【三十】
「ちょっと出かけて来る」
夜も深くなり始めてきた頃、一日のんびりしていた綾子が身支度を始めた。テレビをぼうっと眺めつつ、そろそろ寝ようかと思っていたところだったのだが、ままある事だったので特に驚く事でもない。
「どこ行くの?」
何気ない顔をして、ベッドに腰掛ける僕はテレビに視線を預けつつ、すぐに質問した。いつもの僕では考えられない。
数舜程固まった空気が、狭い部屋に流れる。僕は綾子の方へ顔を向け、しばらくの間互いの顔を見合った。今までほとんどなかった事なだけに、綾子は不思議そうにこちらを見つめている。重苦しいこの部屋の空気を、ケーシィのすうすうという寝息がわずかに柔らかくした。
普通に考えればなんでもないこの会話で、綾子は不思議そうな視線をこちらへ向け続ける。圧力と言ってもいいかもしれない。僕は怯まず、もう一度「どこ行くの?」と質問して、返事を待った。
「ちょっと出かけてくるだけだって」
「教えてはくれないの?」
「どうしたの急に」
僕の様子がいつもと違う事にようやく気付いた綾子は、身支度を中断してこちらへ居直った。
「ちょっと出かけて来るだけ。朝までには戻って来るから気にしないで」
「気にしないでって言われても、気になるよ。こんな時間に出掛けて、いつも何やってるの?」
これだ。気になるならこういう風に言えば良かったのだ。何の事はない。僕が一歩踏み出せば良かった。後を気にして何も出来ないままじゃ、いつまでも前には進めない。
僕の問いかけに、綾子は露骨に嫌そうな顔を浮かべた。自分のプライバシーに突っ込んで来るなと、端的にそう言いたそうなのがよく分かる。心地よかったこの関係も終わってしまうかもしれない。それでも、僕はもう前に進まずにはいられない。様々な事が変わり、このまま前と同じようにただ時を過ごすのは難しい。
「そんなに気になるなら、ついてくる? いいよ別に」
僕が引かないと分かったのか、ため息をついた綾子が、根負けしたのかようやく折れた。
「そんな嬉しそうな顔しないの」
「嬉しいよ。だって、綾子がついて来てもいいよって言ってくれたんだから」
一緒に身支度を始め、眠っているケーシィを連れて行こうか迷った。僕を探して外に出てしまう事を考えるとやはり心配だ。綾子もそれには同意だった。
ケーシィも連れて、どこへ行くとも言わない綾子の後ろを、僕はついて行く。電気が消され、外へ。タマムシの街へ、僕達は溶け込んでいく。