【五十二】
人間なんて、何をするか分かったもんじゃない。
自分自身も禄に分からないんだから、他人なんて尚更だ。
店長は、自分のポケモンを一匹殺している。綾子はそう言い切らなかったが、店長の仕打ちがたたって、とはそういう事だ。
里中さんは、あんなに人畜無害そうな人柄をしておいて、僕等を今こんなところに監禁している。
僕は、過去にポケモンを燃やして殺した。
そして、綾子は僕を殺そうと思っていたと言う。
これは一体どういう事だ。
二年ばかり近くで見てきたはずなのに、僕は何も分かっちゃいない。認められて嬉しかったのも、仲良く出来ていると思っていたのも、距離を少しでも縮められたと思ったのも全て幻想なのかもしれない。
僕は一体、どれだけの罰を受ければ許されるのだろう。何もかも失って、惨たらしい死に方をすれば、許してもらえるのだろうか。
もうそれならそれで良い。
「……殺そうと思っていたなら、殺してくれて良かったのに」
僕の言葉に、綾子は「そうだね」と返すだけだった。
綾子を殺人犯にするなんて、と偽善染みた事を言う気はなかった。全ての罪と責任を取る覚悟があるのならば、そうすれば良い。
「初めて会って名前を聞いた時から、ずっとそう思っていたのに、気付けば随分長い間一緒にいるんだよね」
「初めて会った時?」
アルバイトとしてあの店に入って、店長の次に挨拶をしたのは綾子だった。初日のバイトが同じシフトで、随分緊張したのを覚えている。大した会話もしていない。そっけない態度で挨拶を返され、それだけだった。
「そう。顔を見た時、びっくりしちゃった。まさかと思って後から調べたら、私の知ってる人だったから」
「綾子は、僕の事を知っていたんだ」
どこだろう、過去にどこかで会った記憶はなかった。殺したいと思われる程、人に関わってきてもいない。
「分からない? 殺したいと言われる程の事って、そうないでしょ?」
「……ああ、そっか」
僕の人生で、そんな出来事は一つだけだった。誰にも言っていないし、僕だけしか知らない。死んだキャタピーだけが、夢の中で僕への恨みつらみをぶつけてくるだけ。
その罪の重さは今でも僕にのしかかっていて、呪いの様に僕を包み込んでいる。
「もしかして、あのキャタピーの」
「やっと分かった? あなたが燃やしたキャタピーは、私が可愛がっていたポケモンだったの」
ああ、そうか。そうだったのか。綾子は、僕に罰を与えてくれる人だったんだ。
そう思うと全てが納得出来て、僕はそれを受け入れようと思った。十年以上もの間、罪を隠してのうのうと生きてきた僕は、牢獄で裁きを待つ罪人のように、あのアパートで暮らしていたという訳だ。
「あの日、私は初めて買ったモンスターボールで、キャタピーを捕まえようとしていたの。十歳になる前からあの公園で一緒に遊んでいて、触覚にリボンまでつけて、本当に仲が良かった。ボールを置いて、キャタピーに話しかければ、向こうから入って来てくれそうなぐらいにね」
選んだ訳ではない。僕があのキャタピーを燃やしたのは、たまたまそこにいたからだ。何の恨みも理由もない。
今なら理解が出来る。だからこそあまりにも外道で、愚劣で、救えない。
「捕まえようと思ったらすぐに行くべきだったんだよね私も。丁度沙穂から遊びに誘われていて、後回しにしたのが失敗だった。誰にも言わず、一人で捕まえたいなんて考えず、沙穂を連れて行けば良かったんだ。今でも、本当に後悔してる」
でもね、と綾子は続けた。
「どんなに遅くなっても、どうしてもその日にモンスターボールを持って行きたかったし、公園に行ったのは間違いじゃなかった」
「僕を、見つけたから」
「そう。いつもはキャタピーを呼びつつ公園を歩き回れば、向こうからひょっこり出てきてくれたのに、その日は出て来なかった。随分探したなあ。あの公園、広いから歩き回るの大変なの。知ってるでしょ?」
もちろん。広くて、人もいなくて、もう日が落ちかけて夜の帳下りて行く雑木林の中だったからこそ、僕はあんな事を行ったのだ。
「歩いてたらさ、雑木林の中でゆらゆら揺れる変な光が見えたの。なんだろうと思って近寄ったら、火なんだよね。焚火でもしているのかな、と思ったけど、どう見てもそんな感じじゃないしさ。私も、もう日が落ちかけていて、薄暗い公園を歩き回るのが楽しくなっちゃって、その火がとても神秘的に見えたの。非日常というか、遊んでいてはいけない時間に、普段見ないものがある気がして、近くの木に隠れてじっと見てた」
そうしたらさあ、と綾子は楽しい思い出話をするかのように、語気を強めた。
「火が消えかけているところまで見ていて、私おかしいなと思ったんだよね。どうみても、燃やされている対象が動いてるんだもの。だんだん恐ろしくなって、でも何故だか釘付けになって、そこから動けなかった。火が消えて、あなたが逃げるようにそこから走り去った後、その燃えていた物に近寄ったら、すぐに分かったの。私が着けたリボンの一部が、そこに残ってるんだもの。怒りと悲しみで滅茶苦茶になったけど、なんだかその現場にいると私がやったみたいだし、益々怖くなってきて私も逃げちゃった。これも私が本当に後悔してる事の一つ。翌日見つかったキャタピーは、私が埋めてあげる事もなくどこかへ連れて行かれた。私が遅かったばかりにあんな仕打ちを受けたんだと自分を責めたけど、結局私の中に最後まで強く残ったのは怒りだった。あなたの姿や顔は、近くで隠れて見ていたから覚えてたし、色々調べたら、すぐに自分の記憶と一致する人を学校で見つけたよ。まさか同じ学校の下級生だとは思わなかった。でも、見つけたところで、私はどうやったら自分の怒りや悲しみをぶつけられるか分からなかったんだよね。殺してやりたい程憎んだし、親が心配して病院に連れて行こうとするくらい泣いたよ。でも、私にはその時、何をどうすれば良いのか分からなくて、ただ赤ん坊のように騒いで、塞ぎこんで、暴れたなあ。当時、下級生だったあなたなら、まだ私の方が力も強くて、殺せたかもしれないのに、何で動かなかったんだろうって、後になって何度も考えた。そうしたらね、いつも同じ結論に落ち着くの。燃えるキャタピーを見ていたあなたは、恍惚とした笑みを浮かべていた。それが私には恐ろしかった。得体の知れない、あまりにも理解の範疇を超えた表情だったよ。それを思い出すと、怒りと悲しみを抑え込めるくらいに恐ろしかったし、関わり合いにはなりたくなかった。そんな人間と一秒でも一緒にいたくない。もしあの表情が私を捉えたら、私も燃やされかねないとさえ思った。だから、何もしない事にしたの。全てを抑え込んで、毎年毎年キャタピーが燃えていたあの場所に花を供えて、私だけは絶対に一生覚えておこうと思った。同時にあなたの事も思い出してしまうけれども、それはキャタピーを助けてあげられなかった私への罰だと思って、受け入れる事にしたの」
僕は、全てを黙って聞いていた。
何も言えないし、言うつもりもなかった。綾子が今語った事は、初めて聞く僕がポケモンを燃やした行為の客観的視点だった。恍惚とした笑みを浮かべていたそうだ。
僕がポケモンを燃やした尤もらしい理由など、本当になかった。言い訳もなく、ただ、燃やすと素晴らしいものを見られると思って、燃やした。案の定燃える姿が美しく、僕は、恍惚とした笑みを浮かべた。
それが真実。
いくら考えても、理由など分からないはずだ。燃やした理由は、燃やしたいと思ったから。本当に、ただそれだけだという事だ。
「十年近く経って、キャタピーの事は忘れなくても、あなたの顔なんて記憶からだんだんと薄れた。でも、まだ私の中に怒りや憎しみは残ってたってよく分かった。あなたがバイト先に現れた時、朧気に記憶した顔を思い出したんだもの。名前を聞いた時、我を忘れて殺しそうになったしね。でも、あなたを殺して私も捕まっちゃうなんて、そんなの嫌。どうしてポケモンを燃やす様な人間を殺して、私の人生を棒に振らなくちゃいけないの? って、何度も何度も考えたなあ」
「何も話さないし、そっけないのはそういう事か」
「ううん。私のこの性格と態度は、あなたにキャタピーを殺されてからずっとこう。私は、自分の大切なポケモンを燃やされた人間。それはもう、変わらないの」
「だったら、その話をしてくれれば良かったのに。そうしたら、僕だって」
「あなたが最初から優しい人間だと分かっていれば、すぐにそうしたかもね。でも、そんな事を喋ったら、私に何かするかもしれないでしょ? 小さい頃に見たあなたの表情を思い出したら、そんな事話せなかった」
「だから、僕に近づいたんだ」
「自分の近くに置いておけば、うまく殺せるチャンスもあるかと思ったからね」
僕が働き出してから一年程経った頃、綾子と暮らし始めた。話す機会がその一年で特別増えた訳でもないのに、アパートへ招かれた時僕はただ舞い上がっていた。その辺の青年男性と同じで、女性に家へ招かれた事がただ嬉しかったのと、自分の事も相手の事も、碌に分からないままの関係が心地よくて、僕は綾子に惹かれて行った。不思議な雰囲気のある綾子が、ありのまま受け入れてくれたと思って、僕は甘え始めた。
何も、知らずに。
「どう? アパートで暮らしていた僕は、隙だらけだったんじゃない?」
「もちろん。きっとうまい事やろうと思えば、いくらでもやれたんだと思う。でも、人殺しだよ? いくら怒っていても、憎んでいても、なかなか踏み切れなかったよ。何時だったかなあ、覚えてる? あなたがポケモンを持たない理由を、ぼそっと語ったの。自分はポケモンのトレーナーになる資格なんかない。向いてないんだ、って。まさかそんな事を言う人間だとは思ってなかった。ちゃんと極悪人だったら、思い切れたのかもしれないのになあ。辛そうな顔してそんな事を言うあなたの顔を見た時から、私はもう迷い始めていたの。そこからだよ、だらだらと一緒に過ごして、気付いたら一年以上も一緒にいるんだもの。おかげで、私はもうあなたを殺せなくなっちゃった」
「……どうして?」
「あなたがケーシィを連れて来たからだよ。トレーナーになる気ないなんて言ってたくせにさ、何を思ったのか急にケーシィを連れて来た時は本当にびっくりした。キャタピーを殺しておいて、そんな事許されると思っているのかと憤ったりもしたけど、あなたは本当にケーシィを可愛がっているし、何より、ポケモンを燃やした自分がケーシィのトレーナーである事をずっと悩んでるのも分かってた。夜遅くまで眠らずにボソボソ呟いてるのも聞いた事あるし、ケーシィが好きなくせに、自分なんてっていつも卑屈なんだもん。一緒に暮らしていれば、それくらい私にも分かる。ケーシィだってあなたにとても懐いているし、私とも仲良いしね。そうなっちゃうと、私にはもう殺せない」
ずるいなあ、と綾子は呟いて、喋らなくなった。言いたい事は全て言い切ったらしい。どうせ死ぬなら言ってやろうという綾子の告白は、とても驚くべきものだったけれども、同時に何かが腑に落ちた気もした。綾子が僕に憎しみを抱いていたのなら、僕へのそっけなさや、何も話したがらない様子なのも、納得出来る。
普段から僕以外の人間と接する綾子の態度とは別だ。客への対応だって人当たりの良い人にしか見えないし、壁は作っていても、他のバイトや里中さん相手にも、一定の愛想は見せる。僕相手にはそれがなかったし、何故一緒に暮らしてくれているのか、正直分からなかった。
「今回起こっている事件は、僕が犯人だとは思わなかった?」
綾子は、うーんと唸ってから、間を置いて答える。
「思ったよ。あんな事をする人間が、あなた以外にいるなんて考えられなかったから。でも、ずっと一緒にいればいる程、あなたがポケモンを燃やせるような人間かどうかは、私の中でも分からなくなってた。小さい頃のあの記憶が、全て幻だったんじゃないかって思う程に、私も混乱していたんだね」
「でも僕は、本当にポケモンを燃やしている」
「そう、幻じゃない。何で? どうしてなの? あなたは、ポケモンを燃やすような人間じゃない。ケーシィに、不器用ながらもあんなに愛情を注げるのに、どうして?」
その疑問に、燃やしたいから燃やしました、とは答えられない。魔が差しました、と言葉にするのは楽だが、そうじゃない。
「僕は、圧倒的なまでに無知だった。無学だったし、ポケモンが生き物であるという知識はあっても、その認識があまりにも薄かったんだと思う。自分でも変な事言ってるのは分かってるけど、そういう事なんだ。愚かで、成長のない子どもで、想像力が欠如していた。吐き気がする程卑劣だというのも分かってる。殺されてしかるべきだとも思う。だからこそ、僕は一生消えることのない自分の行いを背負って、考えて行かなきゃいけないんだ。僕は臆病だから、自殺なんて出来ない。今あのキャタピーに僕がしてやれるのは、僕が悩み苦しみながら地獄のような人生を生きて行く事だけなんだと、最近考えるようになったよ」
「ケーシィが、そうさせた?」
「そういうこと」
かな、と僕が言うと同時に、静まり返っていた薄暗いこの場所に、扉が開く音が響いた。
店の入り口ではない。奥の部屋からだ。
歩く足音が聞こえると、今度は突然店の明かりが強くなり、僕は目を伏せた。
「いやあ、凄い話聞いちゃった。なるほどねえ、貫太君にはそんな過去があったんだ。綾子ちゃんも殺すだなんて、出来もしないのに言うもんじゃないよ」
扉の奥から出てきたのは、里中さんだった。僕の知る彼そのものだ。人当たりよく、店を上手に回している彼が、僕等をここに監禁している。にわかには信じられないが、今この状況が真実を語っている。
「ごめんね盗み聞きしちゃって。ここ、監視カメラとマイクついててさ、裏で話聞こえるんだよ」
どうせ死ぬなら、聞かれたってなんだって関係ないだろう。それよりも、ケーシィだ。
「ケーシィは、無事なんでしょうね」
カウンターから出来た里中さんは、割れた酒瓶やお菓子の食べかす、空のコンビニ弁当などを雑に端へ寄せつつ、店をゆっくりと歩き回った。床のついた焦げ後が、ここが何に使われていたかを物語っている。
薄暗かった時はそこまで気にならなかったが、臭いがひどい。何も片づけず、随分と放置しているのだろう。廃墟に人が住み着き、片付けもせず散らかすと、こんな臭いになるものなのか。
里中さんは、僕と綾子が座らされている間まで来ると、カウンター席の背の高い椅子に腰かけた。
「たまには掃除するんだけどね。汚くて悪いね。それで、なんだっけ? ケーシィか」
ポケットからボールを取り出し、それを宙に放って、キャッチして見せた。まだその中で無事なのか。
「それ、ケーシィが入ってるモンスターボールなんですね?」
「そうだね」
「無事、なんですよね?」
「貫太君さあ」
里中さんは、僕の問いかけを無視して話し始める。
「まさか君も僕と同じ人種だと思わなったよ。ポケモンを燃やすって良いものだよね。存在そのものを蹂躙出来るというかさ、上に立ったって感じするよねえ。気持ち良くて、やめられないよ。だから、燃やす理由なんてそんな難しく考える必要なんてないんだ。もっと正直になりなよ」
そう語って、ボールの開閉スイッチを押し込んだ。手のひら大の大きさになったボールを、たまにテレビで見る、格好良いトレーナーが片手で卵を割るような手つきで開いた。
この汚い廃墟の床へ、ボールの中から赤い光線が伸び、ポケモンのシルエットが形成されていく。ぐにゃりぐにゃりと揺れ、段々、形が安定して……。
「ほうら、燃やすって素晴らしいだろう?」
綾子のけたたましい悲鳴が、人が作り上げた欲望の空間に反響した。
「さ、里中ぁあぁああああああぁああああぁ!」
僕もまた、その目の前の光景に、沸騰した頭で叫ぶ。縛られている事も忘れ、飛び掛かろうと全身に力を入れるが、動ける訳もなく椅子は倒れ、床へ横倒しになる。頬に裂けるような痛みが一瞬走った。瓶の破片か何かで切ったのだ。痛みを気にせず、椅子に座る里中を睨みつける。さも事も無げに出した”真っ黒こげのケーシィ”を見て、恍惚の表情を浮かべていた。
「お前! ケーシィを! この糞野郎! 殺してやる! 絶対に殺す!」
「何で怒ってるんだい? 君だってやった事だろ? 分かってくれると思って、わざわざ明るくしたのに。そんな反応されたんじゃ、燃やした甲斐ないなあ」
外道だ。屑だ。こんな行為、許されて良いものじゃない。黒こげになったケーシィに視線を向けると、まだ、生きているのか苦しそうに息をついて動いていた。
奥で綾子は震え、僕は怒りで気がおかしくなりそうだった。
焼けて苦しむケーシィを見る里中の表情を見れば、綾子の怒りが実感で理解出来た。
よくこれを抑えたものだし、恍惚とした表情の恐ろしさも理解出来る。
僕は、こんな表情をしてポケモンを燃やしたというのか。ただ命を奪い、愉悦に浸ったあの表情は、人間じゃない。こんな奴、生きていたら駄目だ。
「分かってないなあ貫太君。仲間かと思ったのに。ちぇ。つまんないの」
狂ってる。これが現実か? 僕は、今罰を受けているのか? この地獄のような場所で、かくも惨たらしい行為が行われていた? 僕のケーシィがその餌食になった? それを目の前で見せられて、素晴らしいだろうって?
頭が追い付かず、怒りで震える身体と、自分も同じ事をしたんだという内から湧き出る罪悪感と、全てがない交ぜなって、ただただくぐもった声で僕は呻き続けた。
殺せ。もう殺してくれ。それが最後の罰なら、さっさとやってくれ。
「せっかくのお披露目なのにな。まったく分かってないよ君達は」
里中のまったく理解出来ない言葉が、現実離れしたこの異空間に投げられ、僕はもう、何も言い返す事は出来なかった。