053 俺は絶対、キミを諦めない
保育園の建物の裏側は、園児ポケモン達の死角にちょうどいい。一般ポケモン達の通り道に面していないこともあり、誰かの目を気にせずに済む。建物の壁を背にし、ミツキはミルク色になった冬の空を見上げる。見ているだけで肌寒さを感じるが、今は身体よりも心が寒かった。
つい先ほどの、ミネズミくんとのやり取りのリフレインは見事20回目。自分よりもずっと小さな子どもの怯えた目が、頭から離れない。
ポケモンには向き、不向きがあるものだ。モモコやライヤ、コノハが容易くできていたことがミツキにはできない。これまでの仕事が自分の運動神経を生かすことができるものが多かっただけに、今回はいつもと違ったタイプの仕事。ここまでミツキが仕事に対して無力感を感じたのは、初めてかもしれない。
「どうしたの? こんなところで」
耳に声が飛び込んでくる。周りに誰もいないことから、その声が自分にかけられたものだと判断したミツキは、顔を上げた。漂ってくるトロピカルな香りから、声の主が園長先生のアマージョであることは、すぐに分かった。
よっぽどミツキは思い詰めたような顔をしていたのだろう。園長先生はミツキが何やら良くない思いをしていることを見抜くように、隣に腰を下ろす。
「モモコちゃん達から、ミツキくんが休憩と同時に外に出てっちゃったって聞いたから。ここ、新米の保育士さんのクールダウンに持ってこいなの」
隣に座っておきながら、園長先生はミツキが口を開くことを急かすことはしない。ただ隣に座り、顔をのぞき込むこともなく、この無言の空間を噛み締めているようだった。
敢えて何も聞きださない園長先生のその姿勢は、逆に言えば今なら何を言ってもいいと言われているみたいだ__ミツキは自然と、半日間溜め込んでいた思いをようやく口にする。
「俺、ずっと一人っ子で。自分より年下の子の面倒を見る機会もなくって、ガラもいい方じゃない。だから……」
えっと、と言葉に詰まる。思っていることはたくさんあるのに、取り留めもなくなってしまいそうだ。
「子どもと接するのって、すごい難しいなって思いました」
結局、この一言に集約された。こういうところだよなぁ、とミツキは自分のぐるぐるする思いを溜息に昇華させる。よくよく考えれば、自分だってまだ子どもなのに。ちょっと変な話だ。
「今日の今までの時間で、どんなところが難しいと思った?」
「なんていうか、子どもに怖がられてるんじゃないかって」
「怖がられると、どんな風に難しくなっちゃう?」
「えーと……。こっちが伝えたいことが、なかなか伝わらなくて、難しくなっちゃう感じです」
さすがは園長先生、気持ちを引き出すのが上手だ。ミツキの胸の奥でつっかえていたものが、ようやく引っ張り出されたような感覚が降ってくる。
「伝えたいことが伝わらないのって、子ども同士でも大人同士でもあること。子どもと大人の間だって、よくあること。魔法使いのお兄さんなら、私よりも実感した機会は多いんじゃないかしら」
「そう、ッスね」
へへへ、とミツキは照れくさそうに笑う。チームのメンバー、魔法使い。祖父だってそうだ。思い当たるフシがあまりにも多い。
「そういう時、どうすればいいんですかね」
「何度も試行錯誤すること、だと私は思うわ。自分の本当の思いが伝わらないのは苦しいけど、諦めないで相手に向き合うことに意味があるんじゃないかしら」
諦めないで相手に向き合う__園長先生の言葉を、心の中で反復する。
思えば自分は、分かってもらえないと思ったら投げやりになることが多かった気がする。どうせ誰も分かってくれない、じゃあいいや、と。だがそれは、大きな間違いなのかもしれない。
1回ダメだったから、じゃあもう向き合わなくてもいいのか。こっちが「あなたを見てる」とサインを送れば、きっと思いは伝わるんじゃないか。
ズドォン!
静寂を打ち破る、鈍い大きな音が辺りに響いた。すぐそば__園庭から砂埃が立ち込める。園児達の泣き声と、コノハの「みんな、こっちにいて」という声がつんざき、混ざり合う。何か良くないことでも起こったか、まさか、ミュルミュールじゃないだろうな。
ミツキが園長先生と園庭に駆けだすと、案の定。魔法の絨毯の姿をしたミュルミュールが、園庭で暴れまわっていた。素体になったポケモンは、ミツキが関わっていたミネズミくん。
「ライヤ、こっちの子達もお願い!」
「分かりました。みんな、お部屋の中に来てください!」
園庭と園舎を繋ぐ出入口は混沌としていた。コノハやライヤが何とか子ども達を守ってくれているが、子ども達の気持ちが長時間は持たないだろう。
「モモコ! これどうなってるんだ!?」
「今さっき、あのミネズミくんがミュルミュールになったの! あそこにドレンテもいる!」
モモコが指す先__ミュルミュールの上にはドレンテがふんぞり返るように乗っている。ミツキの姿を捉えたドレンテは、ひどく不機嫌そうな顔をしていた。またモモコの隣にミツキがいるんじゃん。せっかくモモコと本気で渡り合えるかと思ったのに。いつもミツキがジャマをする。
だが、今回ばかりは都合がよかった。ミツキを手っ取り早く仕留めたいと思っていたから。
「今日はミツキ、キミの息の根を止めてあげるよ! その後でゆっくり、モモコとふたりきりの時間を過ごすんだから!」
高らかに宣言したドレンテは、専用楽器のテナーサックスを構える。包み込むような、でもどこか全身をざわざわさせる中低音は、あっという間にモモコの身体にまとわりついた。音は鎖となり、ぎっちりと小さな腕を、身体を締め上げる。鎖が身体に食い込んだのか、モモコは耐えるように歯を食いしばっていた。
「モモコ! 今助け__」
「キミの相手はこっちだよッ!」
ドレンテを乗せた魔法の絨毯は、ひゅうと音を立てて大きく息を吸い、吐き出す。その突風に小さなミツキの身体は、あっという間に吹き飛ばされてしまった。
いくら安定した体幹があっても、限度というものがある。ミツキは体勢を立て直し、ウェポンの手裏剣を構えるが、今度はその隙を突かれる。絨毯がミツキの頭から足先まですっぽりと包み込み、まるで雑巾を絞るかのようにぎゅうぎゅうと締め上げた。案の定、ドレンテは絨毯から下りて締め付けを免れる。
苦しい、息ができない。寒い季節なのに熱い。酸素が足りない。動けないモモコが自分を呼ぶ声も、遠のいてきた。ライヤとコノハも、他の子ども達を守らなきゃいけない。助けてくれそうなヤツは、みんな手詰まりだ。ここから早く抜け出さないと、本当にやられちまう。ミツキがもがいていると、ピアニシモくらいの小さな声が耳に刺さった。
『どうして……』
もしかしてこの声__ミツキはもがきながら、耳を澄ませる。
『どうして、いつもこうなんだろう。おともだちをびっくりさせて、せんせいもびっくりさせて。ほんとうは、たのしくあそびたいのに』
あぁ、そうか。
このミネズミくんも、俺と同じだったんだ。
胸が詰まりそうで、息苦しくて、どうしていいか分からなくて。でも本当は、みんなと仲良くしたい、自分のことを分かって欲しい。
そのことが分かった途端、ミツキの身体の奥から力がみなぎってくる。この子は、絶対に助けなければいけない。この手で。
「なぁ、ミネズミくん……。キミの気持ち、すげー分かるよ。だから……」
心が溢れていく。ミネズミくんを諦めたくない。1匹1匹、ポケモンに対して真剣に向き合う。その情熱が、今解き放たれようとしている。
「俺は絶対、キミを諦めない! 絶対助け出すから!」
ミツキの声に共鳴するように、不思議なことが起こる。
絨毯の中から白みがかった水流が溢れ出し、ミツキを解放する。大きなジャンプと共に飛び出してきたミツキは、青みがかった白いマントを身にまとっていた。
ライヤ、コノハと続いて、ミツキも。ミツキとの色合いも相まって、とても壮観だ。モモコが見とれている間に、ミツキは手裏剣で鎖を切ってやる。拘束から解かれたモモコが体勢を整え直す間もなく、ミツキは瞬時にミュルミュールに攻撃を仕掛けていた。巻物を咥えながら指を構え、何やら忍法を使うつもりだ。
「『忍法・大海原の舞』!」
その名の通り、どこからか大海原とも言えるくらいの水流がどっと押し寄せてきた。水流はあっという間にミュルミュールとドレンテを飲み込み、舞うように彼らを引っ掻き回していく。
一気に畳みかけてやる__ミツキはすぐにトランペットを手にすると、マウスピースを口に当て、ピストンに指を滑らせ始めた。
「舞い上がれ魂! 『情熱のカプリッチオ』!」
トランペットのベルから放たれた水流は、凄まじい魔力を伴うものだった。水のように繊細で、でもミツキのように力強くて。その圧倒されるような力に包み込まれたミュルミュールは、浄化されるしかなかった。
『ハピュピュール〜』
ミュルミュールの浄化を見届けたドレンテは、ギリギリと不快そうに歯ぎしりをしている。眉間にはシワが寄り、殺気立った眼光はミツキに向けられている。まだやるのか。ミツキは目でそう訴えているが、あれだけの魔力を見せつけられたドレンテには勝ち目がない。ドレンテはそのことをよく分かっていた。
捨てセリフを吐き捨て、ドレンテは踵を返した。
「ミツキ、キミはいつもボクを不愉快にするんだね!」
ドレンテの姿が見えなくなったのとほぼ同時に、ミツキの装備が元の紫のマントに戻る。途端、ミツキの身体の奥からどっと疲れや熱いものが込み上げてきた。耐えられなくなったミツキは、膝をつき倒れる。すぐさまモモコがミツキを介抱し、室内にいたライヤも飛び出してきた。コノハも外にこそ出てこなかったが、子ども達をなだめながら仲間達の姿を見届けていた。
* * *
「覚えてないの?」
保健室のベッドで横たわるミツキの首元を濡れタオルで拭いてやりながら、モモコは目をぱちくりさせていた。驚くのも無理もない。ミツキは先ほどのミュルミュールとの戦いの記憶が、途中で途切れているというのだ。それも、白いマントを身にまとうまでの前後の記憶でスッパリと。
「あぁ。なんか目の前のことに精一杯だったのは何となく覚えてんだけど、何があったのかは……」
ライヤやコノハの時と同じだ。3匹とも同じような現象に見舞われたというのに、自分を含む他の魔法使いにはそれがない。モモコは疑問に思うと同時に、自分だけ仲間外れになったような疎外感を感じる。凄まじい力と引き換えに高熱で倒れるのはゴメンだが、不思議なことが起こっていないのはチームカルテットの中でただ1匹となってしまった。
「失礼します」
ノックの音と共に現れたのは、ライヤとコノハだった。2匹の後ろに隠れるように、小柄なポケモンが1匹ついて来ている。ミュルミュールの素体にされていたミネズミくんだ。
「ミツキ、具合どうよ?」
「もう起きてて大丈夫なんですか?」
「まぁな。こうして喋れるし__」
「いやいや! まだ安静にしててよミツキ! 熱下がってないんだから!」
いつもは庇護対象になることが多いモモコが、逆にミツキの世話を甲斐甲斐しくしているのは新鮮だ。笑ってしまうのは不謹慎だが、ライヤとコノハからすれば、ちょっとだけ見ていて面白かった。
「で、そうそう。ミネズミくんがね、ミツキに言いたいことがあるんだって。寝たままでいいから、聞いてくれる?」
ほら、言っちゃいなさいよというコノハの促しで、ミネズミくんはもじもじしながら前に出る。ライヤも「大丈夫ですよ」と温かく後押ししてくれた。
「ケロマツのおにいちゃん。その……ありがとう。たすけてくれて」
「いいってことよ」
横たわったまま、顔だけミネズミの方に向けてミツキはへへっと笑う。お礼を言われて嬉しいのか、ちょっとにやけているように見えた。
「でも、ごめんなさい。おもちゃとったの、ほかのこのせいにして」
「キミは他の子と仲良く遊びたいか?」
ミネズミはこくりと小さくうなずく。
「だったら、諦めんな。相手の目ぇ見て向き合って、一生懸命伝えれば、きっと分かってもらえる」
「……うん、おれがんばる。ケロマツのおにいちゃんみたいに、すっごくがんばる!」
「倒れない程度にな」
目の前にいる子どもは、かつての自分。そんな自分が、いろんなポケモン達と関わり、学んできたことや成長できたことを、今度は伝えていく番になった。
ミネズミを諭すミツキの姿に、チームカルテットのメンバーは感慨深ささえ感じていた。コノハは目尻に涙を浮かべて、我が子を見守る母の気分に浸っていた。ミツキのことをずっと尊敬していたライヤは、幼なじみにして仲間の凄さを改めて実感している。
モモコもまた、ミツキが仲間でよかったと心から思っていた。ああいう風に、ポケモンの気持ちに共感しながら、背中を押せる魔法使いに、そういう存在になれたら__理想の自分の姿を、思い描いていたのだった。