【十三】
もう二十三時を過ぎていた。タマムシは夜深くまでずっと明るい街なので、まだまだこれからだという人も多いだろうが、僕は満足した。
珍しい人と話せて、かなり気分がよかった。せっかくカツラさんとお話し出来たのだから、ケーシィの事をもっとたくさん聞いてもよかったのかもしれないと思ったが、そもそも僕は帰り際まであれがカツラさんだと気づいていなかった訳で。自分がきちんと酔っ払っている事を自覚する。
あんなに飲むつもりはなかった。少しだけ飲んで、ごはんを食べて帰るつもりでいた。本当は、ケーシィが少しでも外の環境や人のいる環境に慣れてもらおうとして出てきたのに、当の僕が良い気分でいるばかりではいけないなとは思いつつも、あのお店だったらまた行ってもいいなと思う。ケーシィも満足そうにしていたし、それがいい。
アルコールのおかげで若干足取りは重い。視界はしっかりしているが、頭がふわふわしている。帰って早く水が飲みたい。
そんな酔っ払った頭が、僕の判断を遅らせた。
ケーシィが僕の背中で今までにない程ビクつき、震えていることに気が回らなかった。
何かまずいな、と思えた時には、ケーシィは背中から僕の胸に抱き着いていた。
「どうした。何かあったか?」
何かあったどころではない。家でビクついている時の様子ではない。だが何に震えているのかわからない。
一度足を止め、当たりを見回す。タマムシの繁華街から大分離れた、閑静な住宅街。点滅する街灯に、知らない名前の虫ポケモンが集まっている。そもそも暗くてあまりよくわからないが、何があるわけでもない。ただ、暗がりの中で、バッグを持ったジャージ姿の男が後ろの方に立っているだけ。
再び歩き出したところで、薄ら寒くなった。何もおかしくはないのだが、後ろに歩いている人間がいる。ケーシィのビクつき具合と、例の事件の事が頭を過った。まさか僕らが狙われるなんて、そんな馬鹿な。都合良くこんなタイミングで狙われてたまるか、と思いつつも、狙われたトレーナーは皆そう思った事だろう。
酔っ払っていて鈍っていた頭がだんだんと冴えてくる。来る時はきちんと気にして明るいところを通って来ていたのに、帰りに酔っ払って事件に巻き込まれたりでもしたら目も当てられない。あまりに間抜けすぎる。
ケーシィをぎゅっと抱き、僕は足を速めた。
どうする。ただの歩行者である事を祈って足を止め、やり過ごしてみるか。でもこのケーシィのビクつきようじゃ、本当にただの歩行者ではないのかもしれない。
なんとかケーシィは守りたい。
「あっ……」
僕はまた失敗に気付いた。モンスターボールを忘れてきた。これではいざ走って逃げだそうと言う時、ケーシィを抱いている僕の方が不利だ。これだからペーパートレーナーは困る。
どうする、どうすればいい。
一瞬だけ、後ろの様子を探る。同じ距離を保ちつつついてくるのが見えた。さっきは、僕が後ろを見た瞬間足を止めていた。追い抜く訳でも、距離を取る訳でもない。ポケモンを出している様子もない。不審なものを持っている訳でもない。
「行くしかない、か」
ポケモンを出されたら、僕らだけでは逃げ切れない。今しかない。
意を決して、地面を蹴る。
走り出したら一層恐怖は増し、後ろを確認する余裕もない。ついて来ているのか、いないのか、何も分からない。ただケーシィがビクつく相手が後ろにいる。逃げる事だけを考えろ。
どこをどう走っているのか自分でもよく分からないくらい、がむしゃらに走った。路地を抜け、開けた道に。また道を折れて、住宅街に。少しでも遠く、目の届かないところへ向かう。自分が走る事に精一杯で、今後ろがどうなっているのかは分からない。肺が痛い。だけど止まれない。なんとか、人通りの多い場所へ。
タマムシのメインストリートが見えてくる。爛々と輝くネオン。道行く人々。すれ違う人が増えてくる。がむしゃらに走り続ける僕を不審そうに見る顔が視界に入った。
中心街に入ってきたことで僕は安心し、足を緩め、立ち止まった。途端に疲労が全身を襲う。肩が上下し、息が苦しい。
だがなんとか辿り着いた。これでとりあえずは安心だ。
「……ケーシィ?」
安心したのは僕だけだった。胸の中のケーシィは、まだとてつもなく震えている。一瞬にしてさっきの恐怖が蘇る。背中がまた薄ら寒くなって、さっきのぼんやり見えたジャージ姿の奴がいるような。何で僕らが。どうして。頭が回らない。嫌だ。頼む。ケーシィだけは。
小さな生き物を抱きかかえる僕の右肩に、生暖かい手が、置かれた。