屈な生き方であることには違いなかった。
「ダク、今日は外に出てみないか。天気もいいし、君に見て欲しい場所があるんだ」
ミジュマルからそんな誘いを受けたのは、部屋から出ない生活を重ねていたある日のことだった。いつもは割と強引な彼にしては幾分遠慮がちな誘いだったが、ぼくには彼の誘いを断る理由がなかったので、渋々ではあったものの了承した。
久々に浴びる太陽光はいやに眩しい。ミジュマルはぼくを気遣ってか、人目を憚るようにこっそりパラダイスを抜けだすと、ダンジョンへ向かう方向とも違う小道へぼくを連れて行く。小道はやがて林へ、森へ、奥へ進むに連れて徐々に草木が多い茂る獣道へと変わっていった。
森の中をしばらく歩いたところで、ミジュマルが突然足を止めた。ぼくには現在地がどこなのかさっぱりわからない。木の実のなる木があるわけでもなく、宝箱が眠っている風でもなく、細い木に赤いスカーフが括りつけられているだけの場所だった。
「きっと覚えていないだろうけど、ボクたちはここで初めて出会ったんだよ。キミったら空から降ってきたんだ、おかしいだろ。あの衝撃といったら、まるで昨日のことみたいに思い出せる」
ミジュマルはくたびれたスカーフを指先でいじりながらくすくすと笑った。ぼくが、空から降ってきた? にわかには信じがたいが、ぼくの常識から外れた不思議なことなんて、これまでも山ほど味わってきたではないか。ポケモンひとりが空から落ちることくらい、実はなんてことないのかもしれない。
ミジュマルは微笑を絶やさぬまま、空のある一点を指差した。彼が指し示す先は木々の葉に遮られてよく見えない。
「向こうには宿場町があるんだ。スワンナの宿屋の上に展望広場があるだろう? 展望広場から希望の虹を見るとき、ちょうどこの森の上にアーチがかかっているように見えるんだ」
希望の虹。確か、この地方でしか見られない非常に美しい虹のことをそう呼んでいたはずだ。かつては毎日のように虹が見られたが、今では滅多にかかることがないと聞く。ぼくも実物をお目にかかったことはないが、見るものに希望や勇気を与えるたいそう見事な虹だと先代の日記に遺されていた。
「ボクが初めて希望の虹を見たとき、思ったんだ。キミが虹のかかるこの場所に落ちてきたのは、単なる偶然じゃないのかもしれないって」
ミジュマルは興奮しているのか、顔を紅潮させて両手を大きく広げた。
「キミはボクにとって、大きな希望なんだ。こんなことを言うのはちょっぴり恥ずかしいけれど、キミがいなくちゃボクはパラダイスを作れなかったし、冒険チームだってこんなに大きくならなかった。全部ぜんぶ、ダクのおかげなんだよ」
一番近くで聞こえるミジュマルの言葉は、しかしぼくから最も遠いところに響いた。彼の感謝は当然ぼくに対するものではない、ぼく以外の〈ダクテン〉へ向けられているものだ。他人の偉業を笠に着て鼻を高くするほどぼくは恥知らずではなかった。ぼくの冷めた反応を知ってか知らずか、ミジュマルはぼくの手を強く握った。どこまでも真直ぐな彼の目を見ることができなくて、ぼくはみじめに視線を落とす。
「キミは忘れてしまっているだろうけれど、後ろ指を差され続けてきたボクの夢を笑わずに聞いてくれたのは、『すごいね』と褒めてくれたのはダクだけなんだ。ボクがその言葉にどれだけ救われたのか、キミは知らないだろう。記憶を失くしてしまったキミの目にはもしかしたらボクのことが気持ち悪く映っているかもしれないけれど、ボクはキミに返し切れないほどの恩を受けたんだ。ボクはそれを返すための努力を惜しまない。ダクが何度ボクのことを忘れたって、ボクはずっと、ダクの味方だ」
「ミジュマル」
ぼくはミジュマルの熱意に釣られるように顔を上げた。ぼくのことをじっと見つめるミジュマルの目は少し潤んでいる。今なら少しだけ、先代〈ダクテン〉が〈ダクテン〉として生きようと覚悟した気持ちが理解できるような気がした。
ぼくは言葉になり損ねた息を吐きだした。ぼくがそれを言っていいものか、迷いと躊躇いが舌を凍りつかせていく。口に出してしまったら最後、ぼくは〈ダクテン〉として生きていかなくてはならないのだ。半端な気持ちではミジュマルと〈ダクテン〉たちに対する冒涜となる。
それをわかっていたのに、ぼくは。
「――いや、イカリ」
「ダク、キミ、ボクの名前――!」
呼んでしまった。ミジュマルの名前を。
彼の表情がみるみるうちに綻んでいく。感極まったのか、ミジュマルは瞬きもせずほろほろと大粒の涙をこぼした。
もちろん、思い出したのではない。日記から得た〈知識〉だ。親しいごく一部の者しか知らない、ミジュマルの名前。
「ダク、ああ、ボク、ボクはやっぱりダメな奴だ。キミの味方だなんて言いながら、ボクの知っているダクの姿にいち早く戻って欲しいと思っている。すまない、名前を呼んでくれたことがこんなにも嬉しいだなんて」
「いいんだ、イカリ。謝る必要なんてない。ぼくは君に散々迷惑をかけてきた。多分、これからも君を悲しませてしまうことがたくさんあるだろう。それでも、ぼくのことを許してくれる」
「ああ、もちろんだとも。これからもずっと一緒だ、ダク」
ミジュマルがぼくの植物のような体を抱き寄せた。耳元で彼の嗚咽が聞こえる。ぼくは涙腺が壊れてしまったかのように泣き続けるミジュマルの頭を、彼が落ち着くまで撫で続けていた。
最初に手を引かれて逃げ出したときと同じ、冷たく湿った感触だった。やはり不快感は拭えなかったが、ぼくはそれを我慢して彼のするがままに任せていた。
◆
ぼくは岩肌がむき出しになった絶壁をせっせと登っていた。登山の心得はなかったが、〈ダクテン〉の恵まれた身体能力のおかげで、頂上までの行程はさほど難しいものではなかった。
荷物はない。もちろん連れの仲間もいない。依頼斡旋所のマリルリから教わった、この辺りで一番標高のあるらしいこの山の名前も知らない。内部は不思議のダンジョン化してしまっているようだが、外部はその影響を受けていなかった。時折、岸壁に巣を作っている母親らしいプテラが警戒心もあらわにこちらが通りすぎるのを監視しているだけだ。
夜半にパラダイスをこっそり抜けだしたため、ここへ来ることは誰にも告げていない。書き置きのひとつも残してこなかった。もしかしたら、今頃ミジュマルが騒いでいるかもしれない。もしぼくが彼の立場なら、頻発する奇行にいい加減愛想を尽かしてもおかしくはないのだが、彼のことだからきっとぼくを見捨てることはないだろう。ミジュマルはどうしようもなくいい奴だった。
ぼくの手が頂上にかかる。最後の力を振り絞って身を持ち上げると、目の前には青空と薄く伸びた雲が広がっていた。下を覗きこむと、目眩がするほど遠くに地上が見える。少し足を踏み外せば地上よりも天国により近づけることは想像に難くない。植物と爬虫類の間の子のような身体でも発汗機能はあるらしく、強い風がぼくの表皮に浮いた汗を急激に冷やしていった。ぼくは、ちゃんといきものだった。
ぼくは適当な岩の上に腰を下ろし、深く息を吸って、吐き出した。肺に澄んだ空気が流れ込んだが、ぼくの内に溜まった澱は押し出されることなくこびりついていた。
ぼくは、軽率だった。愚かだった。恐ろしかった。
ぼくは憐憫の情からミジュマルの名前を呼んでしまった。あの場で、ぼくは自らの首を掻き切ったのだ。けれどぼくには、先代のように〈ダクテン〉として生きる覚悟ができていなかった。しかしぼくの覚悟の如何に関わらず〈ダクテン〉がじわりじわりとぼくを侵食していくのは疑いようのない事実だった。皆の中にぼくはいない、彼らが見ているのは死者の〈ダクテン〉だ。ぼくはそれに堪え切れない。ぼくがぼくとして存在しないことはもちろん、ぼくなんかよりもずっと信用を得ている〈ダクテン〉の化けの皮が剥がれてしまうことが恐ろしかった。ミジュマルに全幅の信頼を寄せられることが恐ろしかった。いつか彼に絶望されることが恐ろしかった。
先代は「ミジュマルを悲しませたくない」と遺した。エモンガは「これ以上ミジュマルを悲しませるな」と言った。その通りだ、彼の不幸はぼくの望むところではないし、そんな世界は間違っている。けれど、ぼくという他人が〈ダクテン〉である限り、どうしても彼の悲劇は続いてしまう。ぼくが完璧に〈ダクテン〉を演じられるわけもなく、不思議のダンジョンが不規則に発生するこの世界で〈ぼく〉が〈ダクテン〉で居続けられる保証もなかった。
だから、断続的な不幸よりも、ここで全てを終わらせてしまおうと思う。
ここが不思議のダンジョンの外だからといって、復活の種を持っていないからといって、新しい〈ダクテン〉が喚ばれない保証はどこにもない。ミジュマルを免罪符に掲げているが、結局は自分のためなのだ。ぼくが早くこの肉体から開放されたいだけだ。死んでしまうか、また別の肉体に乗り移るのかはわからない。けれど、少なくとも、誰からも愛される〈ダクテン〉ではないなにかになりたかった。ぼくは〈ぼく〉でありたかった。
ぼくは立ち上がった。この世界にきてから初めて感じる、清々しい気分だった。迷惑ばかりかけてきたぼくが、ようやくこの世界で誰かにためになることが出来るのだ。
ぼくは呪いを抱いて死んでゆく。願わくば、彼の行く先に幸多からんことを。
一歩、二歩。軽やかに地を歩く。三歩目で踊るように飛び出した。