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山の麓に小さな村があった。山裾まで伸びてきている青々とした木々に寄り添うかのように、ひっそりと佇んでいる。
家の数は十、二十、三十は行かないくらいか。家の数よりも整備された畑の数の方が圧倒的に多い。
耕された大地からは様々な作物が伸び、色とりどりの木の実を実らせている。赤や黄色に緑のものまで。
おそらくこの村で一番色どりがあって華やかな風景は、風に揺れる多種多様な木の実の生る畑で間違いなさそうだ。
そんな田舎の村のとある家。周りと比べても別段特徴もない、ありふれた一般的な家屋。そこから飛び出してきた一人の少年がいた。
ばたんと勢いよく玄関の戸を閉めると、そのまま早足で家の前から立ち去っていく。
まだ十歳にも満たないと思われる幼い瞳には、涙の跡がほんのりと残っていた。
服の袖でごしごしと目を拭うと少年は歩き出す。辛うじて舗装はされているものの、車一つがやっと通れそうな細い道。
所々にある微妙な凹凸が曲者で、外に出て間もない頃は良く転んで擦り傷を作ったものだった。
今となっては家の前の歩き慣れた道。もう何もないところで転ぶようなことはなかった。
何歩か歩いたところで、ふと少年は立ち止まって振り返る。まだ自分の家は見える範囲にあった。
急いで歩いているつもりでも幼い彼の足だ。どんなに頑張ってみても限界はある。
視界に家が映ると、ついさっきの母親の声が少年の頭の中に蘇ってきた。
『仕方ないじゃない。お父さん、どうしても仕事で戻って来られないんだから』
明日は少年の誕生日。普段は遠くの街に出稼ぎに行っており家にはいない父親も戻ってきて一緒に祝ってくれる、そのはずだった。
しかし、何の不運かその日はどうしても断ることが出来ない仕事が入ったと、父親からの連絡があったのだ。
ほんの一時間前の出来事だった。知らせを受けた母親は残念そうにしながらも、仕事だから仕方ないと割り切っていたようだが。
誕生日には家に戻ってくると父親と約束し、半月も前からそれを楽しみにしていた少年には到底納得できるものではない。
本来少年が怒りをぶつけるべき父親はここにはおらず。よって、その苛立ちの矛先は彼の母親へと向けられる。
父さんも一緒じゃないと嫌だとだだをこねる少年に、最初は母親もなだめるように説得していた。
だが、少年がいつまで経ってもごねていたため、いい加減にしなさいと母親からぴしゃりときつい仕置きを受けてしまったのだ。
泣きながら部屋に閉じこもっていた少年だったが、やがてそのまま黙って家を飛び出してきた。
もちろん母親には気付かれないように。これ以上こんな家に居たくなかったし、戻らないつもりだった。
約束を守ってくれなかった父親。自分の悲しみを分かってくれなかった母親。どちらの顔ももう見たくなかった。
出来るだけ遠いところまで行ってやろうと意気込んで家を出てきたまではいい。しかしどこへ行くのか、どこまで行くのか。
そんな当てがあるはずもなく。村はずれまでやってきてようやく少年はそのことに気が付いたのだ。
ここまで来ると周辺にほとんど家も見当たらない。さらには手入れすらされていない荒地ばかりで、殺風景で寂しい景色が広がる。
野生のポケモンが畑の作物を荒らさないように見張っている大人も、その連れのポケモンもどこにもいない。
木の実を育てていない荒地を監視する必要などないからなのだろう。むしろその方が少年にとって好都合。
もうすぐ夕方に差し掛かるであろう時間帯。そんな中、村外れに一人佇む幼い男の子の姿を見れば。
どうしたのかと声を掛けられることは間違いない。そして、大人をやり過ごすほどの上手い言い訳が出来る自信は少年にはなかった。
言葉に詰まっているうちに間違いなく連れ戻されてしまうだろう。そうなってはここまで来た意味がない。家に帰らされるのはごめんだ。
少し先で舗装された道は途切れ、むき出しの地面が顔を出し始める。おそらくそこが村と外との境目となっているのであろう。
村の外に出るなら誰もいない今がチャンス、なのだが。生まれてからまだ一度も村から出たことのない少年にとっては未知の領域だった。
一歩踏み出してしまえば、もう二度と村に戻ってこれないのではないかと、漠然とした不安が少年に襲いかかる。
「戻らないって決めたじゃないか……。こんな所で止まってちゃだめだ」
自分自身に言い聞かせるかのように、少年は己の決意を口にする。家を出ることは村を出ること。そのためには踏み出さねばならない。
道の境目に立ち一度深呼吸してから、一歩足を前に出す。靴の裏で砂利が擦れる音。彼が最初に感じた、村と外との違いだった。
地面の違いはあったものの、それ以外に何が起こるわけでもなく。村はちゃんと少年の背後にあるし、外の世界は彼の前にある。
最初はどうなるんだろうどきどきしていたが、いざ乗り越えてみると大したことはない。大丈夫だ。
このまま進んでいくと、どこに行けるのかはもちろん少年は知らない。だが今は境界を乗り越えたことによる達成感の方が遥かに大きかった。
知らない場所へ進む不安よりも、未知の領域への期待の方が勝っている。家を、そして村も飛び出した幼い少年はどんどん先へと進み始めた。