【三十三】
僕は静かに浮かれ始めていた。何しろ店長、もとい綾子の叔父さんからのお墨付きで、背中を押された気分だ。
店長が消えてから、もう随分時間が立っている。二人で黙ってベンチに腰掛け、僕は視線の先の雑木林を見つめ続ける。
この公園が、ポケモンを燃やした場所ではなく、綾子との特別な場所になりつつあった。
もちろん、燃やした事実が消える訳ではない。それでも、今だけは、この今の瞬間だけは少しだけ横に置きたい。そう思うのはいけないだろうか。
随分長い間黙っていた綾子だったが、ようやく落ちついてきたのかゆっくりと立ち上がる。
「綾子」
僕の言葉に、反応はない。
考え込むようにうろうろし、何を言おうか迷っているような様子だった。
こちらから何か声を掛けなければ、ここで言えなきゃ駄目だ。僕の気持ちを、触れずにいたこの気持ちを思いきり伝えるチャンスじゃないか。
僕も立ち上がり、背中を向けてうろうろする綾子の前に出て、まっすぐに見つめる。
何かが違う事をすぐに悟った。
恥ずかしがっている訳じゃない。何か気まずそうにしている訳でもない。
綾子はただ、果てしなく無表情だった。店長の前で恥ずかしそうにしていた、しおらしい綾子はいない。いつも家で見る、何を考えているか分からない底の見えない表情がある。
浮かれていた気分が一気に冷めていく。そんな状況ではない事が容易に見て取れる。言おうと思っていた言葉は既に失われた。代わりに沸いてくるのはただ一言。
「何か、あったの?」
店長の前にいた綾子と、今の綾子は違いすぎる。こうまで違うと、わざととしか思えない。どっちが演技か、そんなものは確認するまでもない。
僕等はこれでもそこそこの期間一緒に住んでいるのだ。今まで見てきたこの表情こそ、いつもの綾子である事は間違いない。
「本当は、誰にも言うつもりなかった」
綾子は話し始める。
間を開けて、溜めている言葉を僕は待った。
「もしかしたら、違うのかもしれない。ずっとそう思ってきたけど、どうしても疑いが消えないの。そんな訳ないと思っても、どうしてもそう考えちゃう私がいる」
恐らく心からの言葉を吐露しているはずなのに、表情は固く、ただ、我慢するかのように強く唇を噛んだ。
緩めてはいけないという意思が籠った、何かを我慢するような悲痛な表情に、僕は思わず綾子の手を取ってしまった。
「もし話してくれるなら、聞きたい」
さらりと言葉は出て来た。綾子はまっすぐに目を合わせ、それを受け取ってくれる。
何を言おうとしているのか見当もつかない。僕のうかれた気持ちはとっくに冷え切り、綾子の言葉を待つ。
「権田さんが、ポケモンを燃やした犯人かもしれないの」
聞いても、理解出来なかった。
言葉を字面通り飲み込んでも、どうしても腑に落ちてこない。一体綾子は何を言っているのか。
「そんなまさか。店長だよ? そんなこと」
あの人は、単純に言ってしまえば良い人だ。情に熱く、ビジネスライクになれないところが短所だと言えるくらいに。
「知ってるでしょ貫太だって。権田さんが立派な人なのはそうなんだけど、怒ると手が付けられないんだから」
それも店長の一面だった。基本的に良い人なのだが、何かスイッチが入ると突然怒り出す。そうなるともう誰にも手が付けられず、ただ静まるのを待つしかない。店の備品だっていくつも壊している。
「知ってるけど、それだけじゃなんの理由にもならないよ」
「それだけじゃない」
綾子はバッグからメモ帳を取り出すと、明かりに照らされたベンチに再び座ってそれを広げた。
これを見て、と言った綾子の言葉に従い、僕も隣に座ってメモ帳を眺める。そこには、日付とポケモンの名前が羅列している。生息数が多く、また進化前のポケモンが全て。よく店で見かけるポケモン達だと思う。
見開きの左側に書かれたポケモンの名前一匹一匹から矢印が伸びており、右側のページへ及ぶ。
そこには左ページと同じように日付とポケモン名、それとバツ印が羅列している。歯抜けになっているが、どういう意味を表すのか。
「これはどういうメモ?」
綾子は手帳を持つ両手の力を込めた。
「左側が、店に来ているポケモン達の名前と日付。右側が、事件で燃やされたポケモンの名前と日付のリストなの」
「完全、一致?」
こくんと綾子は頷く。まだ矢印の先にバツ印のないポケモンもいるから、次の犠牲者はこの中から出るかもしれない、という事か。
「このリストは、いつから?」
「五体くらいがニュースになった時、なんとなく思い当たったの。もしかしたらと思ってそれからずっとメモを取ってるんだけど、このメモの中から皆死んでいくの」
前にジャージ姿の男に追いかけられた事を思い出す。あの日、店長のシフトはどうなっていたか。
自分の携帯を取り出し、店のシフト表データを開く。あの日の事はよく覚えている。カツラさんと会った日だし、自分が休みだった事と照らし合わせれば、すぐに日にちは特定出来た。
「……休み、か」
ちらと見た男はそんなにガタイが良かったかと記憶を探るも、どうしてもモヤモヤとした人物像しか頭には浮かばない。店長ではなかった、と断定できるものはない。
そもそも、後ろからついてきたあの男が犯人かどうかもわからないので、どの道決定的なものにはならない。
「でも、まだ疑いなんだよね。証拠はないんでしょ?」
「決定的なものはね。でも、店に来るポケモンとここまで合致すると、気持ち悪いものを感じる。それと、権田さんがどうして旅をやめたのか知ってる?」
いや、と僕は首を横に振る。随分唐突な話だ。
「ポケモンへのあたりがきつすぎるの、あの人。人のポケモンはきちんと可愛がるのに、自分のポケモン相手には厳しかった。そういう扱いがたたって、手持ちのポケモンを一匹亡くしてるの。それが原因で周りからも非難され旅をやめてるし、あの店の店長をやり始めてからは、貫太も知っている通り残りの手持ちポケモンも手放して、今は一人」
「それと、今回の事と何の関係が?」
綾子は手帳を持つ手を震わせ、俯く。
「権田さんが自分のポケモンへ向けていた厳しい視線が、私には分かるの。その視線が、お客さんのポケモンに向かっている時がある。それを見る度、どうしても怖くなってきて」
震えた綾子を抱き寄せ、背中をさする。確かに言っている事は分かる。今聞いた話だけであればもしかしたら、なんていう事を考えるのも分かる。それでも、まだ店長が犯人だと言い切るのは無理だ。
綾子は少し感情的になりすぎているのではないかと思ったが、僕の頭の中にはカツラさんの顔が思い浮かんだ。僕だってまさかとは思いつつも、状況が状況だけに気味悪く思って警戒してきた。それと同じだ。
カツラさんが店に来た時なんてそれこそ驚いたものだが、でもやっぱり直接話しているとそうじゃない気がするし、立場のある人がそんな事をするのか、と思えて……。
「いや、違う。カツラさんが店に来たのって、そういうことか」
僕の呟きに、顔を上げた綾子が一つ首肯する。
「そう、そうなの。タマムシジムのトレーナー達を連れて来ただけに見えるけど、うちの店をそれとなく調べに来て、牽制しているんだと思うと辻褄が合う」
カツラさんと初めて会った店で、僕の隣に座ったのは、あれも偶然なのか? その後タマムシの繁華街で僕に声をかけ、家まで送ってくれたのも偶然か? 始めから僕を調べていたんじゃないか? あの店の従業員だから、僕の隣に座ったのではないか?
「綾子、ポケモンを燃やされているトレーナーって、うちの店に来ていた人達?」
もしそれが共通点となるならば、警察やカツラさん達がそれを見逃すはずがない。後は現場を押さえて捕まえるだけだ。時間の問題だよ、というカツラさんの言葉は本当なのかもしれない。
「それは、私にも分からない。燃やされたトレーナーの個人情報は公開されていないから、私だと調べようがなくて」
「だったら、カツラさんにそれを確認してみよう」
「そう、だよね。それが一番いいんだよね」
綾子は手帳を閉じ、もう一度自分の言葉を反芻する。僕は勢い余って余計な事を言ったのかもしれないと思った。
それを確認し、本当に共通点として明らかになってしまえば、それこそ綾子の言っている事が真実味を帯びてくる。それは叔父さんがポケモンを燃やした犯人だという事を表すかもしれない。綾子にとってきつい事実である事は間違いないのだ。
「いいの、気にしなくて。私も本当は確認しなきゃいけないと思ってるんだから。でも、どうしても勇気が出なくて、踏み込めないでいただけだから」
「軽はずみな事言ってごめん。やっぱり、これは警察に任せよう。綾子が持っている情報を伝えるだけでいいんだ。カツラさんにまた連絡をとってみよう。彼も捜査に協力している言っていたから、きっと聞いてくれる」
「本当? 貫太から伝えてくれると、助かる」
綾子はようやく抱えていたものを少しだけ下せた事に安心したのか、顔を綻ばせてはにかんだ。ほとんど見た事のないその表情を見ただけで、僕はまた張り切ってしまう。
カツラさんに情報を届けるだけなのに。
「伝えるのは明日にして、今日は帰ろう」
立ち上がって帰ろうとしたのだが、綾子が僕の袖を掴んで、ごめんと一言。表情は、俯いたままなので分からなかった。
「権田さんに会っていたのはね」
「わかってる」
僕はその先を遮った。聞くのは怖かった。その先を聞いて全てが壊れてしまうよりも、このままの方がずっと良い。
「綾子が少しでも店長を探ろうとしていたのは分かる」
「何が出来るか分からなかったけど、会っていれば、その間は何も起きないから」
このままで良い。全てを聞かなかった事にすればそれで良い。僕たちはまだ、このままで……。
「いいんだ。何も言わないで欲しい。今日はこのまま帰ろう」
「わかった」
綾子は立ち上がり、僕は歩き始める。横並びで、今までと同じ様に。
公園から出れば、僕等はまた無言の時間を共有した。さっきあれだけ話したのが嘘みたいに、ただ足を前に進めているだけ。
これからどうするのだろう。綾子はまだ店長と会う事を続けるのだろうか。あまり無理して、危ない目には合って欲しくない。だがいくら僕がやめた方が良いと言っても、綾子は自分で決めた事をやめないだろう。
無言で歩いていても、考えてしまうのはさっきの話。あれ以上話し合っても先はないため、あまり精神衛生上良くない。
少しでも違う話題がないかとあれやこれや考えていると、モンスターボールの事を思い出した。
「そういえば家でケーシィと遊んでいる時、綾子のバッグを床に落としちゃったんだけどさ」
「うん」
「中にモンスターボールが入ってたんだけど、ポケモンを捕まえるの?」
「え?」
綾子は不思議そうな顔をこちらに向けた。明らかに、そんなものは知らないという顔だった。
「バッグの中に入っているモンスターボール、知らないの?」
あの時落としたバッグは、今持っているものだ。
綾子は肩にかけたそのバッグの中を探し、すぐに例のモンスターボールを取り出した。
「ほら、それ」
「私、こんなの知らないけど」
薄気味悪い事を言う。知らないモンスターボールが鞄の中に入っているとはどういう事だ。街ですれ違った他人のモンスターボールが鞄に紛れた? そんな事があるか?
不思議な事態に僕等は住宅街の中足を止め、二人でそのモンスターボールを見つめる。
「ポケモンが入ってるね」
どこを見ればそれが分かるんだろう。仕組みが分からない僕に気付いた綾子が、モンスターボールを軽く上に投げた。
「未使用のモンスターボールは、衝撃を受けるとすぐに開いちゃうの。だから、こうやって軽く投げても開かないボールは、何かが入っている証拠」
なるほど。それなら、何が入っているのか確かめるのが良いだろう。家で開けて大きなポケモンでも入っていたら大問題だ。大家さんに大目玉なのは間違いない。
「確かめてみようか」
綾子は手のひら大のそのボールを両手で持ち、それを開いた。中からは赤い光線が地面に向かって飛び出し、中に入っていたポケモンの形になっていく。
これは。
「そ、そんな……」
闇夜の中で悲鳴が上がった。
僕の耳をつんざく大きな悲鳴。
顔を覆い、その場に蹲る綾子。
僕はボールの中身に、視線が吸い込まれた。
見た事があった。
僕は良く知っているじゃないか。最近よく思い出してもいた。
目の前の現実を見て、それでも綾子のように悲鳴を上げられそうにない。
ああ、そうか。そうだった。僕はこれを見ても酷く落ち着いている。酷い事だとは思うが、ああ、と目を伏せる程ではなかった。
僕はこれを直視出来る。
記憶の映像と重なった。
キャタピーらしき焼死体が、そこには転がっていた。