文字の小箱
タイトル
さよならのしるし
 この春から大学に行くことになって実家を離れての下宿生活。五月の連休もずっと向こうに居たから帰省するのは久々だった。若葉が芽吹いていた庭の草木も今ではすっかり青々とした緑を茂らせている。この夏もまた、伸びすぎないうちに切ってくれと頼まれるんだろうな、と。そんな他愛もないことを考えながら玄関の戸を開けて家に入った。父さんも母さんもすぐにお帰りと迎えてくれたけど、様子がおかしいことにすぐに気づく。僕が家を離れても、何も変わらずに実家は僕を迎えてくれる。そのことを信じて疑いもしなかった。少なくとも、その時までは。


 実家の居間の隣、少し日当たりが悪くて風通しのいい部屋。隅っこにあるのは古ぼけた毛布。真ん中が盛り上がっていて、何かに被さっている。胸に手を当てて一呼吸置いた後、僕はそっと毛布を捲ってみた。そこに居たのは目を閉じて口を少しだけ開けたまま横たわるペルシアン。良かった。想像していたよりもずっと穏やかな表情だ。ぱっと見た感じだと眠っているのかと見間違うくらいには。まさかと思って口元に手を当ててみても、指先には何も感じられない。当たり前、か。
 実家で飼っていたペルシアンのニケが昨日の夜死んだことを聞かされたのは、僕が帰ってきてからすぐのことだった。あまりに突然のことで僕に連絡する余裕がなかったらしい。帰ってくるなり寝耳に水の知らせだった。ニケは僕が小学校の頃からずっと家で飼っていたポケモンだ。バトルするためではなく愛玩ポケモンとして可愛がっていた。特に母さんはニケのことを一番気にかけていたから、随分と元気がなかったような気がする。心配だな。まだあんまり時間が経っていないからかニケの亡骸はきれいなままだ。僕はニケの頬を撫でてみる。ほんのりと冷たかった。
ぴんと張っていた三本の髭も今はだらりと元気なく垂れ下がってしまっている。額の宝石もすすけた赤色に変わっていた。今ならもう逃げたり抵抗したりできないだろう、ニケ。生きてる頃はなかなか触らせてくれなかったよな。正直なところ、僕は家族の中でもあんまりニケに好かれていなかったように思う。ニケの方から寄ってくることなんてほとんどなく、僕が近づいてもそそくさとどこかに行ってしまうことが多かったし。元々猫は気まぐれだと言うけれど、母さんや父さんを前にした時と明らかに反応が違っていた。何が原因かは分からない。もしかしたらニケと僕の相性の問題もあったように思える。どうにか仲良くなろうと試みては、ニケにあしらわれる。それが何度も続くと子供心ながらに、ニケが自分のことをどう評価しているかは分かってくる。どうせ嫌われてるし、と僕の方からもだんだんとニケと接する回数が減っていき。最近は家で会ってもほとんど素通り状態だった。でも、今回実家に帰ってきたら顔くらいは見せようと思ってたんだけどな。もうそれも出来ないのか。
「そろそろ、いいか」
 後ろから父さんの声が掛かる。僕は黙って頷いた。時期が時期だ。ニケの体をそのままにしてはおけない。僕もお別れが出来るように朝までは置いてくれていたそうだ。ちょうど実家に帰ってきたタイミングで助かった。実家と下宿では結構な距離があるし、大学が忙しい時期だと戻ってこられない可能性もある。僕としても最期くらいはちゃんとニケの顔を見ておきたい。父さんと二人で毛布にくるんだニケを持ち上げた。こんなに、重かったっけ。もうニケが動かなくなったからだろうか。

 庭の隅に僕と父さんで穴を掘っていく。倉庫から取り出してきたシャベルは大分錆びついていて使い勝手が悪かった。大きなシャベルなんてこんな時でもないと使う機会がないよな。二人で硬い土をごりごりと力押しで掘り進めていく。意外とペルシアンの体って大きい。ニケの体がしっかり埋まる穴が出来上がる頃には僕も父さんも汗だくになっていた。最近じゃポケモン専用のお墓とかもあるみたいだけど、近くに居てくれた方がいいからという母さんの希望で庭に埋葬することになった。毛布を外して、ニケの体を穴の中へ横たえてシャベルで土を被せていく。きれい好きだったニケの体に土をかけるのは死んでいるとはいえ少し抵抗があった。もしニケが生きていたらものすごい剣幕で僕や父さんに唸り声を上げていたことだろう。
 変な感じだ。ニケの死んだ姿を前にして、自分で埋めているのに。全くもって実感が湧かないんだ。ニャースの頃から十年以上、同じ家で一緒に暮らしてきたはずなのに。涙の一つも流れすらしなかった。埋葬し終わって軽く土を慣らしたところへ墓標として大き目の石を置く。立派に掘られた名前なんてなくても、これはちゃんとしたニケのお墓。父さんと母さんと僕と。三人で並んでそっと手を合わせる。母さんはすすり泣いていたし、父さんも心なしか涙ぐんでいた。それなのに、僕は。心の奥からじわじわと浮かび上がってきたのは、悲しみでも寂しさでもなく。ただもやもやした気持ちだけ。安らかに眠ってほしいという願いよりも、ニケに対する漠然とした後ろめたさで胸の奥が締め付けられるような感覚がいつまでも消えなかった。随分と薄情じゃないか、とニケがいたら怒られているかもしれない。こんなにも感情が動かなかったことに、僕自身驚いていたんだ。

 その日の夜。この時期にしては涼しく快適だった。自分の部屋の布団は久々だ。でも、ニケのことが頭から離れなくて僕はなかなか寝付けずにいた。ニケのことを好きだったかと聞かれると、自信を持ってそうだと答えられない。好きか嫌いかなら、どちらかと言えば好きに分類は出来ると思う。自分のことは好いてくれてないから、と投げ出していた部分は確かにあったんだ。だけど、そこで諦めずに根気よく接しようとしていれば。今、抱えている重たい気持ちがもっと軽くなっていたかもしれない。ニケが死んでしまった後で後悔しても遅いのは分かりきっているはずなのにな。薄情な飼い主でごめんよ、ニケ。頭の中を何度目になるか分からないニケへの謝罪の言葉が過ぎる。もっとニケとちゃんと向き合うべきだった。そうしたらニケの死をまっすぐに受け止められて、母さんみたいに涙を流せて。素直な気持ちで冥福を祈ることだって出来たろうに。
 ふと気が付くと僕は居間にいた。机の前に置かれた座布団の前に座っている。あれ、さっきまで自分の部屋で寝てた気がするんだけど。いつの間に来てたんだろう。居間の窓はすべて開いていたけど外の様子が変だ。風景が何もなくてただただ真っ白な空間が広がっているだけ。庭の木も、隣の家も、何も見えてこない。どこまでもどこまでも白い空間。ああ、たぶんこれは夢なんだろうなと僕はぼんやりと理解した。そして驚いたことに、僕の隣にはニケが座っていたんだ。ほぼ白に近い黄色の毛並み。歳の割には体格もすらっとしていて毛も整っている。母さんが愛情のこもった世話をし続けてきた賜物なのだろう髭もぴんと張って、額の宝石の輝きも失っていない。生前の姿をしたニケだった。ニケは僕の方をちらりと見た後、何事もなかったかのように再び視線を戻す。冷めた目つきだった。夢の中でも普段通りのニケだ。僕にこれといった興味なんてなさそうな。だったらなんで僕の夢にニケが出てくるんだ。母さんや父さんならまだ分かる。よりにもよってニケと一番関わりが薄かった僕の所にどうして。
「当てつけのつもりか?」
 懐かれてはいなかった自覚はある。でも恨みを買われるようなことをした覚えはないつもりだ。ニケがどう感じていたかは知りようがないけど。僕の言葉を聞いたニケは再びこちらを向き、そっと片方の前足を持ち上げた。何だ、御手でもくれるのかい。犬じゃないのに変な奴だな。ほとんど条件反射で差し出してしまった僕の手にちくりと痛みが走る。爪を出したまま降ろされたニケの手が僕の手のひらを掠めていった。微かに血が滲んでいる。夢の中だと言うのに割と痛かった。何するんだよと叫ぼうとして、僕はこれと同じことを昔ニケにされたのを思い出す。あれはまだ僕が小学生で、ニケがニャースの頃だった。御手をくれるのかと油断してうっかり手を差し出したところに爪を立てられて。痛くて泣いてしまった記憶がある。一度やられてからは僕も学習して、ニケの御手は絶対受け取らないようにしていたんだ。そんな思い出なんて僕はもうすっかり忘れてしまっていて、久々に痛い思いをさせられたけど。ニケは覚えていてくれたんだな。痛がる僕の様子を見てふっと笑うと、ニケはゆっくりと窓の外へ向かって歩いていく。慌てて追いかけたけど、なぜか追いつかない。必死で足を動かしているのに不思議と前に進まないんだ。僕とニケの距離はどんどん広がっていくばかり。やがてニケは窓の外へ足を踏み出して、その先へ先へ。ああきっとこれが最期の別れなんだろうな、と僕は何となく悟った。もう時間がない、伝えるならこれが最後だ。言わなくては。
「ニケ!」
 もう随分小さくなってしまった背中。ぴたりと足を止めてニケは振り返る。何を言うべきなんだろう。これが最後になるんだ。ニケに対するメッセージの一つや二つくらい、簡単に浮かんできてもいいのに。いざ伝えようとすると何も紡ぎだせないのがひどくもどかしい。まごまごしていると本当に間に合わなくなってしまう。
安っぽいかもしれないけど僕が今、ニケにはっきりと伝えたいのはこの言葉だ。息を大きく吸い込んで、腹の底から声を押し上げる。
「来てくれて、ありがとな!」
 離れていくニケに見えるように僕は大きく大きく手を振った。肩が痛くなるくらいに何度も何度も。家族の中でも一番疎遠だった僕の所にニケが出てきたときは正直驚いた。だけど、やっぱり嬉しかったのは間違いないんだ。再び歩き出したニケが見えなくなってしまったところで、僕の夢の中の記憶は途絶えている。

 次の日の朝。もう先に起きて居間にいた父さんと母さんに僕は夢のことを伝えた。どうやら二人ともニケの夢を見ていたらしい。偶然にしては出来過ぎている感じはするけど、長く生きた猫は不思議な力を得るという話を聞いたことがある。これもニケの力だと思えば納得できなくもない。ちなみに父さんはニケにお腹を枕にされて寝苦しくなる夢、母さんは同じ布団で寝ていたニケの寝言で目が覚める夢だったようだ。どちらも生前のニケが二人に対して行っていた場面が夢に出てきている。僕もそれは同じだった。お腹を枕と、隣で寝ていての寝言と。爪を立てられた僕と差が激しいような気もするが、これは仕方ないか。
「俺の腹の上は気持ちいいらしいな。朝起きたら布団がその箇所だけ凹んでいたよ」
「私も、布団にニケの毛が付いてたわ。ここの所熱いから布団に入れたことなんてなかったのにね」
 きっとニケは昨日の夢で最期に自分がこの家に居た証を僕らに残していったんだ。別れの挨拶として。僕は自分の手に残った、三つの小さな傷跡を見る。初めて爪を立てられたときは相当ショックだったのに、今はこの傷が何だか愛おしい。夢で起こったことが現実にも影響するなんて奇妙な話だとは思う。でもあの夢の、ニケの挨拶のおかげで僕の心はずっと軽くなったのだから。それはおそらく父さんも母さんも同じこと。夢の内容を嬉しそうに話す二人の顔つきは昨日よりもずっと明るいものだった。僕もずっと忘れないからね、ニケ。まるで宝物を大事にしまうかのように、ニケの爪痕が付いた方の手を僕はゆっくりと握りしめたのだ。

■筆者メッセージ
別所の短編大会に投稿した作品です。テーマは「挨拶」。ニケとの別れの挨拶をテーマに持ってきました。
ラング ( 2013/08/14(水) 16:20 )