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「なんでこんなときに雨なんか……はあ」
ため息交じりに呟く少年。自分なりに急いだとはいえ雨の増す勢いは強く、肩から背中に掛けてしっとりと濡れてしまった。
草むらを通ったときに膝下に付いたであろう枯れ草を手で払いのけ、少年は洞窟の入り口の壁にもたれかかりしゃがみ込む。
本格的に降りだした雨は、草木を揺らしながら静かな音色を奏でている。ひとまずここに居れば雨を凌ぐことはできそうだった。
ただ、ここの居心地は少年にとって決して良いものではなく。
洞窟の奥は薄暗くてどこまで続いているのか分からない闇が広がっている。
暗がりを眺めているだけでそこから得体のしれない何かが飛び出してくるんじゃないかと思うと気が気ではなかった。
沸々と湧きあがる恐怖心と戦いながら、少年は出来る限り奥の方を見てしまわないように外に視線を移す。
止む気配のない雨。強くなりこそしていないもののしばらくは降り続くことを思わせる。
そんな現実がますます少年を懸念させていた。もしかしたら本当にあの村に、そして自分の家に帰れなくなるんじゃないだろうか、と。
もちろんそれは彼の杞憂であり、来た道を辿っていけばちゃんと戻ることが出来るのは間違いない。
ただ、雨によって行動を大きく制限された事が少年の中に不安の影を落としていた。
やっぱり、村を飛び出そうなんて考えないで自分の部屋で大人しくしていた方が良かったのだろうか。
家を出ると決意してからまだ一時間も経っていないというのに、少年は既に後悔し始めていたのだ。
ふいに背後で物音が聞こえた、ような気がした。いや、きっと気のせいだ何もいない。
必死でそう思いこもうとしても。もし何かいたときのことを考えると。後ろを振り返って確認せずにはいられなかった。
大丈夫、何もいないことを確認してからゆっくり雨宿りを続ければいい。
暗示のように自分に言い聞かせながら、少年は慎重に背後に視線を送る。何もない。何も見当たらなかった。
洞窟の中が薄暗くても何かが動けば分かるはず。
やっぱり気のせいだったんだなと、安心して外に視線を戻そうとした時だった。
ぬっと大きな影が奥から現れたのだ。暗がりでもはっきりと分かる二つの赤い光が少年の方へじわじわと近づいてくる。
「ひっ……」
勘違いじゃなかった。やっぱり何かいたんだ。逃げなくては。
少年の意識は洞窟の外へ行こうとしているのだが、体がついていかなかった。
完全に腰が抜けてしまい動くことすらままならない。
彼が口をぱくぱくとさせ声にならない声を上げているうちに、その影はすぐ近くまで迫っていた。
薄暗い洞窟の中でもはっきりと分かる、つややかで真っ白な毛並み。
顔の部分は藍色をさらに暗くした感じの色合いで表情は読み取れない。頭の左側からは鎌のように湾曲した角が一本。
四肢には鋭くとがった爪が鈍い輝きを放っていた。赤い瞳が真っ直ぐに少年を捉えている。
「ぽ、ポケモン……なの?」
影の姿が鮮明になってくると、少年にも僅かながら落ち着きが戻ってくる。
何か別の存在が自分の近くにいて、姿が確認できるのとできないのとでは感じる恐怖もまるで違うのだ。
初めて接する対象への不安はもちろん残ってはいたものの、さっきよりはずっと冷静に影に目を向けることが出来ていた。
しかし、この影は村にいるポケモンとはどれも違っている。少なくとも少年はこんな姿のポケモンを見たことがなかったのだ。
「お前のような子供がこんなところで何をしている?」
少年の問いかけには答えず、影の主は逆に質問を返してきた。
人間のものとは少し響きが違うように思えたが、意外にも落ち着いた女性を匂わせる声。
想像していたよりもどことなく穏やかそうな雰囲気がある。少年の心に徐々に安堵の光が灯り始めていた。
脱力しきっていた足腰にも再び力が戻ってくる。彼はゆっくりと身体を起こすと、恐る恐るその赤い瞳に焦点を合わせてみる。
暗がりでも衰えることのないその輝きは、じっと見ていると吸い込まれてしまいそうなくらいきれいだった。
目線の高さは立ち上がった少年と同じかやや低いくらいだろうか。
四足であるため奥行きがあるので、総合的な体格は少年よりもずっと大きいだろう。
「えと、あ、雨が降ってきたから……ちょっと雨宿りをしよう、と思って」
激しい雨音にかき消されないぎりぎりの声量だったと思われる。
幾度か声を詰まらせながらも、少年は自分がここへと至った理由を告げた。
喧嘩をして家を飛び出してきたことは含まれていなかったが、そこまで説明する余裕がなかったのだ。
少年の言葉を聞いた影は一度目を伏せると、ふうと小さく息をつく。
それが安堵から来るものなのか、呆れから来るものなのか。少年には分からない。
「そうか……ならば雨が止むまではここにいるといい」
「えっ?」
「この土砂降りの中お前を外に放り出すのも酷な話。ここは私の住処ではあるが、雨宿りさせてやろう」
そういって影はくるりと向きを変え、洞窟の奥へと戻っていく。
踵を返す時にちらりと見えた横顔が笑っているように感じたのは気のせいだろうか。
暗闇に大分目が慣れてきたおかげで、うっすらと内部の構造も見える。影はその一番奥に戻り、腰を下ろしたようだ。
てっきり追い出されてしまうものだとばかり思っていた少年からすれば随分と拍子抜けな、想像以上に優しい言葉だった。
影が奥に行った後もしばらく少年は呆然と立ち尽くしていたが、ようやく自分が雨宿りさせてもらえるのだと理解に至る。
雨から逃れるために洞窟に入って、そこで未知なる存在と遭遇して。
少しばかりの言葉を交わしただけだというのに、とてつもなく長い時間が過ぎ去ったような感覚。
とりあえず自分はここにいていいらしい。雨の心配はしなくてよさそうな感じだ。良かった、本当に。
影を前にして張りつめていた緊張の糸が解けると共に、少年は洞窟の壁を背にしてその場にへなへなと座り込んでしまったのだ。