【二十五】譲れない
メグリの家は、町の中でも一際大きなお屋敷として居を構えている。手入れがされた庭。植えられた樹木。豪華絢爛な門。誰が見ても豪邸。しかもそれは別宅で、先代が使っていた、いつ建てられたのか分からない古い家屋が別にある。
間違いなく町で一番守られている場所である事は間違いない。
自室にいたメグリは、とてもではないがじっとしていられなかった。彼女もまた、この町の状況に身体のざわつきが抑えられなかった。何か出来る事はないものか、どうすれば良いのか。怒りを向けて迫ってくるポケモン達を、町の人達は迎え打つだろう。メグリは誰にも傷ついて欲しくない。
えんとつ山を含めたフエンの全てが好きなメグリにとって、今の状況は何よりも辛かった。
ヒノテは逃げたのだろうか。もしかしたら警察に掴まって全ての罪を着せられているのかと考えると、そちらも気が気ではない。
学校へ行く時間にはまだ早い。今外に出れば、父に何か言われるだろう。だが、そんな事を気にしていられるような状況ではない。
メグリはすぐに準備を整え、二階の部屋を飛び出し、階段を駆け下り、廊下を走り、リビングのドアを開け放つ。
「お、お父さん?」
家にいるのは分かっていた。だが、目の前の父の様子をメグリは想像していなかった。家にいながらも、町長としてすぐにでも各所へ連絡を取ったり何等かのアクションを起こすのかと思いきや、椅子に座って優雅にコーヒーを啜りながらテレビを見ている父がそこいた。
母は台所で作業中だった。晩飯の仕込みだろう。彼女は料理が趣味だった。フエンは緊急事態だというのに、何も変わらない日常がそこにある。
「ね、ねえ、何か、手を打たなくて良いの?」
隣に立って、すぐにメグリは問いかける。
「ん? ああ、いいんだ。警察やジムリーダー様が動いているんだ。私達が動くまでもないだろう」
町長の下には、フエンに保守的な考えを持つ、お抱えの優秀なトレーナー達がたくさんいる。彼等も協力させた方が良いのではとメグリはすぐに考えた。
「どうして? 今こそ皆で協力しないと」
「馬鹿を言え。どうして私が奴らに協力しないといけないんだ。山から下りて来たポケモン達など、彼等で十分だろう」
何故ここまで非協力的なのか、父の頭の固さに、メグリは親に感じたことのない怒りを覚える。
「そんな事言っている場合? フエンの危機だよ? どうしてそんなに落ち着いているの?」
コーヒーを啜る父は、とても緊急事態のそれではなかった。
「何をそんなに騒いでいるんだ。山からポケモン達が下りて来たと言っても、ただの野生のポケモン達だ。統率が取れた組織に勝てるはずがない。何より、ジムリーダー様がいるんだから、間違いないだろう」
露骨にフエンジムリーダーを目の敵にしているのはいつもの事だが、いつもよりそれが顕著だ。メグリは父の棘のある言い方に違和感を覚える。
「騒ぎは治めて貰わなきゃいけないが、あのえんとつ山を管理しているのは彼女等だ。後で責任は取ってもらわなきゃな」
メグリはただ何も知らない子どもではなかった。父の仕事の一部を知っている。えんとつ山を切り開いて、観光資源を増やす計画は書斎で電話しているのを盗み聞いた。忍び込んで資料を漁った。フエン発展のため、と言いながら自分の利益を一番に考えている事もよく分かる。今回は、難癖をつけてアスナ達の立場を弱くしようと言うのだろう。自分の権力をもっと強大にするために。
それを止めたくてもメグリ自身では何も出来ず、ただ大人達に託すしかない。
だが、何も出来ず一番守られた場所でぬくぬく過ごしている自分を、もうメグリは許容出来ない。
「私行くよ。ポケモン達を止めなきゃ。皆とぶつかるなんて駄目だよ。あの子達はただ悲しんでいて、どうしようもなくなったぶつけようのない怒りを、私達に向けているだけ。ちゃんと話せば分かる」
カップをソーサーに置いて、父は今日初めてメグリに向けて厳しい視線をぶつける。
「何を言ってるんだ。子ども一人で何が出来る。ただ怪我をするだけだ。やめなさい」
メグリに対する心配の言葉は父の本心だろうが、その影に、ジムリーダー達に協力させたくないという気持ちが孕んでいるのをメグリは分かっていた。
「嫌。私行く。町のために何かしたい。フエンが大好きだから。このままじゃいられない」
言う事を利かない娘に小言を始めた父に向かって、メグリは真っ向から反抗する。我慢出来ない。動き出したい気持ちが、抑えられない。感情が昂り、フエンへの気持ちや外の世界へ飛び出して行きたい気持ちがない交ぜになって、メグリは半ば興奮状態のまま机を叩く。どうすれば説得出来るのか。どうすれば外に出してもらえるのか。感じた昂りを、そのまま勢いで吐き出し続ける。
「後ね、こんな時になんだけど、私、旅に出るから! 反対するのは分かってるけど、外に出て勉強してみたい。フエンに生かせるように頑張りたい。フエンの危機に、ちゃんと力を出せる人間になりたい!」
勢いに任せて口を走らせてしまっている事は自分でも自覚しているが、気持ちが昂った今しかここまでストレートに言えない。メグリに、後悔はなかった。
「次から次へと何を言うかと思えば!」
激昂に近い父に怯えず、メグリは真剣な表情で父を見据えた。自分に屈さない娘に、父は明らかに怯んだ様子だったが、父も頑固だ。机を叩き返してメグリを威嚇し、互いに譲らない。
「許してなんて言わない。でも、勝手に家を出て行く事もしないよ。ちゃんと私が出来るってところ、見せるから」
「ほう、何が出来ると言うんだ。言ってみなさい」
「この騒ぎを止める。ポケモン達の進行を食い止めて、私が山へ返す」
メグリが言い放った言葉に、父は笑う。お前にそんな事が出来る訳ない。馬鹿にして、メグリを何も出来ない自分の支配下にいる小娘だと思っている。
父は、メグリがえんとつ山に通っているのを知らない。ポケモン達と上手にコミュニケーションを取り、好かれる存在である事を分かっていない。
「どう? それが出来たら認めてくれる?」
「一体どうしたと言うんだ。そんな事、本気で出来ると思っているのか?」
出来る、と即答したメグリの表情を、きっと父は見た事がないだろう。自分の道を自分で決めて、覚悟を決めた娘の顔は、ずっと子どもだと思っていた娘のそれではない。
「私に盾突くとは……」
父が家以外のところで見せる表情を、メグリに向ける。メグリからしても、自分に向けられた父の初めての表情だった。視線が交差し、膠着の間。
次に何を言うのか、メグリは身構えて力を抜かない。
父もまた力強い視線で娘を見つめるが、かつてない表情と意気込みに、やがてゆっくりとため息を吐く。
「ギャロップを連れて行きなさい。危なくなったら、絶対に逃げるんだ。本当にお前の言う通りの事が出来たら……そうだな、考えてみよう。母さんも、それでいいね」
台所で作業をしつつ口を挟んで来なかった母も、手を止めてメグリに視線を向ける。
少しだけ大きくなったメグリに微笑んで。いいですよ。と一言。
「ありがとう。私、行ってくるね」
背を向け、メグリはリビングを出て戸を後ろ手で閉める。ここまで父に面と向かって言いたい事を言ったのは初めてだった。まだ高揚した気分は収まらない。
啖呵を切ってしまったが、自分がポケモン達を食い止められる保証などどこにもない。ここが人生における勝負どころなのだと、子どもながらにメグリは理解する。
玄関を出た先の広い庭の端、植えられた木の下でギャロップは足を折って休んでいた。メグリが飛び出して来たのを見て、ゆっくりと立ち上がる。
小さい頃からこのオスのギャロップとメグリは一緒だった。父のポケモンであり、メグリを小さい頃から可愛がっていた。その娘が、見た事のない覚悟を決めた表情で庭を歩く。
「お願いギャロップ。私を手伝って。この騒ぎを止めるために、連れて行って欲しいの」
メグリは、それだけでギャロップが力を貸してくれる事を分かっていた。昔から、メグリにだけは甘い。そして、いつでも守ってくれる。唯一と言っても良いくらい、今手放しで甘えられる存在だ。立ち上がったギャロップは、メグリの頬を舐めて、門へ悠然と歩き出す。乗れ。そう言われている。
「ヒノテ。私、頑張るから」
その背中へ飛び乗り、メグリは未来へと歩み始める。