しるし - しるし
【三十二】安心出来る声
 俯せのまま頭を押さえつけられ、ナイフの冷たさが首筋に伝わる。大の大人三人にも囲まれ、どうしようもない状況になってようやくメグリは理解した。
「この子、昨日ヒノテさんと一緒にいた子ですよね?」
「……ああ」
「何故この子と? あなたと縁がある様な子ではないと思いますが」
 メグリは、聞こえる声で昨日会った男だと思い出す。あの乱暴そうだった男――エンイ――の弟分だ。
「メグリの事を、知っているのか?」
「なるほど、メグリという名前なんですね。そういえば、町長の娘がそんな名前でしたかね」
 ヒノテは苦い顔をして、言い返す言葉なく沈黙した。
「そいつを放してやってくれ」
「要望を言える立場だと思ってるんですか? 今の俺達が、伊達や酔狂で人質なんて取るとでも? 甘く見過ぎですよ。本当に腑抜けましたね。あなたこそ、そこにいるゴーリキーとライボルトを休ませてやったらどうですか? 自分のポケモン達をモンスターボールに入れて、遠くに投げて下さい」
 ヒノテとラグラージ達が視線を交わす。ゆっくりと腰のホルダーからボールを手に取り、開閉スイッチを押して手のひら大にし、それを突き出した。
「ほら、早く」
 頷いた二匹に、ヒノテも決心せざるを得ない。
「……分かった」
 赤い光線がラグラージに当たると、中に吸い込まれていった。同じ動作で、グラエナもボールに吸い込まれていく。これで形勢は更に不利。最早後は何が出来るのだろうか。
 メグリは、自分のせいでヒノテを危険な状態に陥らせてしまっていく責任に、押し潰されそうになっていた。
 よく状況を見ず、勝手な判断が全てを壊してしまった。父にあれだけの啖呵を切っておいて、なんてザマだと果てのない自分への失望が激流のように身体を流れる。
 根拠のない自信が、音を立てて崩れ去って行く。手伝ってくれたギャロップへの申し訳なさが、じくじくと身を蝕む。
「ここまで知られてしまっては、あなたを帰す訳にもいきませんからね。覚悟は出来ていますか?」
「出来てるよ。俺の事はともかく、その子は無事に返してやってくれ」
「だから、要望を言える立場ではないんですよあなたは。この娘をどうするか、それは俺達が決める事です。あなたには関係ない」
「その約束を取り付けられないなら、俺は精一杯今から抵抗する。お前らが俺のポケモン達に勝てないのは分かっているし、どの道助けられないなら、お前らを倒すくらい訳ない」
 本気だ、とメグリはヒノテの表情からそれを読み取った。
 抵抗なく最悪の結果を迎えるなら、メグリに危険が及んだとしても全力で抵抗する。確かにそれはフエンを救うための動きとしては正しいのかもしれない。一瞬でも自分の身が危険に晒される事に恐怖を感じてしまったメグリは、助かる道を想像している自分を嫌悪する。何がフエンのため。何がバネブー達のためだ。
 今出来る事は、ヒノテが何を考えているのかその言葉から必死に探るのみ。やれることはそれしかない。頭越しに交わされる交渉を耳にしつつ、メグリはこんな危機的な状況でもまだ冷静に頭を回せる自分に驚いた。
 感じている恐怖は、思ったよりメグリを混乱へ陥れていない。
 何がこんなに自分を冷静にさせるのか。
 当てられているナイフの冷たい感触は、確実に身の危険を伝えている。助かる見込みも薄い。温室育ちのメグリに、こんな危ない状況を経験した事はない。なのに、心のどこかで冷静を保てている。
 落ち着いている。
「お前等にとってメグリは生命線だ。気絶でもされたら一瞬で人質としては役に立たなくなる。丁重に扱えよ。分かってるな。その子に何かあったら、俺はお前達を許さない」
 形勢は明らかにヒノテの方が不利なはずなのに、低い声とその物言いは、確実に弟分達を追い詰めていた。地力で上回る人間と、ボールに戻した”だけ”のポケモン達を前にし、メグリという人質しかアドバンテージがないのは、心許ない。そう思わせるには十分な言葉の力。
「つ、強がっていてもこの状況は変わりませんよ。あなたはこの子を守りたいんだ。危害を加えられたくなければ抵抗はやめた方が良い」
「だったら、その子に危害を加えないと約束しろ」
「……分かりました。それは保障しましょう。この娘に危害は加えない」
 ヒノテはその言葉を聞いたまま、しばらく表情を固くしたまま黙り込んだ。
 場を支配していたのは弟分だったはずなのに、黙りこくったヒノテを”待つ”状況に追い込まれていた。
「俺はどうやってそれを信じれば良い? お前等をどうすれば信用出来る?」
 追撃の言葉は、弟分達に更なる譲歩を強いるものだった。
「……あなたは、昔からそうだ。俺を見下し、取るに足らない存在としか見ていない。だから名前さえも覚えていない!」
「何だよ突然。怒りたいのはお前等じゃなくて俺だ」
「黙れ! この状況を分かっているのか? 危害を加えられたくないんだったら、大人しく従ってろ!」
「従うさ。メグリに危害を加えないと信用出来たらな。そうじゃなければ、全力で抵抗する。それだけだ」
 自分を押さえつけている男が、肩で息をして怒っている。自由の利かないメグリからでもよく分かる。
 そんな状況の中、目が合ったヒノテは笑った。
 その優しい表情が、自分に向けられている事にメグリは気付いた。あてがわれたナイフに力が籠るのが分かるのに、落ち着いていられる。安心がそこにある。
 メグリは思わず小さく笑みを返し、自分の気持ちを理解した。

「ヒナタ。もうやめとけ」
 唐突に。
 この場になかった声が、メグリの耳に届いた。

早蕨 ( 2021/03/24(水) 21:06 )