一章
[1-5]
 その夜、僕はサエさんの部屋で夕飯を御馳走になった後、雰囲気にのまれるままにそこに居続けた。主に喋るのはサエさん。僕は聞き役。はるこも最初は興味深そうに聞いていたが、いつの間にか眠ってしまった。適度に散らかった部屋。中央のテーブルにおかれた鍋は空で、あいた陶器だけがそこに。うす暗い電灯が部屋を照らす。窓の外にはとっぷりと更けている夜。四角く切り取られた夜を眺めながら、片膝をついてたばこをふかすサエさんは、夕ご飯を食べていたときやはるこが起きていたときと違った、ぼうっとした表情を浮かべている。
「私は結局、この四角い夜しか知らないんだろうね」
 サエさんはぽつりとそんなことを言う。
「皆そうです。皆それぞれ何かに縛られていて、全てを見ることはできません」
「兄ちゃんは、何に縛られているんだ?」
「故郷に、ですかね。サエさんは?」
「お金、かな」
 ふう、と煙を吐いて、だらんと首を落とすサエさん。さっきまでとはうって変って、本当に疲れているようにも見える。隠していただけかもしれない。
「気持ちのいい話には、なりそうにありませんね」
「当たり前だ。こんな話が気持ちよくあってたまるかよ」
 夜とお酒とたばこ。それだけで、こんなにも人は暗くなってしまうのか。それともこれが真実か。サエさんの沈みようがなんとなく理解できているような気がして、僕も外を眺めたくなる。誰もが明るいだけじゃないのは当たり前で、そうなると、はるこはどうなのだろう、と思う。はるこにもサエさんのような一面を見せるときがあって、違う面があるのか。あるのだろうと、思う。思うけど、知りたくはなかった。
「はるこは、いい子だよ。いい子が困っていたら、助けないわけにはいかないだろ」
 ポツリと漏れる言葉。
「だからってわたしが何をしてやれるわけじゃない。こうしてここにおいてやるだけで精一杯。だから、わたしは少しでもこの子が安心できるように、この子の前でくらいは思いっきり明るく振舞っていたいのさ」
 聞いてもいないのに、サエさんは言葉を紡いでいく。何故そこまでしてはるこを? 僕はすぐに生まれた疑問を、口にはしない。それよりも、何故そんなことを僕に? それも、口にしない。僕は何も聞かない。知らなくてもいいことだ。
「兄ちゃんは、私の話を聞きに現れたのかね。まったく、変な夜だよ」
 自嘲気味にそう言って、サエさんはたばこを灰皿に押しつけた。

夜が、いつにも増して暗く感じる。サエさんとしばらく雑談を交わした後、さすがに同じ部屋で泊まるわけにはいかず、僕はポケモンセンターへ向かうことにしていた。薄暗い街灯、星や月。家からもれる小さな明かり。どれもこれも霞んで見える。今なら、僕にだって暗い闇の中に溶け込める気がする。目を閉じる。暗い。でも、夜も負けじと暗い。目を開ける。僕は、サエさんとの会話を思い出す。彼女の暗さも、この夜と似ていた。
サエさんが見せた暗く沈んだ表情や言葉は、やけに僕の頭に張り付いて離れなかった。あの沈みようは一体何を意味して、また意図していたのか。それとも何の意味も意図もなかったのか。僕はいくら考えてもわからないことをひたすら考え、頭を回転させていた。    
どっちのサエさんが本当のサエさんなのだろう。と、自分に問いかける。いくら考えても答えは一つ。どちらもサエさんで、嘘も本当もない。どちらもサエさん。ただ、隠しているだけ。隠す行為に、嘘も本当もない。
 はるこにも、そんな風に隠しているところがあるのかもしれない。僕にだって、ある。それはきっと誰にでもある。そんなことをいちいち気にしていたら人とは付き合っていけない。だからそれは、別に気にしていない。気にしているのは、あれに何の意味があるのかということだ。先ほどからの嫌な予感が、胸糞悪い予感が、僕はそれを独り言だとしても口にしたくはなかったし、考えたくもなかった。彼女だって、僕と似たようなことを予感したからこそ、ああいう話をしたのかもしれない。
 僕の頭にはいろいろな場面が連続して映し出される。一つ一つが写真のよう。どれも、嫌なものだ。このどれかになっても僕は嫌な思いをする気がする。
「予感で終われば、いいなあ」
 僕のつぶやきが暗い空に吸い込まれていくのか、暗い地面に沈み込んでいくのか、どこかに霧散してしまうのか。上か下か、右か左か。いったいどこへ行ってしまうのか。これからのこと、昔のこと。今のこと。考えることはいっぱい。ただ、全てが有耶無耶で、何を考えても僕のつぶやきのように消えてゆく。何かが起こりそうで、不安だ。考えても考えてもわからないことが、不安だ。でもこれはどうしようもない。すべてが、想像の域を出ないのだから。

◆      ◆

 翌日、ほとんど仮眠をとるための場所と言ってもよい部屋。そのベッドの上で、僕は目を覚ました。まるで寝台列車のように狭いところだったから、起きると歯車に何かがつまったかのように体が鈍り、ギシギシと痛むのを感じる。簡単に身支度を済まし、最後に紺のパーカーを適当にひっかけて、僕はサエさん宅へ向かった。
 今日ははることバトルをする日だ。サエさんのアパートでバトルをするわけではないのだが、まだどこでバトルをするか決めていなかった。幸いたっぷりと日差しを浴びることのできる快晴となった今日ならば外でバトルをしてもよさそうだが、さて、どこでバトルをしようか。そんなことを考え、起き抜けで回りづらい頭を刺激する。ぼうっとする頭は、まだ起きそうになかった。
 そうこうしているうちにサエさんのアパートが見えてくる。昨日ポケモンセンターまで戻ってきたときと比べると、随分早くついた気がした。
「……八時半か。ちょっと早かったかな」
 アパートの前まで来て、訪ねていいものか迷ったが、別段常識はずれな時間でもない。僕はそのままアパートの階段に足をかける。カン、と一段目を登ったところで、声が上から降ってくる。
「早いな兄ちゃん」
 サエさんだった。ホットパンツからスラリと伸びる長い足。黒のシャツ。
「おはようございます」
 サエさんは僕が挨拶とともに軽く頭を下げると、その階段を軽快に降りてくる。隣まで来ると、僕より結構背が大きい。百八十近くあるのかもしれない。大きい。部屋で見たときはそんなに大きくは感じなかったので、若干驚いた。
 サエさんは少しだけ屈んで僕に顔を寄せてきて、両手を合わせる。そのままウインク。
「ちょっと出かけなきゃならないんだ。はるこの事、頼んだ」
 流れるような動作があまりに綺麗で、思わず「はい」と言いそうになったが、ぎりぎりで我に返った僕は慌てて「えええ!」と驚いて見せた。ついでに頭も復活した。
「はるこを一人にしておくわけにはいかないだろ。いや、あいつは一人でも敵は追い払えるけど、独りでいさせるみたいで可哀そうだ」
「それなら、出かけるのをやめることを勧めます」
「それはだめだ」
「はるこを一人にしてまでも出かけるようなところなのですか!」
 我ながらあっぱれな棒読み。
「そのために兄ちゃんがいる!」
 サエさんも負けじと棒読みだった。
 僕もサエさんも、あまりこういうことを言い合うには向いていない。
「頼むぜ兄ちゃん。そのために待ちぶせしたんだぞ」
「偉そうに言わないでください!」
「私の頼みを聞け」
「率直すぎる!」
「おねがい」
 左耳に顔を近づけてきたところで、僕は突っ込みを放棄しサエさんから素早くツーステップで横にそれる。ケッ、と子どもみたいに毒づいて、サエさんは舌打ち。……仕方ない。どうせ今日ははることバトルをするために来たんだ。
「……わかりましたよ。それでは、何時頃戻る予定ですか?」
 ぱあ、とキマワリのように顔を輝かせるサエさん。いちいちモーションが大きい。リアクションが、激しい。
「多分、今日中」
「だめです」
「なにが」
「絶対、今日中にしてください」
「わかったよ」
 サエさんは明らかに不服そうな顔をしたが、僕は引き下がらなかった。流石に彼女もここがタイミングだと思ったのか、これ以上我儘を言ってくるようなことはなかった。「じゃあ頼むわ」と、足取りかろやかに出かけていくサエさん。なんとなく無理をしているように見えて、何か声をかけようかとも思ったが、僕は「お気をつけて」の一言で止めた。何を言いたかったのか、どんな事を言おうとしていたのか、一瞬前のことなのに、僕はもう思い出せなかった。
「……そうだ、鍵」
 嫌な予感がして、僕は足早にアパートの階段を駆け上がる。左に折れて、直進。一番奥の、右手の部屋。そのドアノブに手をかける。やたら重い感触。いくら力を入れても、ドアは開かない。
「あの人……頼むことばかりで鍵のこと忘れてる」
 小さくため息。騒いでもしょうがない。インターフォンを押しても、案の定はるこが出てくることはなかった。きっとまだ寝ているのだろう。続いて出てくる、大きなため息。まったく、あの人は何を考えているんだ。鍵をかけそのまま持っていってしまった。これじゃあ、はるこを見ていることもできない。中に入ることもできない。「わざと?」と、思わず口に出たが、そんなことをする意味があるとは思えなかった。
 はるこの安否を一瞬だけ心配したが、昨日見た光景を思い出す。平気だろう。無責任な気もしたが、なんだか出鼻を挫かれたような気になって、僕はドアを背に座り込む。今日もまた、おかしな一日になるに違いない。僕はそう確信し、目を閉じた。

◆      ◆

 背中で何かが動き、ギィ、と鈍い音が聞こえた。ライトのようにパっと脳が活性化し、僕は慌てて立ち上がる。ドアの前で、眠ってしまったらしい。僕も常識人とは言えなさそうだ。
「アキ、だよね」
 少しだけ開いたドアからひょっこり出てきたのは、はるこの顔だった。僕だとわかり、さらにドアを開けてくれたが、その代わりに面白い光景が見れた。寝間着姿のはるこの後ろに、僕を見つめるゴルダック。その前に立つはるこの左腕には、大きな砲口。あれは、ブーバーンの腕だ。随分前にシンオウからマグマブースターを取り寄せることでカントー地方でもちらほらとブーバーンの姿を見かけるようになった。はるこのメタモンはそれを記憶しているのだろう。
「なんだ、もうやる気満々なのか」
「あっ」
 自分の姿を見て、はるこは慌ててメタモンの変身を解く。腕の砲口。ゴルダック。そして、先ほどドアを少しだけあけた瞬間に出したのだろう。僕の左側に位置取っているベトベター。
「ごめんなさい。すぐに準備するから」
 慌てるはるこに、僕は苦笑する。
 ピンク色の軟体ポケモン達がはるこの元へ集まっていく。今日は昨日と打って変わって警戒心が強い様子だ。どうしたのだろう。ベトベターをドアの前に配置し、はるこ自身はブーバーンの砲口で装備。最後にゴルダックの透視能力を使ってドアの前にいる人物を確認。しかしそこにいたのは僕だった。それでも一応警戒をしながらゆっくりとドアを開けてみた。多分、こんなところ。やりすぎている感じがある。まず、こんなところであんな砲口から発射される火球を打ったら危険すぎる。このアパートが燃えてしまう。
「はるこ」
「うん?」
「なにかあった?」
「何もないよ」
「いつもこうなの?」
「いつもじゃないよ。今日は、サエがいないから」
 淡々と言葉が返ってくる。言葉を選んでいる様子もなく、そのまま、ありのままを喋っている様だ。何も隠していない。隠す必要がないからか。
「サエさんがどこへ行くか聞いてる?」
「知らない。ただ、ちょっと出かけるよって」
「そっか」
 はるこの顔が少し寂しそうに見えたのは、間違いなかったと思う。自分の支えとなっているサエさんがどこへ行ったかもわからないまま消えたんじゃ、不安なのだろうか。追われる身で、独りで、それがどれだけ寂しいかなんて、僕にはわからなかった。けれど、ほんの少しの間だけ、サエさんの代わりができればいいなと、僕はそんな風に思う。
「アキ、今日はどこでバトルをするの?」
「そうだ、それを考えていたんだよ。どこにしようか」
「わたしはどこでもいいよ。アキが決めて」
「じゃあ、ポケモンセンターの地下バトル場で決定だな。あそこが一番やりやすいし、平等だ」
「わかった。じゃあ、そこへ行こう。少しだけ、外で待ってて」
 うん? と疑問の声を出しそうになったが、僕は改めてはるこの姿を見ることで出しかけた声を止めた。はる子は寝巻姿だ。大きいのか、だぶついている。服を着ているというか、服にのしかかられているみたいだ。
「……おっけい。階段下で待ってるよ」
 ギイ、と唸るドアを閉める。はるこは最後までその場を動かなかった。
「寝起き、なんだろうなあ」
 ドアが閉まっていたのはそれで間違いなかった。
 ちゃんと警戒しているんだかしていないんだか、僕はいまいちよくわからなくなっていた。


早蕨 ( 2012/02/25(土) 23:37 )