【十六】
綾子が夜帰って来ないのは、珍しい事ではなかった。仲の良い友達がいるようで、たまに夜通し飲み明かしているらしい。本当に酒を飲んだのか? と思うくらいケロっとした顔で朝方には帰って来るし、今日バイトだから、と落ち着いた顔で眠りにつく。物音に敏感な僕は綾子が帰ってくると目が覚めてしまって、僕がもう一度眠り直す前に、先に眠った綾子の寝顔を眺める羽目になっていた。
一緒に寝ている時はいつも僕が先に眠って綾子が先に起きるから、そうやって寝顔が見られることは、僕の密かな楽しみだった。
そんな密かな楽しみが、ここ一月くらい多くなっている。月一程度だったのが、二日連続、週に何日か、と続いていた。
何をやっているんだろう。本当にただ飲んでいるだけなのだろうか。少しばかり気になってはいたが、そういうところに踏み込んでいくのは、僕等の間ではなんとなく憚られた。お互いに一緒の部屋に住むことは認め合っていても、お互いのプライベートには関与しない。
今日は、丁度綾子が帰って来ない日だった。
バイト先で賄いを詰めてもらったお弁当があったから、深夜一時を回ってからの晩御飯である。里中さんがこっそりケーシィ用のものもわざわざお弁当にしてくれるので、とてもありがたい。
つい先日、ケーシィに市販のものを与えるだけではなく、料理をしてみようと思い立ったのであれこれやってみたのだが、どうしても里中さんと同じようにはいかない。ケーシィも里中さんのお弁当を食べてからは、僕の料理には微妙な反応するばかり。明らかに気を遣われている感じで、糸目を弛ませ口角を上げる姿に、僕は苦笑するしかなかった。このまま里中さんの料理で下が肥えたらどうしよう。
「いただきます」
バイト前にケーシィには晩御飯をあげているが、僕は何も食べずにバイトに入る。そのため、どうしても晩御飯が遅くなってしまう。
「お前の分もあるから、明日食べな。夜中に食べるのは身体に悪いぞ」
自分で夜中に食べておいて何の説得力もない。ケーシィはちょっとちょうだいとばかりに、丸机に両肘をついて首を伸ばしている。最近よく見る光景だった。
「僕のを食べると塩っ辛いからだめだよ。今日はもう寝なさい」
足をじたばたさせても駄目なものは駄目だ。何があろうともらえないことを理解したのか、ケーシィは胡坐をかいた僕の足の上にもぞもぞと入って、寝る体勢。
いつもあげていないのだから、そろそろ諦めて欲しいところだ。
「……今日も帰ってこないのか」
ごはんを頬張りながら、虚空を見上げる。長針の先にモンスターボール、短針の先にスーパーボールがついた掛け時計。コチ、と一分おきに動くその針が、目に入った。もう深夜一時半だ。
今日もまたどこかで飲んでいるのだと思うが、そんなにお酒が好きな奴だったか。それとも何か嵌っているものでもあるのか。クラブ? バー? 家にいるのが好きな奴が、そんなとこ好きだとは思えない。じゃあ何をやってるんだ。
思い返してみると、恐ろしいくらいに僕は綾子の事を何も知らなった。好きな食べ物、好きな色、好きな曲、一緒に生活していていれば分かるようなものしか知らない。どういう幼少時代を過ごして、どういう学生生活で、どういう恋愛をしているのか、まるで聞いた事がない。年齢さえ朧気だ。僕の一つか二つ上だった気がする。
物静かで、真面目で、ポケモンが好きで、人はあまり好きじゃなくて、睡眠時間が短くて、あと、なんだろう……。
ケーシィと距離を縮める事に一生懸命になっている僕は、いつの間にか綾子に対しても近づこうとしていた。一緒に住んでいて距離が遠いというのも変な話だが、僕等は近いようで遠い間柄で過ごしてる。
過去の行いを見ないように、語らないようにし続け、何も探り合わずに一緒にいられる関係を心地良いと思ったのは僕なのだ。
今だって自分の行いを綾子に言う勇気はないし、怖い。僕だけそれを隠し続け、距離を縮めようとするのは虫が良い話なのだろうか。誰でも忘れたい過去はある。皆大体忘れてしまうもんだ、というカツラさんの言葉が思い出された。確かに、皆そんなに自分の全てを曝け出して人と付き合っている訳ではないだろう。だが、それを言わずに綾子との距離を縮める訳には行かない気がしている。
打ち明けた結果どうなるのかはわからないが、距離を縮めたいのならばそうするべきだ。
綾子に対して誠実でいたいと格好つける訳ではないのだが、そうするべきだという気がしている。
「何してるんだろうなあ」
足の中で眠るケーシィの頭を撫でながら、どこかにいる綾子の姿を思い浮かべた。一緒に住んで一年程も経つ僕等は、今後どうなるのだろう。どうしたいのだろう。ケーシィとの距離を縮められている実感から、その嬉しさを覚えてしまった。だが、それをそのまま綾子に向ける事自体が暗黙のルールに反しているのかもしれない。
僕等の関係は風船のようにふわふわとしていて、だけど張り詰めているわけじゃない。いつかしぼんで落ちてしまうのか、何かがどうなって破裂してしまうのか、どちらにしてもこのまま続かないことは分かっていた。分かっているけど、それは考えなかった。二人でふわふわ浮かぶ風船を眺めているのが、とても心地良かった。
ここから前に進むということは、その風船に触れなければならない。
綾子は一体、何を考えているのだろう。