二章
[2-1]
 シオンタウンの曇り空が、いつもよりも陰って見える。本当にそうなのか、色々なことがあったから、そう見えるだけなのか、どちらかはわからない。
 地面を圧迫するかのようなその雲は、いつ落ちてきてもおかしくはないくらい低いところにあった。手を伸ばせば届きそう。触るとどうなるだろう。白いふわふわとした雲とは違って、あの雲には悪いものがつまってそうだから、きっと、触ったら暗い気分になって、落ち込んでしまう。早く晴れて欲しい。しかしいくらそう思っても、雲がそこからどいてくれることはない。
「アキ、なにぼうっとしてるの?」
「お、来たか」
 僕はシオンタウンの南側、十二番道路に繋がる道の脇に立っていた。
 昨日はるこをサエさんのアパートへ置いていった後、そっと扉を開けて待ち合わせ場所と時間を書いた紙を放り込んできた。それを読んでくれるかどうか若干の不安もあったが、どうやら読んでくれたらしい。少し遅れながらも、こうやって来てくれた。
「もういいのか? この町とはお別れになるよ」
「いいの。もうちゃんとバイバイした。鍵だってね、ちゃんとサエの部屋に置いてきたんだから」
 昨夜、コトンとテーブルの上に置かれたあれは、鍵だったのかもしれない。
「そっか」
「そうだよ」 
 はるこは昨日のような落ち込んでいる様子を一切見せないでいる。思ったより落ち込んでいないようで僕はホッとする。でも実際、そんな簡単に立ち直ることはできないだろう。はるこのことだから、自分の中に押しとどめているに違いない。
 けれど、悲しいなら悲しいって言えばいいなんてこと、僕は言わない。そんなはるこの傍に黙って居るのが、僕の仕事だ。
「さあ、行こう」
「こっち?」
「どこへ行こうか、別に決まってないでしょ?」
「うん」
「じゃあこっち」
「うん!」
 満面の笑み。天真爛漫な少女の笑顔が、こっちを見ている。
 僕はそんな笑顔を尻目にゆっくりと歩き出す。はるこがその横を歩く。僕たちは、シオンタウンから一歩を踏み出す。


◆      ◆


 12番道路は海岸沿いにある。桟橋のかかった道はカントー屈指のつりの名所となっており、多くの釣り人達が釣りを楽しんでいた。海岸を進んでもいいのだが、どうせなら名所となっている桟橋を渡りたい。潮風が気持ちいいこの場所は、歩いているだけで心地よい。少し風が強い気がするけど、シオンタウンでの鬱屈とした気持ちを晴らしてくれるようだ。
「ねえアキ。あの人トサキントを釣った! すごいね!」
 釣り人の後ろを通ると、はるこは嬉しそうに語りかけてくる。見るもの全部が物珍しそうに。なんでも、楽しそうに。
「うん。でもあの人、トサキントばかり持ってたよ。周りに置いてあるモンスターボールをチラっと見たけど、ほとんどトサキントだった」
「トサキントが好きなんだね。私も好きだよ。図鑑でしか見たことなかったから、見るのは初めてだけど」
「初めてなのか」
 意外だった。はるこはポケモンに詳しそうだから、トサキントなんてどこにでもいるポケモンを見たことがないとは思わなかった。
「はるこって、どれくらいポケモンを知っているんだ?」
 桟橋の上で潮風に吹かれた髪を右手で抑え、「うー」と唸ってから、はるこはくりっとした目をこちらへ向ける。
「えっと、どれくらいって、わかんない」
「わかんないか」
「うん。知っていることしか、知らない」
「そりゃそうだ」
 はるこが今までどうやって暮らしてきたのか知らない僕には、聞いても無駄なことだったかもしれない。そういえば僕も、旅に出る前は図鑑を擦り切れるほど見ていた気がする。
「僕はね、図鑑が好きだったんだ。故郷にちょっとした図書館みたいなところがあって、いつもそこで読んでた」
「私も読んでたよ! 難しい漢字は読めないから、絵だけ!」
「今は?」
「今も!」
「……今もか」
 はるこが一生懸命大きな図鑑を抱えて運び、地べたに広げて読む姿が想像できた。なんだかあまりにも微笑ましくて、くすりと笑ってしまう。今でも図鑑を渡したらそうやって読みそうだ。
「本当はもっとたくさんのポケモンを見たいの。この子達にもっともっとポケモンを覚えてほしいから」
 そう言って、はるこは腰についている空色のポーチをポンポンと叩いた。そういえば、今日はあのメタモン達を出していない。シオンにいるときはあれだけ体にペタペタくっつけていたのにどういうことだろう。
「なあ、今日はあいつら出さなくていいのか?」
「メタモンのこと?」
「ああ」
「出してるよ」
「どこに?」
「ここ」
 と、はるこは背中に手を回し、Tシャツの下に手をいれる。まるで舌を出すように、ズルりと出てくるメタモン。
「そんなところに入れるなよ……」
「入っちゃったから」
「取れよ」
「取らなくても、歩ける」
「そっか……」
 はることメタモンの仲が良すぎる。モモが僕の背中に手なんて入れてきたら飛び上がるぞ。
「でも、ちょうどよかったかもしれないな。メタモンを取って」
「うん」
 潮風に吹かれ、僕達の髪が揺れる。波がわずかに立ち、陸に小さな牙を剥けようと走る。僕達は、立ち止まることとなる。見晴らしの良いこの橋で何故気づかなかったのか。休憩もなく何時間も何時間も歩き続けていたから、注意力が落ちていたのかもしれない。散々喋りながら桟橋の上を歩いていた僕達の前に聳え立つ壁。でかい。本当に、何で遠目で気づかなかったんだろう。喋りに集中しすぎたかな。
「どうするよ、これ」
 僕達の目の前に聳え立つ壁――カビゴン――は、ここをどく気はないだろう。大きな寝息を立てながら、桟橋の上をふさいでいる。
丁度クチバシティへ繋がる橋の上にいるから、邪魔でしょうがない。どうせ起きないだろうし、よじ登れば越えられないことはないけど……。
「どかそう」
 そう口に出すや否やはるこはポーチから二つほどモンスターボールを取り出し、そのスイッチを押す。中から出てくるのは、もちろんメタモン。手にもっていたメタモンも二匹の側に置き、加える。
「ここだと、橋が壊れちゃうかも」
「何をする気?」
「こうするの。みんな変身だよう! 橋が壊れちゃうのは怖いから、海の中で変身だよ!」
 合図がかかったと同時に、敬礼、とばかりにピッ! っと縦長に伸びたメタモン達は、まとまって海に飛び込む。ばちゃんばちゃんばちゃん。三匹のメタモンが海に沈んでいく。
何が始まる? と海をじっと見つめていると、すぐに中から見たことのある頭が出てくる。
それはゆっくりと海から顔を出し、その姿を現す。
「おっきいなあ」
 上を向いて口をポカンと開けてしまう程大きなカビゴンが、僕の前に現れる。メタモン三匹でこの大きさ。通常サイズのカビゴンの三倍はありそうだ。
 僕がポカンと口を開けている間に、変身カビゴンはゆっくり身をかがめ、その両手を寝ているカビゴンへ向ける。
「もしかして」
「さ、投げていいよう! お寝坊さんを起こしちゃえ!」
 巨大な岩石を持ち上げるかのように、その巨体がゆっくりと上がる。変身カビゴンは、せーの、とでも言うようにカビゴンを揺らし、勢いをつけ、歯をくいしばり、思いっきり放った。
 おいおい、と僕はさらに口をあんぐり。どこへ投げるのかと思ったら、海の方向へ投げやがる。カビゴンの巨体が宙を舞い、山なりになって、海面へと落ちていく。あのカビゴンにとっても、放り投げられるなんて初めての経験に違いない。この辺の海には不釣り合いな、氷山の氷が溶けて落ちたような水しぶきがあがる。おいおい。流石にめちゃくちゃやりすぎだ。
「解決!」
「大丈夫か? あのカビゴン」
「体は勝手に浮いてくるから、大丈夫」
 茫然と立ち尽くす人達のところまで水しぶきが飛んでくる。周りの釣り人も気づけば釣竿をブランと下げながら見上げていた。このあまりの常識はずれな光景に。
 こうして僕はまた、はるこのメタモンの力を少しだけ見ることができた。単純にカビゴン三匹分の大きさで、三匹分の力なのだろうか。
まとめて変身する以外にも、部位ごとに変身するのは見た。あとは、何があるのだろう。
「どっちへ行くの?」
「右。クチバの方だよ」
「はーい」
 大きな変身カビゴンはどんどん小さくなっていき、そのシルエットをぐにゃぐにゃと変化させ、色を変え、分裂し、はるこに飛びつく。相変わらず、仲が良い。飛びついてきたメタモン達を受け止めたはるこは、自分にへばりついたメタモン達を労ってなのか、ポンポンと叩いていた。
「ねえアキ、どうしてこっちなの? 何かあるの?」
「クチバっていう町には、港があるんだ。そこからどこか外へ逃げちゃおうと思ってね」
 メタモンを体にくっつけたままの会話にも、なんとなく慣れてきた。メタモンと一緒にいないはるこの方が、少し違和感があるくらいだ。
「船に乗るの?」
「ああ」
 そう言うと、はるこはなんだか難しい顔をする。僕の言ったことに不満があるようで、何かを考え始める。
「どうした?」
「船って、迷惑かける」
「そこまで追って来るのか?」
「うん。絶対来る。だって、私を捕まえないと、大変だろうから」
「大変か。じゃあ、はるこは一体どこまで逃げるつもりなんだ? この地方で逃げている限りは、いつまでも追われるんじゃないのか?」
「それでも船は危ないよ。乗るのは、私達だけじゃない」
 それじゃあはるこが何時までも追われ続けるだけだ。他の人のことばかり考えてたら、はるこが結局捕まるだけ。他の誰でもない、はるこを逃がしたい僕にとっては、歯がゆい話だった。
「言っていることはわかるけどさ……」
 いくら話してもはるこは納得してくれないだろうけれど、クチバでなんとか説得しないと駄目だ。
「とりあえず、クチバまで行こう」
 桟橋を渡り終えると、海を背にしながら11番道路手前の林道に入る。そこを抜けると、休息地点として二階建ての建物が置かれている。この辺はポケモンバトルをするトレーナーも多いだろうから、もしものときの応急処置場としてもきっと機能しているのだろう。
 その建物を見ながら僕らは脇を通過する。そういえばあのカビゴンはどうなっただろうなんて、見えるはずもないのに後ろを振り返る。僕に習って、「んん?」と間抜けな声を出しながらはるこも後ろを振り向く。本当に何気ない動作だった。ふっと後ろを向き、はるこがそれに気づき習った。それだけだ。
 ミシミシ。ミシミシ。パキパキ。パキパキ。
とても愉快とは思えない音が近づいてくる。林道を、何かが駆けてくる。その姿は、僕達の目に一瞬で入る。
「なあはるこ」
「なに?」
「あれ、絶対怒ってるよな」
「だねえ」
「そもそもあいつは何故あそこで寝てたんだ?」
「好きな場所だったのかも」
「なるほどなあ。じゃあ、あれはやっぱり怒ってるんだな。邪魔されたんだもんな」
「ちょっとやりすぎちゃったかな」
「そうだな」
「うん」
 向き直り、僕達は走った。ドタドタと、手足振り回して追って来るカビゴンから逃げる。邪魔してごめん、で止まってくれるような相手じゃない。僕達の姿を確認したのか、どう考えても僕達のところに向かって走っている。スピードの遅いポケモンといえど、あの巨体が走ればそれなりのスピードは出る。
「どうするよ。やっつけちゃうか?」
「うー、ちょっとやりすぎちゃったよう。ごめんなさいカビゴンさん」
 はるこはすっかり申し訳なさにとりつかれているようで、僕の言葉に反応することはなかった。
「仕方ない」
 別にはるこじゃなければあのカビゴンを止められないわけではない。僕にだってそれは出来る。
 立ち止まり、僕は振り返る。はるこも少し先で止まった。勢いのままにくさむらと道路で入り組んだ11番道路まで走ってきてしまって、このままここを突っ切るとクチバシティだ。僕らが逃げ続ければ、町の中をカビゴンが走り回るなんて事態になってしまう。下手したら民家に突っ込むことだってありえる。それは危険だ。ここはやっぱり止めないと。
 僕は斜めに下げていたバッグを開け、手を突っ込む。モンスターボールをひっつかみ手を引っこ抜き、さあ止めてやろうか、とそのスイッチに手をかける。しかし、それを押すことはなかった。
突然、カビゴンの横っ腹に蹴りが入った。長く伸びた足を大きく旋回させたそれに蹴飛ばされたカビゴンは、たまらず横倒しになる。くさむらの中に勢いよく倒れ、その巨体が滑る。長い足はどんどん縮んでいき、その主のもとへ戻る。そのまま一足飛びでカビゴンの横にまで迫った。
 随分と荒っぽいやつだ。カビゴンを蹴飛ばした人型ポケモン――サワムラー――は、そのままカビゴンに追撃しようとはせず、その場に留まった。
「おお、流石俺のサワムラーだ。よくやったぞ」
 続いて、カビゴンの後方からいろいろ抱えながら走りくる少年。はること似たような背丈。半袖とハーフパンツから伸びた手足が傷だらけだ。このサワムラーは、この子のポケモンか。
「君、ありがとうね。カビゴンを止めてくれて」
「お礼なんかいらないぞ。どうせ誰かが止めるんだ。誰が止めたって変わらない。兄ちゃんだって止めようとしたんだろう?」
「うん」
「じゃあ誰が止めたって一緒だ」
 そう言って、少年は横たわったカビゴンに近寄る。
「おい、危ないぞ」
「大丈夫。大方腹でも減ってイライラしてるんだ」
 違うんだよ少年。それはここにいる少女が誰も想像しないようなやり方で無理矢理起こしたから、怒っているんだ。
 そんなことを言う暇なく、少年はカビゴンの顔の方によって、ポンポンと頭を叩いた。
「ごめんな。痛かったよな」
 視界に人が入ったからか、カビゴンはまだ気性荒く起きだし、大きな鳴き声を上げながらその手を振り上げる。ああもう、言わんこっちゃない。僕はさっき押せなかったスイッチを押そうとする。はるこも咄嗟に一匹のメタモンに声をかける。
 でも、僕たちはやっぱり必要なかった。少年はそのカビゴンに向かって、抱えていた木の実を一つ放った。吸い込まれるように口の中に入っていく。
「お前、お腹空いてるだろ? たくさんあるから食えよ」
 食べ物が入ってくると、カビゴンは突然振り上げた手を降ろし、それをもぐもぐと咀嚼し始める。続いて少年は木の実を放る。再び吸い込まれていく。
 そんなことが繰り返されていると、いつの間にかカビゴンの表情が柔らかくなって、気づけばにんまりとしていた。
「謝るぞ、蹴飛ばしちゃって。でもこれで許せよ」
 少年も笑顔を浮かべ、カビゴンに言葉をかける。
 気づけば雲が晴れている。日も落ち始め、橙の光に照らされた地に立つ僕とはるこは、黙ってそんな光景を見ているだけだった。


早蕨 ( 2012/08/15(水) 01:12 )