【五十一】
薄暗かった。
掃除のされていない、埃っぽい部屋の臭い。ツンと、食べ物の腐ったような臭いも混じっている。
ここはどこだろう。
動こうと思ったが、手は後ろ手でロープか何かで結ばれている。両足も同様だ。
僕は椅子に縛り付けられ、座らされていた。
意識が明瞭になってくると同時に、身体への痛みが襲ってくる。身体をくの字に曲げたくても、身体が動かなくてどうにもならない。ただ、痛みに耐え続ける事しか出来なかった。
どうなってる。何が起こってる。
記憶を辿って一番最初に思い出せたのは、雑居ビルのエントランスで里中さんに殴られたという事。後覚えているのは、綾子の怯えた表情。それにゴーストのニヤりとしか顔だけだった。
そうだ、綾子はどうなった。綾子だけではない、背負っていたリュックがなく、ケーシィもいない。
少し目が慣れてきた。辺りを見回せば、場所が分かってくる。丸型のソファ。ボックス席に、カウンター。店を飾る絵や、ラックへ並んだ歯抜けの酒瓶。
「……飲み屋? いや、バー……かな?」
半年以上前だと思うが、付き合え付き合えうるさい店長に連れられて、そういう店へ一緒に行った事があった。見た目にはそう見えるが、僕が経験した場所とは、華やかさが違う。
一言で言えば廃墟だ。目の前の椅子はひしゃげているし、ソファはカッターか何か鋭い物で切られた様な跡がある。焦げたように剥げている箇所もあった。カウンターの椅子もまばら。足元には、割れた酒瓶らしき物が床に散らばっている。
ひどく荒されている場所だった。
まずい、と直感的に思う。どう考えても、このままここに居たら殺される。
「貫太?」
日常とはかけ離れたこの異空間に、知っている声が耳に届いた。
「綾子? どこ?」
「多分、貫太から反対側のソファにいる。縛られていて、動けないの」
さっき見回して気付かなかったが、よく目を凝らして見れば、僕がいる位置とは反対側のソファに、綾子と思われる人影がある。
「ここはどこ?」
「あの階段下にある店だと思う」
「携帯は?」
「だめ。取られたみたい」
僕のポケットにも携帯の感触はなかった。何もされないように、きっちり回収したのだ。あってもとても使えるような状況ではないが。
「綾子は無事? 何もされてない?」
僕のように殴られてはいないか、心配だった。
「一応無事。ただ、縛られているだけ。私よりも、貫太は平気なの? あんなに蹴られて」
「大丈夫だよ僕は」
うそだよそんなの、と綾子は呟いて、そのまま押し黙る。
「本当に大丈夫。死ぬような怪我じゃない」
僕の怪我より、もっと考えなくてはいけない事がある。
「それより、あれからどうなった? これは一体どういう事なの?」
綾子だって聞かれても困るだろうが、今この状況に至るまでを少しでも確認したかった。それに、僕は今、喋っていないと気がおかしくなりそうだ。
「分からない。私も眠らされて、気付いたらここにいたの」
「だとすると、ここはあのビルの地下ではないかもしれないのかな」
「それはないと思う。里中さんは歓迎するって言ってたから」
歓迎するってどういう事だ。僕等は店長をつけてここまで来たのであって、どうして里中さんがそこで出て来るんだ。
「まさか、グル?」
綾子の返答はない。
店長が尾行に気付いて、何か証拠を掴まれでもすると面倒だからと僕等を誘い出し、里中さんを使って不意を突いて、まんまと捕らえたという事だろうか。
いや、そうだとしたら僕等はすぐにでも口を封じられていてもおかしくない。
話くらいは聞いてからにしようという事か? どちらにせよ、このまま無事では済まないのは間違いない。
「……グル、だとは思いたくない」
熟考した上での返答は、どう考えてもグルだと思えてしまうが、そう思いたくない、という答えに思えた。
僕だってそうだ。里中さんは、店長と同じように僕を可愛がってくれた。仲の良い友達のように喋ってくれて、店長の愚痴を一緒に零し合った。
それを聞かれて怒られ、二人で笑った時もあった。店長に感謝するのと同じように、里中さんにも感謝しているし、その気持ちは今までと変わらない。
でも。もしもの事があったら、絶対に許さない。目を覚ましてからのこのわずかな時間で、吐きそうな程せり上がってくる不安な気持ちに襲われている。綾子なら、知っているかもしれない。もし僕が想像したような事をされていたらと思うと、聞くのが怖かった。
綾子からは何も言ってはくれない。言い辛いから言えないのだと思うと、嘔吐物のような不安が口から漏れ出そうだ。
「あ、綾子」
「どうしたの?」
「綾子も、眠らされていたんだよね?」
「そう、だけど」
「だったら、ケーシィが今どこにいるか、知らないんだよね?」
僕の言葉に、綾子はすぐに返答しなかった。
知らない、だけで良いんだ。それならまだ、今は無事かもしれない。助かるかもしれない。
ああなった、こうなった、なんて話は聞きたくないんだ。頼む。頼むよ綾子。
「あ、あのね、貫太」
申し訳なさそうに、まるでもう事が起こってしまったのを報告するかのようだった。
「きっとまだ貫太が眠っていた頃、里中さんが私を起こしたの」
何だ。何を言おうとしてるんだ。
「まだ私も朦朧としていたんだけど、里中さんは、少しでも怪しい動きをしたら分かってるね? って言って、貫太のリュックの中からモンスターボールを出して私に見せてきたの。ごめんなさい。直ぐに言わなくて。ショックを受けるだろうと思って、言い辛くて」
話の途中でもう心臓がはじけ飛びそうだった。でも、それならまだ、きっと無事だ。ケーシィを盾にしているなら、僕等が何かしない限りは危害を加えないだろう。きっと、きっとそうだ。
根拠なんてない。僕等に有利はなく、圧倒的に不利な状況で、ケーシィを盾にする必要はないのだ。そんな事は分かっている。分かってはいるのだが、今は無事だと確認出来ないと、無理矢理にでもそう思っておかないと、まともに何も考えられなくなる。
「綾子は何も悪くない。言い辛かったよね、こんな話」
「でも、ごめんなさい。私、何も出来なくて」
「しょうがないんだ。僕だって同じ状況なら、どうせ縛られていて何も出来なかった」
こうして話していても、事態は一向に良くならない。手足は縛られ、ケーシィを奪われ、僕等に出来る事は何一つない。
「……ねえ、貫太」
「何?」
綾子は、少しだけ間をおいた。
「私達、死ぬのかな」
不安そうな声だが、ある種の覚悟を決めたかのように、言い淀む事のない声だった。そう考えるのも無理はない。何がどうなっているのか本当のところは何も分かっていないが、僕等はポケモン誘拐、焼殺事件の犯人かもしれない人物に監禁されているのだ。
希望は、捨てたくない。あの狭いアパートへ皆で戻りたい。そう思ったら、僕は自然と口を付いた。
「死にたくないなあ」
初めてそう思った。
ポケモンを燃やすような人間は、殺されても仕方ない。心のどこかでずっとそんな風に考えていたし、自分の将来とか、明るい未来なんて考えた事もなかった。どうせ碌な死に方しないんだと、そう思っていた。でも、僕はケーシィと出会って、仲良くなった。初めてできたポケモンの友達だった。
肩車をしたら喜んでくれた。ご飯を一緒に食べた。タマムシの街を一緒に散歩した。
生まれて初めて、モンスターボールを買った。
他愛のない事だが、僕には全てが新鮮で、キラキラしていて、夢のような時間だった。
そこには綾子も一緒にいて、今までより距離を縮められたような気がして、もしかしたら、僕に振り向いてくれるのかもしれないと、そんな事も考えた。
綾子と、ケーシィと、一緒に暮らす未来を、こんな僕が想像した。未来を、考えた。
ああ、でも。
目の前の退廃的な光景が、死にたくない、という僕の淡い希望をぐずぐずに腐らせる。
「でも……死んじゃうんだろうなあ」
ぽつりと漏らした僕の呟きに、綾子は「そうだよね」と続ける。
「貫太、私ね」
不安そうな口ぶりはもうなかった。
芯のある声で、綾子は言った。
「あなたをずっと、殺そうと思ってた」