【五十四】
目を覚ました時、目の前には白い天井が広がっていた。
辺りを見回そうとすると、首や顔、頭が軋んで痛む。足を動かそうとしても、刺すような痛みが襲った。腕はかろうじて動く。視界は、片側が塞がっている。右目が腫れているのかほとんど見えない。音は……正常に聞こえているのかどうか分からない。それほどに静かな場所だった。
消毒液のにおいが鼻腔をつき、僕は、この場所が病院なのだと悟った。
「あ……」
声を出すと、唇が痛む。いつも通りに喋るのは、難しいかもしれない。
僕は、入院している。生まれて初めての経験だった。今まで大した怪我も病気もなく過ごしてきた。初めての入院が、ボコボコに殴られた怪我によるものだとは。
最近、僕の人生は初めて経験する事ばかり。
少し環境を変えるだけで、こうも色々な事が起こるとは思わなかった。
あれからどれくらいの時間が経っているのだろう。見える範囲にはカレンダーも時計もなかった。身体の痛みからすると、長く眠っていた感覚もない。綾子やケーシィ、店長は無事だろうか。
それにしても、ドクロッグに随分とボコボコにされたものだ。地下での記憶を思い出してしまい、僕は咄嗟に強く目を瞑った。しばらくは、夜眠るときに悪夢を見そうだ。
カツラさん達は、きちんと里中を捕らえたのだろうか。もし逃げ出していたらと思うと、その辺から飛び出してきて、僕に止めを刺そうとしてくるかもしれない。明るい病室にいながら、僕はぶるりと身体を震わせた。
あの悪夢が昨日だとすれば、日付的に今日はバイトだった。
「何を考えてるんだ僕は」
戻って来たんだと、妙なところから実感が湧いて来た。
この身体で、働ける訳がない。随分とあのバイト先に調教されてしまっている。僕がシフトに穴を空けたって、誰かが埋めるだけだ。
自嘲気味な考えも、生きているからこそだ。東側の窓から差し込む太陽光が、僕の身体をポカポカと温める。
……いや、暑い。もう随分と暖かくなった。夏は目の前。今年はどんな夏になるだろう。
そもそも、この傷はいつになったら治るのだろうか。一夏の間、こんなベッドの上で寝転がっているだけではしんどい。早々に退院したいものだ。
座りたくなって、身体を起こそうと力を入れる。幸いまったく動けない訳ではなく、激痛に耐えつつなんとか座る事が出来た。
今何がどうなっているのか。それを知るにはどうしたら良いのだろう。起きて病院を歩き回ってみようかと思ったが、足はどうしても動かすことが出来ない。痛みが強すぎる。
困った。
軽く見回しても携帯はない。誰か来てくれたりするだろうか。
何も知る事が出来ずに途方に暮れていると、ベッドを囲んでいたカーテンが勢いよく開く。
「目、覚めたんだね」
開けたのは綾子だった。
見た限りは、特に怪我もなさそうだ。自分以外が無事である事を確認出来ると、やっとほっとした。
「寝てなきゃ駄目だよ」
「分かってる。それより、あれからどうなった? ケーシィは? 店長は? 里中はどうなったんだ?」
「いいから先ずは横になって」
綾子が優しく背中を支え、僕は再び白い天井を見上げた。
「綾子は、なんともないの?」
「縛られていたところが少し痛むけど、それ以外は大丈夫」
「良かった」
端に置いてあった丸椅子を引き寄せ、綾子は座った。肩に掛けたバッグを足の上に下し、中をごそごそと探る。
「ほら」
その手に握られていたのは、モンスターボールだった。
渡されたそれを受け取ると、僕は初めて部屋でケーシィと出会った時のような気持ちになった。変に緊張してしまう。あんな目に合わせて、申し訳ない。
「出してあげないの?」
「そ、そうだね」
スイッチを押し、ボールを手のひら大に。恐る恐る両手でそれを開いた。
真っ白な布団の上に、不釣り合いな赤いシルエットが現れ、僕の知っている形になっていく。
ぽとりと布団の上に落ちたのは、両足を伸ばして座ったケーシィ。
「良かった……無事だったんだな」
「カツラさんがね、モンスターボールを届けてくれたの。幸い怪我もないし、凄く元気だよ」
綾子とケーシィが無事だった。こんなに嬉しい事はない。視線の読み辛いその糸目も、無表情のようで意外と豊かな表情をするところも、初めて会った頃から変わらない。
もちろん、変わった事もある。
ケーシィは、僕と綾子を前にびくつく事はなくなった。ご飯の時と、外へ出る時にはっきりと嬉しそうな顔をするようになった。遊んで欲しいと、甘えるようになった。
僕等は一緒に過ごして、仲の良い関係を築いた。それが誇らしく、嬉しい。
しばらくぼうっとしていたケーシィだったが、またすぐに遊ぼうな、と声を掛けると、糸目は緩ませ、キュウ、と甲高い鳴き声を上げ、ゆっくりと這って来て、僕の顔に抱き着いた。
「痛い痛い」
心配してくれていたんだ。痛くても、その気持ちが嬉しい。小さな身体を撫でると手に伝わる、柔らかな感触がケーシィの無事を感じさせた。
よく全員生きて帰れたものだ。
どうやっても生き延びる事は出来ないと思ったあの状況で、僕等が今安心して集っていられるのは、ケーシィのおかげだった。
僕が殴られ続けていたあの状況で起こった不思議な事態は、ケーシィが起こしたものだ。ポケモンという摩訶不思議な生き物は、かくも僕等の想像を超えて行く。
あんなに守りたいと思ったケーシィに、僕と綾子は守られた。小さい身体に秘められた大きな力が、僕等を助けた。
そんな不思議な生き物も、今は僕の顔に抱き着いているだけのかわいい奴だ。ゆっくりゆっくり撫でていると、だんだんと落ち着いてきたのか、ケーシィはしがみついたまま眠ってしまった。
僕とケーシィの再会を黙って見守っていた綾子は、眠りについたケーシィを抱き上げ、僕の胸の上へ俯せに寝かせた。
「あの時、ケーシィがテレポートを使ってくれたんだよね」
そう言って、何も警戒する事なくだらんと力を抜いたケーシィを、綾子は愛おしそうに眺める。
「そうだと思う。あの時は咄嗟の出来事で何がなんだか分からなかったけど、僕等二人を一瞬で外へ運び出したのは、間違いなくテレポートさ」
「使えたのかな。使えるようになったのかな」
分からないが、ケーシィが痛めつけられる僕を見て、なんとか助けたいと咄嗟に眠っていた力を引き出せた。そう思った方が格好いいじゃないか。
「どっちだと思う?」
「分かんない」
でも、と綾子は一言置いた。
「どちらであっても、ケーシィが私達を守ってくれた事には変わらない」
「そうだね」
僕等は無事だったが、他はどうなのか。
綾子はきっと、ケーシィを渡しに来ただけではないだろう。
「それで、どうなった?」
「モンスターボールを持って来てくれたカツラさんに聞いたんだけど、あの人は捕まったって。一人で椅子に座りながら大笑いしていて、随分と大人しく捕まったらしいよ」
しっかり捕まったのなら良かった。燃やすという行為に取りつかれた悪魔は、火がついたように狂っていた。大人しく捕まったのも素直に諦めたというより、彼にしか分からない、誰にも理解出来ない考えがあるのかもしれない。
「店長は?」
「貫太と同じくらい酷い状態だけど、命に別状はないって」
「良かった……。店長には、悪い事しちゃったな」
綾子は申し訳なさそうに目を伏せた。
でも命があって本当に良かった。後でいくらでも謝れる。
店長もまた過去の行いを悔い、悩み続けていた。今回の事と自分がやってしまった事は別であり、僕達は、今後も同じ様に悩み苦しんでいくのだろう。そうでなくてはいけないと思う。
「色々あったけど、落ち着いたんだね」
タマムシを蝕んでいた狂人は去った。事件の最中でも街は賑わっていたし、人の営みは変わっていなかったが、それでも皆心のどこかでは不安を感じていたはずだ。この大きな街には、僕を含め社会に適合しない連中はまだたくさんいるだろう。それでも、あの大きな不安材料が取り除かれた事は大きい。
人は何をしでかすか分からない。それを考えれば、今後も時折、今回と同じではなくても、恐ろしい事件は起こるのだと思う。僕等が人間である限り、それはなくならない。
「生きてて、良かった」
お前が言うな。そう言われかねない言葉だったが、綾子はただ、頷いた。