【四十三】
正午。電話は鳴った。公衆電話だった。一コールで心臓が跳ねて、二コールで逡巡。三コールで携帯を手に取り、四コールで唾を飲み込み、五コールで電話を取った。
相手は当然、昨日の少年。
要件は同じ。綾子から、ポケモンセンターへ行けばモンスターボールの持ち主照会もやってくれると聞いていたので、時間と場所だけ伝えて電話を切った。
すぐに動けるとの事だったので、一時間後の十三時に集合の約束を取り付けた。
僕の落ち着かない様子を敏感に感じ取ったケーシィは、朝からずっと僕から離れようとしなかった。ボールに入るのも嫌がったので、ケーシィを抱いたままポケモンセンターへ向かう。
綾子は私も行こうか? と言ったが、僕自身で解決しなくてはいけない気がして、家で待っていてもらう事にした。
ケーシィは、あの少年の事をどう思っているのだろうか。ケーシィ自身がどうしてもあの子の元に戻りたいというような事があれば、それも致し方ないのだろうか。昨日の夜ひたすら考え続けていたが、僕の中ではまだ何も踏ん切りがついていない。
バトル場ではいまいちケーシィの反応を見られなかったので、ケーシィ自身の気持ちや反応もよく分かっていなかった。
僕はあの少年の言う事を馬鹿正直に受け止めてしまったが、綾子の言う通り怪しさがあるのは事実だ。まともに対応するのはおかしいのかもしれないが、はっきりさせておきたい部分もある。
やっぱり話はそれからだ。
自分を鼓舞し、まずは調べるところから、と言い聞かせながら街を歩く。ポケモンセンター近くまで着けば、目線の先にあの少年が見えた。
昨日と同じ、よれた服。ボサボサの頭で、こちらを睨む。近づけば、目の下にはくっきりとした隈。頬には絆創膏を張ってある。どうしたのだろう。昨日よりもまた少しボロボロに見える。
「お待たせ」
「そういうのいいから、早く調べて」
世間話も何も、取りつく島もない。話す気はないらしい。ケーシィに一瞥もくれず、僕だけを睨んでいる。
「わかった。行こう」
少年はポケモンセンターへ入り、すぐに受付へ向かった。僕も後を追う。後ろから見ても、歳相応とは言えない、随分やつれた背中に思えた。
「すいません。このモンスターボールがこの子のものだという証明書が欲しいのですが」
ジョーイさんへモンスターボールを渡すと、トレーナーカードの提示を求められた。隣に立つ少年に視線をやると、ポケットからカードを取り出し、ジョーイさんに提示した。
少々お待ち下さい、と番号札を渡され、ジョーイさんは奥へ。しばらく時間がかかるらしい。今日は休日。外に出るトレーナーも多く、ポケモンセンターは忙しいのだろう。
受付ロビーに設置されたベンチに、僕等は少し間隔を開けて座った。
少年は、まだケーシィに一瞥もくれない。失った自分のポケモンを目の前に、何の感慨もないのだろうか。
「あのさ」
少年は答えない。僕はまだ名前も知らなかった。
「君、名前は?」
「なんでも良いだろそんなの」
失礼な少年だ。
「じゃあ、どうしてケーシィが元々君のところにいたケーシィだと分かったの? 中々判別出来ないと思うんだけど」
「見ればわかる」
「そういうもんか」
それ切り僕等は沈黙した。何か話しておかなければいけない事はないかと、頭を回す。
「……言っておくけど、君のポケモンだと判明しても、事情を聞けないとケーシィは渡せないからね」
その言葉に、少年はまた恨みの籠った横目で僕を睨みつけた。
「いくら睨んでも駄目だよ。僕は、曲がりなりにもケーシィと一緒に楽しく過ごして来た。安心して過ごせると判断出来ないと」
名前も名乗らない少年の言葉を待った。ただのトレーナーには見えないのだ。事情があるなら話して欲しい。
「……なんでだよ」
水道からぽつりと落ちる水のように、か細い呟きだった。
「どうして、お前は幸せそうなんだ」
僕が言われたかと思ったが、少年はケーシィに向かって言葉を吐いた様だった。ケーシィは、語気を強めた少年に一切顔も向けず、僕の胸の中でただ震えている。
「どういう事?」
「そいつが居なくなったから、僕は優しくされないんだ」
何を言っているのか分からない。
「ケーシィは、自分から君の元を去ったのかい?」
こくんと少年は首肯する。
「何故?」
「嫌だからだ。うちにいるのが」
言葉は決壊し、溢れ始めたら止まらない。
「うちにいるのが嫌で、ケーシィは逃げ出したんだ。代わりに痛い思いをしたのは僕だ。そいつが逃げたせいだ。そいつさえ逃げなければ、僕は、ずっとそのままで! 優しくされていたのに!」
ハっとした。ケーシィを引き取って、テレポートが使えないという疑惑が出た時、図書館で色々調べた事を思い出した。その中には、トレーナーからの過度なポケモンへのストレス、虐待の事例もあった。
少年のみすぼらしさの理由が分かってきた。見ていて、きつくなってくる。その自分の辛さを、ケーシィのせいに出来るところまで追いつめられている。極限状態だと言っていいだろう。
「言いたい事は分かった。でも、それだとケーシィは渡せない」
これは、どうすれば良いのか。この子をこのまま放っておく訳にはいかない気もするが、出来る事もない。僕が守らなきゃいけないのはケーシィだ。僕をきつく睨むその視線に、こっちまで辛くなってしまう。今まではケーシィを返して欲しいという理由で、そこまで睨む理由はなんだろうと思うだけだったが、今はもうあまりに痛々しい視線だった。
目も合わせられずにいると、ジョーイさんからのアナウンスが助け舟になった。
無言で立ち上がり受付に向かう。事情が分かって来てしまい、今度は妙な緊張感を覚えた。
「確認出来ました。こちら、五十嵐太一様のモンスターボールですね。そちらの方は、五十嵐太一様のご子息、悟様です」
提示された証明書に書かれた苗字と、返されたトレーナーカードの苗字が一緒だった。
「分かったでしょ?」
「そうだね」
手数料を支払い、僕等は再び先ほど座ったベンチへ戻る。
「お父さんのモンスターボールなんだね。買ってもらった物なの?」
「どうでもいいよそんなの。これで分かったでしょ? そのケーシィは、うちのポケモンなんだ」
公的な機関に登録されているのだ、それは間違いない。父親に買ってもらったモンスターボールでケーシィを捕まえてもらったか、自分で捕まえたのだろう。
「このボールは君の父親のものだ。手続き上のおやは君の父親という事になる。君に返してと言われても、やっぱり渡す事は出来ないよ」
こうなったら、直接父親を問いただすしかないだろう。ケーシィを守らなきゃ駄目だ。
「君の家に連れて行ってもらえる? 僕が親御さんと直接話すよ」
僕の言葉に、悟君は血相を変えてだめ! と大声を上げた。ポケモンセンターにいる人達の注目を集めてしまう。親御さんという言葉に反応したのだろう。首を横に振り、強い拒絶を見せた。
「でも、そうしないと話の決着がつかない。これに書いてある住所へ行けばいいのかい?」
証明書に視線を落とした瞬間、悟君は僕からそれをひったくり、立ち上がって距離を取るとくしゃくしゃに潰した。
「じゃあどうすればいい?」
「わ、わかった。もういい! そんなやつお前にくれてやる! だから来るな!」
何かいつもと違う行いをして、酷い目に合う事を恐れているのだろう。少しも目立ってはいけない、という恐れを悟君の表情が物語っている。
「それでいいんだね?」
「いいよ! それでいい!」
こっそりケーシィを連れ帰れば、自分の盾になるかもしれない。そういう事なのだ。可愛そうな状況だと思うが、ケーシィが酷い目にあうのは許せない。こいつは、僕にとって大切なポケモンだ。
そして、僕が守れるのはケーシィだけ。悟君の親御さんがどんな人であっても、それは僕には関係ない。
悟君なりの解決策が失われて、僕と会っている意味はない。ポケモンセンターから出て行く様子を眺めつつ、僕はケーシィを撫でた。
絶対酷い目になんか遭わせない。そう、固く決心する。
せめて彼がポケモンセンターから出て行くのを待とうと思い、ドアから出て行くのを見届けようと目で追っていると、悟君は入口付近で急に足を止め、その場に立ち竦んだ。
ポケモンセンターへ入って来た男性が悟君の前に立ち、何かを話している。すぐに分かった。あれが父親だ。
申し訳ないが、僕はすぐに二人の元へ向かう。
悟君がこちらを指刺した。僕を睨んでいたあの表情じゃない。全てが終わり、怯えているのが見て取れる。肩をすぼめて、小さくなっている。
「すいません、息子がご迷惑をかけてしまったようで」
「いえ、とんでもありません」
軽い自己紹介と挨拶をかわし、ケーシィの元おやをまじまじと見つめた。ストライプのシャツにジーンズの、小奇麗な格好だ。息子の格好とは、やっぱり違う。
「ケーシィは、あなたが見つけて下さったんですね。どうですか? そのまま、あなたが育てていただいても構いませんが」
捨てる。そう言っているのだ。自分で捕まえ、家に置き、悟君をここまで追いつめるような事をケーシィにも行っていた。テレポートが出来なくなる程追い詰められたケーシィは、自分のモンスターボールだけを抱えて命からがら逃げ出したのだろう。そう思うと、沸々と煮えたぎる怒りが僕を包みつつある。
「ええ。そうさせていただきます。この子は、僕が責任を持って育てますので」
迷わずそう言い切った。どう言われても、僕は絶対にケーシィを渡す気はなかった。
「では、よろしくお願いしますね。モンスターボールだけ渡していただければ、ボックスシステムで逃がす手続きを行いますが、どうします?」
「お願いします。僕はここでお待ちしておりますので」
このモンスターボールにケーシィを入れておくのももう嫌だった。一秒でも早く、この枷から解放してやりたい。
モンスターボールを渡すと、二人は手続きを行いに向かった。
後ろ姿だけぱっと見ればただの親子だ。あの親が、息子とケーシィにどんなに酷い事を行っていたのか。人間なんて何をするか分かったもんじゃない。
僕は自分の中で蠢いている怒りの矛先が、あの親に向かっているのと同時に自分にも向いている事を自覚した。
僕が燃やしたポケモンが、もし誰かのポケモンだったらと考えた。野生のポケモンかどうかなんて確かめていないのだ。あのキャタピーを大事に思う人がいて、僕がそれを燃やしていたらどうする。燃やしただけでもとんでもない重罪なのに、さらに悲しみ、怒り、憤る人を増やしている。
自分の行いも、誰かに怒りや悲しみを与えているという意味ではあの親と同じだ。
だからこそ僕は、ケーシィを世界で一番大切に育てて行きたい。僕に出来る事は、それくらいの事だけ。悟君を見ていると、本当にそう思う。
ロビーの壁に寄り掛かって待っていると、事もなげに歩く父親と、その横を小さくなって少しでも何もしないように心がける悟君が、並んで歩いてくる。
「手続きは済みましたので、後はよろしくお願いしますね」
にこりとするその笑顔の下に、どんな顔が潜んでいるのか。
ほら、お前からもきちんと謝りなさい。そう言われた悟君が、能面のような顔をして、すいませんでしたと人形のように頭を下げた。
「それではこれで」
今度こそ父親と去っていく悟君にかける言葉はない。何も、持ち合わせていない。
それでも何か出来る事をするとしたら、役所かどこか、一本電話を入れておこう。
さっきちらっと見た住所は、最後までは記憶出来ていなくてもどこの地区かは覚えている。それと名前を照らし合わせれば、特定はすぐだろう。
「……さ、綾子のところへ帰ろうか」
震えが収まったケーシィが顔を上げ、僕と目があった。笑った顔につられて、僕も笑いかける。
よいしょ、と肩車をすれば、その手が僕の頭へ。この感触を、大切にしたい。
デパートかどこかで、モンスターボールを買って帰ろう。
ケーシィのおやは、僕なのだから。