一章
【1-11】
 落ちているモンスターボールと赤いポーチを回収されても、サエさんは糸が切れたかのように茫然と突っ立っているだけだった。
「モモ、サイコキネシスだ」
 コクんと頷いたモモは、再び両腕を突き出す。ゆらゆらとサエさんの周りに青白い光があらわれたかと思うと、その体を硬直させた。モモの視線がこちらを向く。不安気だ。僕は迷わずコクんと首を縦にふる。モモはそれを確認すると、キッ、と口を一文字に結び、両手を振った。サエさんの体が浮き、壁に向かって一直線。何の抵抗もなく激突。漏れるような声だけが聞こえる。
「もういい」
 僕に言われるまでもなく、モモは既にサイコキネシスを解いていた。サエさんは地面にずりおち、うつぶせに倒れる。殺すつもりはない。まだ聞くことがある。
 僕がサエさんの方へ向かって歩き始めると、モモはまた不安そうな顔をする。「大丈夫」と声をかけてもまだ不安そうだったが、本当に僕はまだ何もする気はなかった。だって、こんなに簡単にバトルが終わって、違和感を感じないわけがない。どう考えてもおかしい。サエさんがこんなに弱いとは、どうしても思えない。
「まだ大丈夫でしょう。起きてくださいよ」
 少しの間気絶したふりを決め込んでいたサエさんだったが、やがてあきらめたかのようにゆっくりと体を起こした。壁に背をつけ足をのばし、何か呆けた顔をしている。
「どうして手加減なんてしたんですか」
 いくらでも新しいポケモンを出す機会はあった。どうにでもできる隙だってあったはずだ。でも、サエさんはまごついた。
「なんでかねえ……殺すとか言ったのにねえ」
 吐き出すようにサエさんは言う。僕に言っているというよりは、自分に語りかけているかのようだ。
「もしかして、最初から負ける気だったのではないですか?」
「半分半分ってところ、かな」
 はは、とサエさんの口から乾いた笑いが漏れた。何の笑いだ……。
「なあ兄ちゃん。私もな、人間なんだ。今まで似たようなことたくさんやってきたけど、それでも一応人間なんだよ。良心なんて、今更笑っちゃうけど、そういうのも、一応あるんだ。悪い悪いって、ずっと思ってたんだ。謝りたい人だって、たくさんいるんだ」
 その中には、はるこが含まれているのだろう。サエさんの中で、はるこの存在はどれほどのものだったのだろうか。あの無邪気で純粋な笑顔は、どれだけサエさんの中にある小さな良心に訴えかけただろう。その答えは、あの夜、サエさんが見せた疲れた顔が物語っていたと思う。
 嫌気がさしていたんだろう。自分にも、周りにも、世間にも。なんとなくそれがわかる。一歩間違えば僕だってサエさんがいる位置へいたかもしれない。
「そういえばさっき、メタモンがどうとかって、言ってましたよね。あれってどういうことですか?」
「私には詳しいことはわからないよ。雇われの身だからね。ただ、あの子は自分が逃げるっていうことより、メタモンを逃がそうとしているみたいだ。兄ちゃんも知っていると思うが、ちょっと変わったメタモンだろう? あれはきっと、どこかで訓練されたとか、代々囲われた土地で守られてきたものとか、そういう、特別なポケモンだ。もともと私なんかが捕まえられるはずがなかったんだよ。はるこを捕まえたところで、メタモン達が暴れ出したら、きっとどうしようもない」
「特別って、一体どういうことなんでしょう……」
 僕は、ほとんど無意識にそう呟いていた。
「特別になる運をもったやつを、そう言うんだよ」
 サエさんの言葉が、僕の中を駆け巡る。それじゃあ僕は、一生そいつらに追いつけない。……追いつく? 僕は自分に違和感を感じる。はるこや、あの人のように、僕は特別にならなくちゃいけないのか? 違う。特別になることと、追いつくことは全然違う。そんな運なんか必要ない。逆だ。そんな運なしに、僕を村のはじきものにした奴を打ち負かさなくちゃ意味がない。そうだ、僕はサエさんとは違う。諦めてしまったこの人とは違う。
「あなたははるこを捕まえるべきでしたし、手加減なんかするべきじゃなかった。そんなちっぽけな良心なんか、気にする必要なんてありませんよ。疲れたとか無理とか、そんなことを言っている場合じゃないんですよ。お金が必要なんでしょう? そんな程度で諦められることなんですか? こんなことまでしたんだから、何か深い事情があるんでしょう? だったらあなたは、特別なやつに向かっていくべきでした。今なら確信が持てます。断言できます。それが出来ないあなたは、僕達にさえ絶対に勝てない」
 サエさんは、僕を怪訝そうな顔で見ていた。何を言っているんだお前は。そう、言うかのように。
「兄ちゃん。やっぱり、兄ちゃんもはるこを追っていたんだな?」
 さあ……どうでしょうね。
僕はそれだけ返して、サエさんに背を向ける。もうこの人に用はない。詳しい事情にも興味はないし、知りたくもない。これではるこの役には立てたのだから、十分だ。
「モモ、行くよ」
 トコトコとモモが僕の後ろをついてくる。ポーチをバトル場に放り、倒れたスピアーを尻目に、その場を後にした。

 ああ、なんて気分が悪いんだ。ベトベターのようにぐちゃりとして、カビゴンのように重い気分。ポケモンセンターを後にした僕を待ち受けていたのは、夜の暗い雰囲気のシオンタウンと、自分自身の重苦しい気分だけ。傷ついたピジョットとモモを回復のため預けた後の、「ご利用ありがとうございました」というジョーイさんの真っ直ぐ無機質な声が、安心するような気がしたけど、やっぱり怖かった。
真っ暗なシオンタウンが、さらに深く闇の中に沈んでいる。この夜は本当に明けるのだろうか。まったく嫌になる。……。あの人はもう戻ってこないし、一生はるこの前に姿を現すことはない。あの人自身もうそんなことは出来ないというのもあるが、はるこはきっと許してしまう。サエさんが目の前で泣いてあやまりでもすれば、いや、何もしなくても、にへらと笑って「いいよ」と言ってしまいそうだ。そんな光景が容易に想像できる。サエさんだってそんなことは耐えきれないだろう。強くサエさんを罵倒するはるこを想像することだって難しいくらいだ。あの子はきっと、そういう子だ。だから辛い。この報告をあの子のところへ持っていかなければならないことが辛い。僕のやったことにきっと間違いはなかったけれど、僕だって本当はこんなことしたくはなかった。でも、「私だって不本意だ」というサエさんの言った言葉を僕は使う気はなかった。そんなのずるい。不本意とか本意とか、関係ない。やったかやっていないかだ。サエさんはやった。やったらやっただけの行動をしないといけない。それなのにもううんざりだからって僕に対して手加減をし、あのざま。情けない。僕は違う。不本意なんて言わない。自分でやったことだ、きっちりあの子に伝えよう。

 街灯に薄く照らされたアパートの前に立つと、僕の足は地面に吸い付いているかのように重くなった。
「よし……」
 意気込み、前へと足を進める。何度か登った階段へ。カン、と聞きなれた音。一歩一歩、踏み進める。すべてを踏み終えると、左へ折れ、一番奥へ。その右の部屋に、はるこがいる。緊張する。馬鹿だ。なんで緊張なんかしている。そんなのいらない。いらないぞ。
 そのまま一気に直進。扉の前に立ち、一気にドアノブを引く。鍵は開いている。予想通り。せまい玄関で靴を脱ぎ、部屋の中へ。部屋は暗かった。真っ暗で、何も見えない。どこにスイッチがあるのかもわからない僕は、そのまま玄関に立ったまま――
「はるこ」
 と呟いた。この部屋にいるのかどうかもわからない。目はまだこの暗さに慣れてはくれない。
「はるこ、いるのか?」
「……うん」
 小さな返答が帰ってくる。僕の体は一瞬硬直した。
「電気は、つけないで」
「わかった。でも、はるこ、大丈夫? 何にもなかった? 何もされなかった?」
「……うん」
 なんて弱弱しい声を出すんだ。やめろ。そんな……そんな悲しい声を出すな。
「あのな、はるこ」
「わかってる。アキが来たってことは、そういうことなんでしょ?」
 やっぱり、はるこはわかっていたのだろう。サエさんがただ自分に優しくしてくれているわけじゃないと。わかっていながら、その偽りの優しさに寄り添った。悲しいくらい、弱く見える。
「ああ、そういうことだよ」
「……ごめんね」
「何が」
「アキに、いやな思いさせて」
「いいんだ。そんなの」
「ごめんね」
「いいんだ。気にするな。僕が勝手にやったことだ」
「でも……」
「でもじゃない。サエさんは裏切り者だった。僕はそれを確認した。それだけだ。はるこには辛いかもしれないけど、それだけだ」
「ありがとう」
 今度は、お礼だった。
「サエも今まで、やさしくしてくれて、ありがとう」
 泣きそうな声。細く弱く、こんなにも小さい。裏切り者でも、今まで自分を世話してくれた人に対するお礼。それを受け取る人は、もういない。何かが足りないこの部屋に、むなしくそれは消えていく。
 ぐず、と鼻をすする音。はるこが立ち上がった。目が慣れてきて、それが見えた。あの中央にあったテーブルは横に寄せられていた。二人は……並んで布団を敷いて寝ていたようだ。寄せられたテーブルの上に、コトンと何かが置かれる。
「ばいばい」
 はるこが呟く。誰もいない、部屋に向かって。
「アキも……」
「ばいばい、っていうのはなしだ」
「でも……」
「二回も言わせるな。でもじゃない。また、どこかへ行くんだろう?」
「……うん」
「僕も、ついていく」
「あぶないよ……」
「いいんだ」
「何が起こるか、わからないよ?」
「いいんだ」
「……うん」
 はるこはそう言うと、ストンとその場に腰を下ろした。少しの間、ぼうっとそのままでいたかと思うと「明日の朝、またここで」それだけ言うと、コトンとその布団の上に横になってしまう。僕にはもう、何も言うことはできなかった。今まで一緒に暮らしてきたサエさんのことを考えているのかと思うと、僕はその場にいられず、そっと部屋を後にした。
 後ろ手でドアを閉め、深く深呼吸。これで、一段落なのかもしれない。降りだしに戻っただけなのかもしれない。
その逆かも。これから何が起こり、はるこが何者であるのかも、僕にはわからないのだから。
わかっているのはメタモンと一緒に逃げるということ。それだけ。それでも今はいいと思う。明日でも明後日にでも、ゆっくり聞けばいい。はるこはきっと、答えてくれるだろう。
 僕達はこれから、一緒に旅をするのだから。






■筆者メッセージ
一章【了】
早蕨 ( 2012/05/20(日) 20:06 )