【五十】
七日目。
綾子と一緒にバイトへ入り、いつも通りに仕事を行う。店長の様子を探る事にも慣れてきた。変に疑われる事もなく、閉店時間が迫って来る。
今日もどうせ何もないのだろう。そんな気の抜けた考えが、逆に僕の不自然さを取り去った。最早店長に疑われる事もない。
何事もなく業務を終え、店長や里中さんへの挨拶で一日が終わる。今日も綾子と一緒に尾行だ。
二人で店を出て、最早恒例となった場所で待ち構える。綾子が店長の姿を確認し、尾行がスタート。いつも通り、自宅の方向へ歩き出した。
やる気が衰えない綾子の執念が、この尾行を支えていると言って間違いない。僕の役目はブレーキ役で、突っ込んで行かないように見張っている役割が大きい。フードを被らなくてもこの距離ならこちらには気づかない。何度そう説明しても綾子は被るのをやめなかった。両方同時に気付かれなければそれで良い。貫太だけ気付かれるなら、なんとでも言い訳出来る。綾子はそう言うが、僕等二人が並んで歩いていても、店長からすれば大した事ではない。尾行がバレなければ良いだけなので、普通にしていた方が良いと思うのだが――。
「二人とも、こんなところで何やってるの? 帰ったんじゃなかったの?」
慣れ始めてしまった尾行が、他への注意を散漫にしていた。店長の背中に注視して歩いていると、通り過ぎようとしたバイト先のビルから出て来た人間に、僕達は気付かなかった。
店を閉めて出て来た里中さんが、僕達に声を掛けてきた。
いつもは店長より里中さんの方が早く帰っていたのに、今日は逆。綾子も慣れ始めていて順番を気にしていなかったのだろう。店長の姿ばかりに注意を配って、里中さんの事が頭から抜けていた。
「いやその、僕等もこれから帰るところなんですよ」
歩きつつ、店長の姿をちらちら捉えながら里中さんに返答する。
「でも、綾子ちゃんもそんな恰好で、フードまで被って何事だい? 君達の家、こっちの方角じゃないよね?」
「いやあ、ちょっと遠回りですよ。散歩がてらってやつです」
苦しい言い訳だった。綾子もさっとフードを取って、何でもないですよとばかりに取り繕ってはいるが、無理がある。
「ああ、そういう事? 店長か。何々、面白い事でもあるの? 何か秘密を探ろうって事かい?」
隣を歩き始めた里中さんが、繁華街の雑踏の中、視線の先にいる店長に気付いた。僕がちらちら見ていたせいだ。
「仲間外れにしないで、僕も付き合わせてよ」
僕を真ん中にして、右に里中さん、左に綾子が並んで歩く。僕は綾子にどうする? という意味を込めた視線を送ると、首を一つ縦に振って「しょうがない」と小さく呟いた。
「分かりました。でも、絶対にバレないようにして下さいよ。事情は後で話しますから、今はただ後をつけて下さい」
尾行の理由は、後でどうとでも繕えるだろう。今は、黙って一緒について来てもらうしかない。
幸い店長はいつも通りただ真っ直ぐに、堂々と歩き続けていた、はずだった。
「え?」
僕も声を出しそうになった。綾子が漏らした疑問の声は尤もだ。毎回まったく同じ道を歩いていた店長が、初めて歩くルートを変えた。国道線にぶつかるまで真っ直ぐ歩いていたのに、今日に限ってそれより大分手前で左へ折れた。
里中さんに気付かれ、店長は別ルートを歩く。いつもと違う状況に、慣れていた尾行が途端にまた緊張感のあるものとなった。
「何々? どうしたの?」
「僕等にもよく分かりません。とりあえず、つけてみましょう」
繁華街を南下し始めた店長の様子は、いつもと変わらないように見える。ただ違うルートを通って帰るだけなら良いのだが、進んで行く方向は家とは別方向だった。
綾子と顔を見合わせたが、互いに言う事は何もない。僕等がやれることは、ついて行く事だけ。
背負ったリュックの中のケーシィが、途端に心配になってくる。家に置いてくれば良かったのかもしれないが、置いて来たら来たで心配したはずだ。絶対にこのリュックを離さずにいれば大丈夫だと自分に言い聞かせ、肩紐を持って背負い直す。
「どこ行くんだろう。店長がこの時間から飲み直すなんて話あんまり聞いた事ないんだけどなあ」
里中さんも、店長の行先に心当たりはないようだった。
それは僕等も同じで、店長は普段ゲームコーナーにしか行っていないものだと思っている。夜にどこかへ出掛けているなんて話は聞いた事がない。
「でも、どうして後をつけてるの? 声を掛ければいいのに」
それが出来たら苦労はない。里中さんへの返事はそこそこに、店長の背中を注視する。思い当たるのは一つだけ。綾子の疑い通りであれば、もしかしたら本当に現場を押さえる事が出来るのかもしれない。
繁華街から外れ、店長はどんどん歩いていく。もう少ししたら、役所やポケモンジム等の公的機関が並ぶ地区に入る。
後を追いつつ、段々と緊張感が高まるのが分かる。
「曲がったね」
里中さんだけが、ぽつりと呟く。店長がT字路を右に折れた。当然姿は見えなくなり、僕等は駆け足で曲がり角まで向かう。どこかに入るのだとすると、急がないとまずい。
「見失っちゃう。急がないと」
分かっている。里中さんだけが、緊張感なく楽しそうな様子だった。一人雰囲気を壊してくれるくらいが、逆に良いのかもしれない。僕等だけだったら、張り詰めすぎていた。
ここまで来ると、住宅街並みに人が少ない。役場で働く人達もこの時間は流石に働いていない。繁華街で飲み歩く人達もこの辺まではほとんど来ない。立ち並ぶ雑居ビルのほとんどに明かりは灯っておらず、怪しい雰囲気が漂う。知っている街が、随分違って見える。
「どう? 店長いる?」
小声の里中さんが、角まで来て様子を伺う綾子に話し掛ける。もう完全に無視しているが、動こうとしない綾子も不自然だった。
「何かあった?」
気になって僕も声を掛ける。しばらく反応がなかったが、やがて綾子はゆっくりとこちらを振り向いた。
その表情が、もしかしたら本当に犯行現場を押さえられるかもしれないという事を物語っていた。真剣な表情の綾子は、唾を飲み込んで、大きく息をついた。
「中に、入っていった」
「中って、その辺の雑居ビルに入って行ったって事?」
「そう。多分、地下だと思う。お店って感じじゃない」
さっきまでの緊張感の比ではない。横で里中さんが何か言っているが、もう何も耳に入らない。キャタピーの焼死体が頭に思い浮かぶばかり。
身体が震える。動悸がするようだ。
本当にその現場があるのかもしれないとなると、異様な高揚感、緊張感、嫌悪感、いろんな感情がないまぜになって、今すぐにでも走り出し、店長が入って行ったというビルに突っ込んで行きそうになる。会いたくないんじゃなかったのか。そんな想像と、現実は違った。
ポケモンを燃やすという感覚は、こんな感じだったのかもしれない。普段感じられない、異様なものだ。人は何をするか分からない。自分の中に、こんな感情が渦巻く事を予想出来なかった。
「私、行ってくる」
その言葉で、僕の中で蠢く異様な感情が、すん、と内に引っ込んだ。
綾子を止めなくてはいけない。そう思ったら、現実に今生きている自分が戻って来る。この先に潜むかもしれない危険な現場に、綾子を行かせる訳にはいかない。これは僕が行かなければならない。半ば乱暴に、僕は綾子の腕を掴んだ。
「だめだ」
「どうして。今、行かないと」
「僕が行く」
手を振り解こうとする綾子は、必死の形相だった。
お互い、普通じゃない。一度落ち着いてからでなければ危ない。
深呼吸しつつ、綾子の手を離さない様にして頭を落ち着かせる。
僕等は店長を尾行していた。それは、犯人かもしれないという疑いを持ったからだ。一週間近くも続けた尾行が、今こうして実を結ぶのかもしれない。どんな結果になったとしても、僕等が出来る事は現場を押さえるところまで。間違っても犯人を捕まえようなんて思ってはいけない。
危険の一歩手前で僕達は引くべきなんだ。弁えなければ駄目だ。
「どうしても行くというなら、一緒に行こう」
僕は、ゆっくりと綾子に話した。落ち着いた様子に気付いた綾子もまた、振り解こうとするのをやめ、深呼吸を一つ。
「ここまで一緒に来たんだもの。貫太の言う通りだね」
どこまで踏み込むかはまだ分からない。とりあえず様子を見に行って、少しでも怪しい様子を押さえられればそこで引くべきだと思う。中まで踏み込むのは危険だ。
電話をかけて店長を揺さぶったり、カツラさんに連絡したり、やれることはある。
「どうするの? 店長が入ったそのビルに入って行くのかい?」
「入って行くかどうか、とりあえず判断は保留にしましょう。一先ず、様子を見てきます」
綾子と目を合わせ、互いに頷いた。
里中さんには待っていて貰おうと思ったが、状況を察したのか首を横に振り、腰のボールホルダーからモンスターボールを手に取った。
「俺もついて行くよ。よく分からないけど、様子を見ているとなんかきな臭そうだし、いた方が良いでしょ? 違う?」
なんとありがたい申し出か。あのドクロッグが咄嗟の事態に僕等を守ってくれるのだとすれば、これほど頼もしい事はない。
「すいません。では、よろしくお願いします」
数十メートル先のビルに向かって、僕と綾子は二人並んで歩き出す。その後ろを、里中さんがついてきた。
目と鼻の先だ。数十秒も歩けば現場についてしまう。
「ここ?」
「そう」
ただの、何の変哲もない雑居ビルだ。四階建てで、ドアを抜けたエントランスに地下にだけ伸びる階段がある。この下か。階下には明かりがない。上から見れば、暗闇があるだけ。
下りて行くのは、やはり危険か。
「一旦引こう。僕等だけで突っ込んで行って、警察の迷惑になるのも良くない」
ついて来てもらった里中さんにも、その旨を伝えようと振り向く。
綾子が小さく悲鳴を上げる。振り向いた目の前で、組んだ両手を振り上げ、僕の頭にそれを振り下ろす里中さんの姿が映る。鈍い音がして、頭に強烈な痛みが走った。思わず膝をつき、綾子の短い悲鳴が続いた。
「しっ。静かにね。ご近所迷惑だから」
もう一発、同じ痛みが頭に走って、僕は完全に地に伏せた。何だ、どういう事だ。綾子は、綾子はどうなった。
無理矢理身体を起こせば、今度は腹部につまさきが刺さった。空気とともに変な声が漏れ、僕は再び地に伏せる。僕の隣で、綾子がペタンと座って怯えている様子が一瞬だけ見えた。
ああ、くそ。何がどうなって。
考える暇なく、立て続けに腹部への蹴りが刺さり、ほとんど何も考えられなくなる。痛みと混乱で、どうにかなりそうだった。
「あ、綾子……」
かろうじて漏れ出た僕の声は、届いているだろうか。
「ごめんねえ綾子ちゃん。女の子に手荒な真似は良くないと思うんだけど」
その声を聞き、痛みに弾けそうな身体を動かそうとするが、すぐに次の蹴りが僕の身体に刺さる。
「駄目だよ動いちゃ。君はこのまま寝ていて」
よ! ともう一発蹴りが入り、僕は蹲って痛みに耐える事しか出来ない。
鈍痛が意識を保ち、動けない身体が僕に異常を知らせる。蹲った僕の髪を引っ張ると、里中さんは僕の顔を上げた。
目の前には、闇に紛れたゴーストがうっすら見える。その目を見ていると、鈍痛を感じつつも意識が遠のいて行く感覚があった。ああ、眠い。僕は眠るのか。意識、が、飛びそうだ。痛い、のに。綾子。ああ、僕は、やっぱり……――罰を。
「まったくこんなところまで来ちゃって。せっかくだから、歓迎するよ」
最後に聞けた言葉はそれだけ。僕はされるがままに意識を奪われ、暗転した世界に落ちて行く。