雨が呼ぶ絆
―5―
 寝そべったアブソルの体は少年が身を預けるには些か大きさが足りないように感じられた。元々そこまで大きなポケモンではないのだ。もしもウインディくらいの体格があれば、より安定感があったかもしれない。腰を下ろしてもたれ掛かった彼の肩がアブソルの背中から少しはみ出してしまっていた。
とは言え、誰かが自分のすぐ傍にいる感覚はそれだけで心強い。少年はほっと安堵の息を零した。彼女の白く美しい毛並みはその外見に恥じない柔らかさとぬくもりを併せ持つ。湿った服を通してでも、少年の背中にはアブソルの温かさが静かに伝わってきていた。一人で家を飛び出してきたときの不安や、止みそうにない雨に対する不安を拭い去ってくれるような不思議な安心感がある。
「なんか、こうしてるとお母さんといるみたいだ」
 最初は角や爪の鋭さやきりりとした目つきで、怖いポケモンなのかなとも思ったけれど。
別に何かされたわけでもなく、話してみるとずっと穏やかな雰囲気でさらには雨宿りまでさせてくれて。
きっと、悪いポケモンじゃないんだろう。それに、このアブソルの優しさや温かさはどこか自分の母親を彷彿とさせるものがあった。
「お母さん……か」
 少年の言葉に、アブソルはふっと口元を上げる。しんみりと感慨に耽っているように見えるその瞳はとても温かい光を宿していた。
「どうしたの?」
「いや、何でもないさ。少し昔のことを思い出しただけだ」
「そっか」
 このアブソルがどれだけの時間を生きてきているのか、少年には想像もつかない。
たぶんアブソルは自分よりもずっと長い時を過ごしているはずだ。そんな彼女の言う昔が何を指すのか知る由もなかった。
だけどきっと素敵な思い出なのだろう。あんなにも穏やかで、優しさに満ちた表情をしていたのだから。
「ところで、お前はなぜ一人で洞窟の前にいたのだ。森が危険なことは知っているだろう?」
 聞かれるような予感はあった。自分のような子供が外で遊ぶには場所も時間帯も、ついでに言うと天候もおかしかった。
何より自分のポケモンも持っていない少年が丸腰で村の外に出ること自体、とても危険なことだったのだ。
そんな場所に少年はいた。しかも、雨の中たった一人で。アブソルが疑問に感じてもなんら不思議はない。
「……家出、してきたんだ」
 適当なことを言って誤魔化そうかなとも思ったけれど、アブソルの静かな赤い瞳に見つめられていると簡単に見透かされてしまいそうで。それに彼女はおそらく本気で心配してくれている。そんな相手に嘘は言えなかった。もしかすると自分の家で起こった出来事も真剣に聞いてくれるかもしれない。少年は腹を決めてこれまでの経緯を話すことにしたのだ。
自分の父親は遠くの街で働いていて、母親と二人で暮らしていること。今日は自分の誕生日で父親も帰ってきてくれる約束だったこと。そしてその約束が叶わなくなり、辛くて悲しくて苛立って。ついには母親とまで諍いを起こして家を飛び出してきてしまったこと。一つ一つ、少年は言葉を紡いでいく。アブソルは静かな瞳で、黙って少年の話に耳を傾けてくれていた。
「父親が帰ってきてくれなかったことが、お前にとってはいてもたってもいられないくらいに辛いことだったのだろうな」
「うん……それにその後お母さんともケンカしちゃって。家にいるのが嫌になって飛び出してきたんだ」
 もうこんな家には居たくないと飛び出した直後は思っていた。
しかし今、雨に打たれ冷えた頭で考えてみると、家を出ていったいどうするつもりだったのだろうか。
少年がもっと幼い頃、だだをこねていると母親に「じゃあよそのうちの子になる?」と言われ何も言い返せなかったことを思い出す。
いきなり他の家に押しかけて、そこで住めるはずがないことくらい少年にも分かる。
結局少年が帰るべき場所は、ついさっき自分が飛び出してきてしまったあの家しかないのだ。
「約束を破った父親がどうしても許せないか?」
「だって、僕はもうずっと前から楽しみにしてたんだ。それなのに……。きっと父さんは僕のことなんかどうでもよかったんだよ!」
 少年の声が洞窟の中にこだまする。ぶつけようにもぶつけられなかった父に対する怒りが、少年を叫ばせていた。
がむしゃらに声を上げて、少しはすっきりしたかと言われれば全然そんなことはなく。ただやるせない気持ちが少年の中に残っただけ。
「違うな」
「えっ?」
 きっぱりと言い切ったアブソルの声。少年は彼女の方を見、そしてぎくりと身を竦ませる。
優しい瞳から一転した、鋭い視線が少年を射抜いていたからだ。まるで赤い刃のようなアブソルの眼光が彼に突き刺さる。
ただ単に睨んでいるのとは違う。心の奥へ奥へと入り込んでくる、強い意志のようなものがそこから感じられた。
「本当にお前のことをどうでもいいと思っているなら、最初から約束をしたりしないさ」
「だ、だけど」
 言い返そうとして、少年は言葉に詰まる。 帰ってくると約束をしてくれたときの父の顔は紛れもなく笑顔だったのを覚えていたからだ。
単なる少年への気休めで、その場しのぎの嘘を言っていたようには到底思えなかった。
「約束が守れなくなった父親も、父親が帰ってこられないと知った母親も辛かったはずだ。お前と同じように、あるいはそれ以上にな」
 返す言葉もなかった。自分の誕生日、自分との約束。少年の頭の中にあったのは全て自分のことばかりで、父や母の気持ちなど全く考えていなかったからだ。
遠くにいる父が何を感じていたのかはさすがに分からない。ただ、自分をなだめていた母がちらりと見せた寂しげな表情を、少年はふと思い出したのだ。
「離れていても親は子供のことを大切に思っているものだ。誕生日に戻ってこようとしてくれただけでも良い親ではないか」
「そう、なのかなあ?」
「ああ。私はそう思う」
 アブソルに諭すように言われると本当にそう感じてくる。
落ち着いた話し方は少年の気持ちを引き込み、聞くものを納得させてくれる不思議な力があるように思えた。
「それともお前は、本気で二度と家に帰りたくないと思っているのか?」
「そんなこと……そんなことない!」
 村の外に一歩踏み出すまでは、本気で考えていたかもしれない。ただ、いざ村を出て一人歩いていたときの孤独感、雨に打たれたときの心細さ。
一人で闇雲に飛び出してきたことを少年に後悔させるには十分すぎる要素が揃っていた。
このまま意地を張って帰らなかったところで、いったい自分に何ができるというのだろう。
「家に、帰りたい。帰りたいよ……」
「きっと母親も心配している。雨が止んだらすぐに帰るんだ、いいな」
 もう洞窟の外は薄暗くなり始めている。こんなにも遅くまでの外出は少年にとって初めてだった。そろそろ少年がいないことに母が気づいているかもしれない。雨の中傘をさして慌てて近所を駆け回っている母の姿が目に浮かんだ。
「うん、帰ったらお母さんに謝るよ」
「それがいい」
 アブソルは安心したように言うと、外へと視線を移した。雨はまだ降り止む気配を見せない。洞窟の中からでも地面に降りしきる水の様子が確認できるくらいだ。少年が村に戻れるようになるのはもう少し後になりそうだった。
少年は小さなあくびをする。慣れないことの連続でどうやら疲れてしまったらしい。
「雨が止んだら私が教えてやろう。それまで一眠りしたらどうだ?」
「……そうする。ありがとね、アブソル」
 少年はアブソルに身を寄せるようにして横たわる。彼女の体温とふさふさの体毛の感触が心地よい。地面の硬さなんて気にならないくらいだ。優しいぬくもりは穏やかな眠気を誘う。そう時間が立たないうちに少年は静かな眠りへと落ちていった。

ラング ( 2014/10/13(月) 16:03 )