第1章
第3話:新たな自分
「ふわあぁ……」

静まりかえった廊下を歩きながら、スゥは盛大に大欠伸をした。

「いやぁ流石はスゥだね。手で隠そうなんて、女の子としてそんな当たり前のことにも気が及ばなかったと見える。伊達に男女の名で呼ばれてはないみたいだね?」

すぐ脇で、包帯などが入った籠を持つ従者の役割に徹していたヴェンがにやにやと人の悪い笑みを浮かべながら嫌味を言う。

「やかましいわ。――これでもちょっとは気にしてるんやから。放っといて」

傍から見ると、仲が悪いんじゃないかと疑いたくなる光景だが、本人達はこれがデフォルトなので、至って問題は無い。
時刻は早朝。まだ寝ているポケモン達も多く、建物の中には人気が感じられない。
そろそろと、なるべく物音を立てないように注意を払いながら、スゥ達は目的のドアの前にたどり着いた。
ここで待機となるヴェンから籠を受け取り、スゥはコンコンとノックする。
返事などは、はなから期待していない。

「入るでなー」

声をかけ、扉を押し開く。
それに反応して、窓際に敷かれた寝床の上で茶色い塊がもぞりと動く。
若干怯えを残した瞳がスゥに向けられた。

「――おはよう。今日も元気そうやな」
「………」

イーブイは相も変わらず喋ることはなかったが、その頭が気をつけないと分からないほどに微かに縦に振られたことにスゥは気づき、よし、と内心でガッツポーズをした。
彼がここに運び込まれてから1週間。
目覚めてから最初に絶叫して以降はずっと貝のように黙ったままで、何を訊かれても怯えて逃げ出そうとしていたのだが、最近になって少しは落ち着いてきたようだ。
だが彼の頑なな心をほぐすにはまだまだ時間がかかるようで。

「包帯替えるなー」

そうスゥが言った途端、彼はじりじりと後ずさりを始める。
まだ直接の触れあいはダメなようである。
それを宥めすかして30分くらいかけてやっと手当は完了した。
どうやら、というか最初から疑いはかけていたのだが、このイーブイは元々が臆病な上に、極度のポケモン嫌いであるらしい。
過去に何があったのかは口を閉ざしているので分からないが、相当な事情があったのだろうとスゥ達は推測している。
今現在最も彼との接点が多いスゥに対しての態度は、亀の歩みではあるが軟化してきつつあるものの、その他のポケモン――例えばヴェンやルーンは、その姿を見ただけで恐慌状態に陥ってしまう。
つい先日うっかりとそのことを忘れ、ルーンと共に部屋に入ってしまった時の惨事は苦い記憶として新しいので、自分以外をこの部屋に入れないと彼女は固く誓っていた。

「うーん、今日もええ天気やな!ホラ見てみ、あんなでっかい雲が空に浮かんどるで」
「………」
「そろそろ夏やなぁ、風が気持ちいいわ」
「………」
「あ、後で朝ゴハン持ってくるからな。何がええかな、グミ、それとも定番のリンゴか?」
「………」
「食べ物の話しとったらあたしもお腹空いてきたわー」
「………」

相手の反応の無さにもめげずにスゥは当たり障りのないことをつらつらと喋り続ける。
あえて中身のない話をすることで、少しでも彼の心を開ければと思ってこの1週間継続している。

「そうそう、ゴハンて言ったらな、この前ルーンが…ってモココのことやねんけど、夕食ん時にな」
「………ねぇ」
「アイツの大嫌っいなものが出たからってお口直しに“きいろグミのジュースを飲ませろ!!”とか無茶なこと言いよるのよ」
「………あの、さ」
「それ聞いた料理当番のポケモンがすっごい怒って……………って、え………?」

自分のものではない声が遠慮がちに挟まったことに気づいて、スゥはぽかんとして言葉を切った。
それが今の今までだんまりを決めこくっていた目の前のイーブイから発せられたと理解するや、思わず歓声を上げていた。

「やった――!!!やっと喋ってくれた――!!!!」
「ひゃぁぁぁあああ!!?」

元々声がデカいと巷で評判のスゥ。
そんな彼女が何も気にすることなくつい声を張ってしまったのだ。
当然の結果として、折角振り絞ったなけなしの彼の勇気はどこぞへと吹き飛んでしまい、後には藁の中に頭を突っ込んだ、正に『頭隠して尻隠さず』状態のイーブイが残った。

「――あ、ゴメン。つい素が出ちゃったわ」

おなざりに謝るが、それよりもほぼ初と言ってもいい、このイーブイとまともなコミュニケーションがとれる機会である。
なるべく彼の負担にならないように慎重に、と心に決めた事柄はどこへやら、スゥは本来彼女が持っている好奇心を隠しきれない顔で彼の前に座った。

「いやー、いきなり喋れるようになってくれてビックリしたわー。なぁなぁ、どういう風の吹きまわし?」

すると、彼女の背後から呆れたような、しかしどこか面白がっているような声音が飛んできた。

「最初っからそうぐいぐい行くのは良くないんじゃないかな?もうちょっと自制というものを持ってさ。でないと相手引いちゃうよ?――いやもう遅いかな?」

スゥとイーブイは、仰天して2匹とも見事に跳び上がった。

「ヴェン!!――それにルーンも!?ちょ、あかんって!!また前みたいになるからはよ出て行って!!」
「嫌だなぁ、ボク達はちゃんと確固たる目的があって部屋に入って来たんだよ?」
「はぁ!?それって……」
「そこのイーブイ君のための荒療治♪」
「…さっきアンタが言った言葉そっくりそのまま返したるわ!!」
「……言い訳しとくだな、俺は一応止めたんだが」
「まぁまぁ、過去はもう変えられないよってことでひとつ。――さてさて?」

笑顔でしれっと言った後、ヴェンは目をまん丸に見開いて固まっている彼の前に進み出て、片手を差し出した。

「やぁ、初めまして。まだ正式にボクらの自己紹介してなかったと思うからね。ボクはミジュマルのヴェン」
「こっちはモココのルーンだ。ひとつよろしく頼むぜ」

彼は目をしばたいて、2匹から差し出された手を見比べて途方に暮れたような顔をした。

「“握手”だよ。初めて会うポケモン同士で行う挨拶さ。やったことないのかい?手や前足を握り合うんだ」

ヴェンの説明に彼はごくりと唾を飲み込み、恐る恐るといった様子で前足を差し出すと、手の先っちょにちょん、と触れた。
彼の中ではそれが精いっぱいだったらしく、すぐに引っ込めてしまう。
それでも十分だというようにヴェンは大きく頷いてみせる。

「うん、これでボクらはお近づきになれたね。じゃあ今度はキミのことを教えてもらおっか。まず名前はなんていうの?」

ごく初歩的なその質問に、イーブイの顔色が曇る。
口を開くが、言葉が出てこない。

「………………分か、らない」
「うん?――忘れちゃったってことかな?」
「…………分か、らない。僕が……誰なのか、も」
「ああ?記憶喪失、ってやつか?」

ポン、とヴェンは手を叩いた。

「じゃあボクたちがつけてあげようじゃないか!」
「………え?」
「いつまでも種族名で呼ぶのも無味乾燥だし、第一呼びにくいじゃないか。それに名前があった方が色々と便利だしね。はい、というわけでスゥよろしく」
「うっわ、自分から言いだしておいて丸投げ?ヴェンアンタってホントいい性格してんなぁ?」
「つか、いきなり他人の名前決めるとかハードル高いだろ、思いつかねぇぞ」

うーん、としばらく悩む2匹。
ちなみにヴェンは丸投げしたので我関せずとばかりに、にやにや笑いながら完全に第三者となっている。

「――決めた!!“アルト”!!」

最初に高らかに宣言したのはスゥ。

「お。その心は?」
「男の子にしては高めの綺麗な声しとるから!」
「なかなかいいんじゃねぇ?――どうだ?」
「アル……ト……?」

不思議そうに呟いて、彼は今度は誰の目にも分かるようにしっかりと頷く。
それを認めて、スゥは笑顔で片手を差し出した。

「あたしはスゥ。――よろしくな、アルト!!」

クリーム色の手と、茶色い足とが、確かにぎゅっと握り合った。


しると ( 2013/11/08(金) 00:20 )