ムーラン・ミュール・カンパニー
ワックスが剥がれかけた薄汚れたフローリング、黄ばみかかった白い壁には、コルクボードが一つ飾られており、マスキングテープで無造作に写真が張り付けられている。
写真は、どこにでもある街並みから、青天を穿つ雄大な山脈、水面に沈む夕陽、鬱蒼と生い茂る森の中…等、旅先の様々な場所を背景に、10代くらいの満面の笑みを浮かべる黒髪の少女と、ピカチュウやガーディ・マリル・ニャスパー等、可愛らしい小型ポケモンたちが一緒に写っていた。
それ以外で、このバルコニー付きワンルームアパートの住人がどんな人物だったのか推し測れる物は存在しない。小綺麗に片付けられたと言うよりは、必要最低限の家電製品ぐらいしか置かれていないのだ。
部屋の片隅では敷きっぱなしの布団の上で、壁にもたれ掛かりながらスマートフォンの画面を虚ろな瞳で眺め続ける女性がいる。
両耳は有線のイヤホンで塞いでおり、流行りの音楽を大音量で流しているが、好き好んで聴いているようではない。壁一枚隔てた隣の部屋からは、盛りついたケダモノたちの奇声が響いてくるのだ。
沸点の低い人物なら壁を蹴りつけて、喧しい隣人に文句の一つでも言うかもしれないが、彼女の場合、ストレスをひたすら受け流して見向きもせず、現実逃避で自分を誤魔化し続けている。
女性とは反対側の隅っこには、目の焦点の合わないガーディが、自分の尻尾を追いかけるように、延々と左向きに回り続けており、脳に何らかの異常をきたしているらしい。
どれくらい時間が経っただろうか?隣人とガーディが疲れ果てて深い眠りについた頃、女性は耳元からイヤホンを取り外すと、コツコツ……何かがバルコニーの窓ガラスを叩いている事に気がつく。
女性は首を傾げるが怯えた様子はない。鳥ポケモンの悪戯だと思い、カーテンを勢いよく開けて追い払おうとするが、そこに待ち構えていたのは未知なるサプライズ……赤と白のコントラストが目を引く、サンタクロースを擬獣化したような鳥ポケモン・デリバードだった。
デリバードは女性と目が合うや否や、ニッコリと目尻を上げて一礼すると、袋のような尻尾から白い名刺を取り出した。
そこには赤い色の風車とデリバードのイラストに、Moulin Mule Companyという文字が組合わさったロゴマークが描かれている。
それを見ても女性は合点がいかず、困惑したままだが、デリバードは綺麗に包装されたバスケットボールぐらいの大きさのプレゼントボックスだけを置くと、そのまま夜空の向こうに飛び立ってしまった。
新手の配達業者だったのだろうか?……一連の奇妙な出来事を、女性は自分の常識で無理矢理補完しようとするが、勝手に置いていかれたプレゼントボックスが新たな謎を呼び込む。
中にはいったい何が入っているのか?用心深い人物なら見に覚えのない荷物が届けば、そのまま送り返したり、警察に相談したりするだろう。しかし、先程まで現実逃避に没入にしていた女性は、自分の元に舞い込んできた非現実的な贈り物に、強い好奇心を抱いてしまった。
女性はガラス戸を開けて、辺り見渡すが、先程のデリバードや不審者は見当たらない。金色のリボンで結ばれた赤ラメのプレゼントボックスを手に取ると、すぐさま室内に戻り、カーテンを閉めると、女性は贈り物を抱えたまま布団の上に座り込んだ。
箱を軽く揺すると、中から物が複数ぶつかる音がする。リボンを解いて蓋を開けると、中にはモンスターボールが6個入っていた。1個だけ見馴れない小型装置が取り付けられているが、それ以外は至って普通の市販品と変わりなく見えた。
女性はそれを見るなり顔をしかめて、すぐさま蓋を閉めた。昔はポケモントレーナーだったのかもしれないが、今は現役ではない。
脳に障害を患うガーディに寄り添うだけで精一杯なのに、見知らぬポケモンの面倒まで見てはいられない。
不意に現実を突きつけられた女性は、深い溜め息を吐いて箱にリボンを閉め直そうとするが……突如、箱の中から目映い閃光が走り、中から黄色い体色に赤い頬っぺがトレードマークの電気ネズミ・ピカチュウが勝手に飛び出てきた。
ピカチュウは呆気に取られる女性を見るなり、可愛らしい鳴き声を出して挨拶をすると、女性の懐に飛び込んで甘えるような素振りをしてくる。
そのビロードのような滑らか手触りと温もりは、かつて彼女の元から離れてしまった大切な仲間と同じで……気がつけばピカチュウを抱き締めながら泣いていた。ピカチュウも女性の抱擁を受け入れて頬擦りを返しくれる。居心地の良い穏やかな一時に、孤独な女性は没入していった。
しばらく戯れていると、ピカチュウは女性の懐から抜け出してプレゼントボックスに近づき、尻尾でコツコツとつつき出す。
箱の中にはポケモンが潜むモンスターボールがまだ5個も残っている。女性はピカチュウに誘われるがまま、モンスターボールを解放した。
最初に現れたのは円ら瞳が可愛らしい風船ポケモン・プリン、出てくるや否や、挨拶代わりに歌を披露する。心地よい歌声は眠気を誘うが、アップテンポな歌に切り替えて、ギリギリ眠りに落ちないよう加減をしてくれた。
次に出てきたのは、人間の少女を彷彿させる姿のキルリア。プリン同様、挨拶がわりにクルクルと軽やかな踊りを披露する。ピカチュウもそれに会わせて踊りだし、プリンも陽気な調子の歌を聴かせてくれる。
真夜中のアパートの一室、ミュージカルコンサートのど真ん中にいるような気分に酔いしれる女性は、箱の中で独りでにモンスターボールから抜け出したポケモンがいる事に、最期まで気がつく事はなかった。
一幕が終えた頃、プリンの歌声により眠気がピークに達した女性は、とうとう仰向けに倒れて眠ってしまう。
睡魔に負けて深い眠りにつく女性を他所に、ピカチュウは箱から残りのモンスターボールを解放する。
出てきたのは男性的な容姿が特徴的で鋭い刃を両腕に備えるエルレイド、烏賊を逆さまにしたような奇妙な姿をしたポケモン・カラマネロ。そして、虚空から水蒸気と化して姿を暗ましていたフリージオが正体を現す。
一同勢揃い、無防備に眠りこける女性を囲い込んで見下ろす。
しばらくしてバルコニーの窓をコツコツ叩く音がした。カラマネロが超能力でガラス戸を開けると、外からデリバードが入ってきた。
部屋の中は凍てつく冷気が充満し、住民の一匹であるガーディは眠るように凍りついている。
部屋の主である女性の姿は……凍りついた頭部を残してなくなっている。他のポケモンたちの姿はなく、プレゼントボックスの中にはモンスターボールが元通り収納されている。
カラマネロが女性の頭を触腕で絡め取ると、自分用のモンスターボールをデリバードに投げつける。ボールを受け取ったデリバードはカラマネロを女性の頭部ごと回収した。
ポケモンの縮小する習性を利用したモンスターボールで人間を捕獲する事はできない。しかし、ポケモンは自分の持ち物を縮小させてモンスターボールに入る性質がある。
納品物を回収したデリバードは、依頼主の元へ飛翔する。