【五十三】
「気にする事ないよ。このケーシィは、君のじゃない」
呻き声を上げて汚い床に這いつくばる僕に向かって、里中はそう言った。
一言一言を理解するまでに時間がかかる。一体こいつは何を言っているんだ。僕のケーシィじゃない?
じゃあ一体どこの誰だ。
直視する事も辛い。焼け焦げたケーシィの身体を見ても、僕には判断がつかなかった。
「君のケーシィはこっち」
里中は、先ほどモンスターボールを取り出した右ポケットとは反対のポケットから、もう一つモンスターボールを取り出して見せた。
「ここで黒こげになっているのは、次どこかに放置しておくケーシィだよ」
横倒しになったまま、何も悪びれる事なくそんな事を言ってのける里中を僕は再び睨みつける。
「そんな睨んでどうするんだ。良いじゃないか、君のケーシィじゃなかったんだから。怒る理由はないだろう? まずは安心したらどうだい?」
黒焦げのケーシィをボールに戻し、里中はそれをポケットにしまい込んだ。
「そのケーシィは、誘拐して来たのか?」
「そうだよ。僕のゴーストは優秀なのさ。闇に乗じてモンスターボールを掠め取る事も、ポケモンを操りここに来させる事も、何でも出来る。人やポケモンを深いところで操れば、時間差でここに連れて来る事も出来る。連れて来てしまえば、あとはドクロッグの出番だ。死なない程度に痛めつけて、最後に燃やして完成だ。後は誰かがそれを見つけて、広めてくれるのを待つのみ。どうだい? 君達は、こういう話が聞きたくてこそこそ嗅ぎまわっていたんだろう?」
椅子の上で足を組み、里中はふふんと鼻を鳴らしてご機嫌だった。店長を尾行する僕等を見つけ、まんまとここに閉じ込める事に成功した訳だ。さぞ気分が良いだろう。
僕と綾子はここに捕まっているが、店長はどうした? やっぱりグルなのか? こんな理解不能な言動や行為を続ける奴と同調しているのだとしたら、綾子はとんでもない店で働いていた訳だ。同じ店に、憎み恨む対象が三人もいるなんて。
「店長はどうした。お前の仲間なのか?」
里中は、ケラケラとハウリングするスピーカーのような金切り声で笑い出した。くくく、と腹を抱え、涙を流して手を叩く。
「そっかそっか。君達が尾行していたのは店長だもんな。でも、仲間じゃないよ。あいつはあいつで、僕を探っていたみたいだね。君達より随分前からこそこそ嗅ぎまわっていたようだから、そろそろ始末しようかと思ってところだったよ」
店長も、探っていた。
僕等はあまりに失礼な疑いを掛けていた、という事だ。
「店長も訳アリみたいだね。裏で縛って痛めつけていたら、これは俺が受けるべき罰だって、何度もボヤいていたよ。貫太君何か知ってる?」
きっと、自分のポケモンに行ってしまった仕打ちを、店長は悔やんでいるのだ。どこまで行っても許される事のない自分が受ける罰として、全てを諦めたのだろう。
「……殺したのか?」
「うーん、どうだろう。多分、まだ死んではいないと思う。気絶してるだけかな」
既に店長がやられているとなると、次は僕等の番。抵抗する手段は、皆無。
「それより、どうして君達は店長に疑いを向けたんだい?」
「……殺されたポケモンと、店に来店したポケモンが、一致するから」
「なるほどねえ。それは僕も無意識だった。次はどいつを燃やしてやろうかなって考える時、自然と考えるのは店の光景だもんなあ。偏っちゃってたか。最後に俺じゃなくて店長だと思ってしまったのは、店長の訳アリに何か関係があるんだろうね」
里中はわざとらしく額に手をやり、あちゃー、と呟く。
「……なあんてね。途中から、意識して店に来たポケモンと同じ種類のポケモンを燃やしていたよ」
「何故? わざわざ疑われるような真似を?」
「最終的には、人間を燃やしたいのさ僕は」
黒焦げたケーシィを見ている時と、同じ表情で僕を見つめていた。綾子の言っていた、そんな顔をするやつと一秒でも一緒にいたくない、というのが良く分かった。
「意味が分からない。そんなリスクを冒したら、自分が捕まりやすくなるだけだ」
「それが良いんじゃないか。カツラさんが来た時なんか、イキそうな程興奮して大変だったよ。流石に貫太君達と一緒に会いに行くのは攻め過ぎだったかもしれないけど、スリルあったよ本当に」
本当に楽しんでいたんだ。そう分かるくらい、ニヤニヤと虚空を見上げて思い返している姿は、気味が悪い。
「狂ってる」
「いいんだよ狂ってて。俺は始めから、一生捕まらないなんて思ってない。それを承知でやっているんだ。ただ、この衝動が抑えられないだけ」
「結果的に僕等三人を一緒に捕まえて、あんたは満足という訳か」
「うまく行き過ぎだと思ってるよ。そもそも、身の回りの人間には手を出す予定はなかったんだ。すぐに捕まっても面白くないしね。ただ、店にいる見知ったトレーナーのポケモンを燃やしたら、凄く良いだろうなって思ってたから、もしかすると今日みたいな状況になって、やれるかもしれない。そんな願いを込めて、店に来たポケモンを燃やしていたんだよ。君の言う通り、僕は満足さ」
期待せず垂らしていた釣り針に、僕等はまんまと刺さり、そのまま釣られてしまった。間抜けすぎる。
「綾子のバッグに、死体の入ったモンスターボールを入れたのもあんたか?」
「もちろん。あれは流石にやり過ぎだった。若干ポケモンを燃やすという行為に飽きが来始めていたからね、急ぎ過ぎたよ。おかげで、多分僕はそう遠くない未来に捕まるんだと思うよ。警察がどんな手を使って調べてるのか知らないけど、きっと無能ではないだろう。だからね」
こっちも始めようか。
里中はそう呟くと、先ほどポケットから出したモンスターボールを開く。中からは、まだ黒焦げていないケーシィが現れる。ただ、僕等と同じように縛られ、身動きはとれない様だった。
「……どうする気だ」
分かっていても、これから受ける拷問のような仕打ちを思うと、恐怖が靄のように身を包む。
「せっかく人間を捕まえたんだから、楽しませてよ。たっくさん痛めつけてあげるから、頑張って意識を保ちなよ。もし君が気を失ったら、今度こそ君のケーシィを燃やすね」
つい数秒前まで僕を包んでいた、鳥肌が立つほどの恐怖を上書きするように、瞬間的に怒りが渦巻き、頭を再び沸騰させた。
「お前、ケーシィに手を出して見ろ。絶対に殺してやるからな」
何を言っても、今僕に出来る事はない。でも、ケーシィが燃やされる事だけは我慢ならない。それだけは、止めてくれ。
里中は、貼り付けたような笑みを浮かべつつ、立ち上がってこちらへ寄って来る。
「貫太君がケーシィを持ったと聞いた時から、もしこの状況になった時、目の前にいるのが君とケーシィだったらいいなってずっと思っていたよ。ケーシィを痛めつけて苦しむ君を見るのか、君を痛めつけ苦しむケーシィを見るのか、どっちがいいか、中々決められなくてね。……でも、決めたよ。君を痛めつけ、ケーシィが苦しむ姿を楽しんだ後、目を覚ました時目の前に焼け死んだケーシィの姿があるって、どうだい?」
心のある人間のやる事じゃない。
背中を向けた状態でボールから出されたケーシィを見ると、声のするこちらを見ようとしているのか、縛られたまま小さな身体を動かし、目が合った。僕を心配そうに見て、甲高い鳴き声を上げる。
「ケ、ケーシィ……」
悟君の家で酷い目にあって、ゲームコーナーの景品になり、僕のような人間の元へ流れ着いて来た。少しの間心穏やかに暮らせたかと思えば、これだ。僕はケーシィにテレポートを使えるようにするどころか、まともに守り切る事も出来ていない。
やっぱり僕は、トレーナー失格だ。
ポケモンを燃やすような人間には、それ相応の仕打ちが待っていた。
ただ、それは僕だけで良い。ケーシィだけは、どうか、心穏やかに、幸せに。
「そのケーシィがテレポートを使えないっていうのも、ぞくぞくするよ。本当だったら縛られていてもテレポートで抜け出せるのに、君が思い出させてあげなかったせいでそれが出来ない。ああ、なんて不幸なんだろうねえ、君も、ケーシィも」
里中は、椅子ごと横倒しになった僕を元の状態で座らせた。ケーシィが僕を、僕がケーシィを視界に入れられるよう目の前からずれると、腰のホルダーについているボールから、ドクロッグを出した。
「やめて! お願い!」
反対側で綾子が叫ぶが、里中の黙れ! の一言で押し黙った。
「綾子ちゃん。下手に動いたり喋ったりすると、君からにしちゃうよ? 正直貫太君とケーシィがメインだから、君なんてどうでも良いんだ」
綾子にも手を出さないで欲しい。どうか、どうか僕だけにして下さい。
今は、それさえ口に出す事が出来ない。僕がそう懇願したら、里中は満面の笑みで喜び、綾子やケーシィを痛めつけるかもしれない。そういう人間だ。
「さ、始めようか」
僕の前に立つドクロッグが、オーダイルを仕留めたあのどくづきを打つかのように、腕を振りかぶって構えた。
「いけ」
里中の一言で、僕の腹にきつい一撃がめり込む。くぐもった声と共に、肺から息が漏れる。
「どくは流さないよ。貫太君には、痛みを味わってもらう。ドクロッグ、次だ」
さらに一発、左側から脇腹へのボディーが突き刺さる。痛みに悶え、顔をしかめる。駄目だ、どうしようもない。僕は、今日ここで死ぬ。本当だったらあのオーダイルが動けなくなるほどの一発だ。僕なんて一発で失神だろう。
手加減されている。本当にこいつらは、僕を嬲る気だ。
顔面への一撃は、僕の意識を飛ばしかけた。脳が揺れ、前も後ろも左右もわからなくなる。つんざく痛みが、少し遅れてやってくる。
腹部への殴打は、顔や頭を殴られた時とは違う。痛みに悶え、のたうち回りたくなるほどの痛みが襲う。ある程度感覚を空け、僕が最大限苦しむように殴ってくる。
もう今の時点で何発殴られているのか分からない。
里中が何か言っているが、僕はその内容もいまいち分からない。
後頭部、顔、腹、脇腹、足の甲、脛。身体の至るところを殴打され、痛みはもう全身を貫く。
「あ、あ……」
口はだらしなく開き、視界はぼやけ、意識だけが、まだ。僕が眠ったら、綾子もケーシィも死ぬ。その言葉だけが、僕をつなぎ止めた。
これが罰。ポケモンを燃やし殺した人間への罰だ。店長がこうして拷問を受けた時、自分が受けるべき罰だと言ったらしいが、その通りだと思う。
何も出来ないまま、圧倒的な痛みと苦しみを味わい死んでいったキャタピーは、きっと今の僕の様に苦しんだ。
そして、その苦しみから逃れられない。逃れたら最後、僕の一番大切な人とポケモンが、僕と同じ苦しみを味わう。
このまま一生地獄の業火に焼かれ続け、全てが終わり、何もかも焼け落ちて、もし助かるような事があれば、僕は初めて、綾子やケーシィに笑いかける事が許され……る、の、かも、しれない。
「やめて! お願い! もうやめて! ねえ! ねえ!!」
子どものように、声を張り上げて叫ぶ綾子の声が聞こえてくる。最後に一度だけ、綾子とケーシィを目に入れておきたい。
殴られ続けて、飛びそうになる意識をかろうじて保ちながら、ぼんやりする視界でなんとか綾子とケーシィに焦点を合わせようと顔を上げる。
ケーシィの泣き叫び暴れた姿、綾子が動けないまま叫ぶ顔。僕が出来る事は、もう、ただこうやって意識を保とうと頑張る事だけ。せめて、自分から諦める事なく、断ち切られて意識を失いたい。こんな僕でも、最後は頑張りました。零点の人生、一つくらい、三角があったって、いいんじゃ、ないかなって。
里中の高笑い。ドクロッグが、僕から距離を取る。終わらせようとしている。ああ、せめてその一撃で全てを刈り取って……あれ、駄目だ、僕の視界から、ケーシィが消えて、こんな瀬戸際でも、僕は頑張れない。
突如、頭の上に重さが加わった。意識がなくなる、もう、だめ……。
「なっ!」
里中が驚きの声を上げる。距離を取ったドクロッグは、助走をつけた。
振りかぶった拳を僕の顔面へ打ち込み、きっとそれで全てが終わ……。
視界がほんの数舜暗転した。頭の中は、殴られて元々ぐちゃぐちゃだったが、それとは違う。脳が回転し、訳の分からない気持ち悪さが込み上げて来て、吐き気が僕を襲う。かろうじて保った意識で僕が見たのは、里中とドクロッグの後ろ姿。そして、隣には綾子がいる。
「あ、え? 貫太?」
綾子も、泣き腫らした顔で僕と顔を合わせる。何が起こったのか分からない。ただ、僕と綾子の間にいるケーシィが、左手で僕の右腕を、右手で綾子の左腕を掴んでいる。
「貫太ぁ! お前何やってんだあ! せっかくの楽しみを! 至高の時間を!」
辺りを見回し、僕等を見つけた里中が叫んだ。
「行け!」
里中の声に反応し、ドクロッグがこちらへ一足飛びに近づいてくる。振りかぶった腕が、今度こそ僕を捉えようという瞬間、ケーシィがギュっと強く手を握る。
また数舜の暗転。頭が割れそうな程痛み、今度は上も下も右も左も、前も後ろも分からなく、ぐるんぐるんと視界が回って、ああ、吐き気が強い。
次の瞬間、背中が固かった。今度は真っ暗な世界が広がり、風が僕の傷を撫で……風?
「え、外?」
視界に広がるのは、タマムシの上空に広がる、ビルで切り取られた四角い空だった。
「貫太、これって」
僕達は、三人仲良くさっきいたビルの前に転がっているようだ。
「う、うん。きっとそうだ」
綾子が今どういう表情をしているか分からない。ケーシィも、ただ横で一緒に寝転がっている。
「貫太君!」
また、知っている声が僕を呼ぶ。多くの足音が駆け寄って来る。うるさいなあ。せっかく、良い気分で横になっているというのに。
「これは酷いな。……まさか君、奴に」
僕を抱き起こしてくれたのは、カツラさんだった。気づけば周りには警察が取り囲み、僕等を見守っている。
「僕より……そこに、寝転がっている綾子とケーシィを、先に」
「あ、ああ、そうだね」
カツラさんが指示すると、警官二人が寝転がった綾子とケーシィを持ち上げ、そのままパトカーへ連れていった。
「私より先に貫太を!」
「いいから!」
綾子の声に立ち止まった警官は、カツラさんの頷きに反応してそのままパトカーへ乗り込んだ。
「病院まで送らせよう。君達にはとても悪い事をした」
「それより、この下にまだ怪我人がいるので、あとはお願いします」
「分かってる。私達は奴を追い詰めに来たんだ。逃がしやしないし、全員助けるさ」
カツラさんの言葉を受け取ると、途端に僕の身体には安心が襲う。あれだけ頑張って保とうとしていた意識を、もう、保てない。途端に眠くなった僕は、カツラさんに抱きかかえられたまま、目を閉じた。