【二十九】
あの日の朝綾子の胸の中で眠った僕は、許してあげるという言葉が夢なのか現実なのか分からないでいた。
そんな都合の良い事があるはずない。普通に考えればそうなのだが、耳に残った綾子の綺麗な声は現実味を帯びていた。
許してくれるんだよね? なんて聞けないので、またしても僕はもどかしい気持ちで一杯だった。
雁字搦めになっている気がして、どうにも動けない。勇気を出してそれとなく確認してみればいいだけなのだが、どうにも決心はつかない。一人で悩み考え続けているだけでは限界がある。ひたすら同じ事を思考し続け、ループしている。
最近はずっとそうだ。
あの事件をニュースで見てから特に。
「あ、こら! だめよガーディ!」
隣で上がった大きな声に、僕ははっとして現実へ戻され、広場で遊ぶケーシィの姿を追った。
見知らぬガーディから逃げ回っている。追っている方は楽し気だが、ケーシィは必死だ。一緒に遊ぶ、というのはやはり難しいのだろうか。
しばらく追いかけ回された後、そのままベンチに座る僕の懐へ飛び込んで来る。
「大丈夫だよケーシィ。あの子はお前と遊びたいだけだって」
「すいません! 本当ごめんなさい!」
今度は、茶髪のボブカットでプリーツスカートをひらひらさせた女性が、謝りながら駆け寄って来た。
あのガーディは、この人のポケモンらしい。
「いえいえ、気にしないで下さい」
「悪気はないと思うんです。多分、逃げ回られると遊んでもらっていると思って、追いかけたくなるんですかね……」
すいませんすいませんと、女性は謝り通し。
ガーディは、僕のところに飛び込んできたケーシィに向かって走り寄って来るが、割って入った女性に抱きかかえられ、お縄についた。
笑顔がとっても素敵なガーディだ。
「誰彼構わず追いかけ回しちゃ駄目だって言ってるのに……」
人懐っこいポケモンなのだろう。
「元気がいいですね。あなた達も、よくここへ?」
お縄についたガーディはまだ暴れたりないともぞもぞ動いていたが、主人の困った顔を見れば、すぐに大人しくなった。それが分かる程度には頭が良いのだろう。賢いポケモンだ。
落ち着いたガーディに安心した女性は、そのまま僕の隣に腰掛けた。
「ええ、最近はよく来てるんです。公園へ連れて行って遊ばせると、気づいたらどこかへ居なくなってしまって」
「ここなら目が届きますもんね」
「そうなんです」
僕達は、遊具も豊富でそれなりに広い、ポケモン達がのびのび遊べるタマムシデパートの屋上に来ていた。
買い物に疲れたお父さんが、子どもとポケモンを広場に放り出して遠くで眺めている。奥さんはまだ下の階で買い物中だろうか。
歓談中のママさん達も、子どもとポケモンを遊ばせている。ゴーリキーが子どもに振り回され、てんてこまいな姿が見える。お守を任されているのだろう。ご苦労様な事だ。
飲食スペースもあり、遊び疲れた子どもやポケモン達が青空の下で食事を取るには、持ってこいの場所だった。
僕は度々ケーシィを連れて来ては、ここで遊ばせていた。最初は一緒について行かなければ広場へ行こうとしなかったが、何度も通う内に段々場の雰囲気に慣れてきたのか、ケーシィも一匹でふらふらと広場を探索するようになった。
賑やかな雰囲気に慣れる事は、とても良い事だ。
友達でも出来るといいのだが、まだそういうポケモンはいない。
「とっても人懐っこいガーディなんですね」
「困っちゃうくらいですけどね」
「ずっとそうなんですか?」
ガーディの頭を撫でながら、そんな事もないんですよ、と女性は答えた。
「昔は臆病で臆病で、とても知らないポケモンや人を追いかけまわす何て事しませんでした。私だってこの子と打ち解けるまで結構時間を掛けましたから」
人懐っこくポケモンを追いかけまわすケーシィは、中々想像し辛い。
「今みたいな様子になったのは、何かきっかけが?」
「魔法みたいに、いきなり変わった訳ではないんです。何やっても褒めて、ずっとずっと可愛がって、いつでも一緒に居たら、いつの間にかこうです。ちょっと甘やかし過ぎて、わがままになっちゃいましたけどね」
ガウ、と不服そうなガーディ。わがまま、が意味するところは分からないが、どんなニュアンスかは理解出来るのだろう。怒られる時に使われる言葉だ。
「褒める、かあ。なんだか大変そうですね」
「そう難しく考える事はないんです。凄いね、出来たね、と褒めてあげて、一個一個きちんと見ているよというのを伝えていけば、心を開いてくれますよ。そもそも、そのケーシィちゃんはもうあなたに懐いているように見えますけど」
きちんと可愛がってガーディを変えていったこの人とは違って、僕はおっかなびっくりケーシィと接し、手探りで仲良くなろうとして来た。ケーシィには自分と同じような奴だと思われて、警戒を解かれているのかもしれない。
「そうだと嬉しいです」
「そうに決まってますよ」
女性が落ち着いたガーディをベンチに放すと、今度は飛び掛かって来る事なく、おすわりしたまま何やらワンワンガウガウ言っている。僕の胸の中に顔を埋めていたケーシィだったが、その呼びかけにゆっくりと顔を向けて、甲高い声で返事をした。
女性はふふ、と笑って僕に微笑みかけて来る。この状況が分からないのは僕だけなのだろうか。
ガーディの呼びかけにケーシィがもぞもぞと這い出し、二匹は座ったまま向かい合った。
何やら会話をしている様子。一切内容は分からないが、少しずつケーシィもガーディに歩み寄っているようにも見える。
頑張っている。慣れなくて怖い事にチャレンジしている。凄いぞケーシィ。
褒めるとしたらこんな感じ? と頭の中で練習するが、音に出さなくてもぎこちなさが出ているのが分かる。
話し終わったのか、ガーディがケーシィの顔を舐め始めたところで、もう二匹は完全に打ち解けたようだった。
「良かったなあ、ケーシィ。友達が出来たじゃないか」
仲良さそうにじゃれ始めた二匹を見て泣けて来た。成長した姿に感激だ。
完全におやばかである。
一つ関係を作れた事は、ケーシィにとって大きな一歩だろう。
「ガーディも嬉しそうですよ。ありがとうございます」
そう言って、女性はぺこりと頭を下げる。
「そんな、こちらこそお礼を言いたいくらいです。ケーシィの初めての友達ですから。出来れば、あなたも仲良くしてやって下さい」
「もちろん!」
えくぼがチャーミングな、ポケモンと同じように笑顔の素敵な女性だ。
「ちなみに、お名前を伺っても? 僕の事は、貫太と呼んでいただければ」
「私の事は、沙穂と呼んで下さい」
僕にとっても、珍しく出来た知り合いだった。
「またここでお会いできるといいですね」
「ええ、機会がありましたら、またケーシィと遊んでやって下さい」
ケーシィは一つ壁を越えた。新しい関係性を作ったのだ。
沙穂さんだって、ガーディに対して一生懸命接したからこそ今がある。
対して僕はどうなのだ。気になるなら聞けばいい。聞けない関係性なら、聞ける関係性になれるように頑張ればいい。結局そういう事なのだ。
じゃれあう二匹を眺めつつ、僕も変わらなければいけないなと思う。
ケーシィと一緒にいるようになってから、色々な事が変わりつつあった。
誰かと一緒にいるというのは、こういう事なのだろう。