一章
【1-1】君はそこにいる
 曇り空の下で、小さな女の子が困っていた。シオンタウンからヤマブキシティへ入るゲート直前で、いかつい髪形をした男やスキンヘッドの男に迫られている。――。
 曇り空の下で、小さな女の子が困っていた。もう一度じっとその光景を見つめ、視界からはじく。僕は素通りを決めた。足を進める。これでいいと思った。僕が助けなくても、誰かが助ける。誰かが助けなくても、あの子は助かる。助からなかったら、あの子のせいだ。そう思い、僕は歩いた。ちょっと早歩き。思いがけず、小石を蹴った。コツンコツンと、それは不規則に地面を転がる。視線や全ての感覚が小石に注がれた。僕は小石に集中した。
「うわああ! で、でけえ!」
 だから、突然聞こえた情けない悲鳴に、僕は飛び上がる程驚いた。何事かと、僕は小石の世界から我に返ってあたりを見回す。すぐに目に飛び込んで来たのは、巨大な口だった。紫色をした体と同じサイズの大きな口が、地を這って先ほどの男達を飲み込もうとしている。あれは、サイズこそ僕の知っているものではないが、マルノームというポケモンだ。
 「フアアアアアア」と欠伸のような大きな声を出しながら、巨大なマルノームは男達を飲み込もうと、二本の太い髭を蓄えた口をさらに大きくあけて前に突き出した。寸でのところで男達はその大きな口から逃れて、そのまま情けない声を上げながら逃げ出す。半ば呆けたままこの状況を見ていた僕は、ふとあの少女がいないことに気付いた。元いた場所にはいない。……どこだ。マルノームの陰かと僕は覘いてみるものの、やっぱりそこにはいない。……どこだ。僕は辺りを見回し、見つけた。直ぐだった。男達が逃げていく方向に、突如として現れた。文字通り、いなかったところから現れた。
 目を疑った。どうやったのだろうか。僕は、視線のさきに在る少女に、さっきの小石を思い浮かべた。動き出すと、止まるまで不規則に動き続ける。決して真っすぐには進めない、そんな小石を。
 男達は目の前に突然現れた少女に驚き、前につんのめりながら元来た道を走り出す。しかしそこには、大きな口を開けたまま地を這うマルノームの姿。万事休すとばかりに足を止め、男達は後方の少女を振り返る。
「おしおきだー!」
 振り返った男達に少女は力強く一足飛びで迫り、地に力強く足を沈ませてからそう言った。
 いやに静かな辺りのおかげで、可愛く透明な少女の声は、僕の耳まで綺麗に響いた。その行動からは意外な程に、でも、そのなりからは誰でも想像がつくような声。
 そして、少女が言ったことは確かに的を射ていて、「おしまい」の状況はしっかり整っている。
 鋭く細かい歯がならんだ、相手を挟み込むように作られた大きな口。……あれは、クチートのものだ。その大きな口が、男二人をガッチリと挟んでいる。「はなせっ、はなせよ!」男達は相変わらず情けない声をあげる。単純に拘束するつもりらしい。懲りずに叫ぶものの、ピクリとも動けない。そして前方からは、大きく口を開けたマルノームの、並みはずれた巨体。
「次意地悪したらー、もっともっと強く噛んじゃうぞー」
 ガオー! と。少女はまるで遊んでいるかのような声をあげる。
 僕は再び眼を疑う。
 その大きなワニのような口は、少女の左腕から出ていた。生えていると言った方が正しいかもしれない。少女は男達が観念し、おとなしくなったと判断したのか、そのクチートの口から男達を放す。すると、ぐにゃぐにゃとその口は形を変え、色を変え、小さくなったそれは、肩へと乗った。
 ピンク色の軟体ポケモン、メタモン。少女の腕から生えていたように見えたのは、あいつのせいだ。
「というわけでおしまいね。おやすみなさい」
 少女がそう呟くと、前で口を開けていたマルノームがさらに大きく口を開ける。さっきのように辺りを厚い膜で覆うような野太い声を出したかと思うと、男達はゆっくりと崩れていき、尻をつく。そのまま横になり眠ってしまうまで、あまり時間はかからなかった。あれは、相手を眠りに誘う「欠伸」という技だ。
「はい皆おつかれー、もういいよ」
 少女の一言で、桁違いのサイズを誇るマルノームが形を変え、色を変え、僕は再び同じ光景を見ることとなる。一つだけ違うのは、二匹のメタモンがそこから現れたことだった。
 メタモン同士がくっついて、一匹のポケモンに変身する。そんな光景、僕は見たことがない。
「皆ありがとー、ばっちりだったよー」
 甘ったるい声を出す少女に、三匹のメタモンがまとわりつく。嬉しそうだった。少女が好きで好きでたまらない。それを体現するかのようにくっついているように見えた。僕は見とれていた。あまりに仲が良さそうなその光景があまりに微笑ましくて、こっちまで嬉しくなる。少女はペタペタとくっついてくるメタモンを軽く叩きながら、「ちょっとやめてよう」なんて嬉しそうに言っている。僕は見つめる。少女は笑う。僕は見つめる。―――。
「それで、あなたはだあれ?」
 小首を傾げた少女と、三匹のメタモンと、視線があった。途端に少女から笑みが消える。さっきの男達に向けていたような表情ではなかった。僕は一体どう認識された? 中肉中背の僕から見ても小さい、僕の胸ほどまでしかない背丈。黒髪のショーカット。小さく整った顔。なんでもないTシャツと短パン。こんな少女に、僕は警戒されている。物理的にも、心理的にも、僕らの間には距離があった。少女は明らかにこちらをじっと見つめ、僕の出方をうかがっているようだ。
「僕、アキっていうんだ」
 名乗った。他に何て言えばいいのかわからない。怪しいものを見る目、とはまた違う、こちらを探るようなその視線に、僕は困った。
「それで?」
「旅人で」
「それで?」
「ポケモントレーナーで」
「それで?」
「……おしまい」
「普通だね」
「普通だよ」
 悪いか。とは言わなかった。
 いつもこんな風に人と接しているのなら、さっきのように絡まれることも珍しくはないのかもしれない。
「何か用?」
「ポケモンバトルがしたい」
「うそ」
「なんで」
「さっき素通りしようとした」
「よく見ているね」
「わたし、そういうの得意なの」
 僕が棒立ちのまま何もしてこないのを見て無害な人物だと判断したのか、少女は三匹のメタモンを体にくっつけたまま、ゆっくりとこちらへ足を進める。夜に出会ったら恐そうだ。
 目の前まで迫ってくると、そのまま沈黙。汗が流れる音が聞こえそうなほど静かで、少女にじっと見つめられる時間が続く。こんな少女に威圧されているようで、少し悔しかった。押し返そうと、申し訳程度に見つめかえそうとしたところで
「ねえ、一緒にきてみない?」
 少女は僕の目を真っすぐ見ながらそう言った。
「なんで」
「バトル、したいんでしょ?」
「うそだって、君が言ったじゃないか」
「ほんとうに?」
「どうだろう」
 バトルをしたくないと言えば、それはきっと嘘。手持ちポケモンが全部で何匹かはわからないが、三匹もメタモンを所持しているトレーナーなんて見たことなかった。僕も少しだけバトルの腕には自信があるし、こんな変わったトレーナーとバトル出来るなら願ってもないこと。でも、バトルよりも前に、僕は気になることが一つあった。
「これ?」
 少女は僕の視線に気づいたのか、腕の通っていないそのTシャツの左袖を右手でつまんだ。それから、なんでもないことを話すかのように続ける。
「わたし追われてて、一度捕まりかけたことがあって、そのときいろいろあって、この通り」
 ほら。と腕をまくりあげ、腕の付け根をこちらへ見せる。見事に腕が根こそぎ消えている。未だに 傷は癒えていないのか、付け根の部分に巻かれた包帯が痛々しい。
「腕はね、この子たちが代わりをしてくれるから、なくても平気。それにね、腕がない方が、便利なこともあるの」
 そう言って、少女は三匹のメタモン達の体を一匹ずつ触っていく。撫でているようにも見えた。僕がその光景を見ていると、少女は手を下ろして再びこちらに視線を送った。
「驚かないの?」
「なにを」
「腕とか、メタモンとか」
 僕は、先ほどのクチートの口を思い出す。
「別に」
「じゃあ、聞かないの?」
「なにを」
「なんで、おばけみたいにいないはずの場所に現れたのか」
「メタモンを使っているんだから、テレポートを使うやつに変身させて、一緒に移動したんでしょ?」
「……なにも聞かないの? なんで追われてるとかそういうの、なんでも」
「いきなり聞くようなことじゃないよね」
「ふうん」
 言って、考え込むように少女は視線を下ろす。
 僕は、何故か次の言葉を待った。自分でもよくわからない。この変わり者の少女に、僕は惹かれているのかもしれない。次の言葉が欲しい。
「やっぱり、わたしと一緒に、来る?」
 ゆっくり顔を上げ少女は言う。
「なんで?」
「あなた、わたしにいじわるしないから」
「……どういうこと?」
「あなた、わたしに何もしない」
「それで?」
 今度は困ったような顔をして、言葉を発しようと少し口をパクパクさせる。一度ごくんと何かを飲み込むようにしてから、勢いよく顔を上げた。
「い、一緒に、来て」
「……要するに?」
「お、おともだちに、なりま、しょう」
 ぎこちなさ満点だった。
「そういうことなら」
 僕が返すと、ふいに少女は笑顔を見せた。嬉しさあふれんばかりの笑みに、悪い気はしない。何か慌てるように、Tシャツを手でごしごしとこすってから、その小さな右手を僕に差し出す。
「あくしゅ」
 一瞬の間をおいてから、僕も迷わず手を出した。柔らかい手の感触。伝わる温かさ。緊張しているのだろうか。少しだけ手が汗ばんでいた。
 けったいで不思議な、只者ではないトレーナー。それでもただの女の子には変わりなさそうだと、僕は思った。
 これが、僕と、少し変わったメタモン少女とのファーストコンタクト。旅道で見つけた出会い。気まぐれで、偶然で、ここで会ったのが僕でなくてもよかったのだろう。こんな風に接するのは、僕でなくてもいいのだから。だから、完全にめぐり合わせ。だったら、寄り道でこの子に付き合ってみるのも、悪くはないのかもしれない。


早蕨 ( 2012/05/20(日) 20:05 )