【二十一】変わった
フロント前に設置されたソファに足を組んで座っていたエンイが、エレベーターから下りたヒノテの目に飛び込んで来た。
一直線に歩いてソファの前に立ったヒノテに、エンイは落ち着いた顔で、「よう」と一言。
「挨拶だけか? ご苦労な事だ」
「まったく気にくわない奴だな本当に……まあいい、ちょっと付き合えよ」
やけに静かだった。ヒノテはもっと喧嘩腰で来るものかと予想していただけに、肩透かしを食らった。昼間あんなにあっさり引き下がった違和感が、今になって解消されるものかと身構えたが、どうやらそういうつもりでもないらしい。
黙って立ち上がり、出口へ向かって行くエンイの後を追った。
冬が近いフエンの夜はもう寒い。羽織った薄手のコートの隙間から入って来る隙間風が、温泉と暖房が付いた部屋で暖まった身体を急速に冷やしていく。
外灯の下では、もう白い息が出始める。
「久しぶりだな」
「ああ」
短い言葉を淡々と交わし、二人は夜道を歩く。
エンイと並んで歩くなど、マグマ団員の時以来の事だった。いがみ合って喧嘩していた記憶がほとんどで、仕事の時くらいしか隣を歩くなんていう事はなかった。
「どこに連れて行く気だ?」
「一杯付き合えよ」
「お前と?」
「そうだ」
絡んで来ず、ただ誘いを受けていた。どう返そうか悩んだヒノテだったが、ここまで大人しいエンイも珍しくその理由も気になったため、
「分かった」
と、二つ返事で承諾する。
「よし、決まりだな」
口数少ないエンイはそのまま黙って歩き続け、ヒノテはただその横を歩いた。
当時まだ十代だった二人は、血の気も多く突っ張る事が格好いいのだと思っていた。張り方こそ違っていたものの、似たもの同士を認める訳にもいかず喧嘩をするのは必然。
あれから随分時間が経った。エンイもまた、ヒノテが変わったように以前とは変わっているのかもしれない。
一杯付き合う場所は、昼間でも静かな、中心街とは離れた場所にあるようだった。
十五分程歩いた先で止まったエンイは、小さなバーの木製の扉を開いた。
「いらっしゃい」
店主らしき若い男が二人を迎える。薄暗い暖色のライトに照らされた店内。木製のテーブルに、椅子。客は誰もいない。
店の一番端、店主からも話し声が聞こえ辛いであろう場所に座ったエンイの隣に、ヒノテは腰を落ち着けた。
ウイスキーをロックで注文する姿は、随分慣れた様子。同じものを頼んだヒノテは、何となくエンイが話し出すのを待った。
テーブルにウイスキーが置かれ、ヒノテは少しだけ舐める。久しぶりのきついアルコールだったが、身体は拒絶しなかった。少しずつ入れて行けば、十分楽しめる。
「何年ぶりだ?」
エンイもまた、ウイスキーを一口喉に通し、ゆっくり味わってから話し始めた。
「五年。いや、もうちょっと経つかな」
「そうか、そんなに経つか。色々変わる訳だな」
こんな風に、何かを言い淀み、含みのある話し方をする奴ではなかった。
「エンイは随分大人しくなったもんだな。この五年間で、何か変わったのか?」
「俺か? どうだろうな。よく分からん。根本的なところは、変わってないと思うが」
昼間の様子を見ていれば、それはよく分かった。気性の荒さだけは、本来のエンイそのもの。
「それでもやっぱり、前と同じではないな、あの大災害を目にしちまったら、何かを感じざるを得ないだろ」
それにはヒノテも同感だった。どんな奴だって、圧倒的な暴力とどうする事も出来ない無力さを前に、何かを思う。
「そうだな。お前の言う通りだ。それで、何かを感じたお前は、何をやって来た?」
ヒノテの言葉に苦い顔をしたエンイは、ぐいとウイスキーグラスを強く傾けた。
「お前はどうなんだ」
質問を質問で返されたが、自分から話す気はなさそうだと判断したヒノテは、メグリにした話と同じ話をする事にした。
「本当の意味で俺達が何をやってしまったのかきちんと理解して反省するために、ホウエン中を歩き回った」
エンイは、ヒノテが続けたその話にしばらく黙り込んだ。
からんからんと、二人分のグラスの音だけがBGMとして店内に響く。
「変わったな、ヒノテ」
「お前に言われると、本当に変わったんだと思えるよ」
いがみ合ってきた仲だからこそ、互いの事はよく知っていた。その相手からの言葉は、意外に信用出来る。
「いつまで旅を続けるんだ?」
「もう、終わりだ。フエンでホウエンの主要な町は全て周った事になる。自分が何をやってきたのかはよく理解出来たつもりだし、次何をするのか道も見えて来た」
「次はどうするんだ?」
言おうか迷った。考え始めたばかりだし、お前みたいな奴が何言ってんだ、と言われれば何も言えなくなってしまう。
ただ、元々同じ立場だった相手ならばそういう事もないだろう。不思議と安心感を覚えたヒノテは、自然と口が軽くなる。
「ライターをやりたいなと思ってる。ホウエン地方は素晴らしい。何年もかけてゆっくり周ってみてそれがよく分かったよ。今度は、その魅力を世界の人に知って欲しい。無知で馬鹿だった俺達が起こした大災害に報いるには、これが一番かなと今は思ってる」
どういう反応が来るのか、興味のなかった奴が相手でもその次の言葉に緊張を覚える。
「凄いよ本当に。お前なら出来ると、俺は思う」
無性に嬉しかった。
「やっとだな。やっと、お前とまともに喋った気がするよ」
小さく笑みを浮かべたヒノテを見たエンイもまた、照れ臭そうに小さく微笑んだ。
マグマ団当時は、顔を合わせる度に喧嘩していた。ただリーダーのカリスマについて行き、黙って仕事をこなして、一匹狼を気取って団内の立場を上げていく事が格好いいと思っていたヒノテと、団内で仲間をつくり、自分の力を誇示しようと盛んなエンイが仲良くなれる訳がなかった。
ただ、互いにあいつだけには負けないと、そう思っていた。ヒノテも今考えればエンイの何に負けたくないと思っていたのかよく分からなくなっているが、同い年であり同じ時期に入団したエンイには先を越されたくなかったし、そのやり方が格好悪いと思っていた。
興味のない振りをして、その実喧嘩相手のエンイを気にしていた事に今更気付く。
「お前はどうなんだ? この五年間、どうしてたんだ?」
ウイスキーをぐいと飲み干し、次の一杯を頼んでからエンイは話し始めた。
「とんでもない事をしてしまったという意識はある。きちんと制裁は受けたさ。でも、俺は根本では何も変わってなかった。あそこにいた時と同じように、しょうもない事をやって生活しているよ。俺には、こうやって生きて行く事しか出来ないのかもしれない。人間、そう簡単には変われないって事かもな」
そうは言っても、ヒノテは今のエンイを見てまったく変わっていないとはとても思えなかった。昼間の違和感もそうだが、きちんと自分の中で線を引いているように感じられる。
「正直言うと、俺はお前が昔のままには見えないよ。こうやって普通に話せている事もそうだし、少し丸くなったんじゃないか?」
ヒノテは良い意味でそれを言った。エンイもまたその通り受け入れてくれたのか、
「少しだけ、救われるよ」
と、小さく言葉を吐いた。
それからしばらく、黙ってウイスキーを舐めていたヒノテは、さっき会った時から感じていた違和感の正体をふいに突き止めた。エンイは今日、一人だ。
「弟分はどうした? 今日は、一緒じゃないのか?」
「あいつは宿に置いて来た。今日は二人でお前と話してみたかったからな」
昔から、あの痩身で小柄な男はエンイの下にくっついて歩いていた。他の半グレ達と同じように、リーダーのカリスマにぶら下がっているという様子でもない。エンイの元でそれなりに立ち回り、ただのテッポウオという認識が団内では広がっていた。
ただ、金を稼ぐ事にはやる気を見せ、マグマ団員として働きつつ何かうまそうな話があるとエンイを乗せながら悪巧みをやっていた。
今でもあの弟分が下についていると言う事は、昔と似たよう悪事をまだやっているという事だ。
今の様子からはそうは見えないが、ヒノテはどうしてもそれが気になった。
「お前、自分が変わってないとか、しょうもない事をやって生活しているって言ったけど、実際に今何やってんだ?」
エンイは答えなかった。
それは言えない、とばかりに沈黙を決め込む。
「弁解も何もない、と?」
「そう受け取ってもらっても構わない」
凛としたその言葉に、何故、と問いかけたくなったが、ヒノテはそれを口に出来なかった。
何故変われないんだ。何故出来ないんだ。正論を振りかざすのは簡単だが、それに何の意味もない事をヒノテは良く知っている。
「そういう生き方しか分からない、か」
「言い訳に聞こえるよな」
「言い訳だと分かってるだけましだ」
はっ、と笑ったエンイは、ヒノテの肩をポンと叩く。
「お前にそんな事を言われる日が来るとはな」
「それはこっちも同じだよ」
二人は、照れくさそうに小さく笑う。
「お前に出来て、俺に変われない訳はないよな」
「よく言うよ。そう簡単に変われると思うなよ」
「言ってろ馬鹿ヒノテ」
今や二人に、昔のヒリついた雰囲気はない。
「馬鹿はお互い様だが、あんまり無茶やり過ぎるなよ」
「分かってる。お前と話せて、色々踏ん切りがつきそうだ。まっとうに生きようと思う」
その言葉を、ヒノテはただ信じた。嘘偽りない、エンイの本心として受け取れた。
「そう言うんだったら、今回はちゃんと引き下がれ。何かする気なんだろう? もう、やめとけよ」
エンイとその弟分がこの町に来て迷いを見せながらもまだ馬鹿をやり、しょうもない事をやっていると言われると、ヒノテも言っておかなければならないと思った。
メグリが大好きなこの町で、昔馴染みに道から逸れた事をさせる訳にはいかない。
「分かってるさ。分かってるんだ。でも、俺だけ抜ける訳にはいかない」
何をやろうとしているのかヒノテには分からない。けれども、弟分の事を言っているのだとすぐに悟った。昔から、自分の仲間だけは面倒見が良いエンイが、今も自分を慕ってくっついてくるあの弟分だけを置いて足を洗う事など出来ない、という訳だ。
「今更俺自身が、あいつに変わって欲しいなんて言えないんだ。ここまで引っ張ってきて、どう言えば良いか分からない」
「それはもう、思い切るしかない。どんなに難しいと思っても、そうした方が良いと思うなら、きっとやった方良い」
メグリの決断を思い出す。まだ実行に移してはいないが、決断して一歩踏み出す事は本当に難しい。ヒノテ自身も現在の心境に辿り着くまでに随分時間が掛かったし、旅に出始めた頃、半分は何のために歩いているのか分かっていなかった。
「俺だって人の事は言えない。あの大災害が起こるまで、変われなかった訳だからな。でも、俺に出来てお前に出来ない訳はない。お前の言った通りさ」
またしばらく黙ってウイスキーを飲み始めたエンイはしばらく考え込んでいたが、うん、と首を一つ縦に振って、口を開く。
「そうだな。そうだよな。今はきっとチャンスなんだ。いがみ合ってたお前が変わって、俺だってっていう想いが込み上げてる今なら出来る。そうだよな?」
「そうだよ」
余計な事は言わなかった。肯定だけして、後はエンイ自身が自分の道を決断できるとヒノテは思った。
「お前とここで会えて良かった」
「気持ち悪いな。そんな事言われるなんて」
「素直に受け取っとけ」
そうだな、と返答して、残りのウイスキーを飲み干す。普段あまり飲まないヒノテは、既に酔いが回っているのを感じた。酒の力が手伝ってエンイと真面目に話せたのだと思えばたまには悪くないものだと、空のグラスを見つめる。
旅の締めくくりに、エンイと並んでバーでウイスキーを飲む。その光景は確かに、二人が変わった事を示す様子に間違いはないのだろう。
明日ヒノテはフエンを去り、新しい人生をまた歩み始める。
次いつまた出会う事になるのかは分からないが、恥ずかしくない人生を歩もうと、酔った頭でヒノテもまた決心する。
「そういや、お前が連れてたあの子、一体誰なんだ?」
「今は秘密だ。次お前に会った時、今と変わっていたら、教えるよ」
彼女の事を簡単には話せない。酔いが回っても、それくらいの自制心がある自分をヒノテは褒める。「次か、そうだな、分かった。次の機会まで我慢してやるとするか」
それから二人は、今までまともに会話をして来なかった分を取り戻すかのように話し続けた。
馬鹿話をする古い友人などいないヒノテにとって、エンイは貴重な存在だ。
変化のしるしにグラスを合わせ、二人は夜を楽しんだ。