デリバードからのプレゼント
螺旋の時間
 檻の中から見える、空に浮かぶ月が憎たらしい。
 唯一外の見える真四角に切り取られた鉄柵付きの窓の縁に両手をかけ、ボクは少しでもより近くで月を見つめた。だんだんと手が自重を支えられなくなり、ボクはポトりと床に落ちる、落ちると床が冷たい。ヒンヤリなんて、生易しくない。ぶるりと一つ体を震わせ、もう一度月を仰ぎ見る。途端に、憎たらしく見えた月が恋しくなった。また天上近くにある窓に飛びつこうと思ったが、諦めた。いくら見つめても、近くにいっても、月は僕たちを照らしてはくれない。照らしてくれるのは、薄暗い檻の中の小さなランプの明りだけ。ボクの命のように、小さく揺らめいている。
「飽きないな」
 通路を一つ隔てた、反対側の檻からの声。姿形はよく見えないけど、肌色で薄っすら丸い輪と、ボクをとって食べようとするかのような、嫌に光る目だけがよく見える。
「少し寂しくなったり、憎たらしくなりますが、いいもんですよ」
「月を見るのが、そんなに楽しいか?」
「ええ、ここにいるよりはずっと」
「……お前らしいや」
 フン、とリングマさんは鼻で笑ってそう言うと、何もない固い床へと寝転ぶ。ここからの光景が、テレビとかいう変な機械の画面と似ているような気がした。向こうからもそう見えるのかも。そう思うと、少しだけおかしかった。
「リングマさん。もう、寝ちゃいました?」
「ああ、寝た寝た」
「お話し、しませんか?」
「もう寝たって」
 今日のリングマさんは、意地悪だ。機嫌がいいときは、昔の話をしてくれる。ボクはそのお話が好きで、もっともっと聞きたい。聞きたいけど、リングマさんは、それを話したがらないときがあるから、代わりにボクの話をしたりする。そういうときは決まってリングマさんは、「……お前らしいや」って、台詞を残した。
「おやすみなさい」
 無言の返答。返答と解釈するのは、ボクが勝手にそうしているだけ。リングマさんの横になった大きなシルエットが、ボクの就寝時間を告げる。ごろんと、横になる。ヒンヤリ。耳の中で、そう聞こえた気がした。

 朝。目が覚める。四角く、けど柵の形の影がくっきりした朝日が差し込む。ボクは、常に柵の外を見られるように、顔に柵の影を被るように寝ていた。憎たらしいお月様、さようなら。太陽さん、いらっしゃい。ん、おはようございますかな、いや、おかえりなさい、か。むくりと起き上がり、目を擦る。リングマさんと草原を走るのは、気持ちよかった。あの人は草原を知らなくて、ボクだけが、知っていた。教えてあげられることが一杯で、なんだか凄く、楽しかった。軽くノスタルジー。そう思って、気付く。ああ、あれは夢だ。やけに鮮明に覚えていた夢が、夢であることをボクに理解させようとしている。意地悪だ。夢までも、ボクに意地悪をする。
「ふぁあ」
 と、一つ欠伸をして、見上げる。柵の外は、太陽の光で溢れていた。差し込む太陽に向かって口を開ければ、味がする気がした。
「何してるんだ? マグマラシ」
 後ろから声が聞こえて、口を開けたまま、ふり向く。
「はいようのひはりを、はへへふんへふ」
「太陽の光を食ってるのか」
 つまらなそうに口を閉じるボクを見て、くだんないなあとでも言うように、リングマさんは「くあっ」と欠伸をした。
「何でわかるんですか?」
「お前の言いそうなことを推測しただけだよ」
「へえ、そりゃ凄いや」
 ボクよりもずっと長く生き、ポケモンとしても進化して、凄く立派に見えるリングマさん。そんなリングマさんでも、ボクと同じように檻の中で住んでいる。ボクもあと一回の進化を残しているけれど、進化したところでリングマさんに追いつけるなんて思わない。
 この檻に連れられて早二週間。ボクがかろうじてこの場所でやっていけるのは、いやいやながらもボクに付き合ってくれる、リングマさんのおかげだ。
「それより、少しは気合をいれてやれよ。お前、ここを出る前に死んじまうぞ」
「ここ、出られるんですか?」
「出た奴を、見たことあるだけだ」
「へえ」
 言って、カツカツカツと、聞き覚えのある音がする。その音はゆっくりと近づき、やがてボク達を隔てる通路で止まる。ボクらのお話しの内容は、この人には理解出来ない。だからなのかなんなのか、いつもいつも空気を読まないでこの人はやってくる。またか、と嘆息する暇もなく、やせ細った意地悪そうな顔した男は言う。
「さあ、スポーツの時間だ」


  ◆   ◆


  スポーツの時間。憎たらしい月よりも、恨めしい太陽よりも、ずっとずっと嫌な時間。スポーツの時間。わけもわからずここに連れられてそう告げられたときは、食べ物かと思った。食べ物だったら良かったのだけど、それは、検討違い。スポーツの時間がボクに課したのは、目の前に立つ相手を倒すという事だけだった。
「さ、いい勝負をして盛り上げてこい。お前に賭けているやつもいるんだからな」
 まるで大きな鳥かごのような、鉄柵の闘技場に、ヒョロヒョロの男はボクを押し込む。周りでは、大きな歓声が上がっていた。ボクに野次を飛ばす声や、応援する声。いろんな色の声がボクと、目の前に立つポケモン——二足歩行で、筋肉質。年中闘うことしか考えていなさそうなゴーリキー——に降り注ぐ。「いけー!」「殺せー!」
「ぶっ殺せー!」そんな言葉が、ひたすらにボクの耳をつんざいた。ゴーリキーは、やる気まんまんにこちらを見ている。彼は、勝敗だけで全てを決めて、お金のために殴り合って、少しも気分がよくならないこんなことが、このスポーツという時間が好きなのだろうか。もしそうだとしたら、ボクにはその気持ちが少しも理解出来ない。
それでも、一応はやるしかない。やらないと、後でひどい目に合う。
「ファイト!」
 大きな合図が、ひしめく声達の中を突き抜けるのと同時に、さらに周りの歓声が上がる。
 スポーツの時間。ボクの、一番嫌な時間が始まった。
 あんなの、勝てる気がしないよ。


 ◆     ◆


「いてて……」
 自分の檻に放りこまれたのは、すっかり日が落ちて、あの月ももうボクの檻からは見えないくらい登っていたころだった。気味の悪い灯りだけが檻の中を照らして、ボクの痛みはさらに気味悪く増す。四本の足で歩くのが辛く、口の中から血の味がする。ボクはそれを忘れたくて、すぐに床にゴロンと寝転んだ。
「大丈夫か?」
 その言葉に、眠るというより半ば失いかけていたボクの意識、引きずり上げられる。
「大丈夫じゃないですよ」
 ゴーリキーにボロ雑巾にされた後の、負けた罰、本気でやらない罰としてヒョロヒョロの男にむちでうたれた時の痛みを感じながら、寝転んだままリングマさんの方へ首を横に向ける。
「お前、また本気でやらなかったんだろ」
「だって、ボクあれ嫌いなんですよ」
 はあ、っと、リングマさんは大きい溜息をつく。
「やらなきゃ痛いし、辛い目に合うってわかってんのに、どうして本気でやらないんだ? いい加減にしないと、死ぬぞ」
「やりたくないんです」
「辛い目に合うのにか?」
「嫌なものは、嫌なんです。やりたくないものは、やりたくないんです。それじゃあ、駄目なんですか?」
「しょうがないだろ」
 ……しょうがないって、なんだ。生きるためにはやらなくちゃ、ということか。やりたくないことをひたすらやらされ続けるだけで、それでも生きるってなんだ。
「しょうがないって……なんですか」
「綺麗ごとばかり言って格好つけるんだったら、持てる力で相手を倒して、俺は生き延びる。ここは他人のことなんか考えている余裕はない。そういうところだ」
 ボクよりもずっと長く生きて、大きくて強くて、なんでも知っているくせに、出せる答えがそれだけか。しょうがないって、なんなんだよ。それだったら、なんでもしょうがないだけで済んじゃうよ。悲しいことがある、しょうがない。辛いことがある、しょうがない。嬉しいことがあった、しょうがない。
 むかつくなあ、しょうがないって。
「失望しましたよ、リングマさん」
「したきゃ勝手にしてろ。ここから出るためには、闘技場で死ぬわけにはいかないんだ」
「リングマさんは、あのスポーツの時間が好きなのですか?」
「嫌いだね。あんなの、スポーツとは呼ばない」
「では、やめましょう」
「だめだ。死ぬぞ。やりたくなくてもやるんだ」
「難しいことを、言うんですね」
「難しい考えた方をする奴に、言われたかないわ」
 リングマさんの考えていることに方が、よっぽど難しいよ。
 ボクはそう言いかけて、やめた。リングマさんとこれ以上言い合うのは、嫌だった。
「何にしろ、死にたくなかったら潰せ。目の前に立った相手は、片っ端から潰すんだ」
「そんなの、嫌です」
「それじゃあお前、もたないぞ」
「いいですよ、別に。リングマさんみたいに闘ってたって、出られることなどほとんどないのでしょう? だったら、ボクは闘わないで死にます。ボクは、それを貫く」
 リングマさんと喧嘩するのは、嫌だった。リングマさんの言う通り、きっとそれは見解の相違なだけであって、リングマさんは悪い方ではない。むしろ、感謝したいくらいだ。
「勝手にしろ」
 言って、リングマさんはボクからそっぽを向いてしまう。それを見て、半ば意地になってしまっていた自分に気付く。
 ごめんなさい、言い過ぎました。
 そう言いたかったけど、きまりが悪くて、言えなかった。口の中の血の味が、妙に濃く感じられた。


 ◆    ◆


 それから数日後。リングマさんの言っていた通り、頭がオレンジ色の軍人さんのような格好の人とこの檻から出て行った。ライチュウ、という黄色の電気鼠ポケモンだ。ここの出方、リングマさんは知っていると言っていたが、そういえば聞いていなかった。いや、聞かなくてもわかる。ボク達が人の視線を浴びる場所など、あそこしかない。もしかしたら強いポケモンほど、あの場所でたくさん勝てば勝つほど出やすいのかも。だとすると、リングマさんはもう出ても良さそう。出れないということは、強いというだけが出れる条件ではない、のかな? 闘技場を見に来る人って皆恐そうな人たちばかりで強いポケモンを欲しがりそうだけど、そうでないとすれば、あとはかわいいポケモンか。ボクって、強くもないし、あまりかわいいわけでもないし、一番出にくいのかも。そう考えると、少し落ち込む。というか、そもそもこの闘技場はなんのためにあるんだろ。ボク達の試合にお金を賭けるという話は聞いた。だけど、こうやってたまに誰かが出れるということは、違うこともしているに違いない。
「そろそろ入れ替えの時期だなあ。いらねえのはさっさと捨てねえと」
 ふと、そんな声が聞こえる。いつもボク達のところに来る、のっぽの男の声だ。今日も覚悟を決めないと、と一つ深呼吸して待ち構える。
「さ、スポーツの時間だ」
 いつも通り。だけど、向けられる方向が違った。スポーツの時間は、リングマさん。抵抗が無駄だということをわかっているようで、素直に男のモンスターボールの中へと入り、闘技場へと向かっていく。ボクは、ボク自身が闘っているときしか知らないけれど、あんなに大きいリングマさんは、きっと凄く強いのだろう。
 あれから、ボクはリングマさんとは喋れてないし、謝れてもいない。何度も機会はあった、というよりこうやってずっと向かい側にいるのだから、機会なんていつでもあったけれど、気恥ずかしくて言えていない。闘わないことを貫くってそういう意味じゃないのに、自分が情けないばかりに自分で言った言葉の意味が、捻じ曲がってしまいそうだ。
「帰ってきたら、言おう」
 うん、と自分に自分で頷いて、ボクは眠ることにした。

  ◆   ◆

  
  頭の中、ごめんなさいごめんなさいって謝る僕の姿。変わって、言い過ぎました、ってふ再び頭を下げる僕。続いてパっと暗転。目が覚める。目を明けていたほうが暗いって、なんだか常に眠っているような感覚に陥る。ぼうっと頭をからにしていると、カツカツカツ、って靴の音。あの男だと思ってのそりと動いて鉄柵から覗くと、やっぱりそうだった。僕はやっと帰ってきた、と同時に少し緊張。男が鉄柵を開け、モンスターボールからリングマさんを出すのを待った。放り投げられたボールから光とともに、リングマさんのシルエットが浮かびあがる。
 ドサッ、という重苦しい音とともに、リングマさんは横たわった。
「え? ちょ、どうしたんですか?」
 男はボクの鳴き声など気にもせず、いつものようにすぐにその場から立ち去る。
「あの、リングマさん、どうしたんですか?」
 ボクの呼びかけに、リングマさんは無言の背中を見せる。薄暗くて、よく見えない。よっぽど大きな怪我をしているのか、ボクのことを嫌いになったのかわからないけれど、返答くらいして欲しい。
「リングマさん!」
 呼びかけ空しく、ボクの声は霞んで消えた。
 何も返事がないと、余計に心配になる。うっすら見えるシルエットが、ボクの余計な心配が、窓の遠くに見える月のようにリングマさんをボクに見せた。
「どうしたんだよ……」
 ボクのことを無視しているとばかりに、その日は結局、返事がなかった。


  ◆   ◆


  翌日の昼間。やっとリングマさんは目を覚ました。
「大丈夫ですか?」
 重そうに体を起こすと、体を引きずって壁によりかかり、「よお」と一声上げてこちらを向いた。
「俺、どんくらい寝てた?」
「……ご飯二回分くらいです」
 そうか、と言い、リングマさんは黙ってしまう。
 機嫌が悪いというわけでは、なさそう。声には、いつもの力強さや覇気がなかった。ボクの方を向いて喋ることはなく、ボウっと前を向いている姿、なんだかいつもより小さい。ときおり何かを呟いているが、ボクにはそれが何か聞こえなかった。
「あの……リングマさん」
「ん」
 やっと返事をしてくれた、と半ば緊張。さあ言おう、としたところで、ボクは一瞬言葉に詰まってしまう。
「お前が言っていることだって、間違ってるわけじゃないんだよな」
「え?」
 その一瞬の詰まりの隙を突くように、リングマさんは喋る。
「俺、自分より一回りも二回りも小さい奴に、のされちまったよ。ガバイトっていうポケモンでな、ここいらでは珍しいんだけど、そいつがやけに強くてよお」
 ガバイト。ボクはそのポケモンがどんなポケモンか知らないが、リングマさんがこんなに言うほどだから、きっと途方もなく強いんだ。
「何の迷いもなく殴りかかった俺を、嫌な目で見てたよ。俺と闘うのが、嫌だったらしい。あんなに嫌そうにしてたのにあれだけ強いんだから、多分お前の言うことは間違ってない」
 ボクではない誰かと、喋っているみたいだった。その言葉は、ボクに向けられていなかった。相槌を打っても、リングマさんはただひたすらにボソボソと、何も空間にリングマさんは喋り続ける。何かを思いつめるように、何かを考えるように。
「いや、合ってるとか間違ってるとか、そういうことじゃないんだろうな。そんなの、全然関係なくて、俺だって間違っているわけじゃないんだろうし」
「あ、あの、リングマさん?」
「マグマラシ。俺ってこんなんだけど、意外と考えてるんだからな。安心しろよ」
 一方的にそう言って、リングマさんは呟くのをやめた。「どうしました?」って呼びかけても、リングマさんは答えてはくれない。無視しているのか、はたまたまた眠ってしまったのか。ボクにはわからない。リングマさんが何を言いたかったのかもわからない。ボクには、わからない。わからないわからないわからない。何もわかることなく、ボクのその一日は、終わってしまった。


   ◆  ◆


  闘技場は、闘わせるポケモンのレベルを考えていない。リングマさんが実力差のある奴と闘ったらしいから、多分そう。こうなると、リングマさんが言っていた通り、嫌でも闘わないと死んでしまうかも。抵抗したって勝てる気はしないけど、無防備で突っ立ってると死にかねない。
「それでも、あんなところで闘うのは嫌だ」
 ボクは、呟く。あんな人達の言いなりになってひたすら闘うだけなんて、ボクは御免だ。闘って勝てれば確かに楽かもしれないけれど、それはどうしても嫌だった。綺麗事だけれど、それのどこがいけないんだ。ボクがボク自身の綺麗事を貫くことで、誰もこまったりしない。ボクは、自由だ。独りなんだ。
 もう何十回も痛めつけられて、今にも死んでしまいそうな体の悲鳴を無視して、ボクはそう思った。


  ◆   ◆


 それからしばらくの間、リングマさんは何度も闘技場へ連れていかれ、ボクも頻繁に連れていかれるようになった。今までは一日一回や二日に一度程度だったのが、一日に二度も三度も連れていかれるようになった。ボクもリングマさんも、断ることは出来ない。拒否したら最後、スクラップになっておしまいだ。そんなひどい状況の中、ボクがリングマさんに謝る暇や体力などなく、それにボクのちっぽけな度胸がリングマさんに謝りの一言を言わせてくれない。
 そんな風に過ごして、憎たらしい月を何回か眺め、恨めしい太陽を数回拝んだ日の夜。こっぴどく痛めつけられ鉛のように重い体を檻の中へ放り込まれる。口の中で、血の味がする。その味が薄れ掛けていたボクの意識を呼び覚まし、首を横へ向かせる。リングマさんは、壁によりかかりながら前を向いているだけ。はっきりと見えるわけではないけれど、ただボクは、それが何も見ていないような気がした。あれ以来、リングマさんの相手はやはりレベルが高いようで、勝っても負けてもボロボロで帰ってきていた。ボクと同じように、喋る余裕もないらしい。喋りたくもない、のかもしれないけれど。
「もう、疲れた」
 もう何度やられたかわからない。体のあちこちが軋んで、もう、限界だ。
何も考えたくない。何もしたくない。眠りたい。もう、痛いのは嫌だ。助けて、誰か、助けて。ボクの綺麗事は、あっけなく崩れ去った。

 月も太陽も見る余裕なし。ふと目を覚ましたときには、もう見ていた夢を忘れてしまっていた。夢を見たような気がするだけで、見ていないのかもしれないけれど。
「う……いたっ」
 まだ昨日の傷が痛い。今日もまた、闘技場へ連れていかれる。また、やられる。ボクは、闘わなくてはいけないのか。闘うことが、自分を守ることになるのか。もし、リングマさんの言う通りそういうことだったら、ボクはもう闘う。痛いのは、嫌だから。
「さあ、スポーツの時間だ」
 いつの間にかボクの檻の前に立っていたヒョロヒョロの男が、そう告げる。もはや反応する気もおきなくて、ボクは、それを無視した。
 モンスターボールの中が、一番心地よかった。何と表現すればいいのかはわからないけれど、とにかく、今のボクはこの中が一番心地よい。そう思ったのもつかの間、ボクはその空間から出され、地獄へと降り立つ。いつも通りギャーギャーと騒ぐ観客の声が、ボクを苛立たせる。下品な顔で下品な声を出すのをやめろ。そう言いたいけど、伝わらない。まだ後ろ足は少し痛かったけれど、闘えないほどではない。やれる。今日相手を倒せれば、ボクは少しだけ楽になれる。いつもより痛い思いをしないで済む。座ったまま、ぼうっと対戦相手を待つ。いつもの通りなら、ボクと同じくらいか少し実力が上くらいの奴が現れる。前をだけを見据える。モンスターボールが投げられるのを見て、ゆっくりと立ち上がる。相手を見て、僕は腰を抜かした。
「リ……リングマさん」
 今日のスポーツの相手は、リングマさんだった。


  ◆      ◆


 リングマさんの姿、こういう風にしっかりと見るのは初めて。大きくて、強そう。リングマさん、ボクの姿を凝視。ボクは、口をパクパクさせてその視線の海に溺れる。そうだ。今まで、考えたこともなかった。どうして考えなかったんだ。ボクとリングマさんが闘うことだって、あるかもしれないのに。
「あ、あの、リングマさん」
 ボクの言葉に、答えはなかった。リングマさんは、鋭い視線でボクを睨みつける。闘わなきゃいけない。そんな気がした。やらなきゃやられる。この人に殴られたら、死ぬかもしれない。うん。そんな気がする。でも、やっぱりボクは気が進まなくて、リングマさんの視線の中で溺れ続ける。
 ファイト! って、合図の声。リングマさんは、動かない。こちらをただただ睨みつけて、恐い顔をしている。ボク、それを見て突っ込む勇気が尻すぼみになっていくのを感じる。でも、視線だけは逸らさない。突然唸って、リングマさんは、ボクに向かって大きく手を振り上げる。ただの引掻く。でも、ボクにとってそれは死ぬか死なないかの威力を持つかもしれない技。ギリギリのところで後ろに飛びのいて、かわす。空振りしたリングマさん、そのまま右腕を前に出す形となりながら、前につんのめる。それを見て、ボク、すかさず体当たり。体が一回りも二回りも小さいから、そのわき腹へと突っ込む。当たる! って思ったら、すでにリングマさんは前にいなくて、気付いたら、ボクの上空を飛んでた。あんな大きな体で、そういう動きが出来るなんてずるい。ボクは、地面につくとすかさずふり向く。リングマさん、口から何やら丸い球体を出していた。
「そ、そんなのずるい」
 言っても、止まらない。リングマさん、輝く球体を光線にしてボクに発射。破壊光線。大層な技名なだけあって、多分食らったら死ぬ。
「くるなー!」
 叫んで、ボクは火炎放射。破壊光線と、火炎放射。驚くことに、両者拮抗。力の限り押しているけど、リングマさんの破壊光線はビクともしない。多分、まだ余裕を持ってる。予想通り、少しずつ少しずつその威力が上がって、ボクは押される。元より威力の違う技。まともにぶつかって勝てるほうがおかしい。破壊光線は突然爆発的に威力が上がったかと思うと、一気に押され、ボクの火炎放射は消える。そのまま壁に挟まれ、破壊光線を受ける。光線が、ボクの体を潰す。鉄の檻と破壊光線に挟まれる。死にたいほど痛い。体が、はじけそう。終わると、重力に従って落下。受身もとれず、横になる。リングマさんは、ボクの方に容赦なく突っ込んでくる。最初のように、腕をふりあげながら。
「や、やめろ。やめろよ」
 それでも止まらない。
 リングマさんは、長い爪を立てながらボクに突っ込んでくる。あの爪は、きっと痛い。ボクの体を肉から抉り取って、焼けるように痛むのだろう。
「やめろって、言ってるだろーー!」
 人間にはわからない声で、叫ぶ。痛いの嫌で、ボクは、リングマさんの腕が振り下ろされる直前に、そのどてっ腹に突っ込む。今度は、体に炎を纏ったまま回転して体当たりをする、火炎車。カウンターとなり、リングマさんの体が後ろへと吹っ飛ぶ。自分でも、自分ではない気がした。ただ恐くて恐くて、突っ込んだだけ。
「っはあ。っはあ」
 我にかえって、ボク、びっくり。リングマさんは、ゆっくりとそのまま後ろへと、倒れた。大きくズシンと重苦しい、あのときとはまた違う、本当にその生き物の体重を乗せた音が響いた。ボクのたった一発の火炎車で、リングマさんを倒してしまった。
「あ、あれ……。たお、しちゃった」
 おそるおそる、リングマさんの横へと近づく。よく見るとリングマさん、すでに体がボロボロだった。いくつもの傷が、生々しく残ってる。ボク以上に、リングマさんはボロボロだった。満身創痍のまま、ボクと闘ったんだ。
「あの破壊光線で、僕が死ななかったわけだ」
 ボクよりずっとずっと前からここで闘って、そのガタが来ているのだろう。傷だらけの体に鞭を打って闘っていたんだ。自分の限界を知りながら、それでも、いつか抜け出せると信じて、ひたすら、ひたすらに。
 それでも一つわかることがある。リングマさんがどんなにボロボロだろうと、ボクごときが勝てるわけがない。さっきの破壊光線を受けて、ボクはそれがよくわかった。
 リングマさん、ボクが横にいることに気付いて、首をわずかに向ける。
「これで……いいんだ」
 小声でそう言うと、ニカっと笑って、目を閉じた。
 馬鹿、って言いかけて、やめる。
 リングマさんの笑う顔、その優しそうな目を、初めて見たから。


  ◆   ◆

 ボクがリングマさんを見たのは、それが最後だった。
 ごめんなさいって、言えなかった。
 リングマさんは、間接的にボクが殺してしまった。

  ◆   ◆


 空に浮かぶ月が、憎たらしい。きっと、あいつはそう思ってる。
 窓の縁にかける両手が疲れたらしい。も一度嫌味に光る月を仰ぎ、落ちる。落ちると床が冷たいはず。ヒンヤリなんて、生易しくない。ぶるりと一つ体を震わせ、また天上近くにある鉄柵に飛びつこうとしているが、やめていた。
「飽きないな」
 言って思い出す。それは、ボクがリングマさんに言われていたこと。
 通路を一つ隔てて、反対側には小さいながらもパワフルなポケモン。リングマさんの進化前、ヒメグマがいる。姿形はよく見えないけど、きっとそれはリングマさんによく似ていると思う。
「少し寂しくなりますが、いいもんですよ」
「月を見るのが、そんなに楽しいか?」
「ええ、ここにいるよりはずっと」
「……だろうね」
 よっぽど暇に慣れていないのか、ヒメグマは頻繁にボクに喋りかけてくる。それこそ、昔のボクにひけをとらないくらいに。
 ボクは固い床に寝転んで、会話を終わらせる。今日は、眠いんだ。
「バクフーンさん。もう、寝ちゃいました?」
「ああ、寝た寝た」
「お話し、しませんか?」
「もう寝たって」
「バクフーンさん今日は意地悪です」
 リングマさん。昔のボクも、こんな風だったんですね。
 今ならわかります。めちゃくちゃ心配になりますよ、この向かい側の新入り。
 そいつがあんな綺麗事ばかりを言っていたら、それはいろいろ言いたくはなりますよね。
「ねえ、バクフーンさーん。お喋りしましょうよー」
「じゃあ、一つ質問してやる」
「なんですかー?」
「スポーツの時間って、好きか?」
「だいっきらいです」
「ボクも、だいっきらいだ」


  [了]

■筆者メッセージ
五作目
早蕨 ( 2012/02/25(土) 16:21 )