したっぱロケット団員の備忘録
【一】
「リザードンが欲しい!」
息子のコキヒは、自宅へ帰って来て早々に騒ぎ出した。
緩やかな時間の流れる休日を満喫していた私は、泣きべそを掻いた息子の表情を眺めつつ、ダイニングテーブルに腰掛け、苦みの強いブラックコーヒーを喉に流す。さあどうしたものか。
「どうした急に。何があったんだ?」
でもまずはただいまだろう? と諭すと、はっとした顔をしてただいま、と言ったかと思えば、次の瞬間にはまた泣きべそを掻いて騒ぎ始める。
言う事を聞けるくらいには話が聞けるらしい。
「どうしてリザードンが欲しいんだ?」
息子の両腕を取って真っ直ぐ尋ねると、だってねずるいんだよ、と始める。
「アキヒコ君が、リザードを出してきたんだ」
目に髪がかかって鬱陶しそうだな、と思った記憶がある。髪型をいつもばっちり決めている、良い服を着たお金持ちの子どもだ。
「リザードを? ヒトカゲじゃなくてか?」
「リザードだった。お父さんから借りたんだって言って、そいつをバトルに出してきたんだ」
なるほど、分かってきた。コキヒのオニスズメでは、今すぐに勝つ事は難しい。それを理解出来ていて、その進化先であるリザードンが欲しいという訳か。
「リザードンなんてそう簡単に捕まえられるもんじゃない。コキヒだってそんな事、分かってるだろう?」
分かってるけど欲しい。とにかく悔しくて、勝ちたくて仕方がないのだろう。子どもとはそんなものだ。
「嫌だ! リザードンが欲しい!」
落ち着くまではこの調子だろう。
さてどうしたものかと腕を組んで息子を眺めていると、腰のボールホルダーに付いたモンスターボールが揺れている。
「なあコキヒ。オニスズメも何か言いたいんじゃないか?」
騒ぎつつも無視は出来ないらしい。モンスターボールを手に取って、リビングに向かってそれを放った。
ボールから出たオニスズメは、すぐにコキヒに向かって声高らかに鳴いた。ズボンの裾を引っ張って、外に連れて行こうとする。リベンジに燃えた目だ。
「どうせだめだよ! いくらやっても勝てないって!」
コキヒも頑固だ。頑なにそこを動こうとしない。
私から見たら微笑ましくも見えるのだが、当の本人達にとっては大問題。
オニスズメは縄張り意識の強いポケモンだから、負けると自分の居場所を取られた気になるのかもしれない。元々、群れからつまはじきにされ、倒れていたところを保護したのがコキヒだった。オニスズメにとってコキヒの隣こそ自分の居場所で、それを守る事に必死なのだろう。きっと勝つのが難しい事も分かっている。
コキヒがリザードンを欲しいなんて言うもんだから、余計焦っているに違いない。
あんなに鋭い目つきをしていて健気なオニスズメが、私には可愛くて仕方がなかった。
「じゃあ、リザードンを捕まえてきたら、オニスズメを貰ってもいいか?」
引っ張り合っていた双方が、え? とこちらを見やってぽかんとする。その間の抜けた表情にくすりと笑いそうになってしまった。
あれだけ頑なに動こうとしなかったコキヒが、今度は「嫌! 駄目だよ! 駄目に決まってるでしょ!」と騒ぎだす。
「じゃあ、リザードンは無しな」
ずるい! と不満そうな息子は、安堵するオニスズメを見ていなかった。
「なあコキヒ。リザードンじゃなくちゃ駄目なのか? オニスズメと一緒に頑張るっていうのはどうだ?」
「それだと直ぐに勝てないし……」
それはその通りかもしれない。だが、私はコキヒがオニスズメと一緒に強く、逞しくなって欲しい。私にリザードンを捕まえられるかどうかは置いておくとしても、ただ強いポケモンを渡したところで、コキヒのためにもオニスズメのためにもならない。
「直ぐに勝てないからって、アキヒコ君と同じようにポケモンを借りて行くのか?」
だって、でも、悔しいし、ずるいし、とぶつぶつ言いつつも声は小さくなってきた。コキヒなりに理解は出来ているのだろう。同じ方法で勝ったってどうにもならない。ただ、それでも負けた事が悔しくて、熱くなってしまった。負けず嫌いは悪い事ではない。ただ、行き過ぎは禁物だ。
「オニスズメと一緒にリザードに勝ったら、凄く嬉しくないか? どうだ?」
「嬉しい……。オニスズメともっともっと一緒に強くなって、色んな奴に勝てたら、凄く嬉しい」
そうだろうそうだろう。我ながら上手に説得出来たなと思い頷いていると、
「じゃあ、どうやったら勝てるのか教えて!」
前向きで、やる気に満ち溢れた質問をされてしまう。
さあ困った。私はポケモンバトルが得意なトレーナーではない。バトルの事に詳しくもなければ、特になんの実績もない。形だけは出来るかな、というレベルだった。もちろん、今のコキヒとオニスズメに負けるレベルではないのは間違いないが、教えるとなるとどうだろう。捕獲の仕方や育て方なんかは自分で経験してきたものを伝えられるが、バトルで教えられる事なんてあるだろうか。
しかも、それでリザードに勝てなければ責任重大だ。
「それだったらいいでしょ? オニスズメと一緒に頑張るから、お願いだよ」
両手を合わせて懇願してくるコキヒの屈託のない言葉と、オニスズメからも感じる似た視線。親として一肌脱ぐ時か。
「よおし分かった。教えられる事は全部教えちゃおうかな」
私の言葉に、いつの間にかリザードンの事など忘れて喜ぶコキヒとオニスズメが微笑ましい。どうにかして勝たせてやりたいが、実際に何を教えられるのだろうか。
自分のバトル経験を思い出す。初めてのポケモンはズバットだった。初バトルはボロ負けだったっけなあ、なんて苦い記憶が蘇ってくる。恥ずかしながら、人様に迷惑をかけるチンピラみたいな時代もあって、若い頃はまともなバトルをした記憶がない。
そんな私の一番印象に残っているバトル、いや、バトルとも言うべきかどうか怪しい一件がある。忘れられない記憶。私の汚点とも言っていい。
ロケット団のしたっぱをやっていた頃の、記憶だ。
【二】
若い頃、私はロケット団員だった事がある。
あまり良い環境には恵まれず、分かりやすくグレていた頃だった。物を盗んで売りさばいたり、賭けバトルでズルをして相手を負かす事だけを考えたり、機嫌が悪いからとポケモンと一緒にチンピラ相手に喧嘩を吹っかけたり、とにかく自分が気分良くなれる事しか考えず、楽してたくさんの金を稼げればそれで良かった。
タマムシは悪い事をするには絶好の場所だ。一見華やかに見えるその裏には、犯罪や暴力が蔓延っている。多くの人が行き交い、金やモノ、情報が流れているこの町には、それを食い物にする黒い人間達が集まる。
ただ無計画にグレているだけの私が、そんなタマムシの裏側に足を突っ込んでしまうのは時間の問題。一緒に盗みをやっていた奴から、もっとうまく金儲けが出来るぞ、と誘われた事が始まりだった。
噂には聞いていたが、本当に存在するかどうか怪しい眉唾ものの組織が当時のタマムシにはあった。私が知らなかっただけで、深く入っていけばいく程その名前も知らない組織の認知度は高そうで、深いところで根付いている、底の見えない末恐ろしいものを噂レベルで感じていた。
誘われた先がその組織に関係しているかどうかは分からない。簡単に聞いた限りは、端的に言えば危険な気がしていた。そんな黒い靄のような組織との接触だ。
盗み仲間から時間と場所だけ指定され、着古したTシャツに穴の開いたジーンズという小汚い恰好で向かった。緊張はしていたし、やばそうな所だというのはなんとなく分かっていたが、本質的に私がどういうところに向かおうとして何に手を出そうとしているのかは理解出来ていなかった。気の抜けた格好から見て取れる通りだ。
場所は繁華街から少し外れたところにある、細長い雑居ビルだった。一階のエントランスに着けば、カタカナで名前の覚えづらい、いかにも胡散臭い名前が案内板の三階の欄に書かれていた。
狭いエレベータで三階へ上がり、ドアを叩く。受付けなんてものはなく、ドアの音で人が来た事に気付いた、目つきの悪いチンピラみたいな男が私を案内する。簡易なパーテーションで仕切られたその先に居たのは、顔の長細い狐目の男。スラックスにワイシャツ姿だったので、私は間違えたかなと思ったものだが、もちろんそんなきちんとしたものを私は持っていなかった。
机と椅子の前に立たされ、上から下まで品定めでもするかのように見られたかと思えば、名前と年齢と住所を私よりもスラスラと、呪文のようにその男は唱えた。
「合ってるか?」
「は?」
私は素直に狼狽した。別に調べれば簡単に分かる事なのだが、うすら寒さを覚えた。
「合ってるのかって聞いてんだ」
私より小さくて細見な男なのに、私にはない凄みや怖さがあった。直立不動で、その視線に怯えつつ軽く返事をすると、男は小さく舌打ちをして、顎で私に座れと指示を出した。
すぐ人に喧嘩を吹っかけるような粗暴な私だったが、この時ばかりは大人しかった。自分があまりにもイレギュラーな場所にいるんだという不安感と、靄のような黒い組織の人間かもしれない奴を前にして、私は竦み上がっていた。自分の庭で調子に乗っていただけで、こんなにも私は小さくて弱いものなんだと痛感した。実際に掴みかかれば私の方が強いのかもしれないのに、それをさせない何かがこの男にあった。こういう強さがあるもんなんだとびびって縮こまっていた一方で、この男に対する興味が湧きつつもあった。
「持ってるポケモンはズバットとコラッタだな?」
「ああ」
「ああじゃねえよ。口の利き方からだなお前は」
また舌打ちして、狐目の男は身を乗り出して私の頭を叩くと、端に置いてあった灰皿を引き寄せて、煙草に火を付けた。
私にはもう頭をひっぱたいてくれる人も、口の利き方からだな、なんて言ってくれる人もいなかったから、なんだか久しぶりで、変な感覚を覚えた。
火を付ける仕草、立ち上る煙。なんだか恰好いいなと思ってしまう。
「で、履歴書は?」
寄こせ、とばかりに手を差し出して来るが、当然そんなもの持っていない。持ってこいなんて言われていないし、書いた事もなかった。
「ある訳ないか。手ぶらだもんな。まあいい、それで、タマムシは長いのか?」
「外に出た事ない」
また頭を叩かれる。
「で、出た事ない、です」
「この町には詳しいんだな?」
詳しいから何なんだと思ったが、理由を聞いたらまた頭を叩かれそうで、「は、はい」とぎこちなく返答する。
「それならいい。明日から、うちで働けるな?」
「は? ここで?」
ハっとして反射的に防ごうとしたが、手は飛んでこない。
「何だお前、そのつもりじゃないのか?」
「いや、何か仕事をくれるっていうから」
狐目の男は頭を掻くと、カイの奴、とぶつぶつ呟き始める。カイは、私の盗み仲間だった。
「あいつからそれしか聞いてないのか。じゃあ、仕事だけ貰う気だったのか?」
「いや、まあ、そう聞いてたから……」
「そんな虫の良い話はない。どうするんだ?」
どうするって言われても、と考えたが、答えは自分の中で決まっていた。叩かれてヒリヒリする頭の痛みが、なんだか嬉しくて、ここに居ていいんだと言われた気がして……。
「何ニヤついてんだよ気持ち悪いな。さっさと決めろ。嫌ならとっとと帰れ」
「や、やります!」
突き放されるのは嫌だ。そんな気持ちを自覚して、思わず立ち上がって返答した。
「ならいい。明日の朝、また来い」
不器用だけど、笑えたのはいつぶりだろう。居場所が出来た。そんな事を考えつつ、明日着ていくスーツが無い事を心配し始めた自分がいた。
【三】
私の最初の仕事は運びだった。
中身のわからないリュックを渡されて運ぶだけ。確認は禁止された。
スーツを用意した方が良いのかと聞いたら、私服の方が都合が良いとの事だったので助かった。
リュックを背負って町を歩くだけでお金が貰えるだなんて、なんて良い仕事なんだ。私は本当にそう思える程に馬鹿で楽観的だった。よく考えれば、こんなものリスクがあるに決まっている。
ただ、今は居場所を与えられて役割がある事の方が私にとっては大事だった。
私の機嫌が良いのを分かってか、コラッタとズバットもスキンシップが激しい。いつになく嬉しそうに私の回りをちょこまか動く。初仕事に気分が良いので好きにさせた。
腐った町だと思っていたタマムシが、随分と華やかに見える。盗みをやっている時も、夜中に喧嘩をした時も、バトルで汚い手を使っている時も感じられなかった色が、音が、感じられる。
嘔吐物とゴミの混じった臭いや、鬱陶しい程に明るい街のネオン。宵を待てずに酒をかっくらって絡んでくるホームレスだって、今なら受け入れられる気がした。単純だな自分も、と自嘲混じりの苦笑する。
目的地はゲームコーナーだった。私の行きつけである。台を叩いて怒られて、客と喧嘩して怒られて、出禁寸前の店だ。顔だってばっちり覚えられている。そんな私が行って大丈夫なのかと少しだけ不安だった。
言われた通りいくらか遠回りをして、近づく程にその不安は強くなる。失敗したら追い出されるんじゃないか、なんて考えが頭をよぎった。
コラッタとズバットがちょろちょろするのをやめて、僕の身体に心配そうにしながらまとわり付く。大丈夫だから、と声をかけて、モンスターボールに戻す。看板を見上げると、目的地だ。
「行くか。別に今日は喧嘩をしに来た訳じゃないんだ。普通にしていればいい」
自分に言い聞かせ、大音量の波に足を踏み入れた。
【四】
ゲームコーナーの中はいつもと何も変わらない。昼間からパチンコやスロットを打つ老人、授業や仕事をサボっている大学生とサラリーマン。主婦や夜の仕事をしている男性女性に、ゴロツキ……。
いろんな人間がごった返していて、店は賑わっている。総じて皆まともではない。そう言い切りたくなる程に皆機械に金を突っ込み続けている。
ただ、今日に限って言えば自分はこいつらとは違うんだと胸を張れた。役割があるんだ、仕事なんだと鼻高々。しょうもない話だ。
「おいお前、次何かやらかしたら出禁だからな」
店内を歩いていると、早速顔見知りの店員に絡まれる。甞められないように適当に凄んで睨みつけておいて、店の奥へ。今日は出ているのか出ていないのか、そんな事に構っていられる余裕はなかった。見た事のある一番位が高いであろう店員に近寄り、
「加崎さんに会いたいんだけど」
と一言。そう言え、と言われていた。
この店員に絡まれた事はなかった。他の奴らに指示を出し、こいつが店を仕切っているのは私も良く知っていた。狐目の男に似た凄みを感じていて、関わり合いになっちゃまずいのは直感的に分かっていた。
ごつい身体に似合った強面が私を怯ませる。怪訝そうな顔をして、耳元のインカムのスイッチを切って、私に身体を寄せて来る。
「なんだ?」
「か、加崎さんに会いたい、の、ですが」
咄嗟に敬語らしきものが出てしまう。一体何をされるのか、背中のリュックを引き渡せば終わりなはずなのに、緊張してしまう。
男は私の腕を引っ掴み、奥のスタッフルームへと私を引き込んだ。肝が冷える。温かみのない色をしたロッカーに、茶色の長机にパイプ椅子。味気ない部屋が余計に怖い。男はパイプ椅子に腰掛けると、
「寄こしな」
と手を出して来る。
瀬田さんからだろ? と言われ、何も言えずに首を縦にぶんぶん振る。瀬田さんは、あの狐目の男の苗字だ。すぐにリュックを下して手渡すと、男は中身も確認することなく、無造作に床に置いた。
よかった。これで無事に仕事を終えられる。
初仕事で何事もなくて良かった。私は素直に胸を撫で下した。
「ただのチンピラだったお前が、あの人の下に付くとはな」
瀬田さんにやられたみたいに、男は足を組んだまま棒立ちの私をじっくりと見た。
「あ、あんたが加崎さんなのか?」
「そんな事はどうでもいいんだよ。お前は知らなくていい。言われた事だけをやってりゃいいんだ」
ムっとしたが、反論出来る空気ではない。
「今後はお前が来るんだな? 瀬田さんの顔に泥を塗らないようにせいぜい頑張んな」
「瀬田さんとは、どういう関係だ?」
「だから、お前はそんなこと知らなくていい。……だけどまあ、一つ言える事があるなら、お前と一緒だ。瀬田さんには恩がある」
強面の男もまたタバコを吸うようで、胸ポケットから煙草を出して、綺麗な動作で火を付けた。
「お、俺は別にあいつに恩なんて……」
「なんだ、じゃあまた町のチンピラに逆戻りか?」
「やめるなんて言ってないだろ」
「だったら恩があるじゃねえか。お前等みたいな街の屑が使って貰っているだけありがたいと思え。身にこびり付いたその手癖やひん曲がった根性を叩き直してもらうんだから、少しでも役に立てよ」
ま、お前みたいのがこの世界でどこまでやれるかは甚だ疑問だがな。と強面の男はボソっと漏らし、煙草の灰を灰皿に落とした。
何となく分かってはいたが、そういう事なのだ。タマムシの闇に、足を突っ込んでしまった。これは、そういう事なのだ。
「とりあえず、今日の仕事はクリアだ。瀬田さんにはそう伝えといてやる。ただ、口の利き方はなってねえな」
瀬田さんの顔に泥を塗るなっていうのは、そういうところからだぞ。と強面の男からは念押しされた。
帰ったらまた頭を叩かれそうだ。ちゃんと覚えなきゃな、と思いつつ、簡単な仕事を終えられた事に達成感を覚えた。
初仕事を終えて事務所に戻ると、瀬田さんからは案の定頭を叩かれた。てめえ言葉遣い直さないんだったら叩きだすぞ、と凄まれる。
もう怖がって委縮するというよりは、ちゃんと頑張ってみようという気持ちの方が強かった。お前は何も知らなくていい。言われた事をやればいい、というのが少し悔しかったのだ。この人の信用を勝ち取ってみたい。頼られてみたい。そんな気持ちが強い。
生まれて初めての感覚だった。こんなにやる気があるのもいつ以来だったか。
「まあ、最初の仕事だから大目に見てやる」
そう言って、事務所の黒皮のソファにどっかりと腰掛けた瀬田さんが、サイフから札を出して私に差し出した。
「昼飯でも食ってこい」
「え?」
すいません、ありがとうございます。なんていう風に、直ぐに受け取れるような教育は受けて来なかった。
「え、じゃねえよ。昼飯でも食って来いって言ってんだ」
瀬田さんは無理矢理私に札を握らせ、さっさと行けと私を追い払った。
一階に降りて外に出てみると、右手に握りしめたお金が、物凄く大事な物のように思えた。綺麗でもまともでもなんでもないのだが、私には感激だった。
【五】
それから私は、瀬田さんの元で力一杯働き始めた。どんな悪い事をさせられるのかと思ったら、最初にやった運びに始まり、買い出しや電話対応、書類の整理に掃除と、やる事は普通の事。丁寧な言葉遣いに苦労して電話対応は大変だったが、やっていくうちに私のような者でも慣れてきた。
社内の雑務や事務作業に慣れていくと同時に、瀬田さんからはもう一つ必ずやっておくように言われたのが、バトルの練習だった。試合形式のバトルというよりは、いかに相手をポケモンと一緒に叩き潰すか、その技術を高めろとの事だ。何に使うのか分からないが、言われた事なので私は素直に従った。
瀬田さんが私に与えてくれた仕事ややりがいは、それまでの私を変えてくれる。自分がこんなにも人のために動ける人間だとは思わなかった。言ってしまえば、瀬田さんに心酔し始めていたと言っていい。
「どうだ調子は」
いつも通り事務所で作業を終えアパートに帰ろうとしていると、瀬田さんが声を掛けてくれる。調子はいいですよ、瀬田さんのおかげです。なんて言葉がスラスラと出るくらいに私は変わっていた。
「飯でも食いにいくか」
黒のコートを着て事務所を出る瀬田さんの背中に、はい! の一言で着いていける。自分より身長も低くて細い人だが、私にはその風格ある背中が頼もしくて仕方がなかった。
町のチンピラや酔っ払いによく絡まれていたものだが、瀬田さんを前にタマムシを歩くと、誰にも絡まれない。肩で風を切って街を歩くというのはこういう事なのかと、爽快な気分である。
瀬田さんはいつも何件かある行きつけの店に連れていってくれる。居酒屋やバー、キャバクラもそうだ。タマムシでどうのむか、どう歩くか、一から教えてくれる。
今日はいないのだが、カイも一緒に連れ歩く事が多かった。他の若い衆を引き連れる事もあるし、私にとっては最早あの事務所は家だ。ただ、勘違いしそうになるが、私が特別だという事は決してなかった。
「肉でも食うか」
瀬田さんはいつもの行きつけではなく、入った事のない焼き肉屋に私を連れて入った。ここもうちがケツを持つ事になったんだとの事だが、私には細かい事は分からなかった。
一番奥の個室に通されて席に着くと、瀬田さんは直ぐに大量の肉を注文して、テーブルに並べた。
「好きなだけ食えよ」
これも瀬田さんが若い衆含めみんなにやっている事だった。金はもらっているが、それでもこうやって飯を食わせてくれる。
「そういえば、バトルの調子はどうだ?」
てんこ盛りのごはんに肉を乗せて頬張っていた私に、瀬田さんはビールグラス片手に話を始めた。
「少しずつ勝てるようになっています。チンピラや不良相手くらいなら、結構やれますよ」
はっはと笑い、お前も真面目になったもんだな、とグラスのビールを飲み干して瀬田さんはもう一杯頼んだ。
言いつけられていたのは、バトルに強くなる事。差し当たって、町の不良やチンピラ、サイクリングロードの暴走族相手に吹っかけ始めた。瀬田さんはそこまでやれとは言ってねえよと笑っていたが、私にとってはあいつら相手に張り続ける事は結構大切な事だった。私の様な者は、タマムシで甞められては生きて行けない。張り続けて力があると思わせておくのは大事だ。
しかしまだ圧倒的な力を示す事なんて出来ず、進化したラッタやゴルバット共々、ひどい顔で帰ると瀬田さんやカイ、仲間達は大笑いだった。
「ポケモン達とはしっかりうまくやっておけよ。いざとなった時、物を言うのはいつもやってる事だ」
そんな命ぎりぎりの仕事なんていつあるんだ? と思いつつ、瀬田さんはきっとそういう仕事をしているんだろうと思った。私もそういう仕事を任せてもらえるようになりたい。あんなチンピラ共とやり合っているようでは、まだまだという事だろう。
「ポケモン達とはいい感じですよ。進化もして、前以上に頑張ってくれてます」
頑張れる間は頑張れ。死にそうになったら助けてやるからな。と言いながら、細い目を緩ませて瀬田さんは笑っていた。助けられるよりは助けたい。もっともっと強くならなければ。
変わった私に呼応するように、ポケモン達も応えてくれている。いい感じだ。楽しい。こんなにも人生が楽しいなんて思った事がなかった。
やれる事をもっともっと増やしたい。
勉強だってしてみたい。漢字だってまともに書けない私がそう思える。
私は、本当に変われたのだ。
【六】
最近仕事が忙しい。事務所から人が出払ってしまって、残った仕事を少ない人数で片づける事になる。事務所には、私のような一番下っ端数人と、先輩が一人残っているだけ。
「一体何が起こってるんです?」
私達に仕事を任せ、ソファで寝転がっている先輩に駄目元で聞いてみる。
「ドンパチやってんだよ」
どうせ答えてくれないのかと思いきや、あっさりと回答が得られた。しかも、そんな眠そうに、暇そうにしながら言うような言葉ではない気がする。
「戦争、って事ですか」
「まあ、そういう事だな。この町の勢力図が大きく塗り替わるぞ。うちらのシマがデカくなる」
瀬田さんから細かい話は聞いていないが、うちは親組織から見たら三次団体の枝組織との事だ。
彼の働きで、うちは昇格出来そうだなんて話を先輩達がしていたのを盗み聞きした。私にはなんの事だかさっぱりだ。瀬田さんのその上、さらにその上で偉そうにしてる奴がいて、このタマムシの全てを掌握しようとしているらしいが、話が大きすぎて理解出来なかった。
「あの、本当によく分かってないんですけど、瀬田さんはその、今回優勢な方に所属しているって事なんですよね?」
「まあ、そういう事だな」
「瀬田さんはその、一番上の人に従っているって事ですか?」
「細かい事は俺にも分からん。だが、あの瀬田さんが入れ込む程の人がトップには居るらしい。その人の為に今は動いているらしいからな」
俺ら下っ端に、確かな情報なんて回ってこねえよ。と悪態気味に言うと、大あくびを一つ。
また事務所は静かになる。皆が外で暴れているのに、私は何をやっているんだ。
かなり戦えるようになってきた自負はあるが、肝心な時に役に立てない自分に腹が立ったし、何故自分にも任せて貰えないんだろうと、瀬田さんを恨めしく思った。
私はそんなに頼りないのだろうか。事務所は任せたぞ、なんて言ってはいたが、要するに役に立たないから置いていくぞという事なのだ。きっとそうに決まってる。私は一人悔しがったまま、勢いに任せて仕事を片付けた。
ラッタやゴルバットは、私が事務処理をしている間も忠実に言いつけを守っていたようだった。ゴルバットは事務所回りの偵察。ラッタは扉の前に陣取って、番ラッタだ。
二匹とも、昔より随分快く言う事を聞いてくれる。私との関係性が良くなっているのも勿論そうなのだが、あいつらは瀬田さんのヘルガーに入れ込んでいるらしい。バトルに勝利した時の、耳が裂け、裂傷を刻んでも涼しい顔をする渋い姿に憧れたようだ。それ以来、私が瀬田さんや先輩達には従うように、ヘルガーや先輩ポケモンの言いつけだけは守る。
同じとば口に立っている者として、私とあいつらはライバルのようで、横に並び立つ戦友のような気持ちだった。
私がこんな風にポケモンと接する事が出来るようになるなんて、思いもしなかった。
鍛えておくように言われていたバトルの腕も順調に上がって、街の不良やチンピラなどはだんだんと敵ではなくなっていた。カイと一緒に暴走族の集団に乗り込んで行った時、ボロボロにはなっても勝つことは出来た。二人とポケモン達で祝杯を挙げた。
今まで先輩達や瀬田さんにさんざんしごかれたかいがあるって物だ。
思い返してみても、十分に腕を上げたように思える。まだ足りないのだろうか。どうやったら瀬田さんに認めてもらえるのだろうか。
「……頼られてみてえなあ」
独り言ちた言葉が、質素な事務所へ空虚に消えた。
【七】
お前行って来い。
やっとそう言って貰えるようになった。とは言っても、やる事は鉄砲玉か面倒事の処理だ。
うちのシマで、うちがケツを持っているキャバクラで暴れている奴がいるとの事だった。相手は違うシマでのさばっている連中で、簡単に言葉で言うよりも厄介な事態だ。
要するに甞められている。うちのシマだったら適当な事をやっていても問題ないと思われている。メンツに関わる。ということで私が出動だ。
店での揉め事をどうにかするというレベルではない。良く分からせてやる必要がある。
瀬田さんの顔を潰しやがって、と息巻いて店に向かう。店の一番奥で黒スーツ姿の男と柄シャツ姿のチンピラが飲んでいた。先輩とその舎弟という感じだ。机の上に足を乗せて、大声を出している。店員に話を聞いてみれば、店の女の子に手を出し、嫌がられたので不貞腐れて暴れているらしい。
私は問答無用で勢いそのままスーツ姿の男と柄シャツの男を上からぶん殴り、胸倉を掴んで凄んだ。こういうのは先手必勝が鉄則だ。我ながらガタいもよくタッパもあるので、男達は大いにビビっている様子だった。
「うちのシマで何やってんだテメえら。分かってんだろうな」
胸倉を引き寄せ、睨みつけてやっと分かった。こいつら、ついこの間までチンピラをやっていた奴らだ。繁華街の外れにあるバトル場に屯している奴らで、昔は私もよくこいつらと喧嘩したものだ。
「なんだお前等かよ……」
うちに甞めた態度取るなんてどんな奴かと思いきや、とんだ小物で冷めてしまった。
「おら、立てよ」
私の後ろで睨みを効かせているラッタとゴルバットの鋭い視線も手伝って、二人は殴られた顔を抑えて、砕け腰のままよろよろと立ち上がる。
「お前等、チンピラやめてあっちに入ったのか」
「そ、そうだ。俺らを殴って、た、ただで済むと思うなよ」
顔を抑え、怯えながらそんな事を言われても何も怖くない。
「お前等みたいな下っ端がぶん殴られたくらいで、上が動く訳ねえだろ。むしろお前等がここで暴れたおかげで、上に迷惑かけてる事がわかんねえのか?」
いつまで経ってもチンピラ時代のままだ。私も瀬田さんに会っていなかったら、これくらい無知で、もっと馬鹿やっていたんだと思うと恐ろしい。
「もういいから、金置いてさっさと行け。これ以上お前等殴りつけていても何も面白くない。おっと、ポケモンを出そうなんて血迷った事考えんなよ。お前のポケモンの事はよく知ってるよ。後ろのこいつらに半殺しにされたくなかったら、さっさと消えろ」
二人は言われた通りの金額を置いて、すごすごとその場を立ち去った。勝てなくても向かって来るくらいの意地見せろよな、と小さくてみすぼらしい二人の背中を見て思うが、初めて瀬田さんに会った時にびびって固まっていた事を思い出すと、私も似たようなものだ。
本当に瀬田さんと出会って良かったと思う。無知で教養のない私に、本当に色々な事を叩き込んでくれた。生きて行くための事、文化的な事まで馬鹿な私に仕込んでくれた。「親」とはこういうものなのかもしれない、と私は思う。
私の親は、あの人だけだ。
【八】
瀬田さんに呼び出された。
事務所の会議室で、パイプ椅子に座って向かい合う。
瀬田さんが煙草をくわえれば、私がすぐに火を付ける。言葉遣いと共に最初に叩き込まれた動作だった。
「どうしたんですか急に」
「お前、うちに来てどれくらいだ?」
「三年くらいだと思いますけど」
「そうか、もう三年になるか」
瀬田さんは沈黙し、煙だけが虚空に立ち上る。
何か迷っている様子だったが、私の顔を真正面から見て、よし、と片腿を叩いた。
「お前に、任せたい仕事がある」
この雰囲気で、任せてもらえる仕事。大きいやつだ。ゴクりと唾をのんで、私は震えた。
嬉しい。やっとチャンスが回って来た。きっちり熟せれば、瀬田さんに本当の意味で認めて貰えるかもしれない。
フロックだなんて思われたくない。きっちり自分の実力でやり切れる事を証明するんだ。私は両の拳を握り占めて、内容も聞かずに
「やらせて下さい」
と答えた。
息巻いた私だったが、まあ話を聞けよと冷静な瀬田さんに躱され、一呼吸。肩透かしを食らった気分だが、それだけ慎重な仕事なのかもしれないと思い、私はまた唾を飲み込んだ。
「仕事っていうのは、護衛なんだ」
「護衛、ですか。瀬田さんのですか?」
「俺じゃない。対象は、幹部達とボスだ」
私にとってのボスは瀬田さんで、その上なんて知った事ではない。そんな訳の分からない奴の護衛なんて正直嫌だったが、瀬田さんに言われるのならば仕方がない。
「ボス、というのは?」
「細かい事はまだ言えない。とてつもなく大きな野望を抱えたお方だから、敵も多い。そこで、腕が立つお前にこの仕事を任せたい」
いつか先輩が言っていた、瀬田さん程の人が入れ込む奴がいる、という話を思い出した。
「分かりました。瀬田さんのお話であれば、もちろんやらせていただきます。ですが、どうして俺なんですか?」
私みたいな下っ端に任される仕事ではない。瀬田さんや先輩の護衛ならまだしも、それより上の人の護衛を私がやるなんて、先輩達の頭を飛び越しているみたいで、気が引けるところもあった。
「正直、今うちで一番腕が立つのはお前だ。若くて勢いもある。この三年間でポケモンもお前も急成長したし、仕事もよくやっている。何より、お前は俺を慕ってくれる」
認めて貰えている。その事が嬉しすぎて、仕事の内容など最早どうでもよくなりそうだった。先輩達は好きだ。仲間も大事だ。でも、私はこの人だからついて来た。そう再確認出来る瞬間だった。
「何でも言って下さい。どんなことでも、やり遂げてみせますよ」
瀬田さんは何も言わず、私の目を真っ直ぐに見た。私の勢いとやる気を受け取ってくれている。それは伝わる。
だけど、だけど違う。なんとなくいつもと違う。
瀬田さんのあの飄々とした様子がない。仕事を与えてくれて、説明があって、ほら行ってこい。
そういう感じではない。それほどまでこの護衛の仕事というものが大事だという事だろうか。
何でもやる気ではいるが、瀬田さん自身ではなく、私を送り込む必要があるというのはどういう事だろう。本当であれば、瀬田さん自身がその上の人間を護衛すればいいのだ。うちで一番腕が立つなんて言って貰ってはいるが、そんな訳ない。瀬田さんの力は圧倒的だ。それは私が一番良く分かっている。
それでも、私に行かせようとする理由。私の事を認めてくれている以上の何かがあるように、私は思った。
「瀬田さん。俺は瀬田さんのためなら何でもやりますよ。その覚悟もありますし、大きな恩を少しでも返して行きたい。でも、まだ何か、何か隠してるんじゃないですか?」
瀬田さんは、煙草を吸うのも忘れ、ポカンとした顔で私を見た。灰が落ちそうで、私は慌てて灰皿を差し出す。
あ、ああ、すまん、と灰を落とし、そのまま煙草を押し消す。
私は真っ直ぐに瀬田さんを見て、答えをじっと待つ。明らかに驚いた様子の瀬田さんは、参ったなあ、とぼりぼり頭を掻いて、虚空を見上げた。
「俺もまだまだだな」
「……どういう事なんです?」
「腕が立つ奴を行かせたいのは本当だ。だが、あの人の元に行かせる。それは後戻りが出来ないって事だ。うちみたいな下部組織の三次団体、その構成員だったらまだ俺の力で何とかしてやれる。だが、今回の仕事をお前が受ければ、もう後戻りは出来ない。”ロケット団”からの正式な仕事をお前にやらせる事を、俺は躊躇している」
ロケット団、という言葉は、ここに来てから噂レベルでは聞いていた。どういう組織で、誰が組織していて、という事はまったく知らない。
名前だけがふわふわ浮いている。靄のような組織だ。
だが、瀬田さんの言うボスが誰なのか、それは分かった。
「ボスというのは、そのロケット団のボスなんですね?」
「そうだ。あのお方のために、私は動いている」
「何故です?」
「お前と同じだ。私もボスに拾われ、鍛えられ、今この地位にいる。自分の力で上がって来いと、その言葉だけを頼りにな」
「だったら、俺だって瀬田さんのために働きたい。何を躊躇する事があるんですか。その仕事を受ける事が瀬田さんのためなら、俺はやりますよ」
「今ならまだ引き返せるかもしれないんだぞ。まともな働き口を紹介してやってもいい。お前は随分立派になった」
「ふざけないで下さい。もう俺は話を聞きました。是非、やらせて下さい」
ロケット団とは一体何なのか、私には分かっていなかった。瀬田さんが担ごうとしている相手がどんな奴なのかも、私には分からない。
何も分からない私には、タマムシの一番深いところに足を突っ込んで行く怖さなど、微塵も感じていなかった。
だから私は瀬田さんに説明を求めなかった。彼が求めるのなら、それについて行けばいい。ただそう思っていた。
瀬田さんは、私の真っ直ぐな物言いにいくらか迷いを見せながらも、
「……分かった。お前に任せる」
と最後には決断した。
瀬田さんの言葉が嬉しくてたまらない。仕事の内容などやはり二の次。この瞬間のためにやって来た。ただ、そう思えた。
【九】
護衛の仕事とやらを受ける前に、一度顔を出して挨拶をする運びとなった。
先輩達やカイ、後輩からも私が何やら瀬田さんから凄い仕事を請け負ったとの噂は流れているらしく、事務所はざわついている。
ただ、私の事をやっかんで絡んで来る人や、嫌がらせをしてくる先輩なんていない。皆瀬田さんからの仕事だったら、きっちりやって来いよと背中を押してくれる。お前が成功すれば、うちの評価は更にうなぎ上りだとばかりに背中をばんばん叩かれる。
そんな状態なものだから、いつもの仕事を熟しながらもなんだか落ち着かない。挨拶は一体何時になるのか。詳しい日程を聞かされていないから、それ目掛けて心の準備をする事も出来ない。
ボスは忙しいお方だ。突然日程が決まるかもしれないから覚悟はしておけ、と瀬田さんが言うものだから余計にどぎまぎしてしまう。
その日も一日、特に何の変哲もない一日が過ぎ去ろうとしていた。
「この後空いてるよな。ちょっと着いて来い」
瀬田さんからそう言われ、仕事を終えた私は瀬田さんと街へ繰り出した。
「飯でも食いに行くんですか?」
「いや、飯じゃない」
隣を歩く瀬田さんは、私に行く先も告げずに歩いて行く。言われればついて行くが、例の仕事の話もあって、妙な緊張感がある。
「そういえばお前、親、いるよな」
タマムシの雑踏を進みながら、私をちらりとも見ず瀬田さんは言った。
「何ですか突然」
「いいから。確か父親が居たよな」
「いますけど」
「どうなんだ?」
「どうって、ただ飲んだくれてるだけの糞親父ですよ。もう何年も合っていません」
親とも呼びたくない男の顔が、私の頭には思い浮かぶ。
「それでも、お前の親父だろ?」
「俺の親は瀬田さんだけです」
私はそう言い切った。
「でも、どうして突然親の話なんかを?」
「皆は俺の事を慕って親だ親だと言ってくれるが、俺には親の記憶がなくてな。親らしい事、何て良く分かんねえんだ」
「俺も小さい頃に母が逃げてから、親らしい事を親からされた記憶はありません。それに瀬田さんは、今の瀬田さんのままで十分です」
「俺はな。結局どこまで行っても本当の親じゃないんだ。お前をここで引っ張り出したら、本当にこの世界の人間だ。お前の親父は、それでいいのか? 本当に、もう後戻りは出来ないかもしれないんだぞ」
瀬田さんは、私の事を心配してくれている。それが良く分かる。この人は身内に対して異様に優しいのだ。数年一緒にいて、それが良く分かった。やってる事は悪どいが、仲間や部下への面倒見の良さはピカ一だ。とても良くしてくれる。私だけではなく、皆にそうだ。
だから慕われるし、この人について行こうと思える。
親の記憶がないと言っていたが、皆に親だ親だと慕われるものだから、そういう風にしなきゃと、瀬田さん自身もいろいろ大変なのかもしれない。
「いいんです、親父の事は。家を飛び出した時にもう無いものと考えていますから。俺の居場所はここだけです」
瀬田さんの足が止まる。分かった、もう何も言うまい、とだけ言って振り向くと、最初に会った時のように私を上から下までなめまわすように見た。
「親っていうのがこういう事をするもんなのかは分からんが、今後もその一張羅だけっていうのは恰好付かないからな」
うちに入って少し経った時に買ったスーツを、私はずっと着ていた。こんなもんに金を掛けるのがもったいなくて、サイズだけ合った安物だ。
もう随分草臥れている。
「門出という訳ではないが、ここからが勝負どころだ。ビシっと決めとけ」
瀬田さんが足を止めたのは、タマムシでも有名なブランドのスーツショップの前だった。
「行くぞ」
店に入っていくその背中に、私はついて行く。
【十】
日程が決まった。言っていた通り急遽決まって、明日二十五時、指定の場所へ来るようにとの事だった。
予定が決まると実感が湧いて来て、皆や瀬田さんの期待が重くのしかかるような気がした。でも、嫌な重さではない。光栄だ。自信もある。でも、自惚れている訳でもない。
良い状態だと思う。
仕事を終えてワンルームのアパートに帰った私は、ゴルバットをボールから出した。すぐに部屋の隅にあるゴルバット用の止まり木にぶら下がって、落ち着いている様子。続いてラッタも出してやると、同じく隅のクッションに身体を預けた。
買い置きのポケモンフーズをゴルバットへ投げつつ、ラッタには皿で出してやる。二匹は本当によくやってくれている。タマムシの小さなトーナメントにこっそり出た時も、我ながらこの道でやっていくのも悪くないんじゃないかと思える成績だった。二匹はバトルという競技が性格的に合っている気もする。やる気もありそうだ。
そんな簡単なもんじゃない、なんて言われそうだが、今までの私の人生を考えれば、何か目標を持って生きて行くのもいいかもしれない。
こんな事今まで考えた事もなかった。その日暮らしみたいな生活が常だったので、どうやって生きていくかなんてまともに考えた事もない。
今は瀬田さんの元に身を置き、それが生きがいになっている。それが全てだとも思っているが、いろいろ勉強させてもらえばもらう程、世の中にはいろんな選択肢がある事に気が付く。
瀬田さんがこのままで良いのか、と聞いてきたのは、きっとこういう事なんだろうと思う。お前の人生はこの道でいいのか、この道でなければ、いつか親父との関係性だって何か変わるのかもしれないぞ、
とそう言われた気がした。
よく見透かされている。今の生活は瀬田さんのおかげで得ているし、やっぱり一番は彼のために頑張りたいという気持ちだ。だが。
「……なんてね」
と独り言を呟く。二匹は反応せず、ポケモンフーズを食べている。次を待っているゴルバットにポケモンフーズを投げてやった。
一人家にいると余計な事を考えてしまうが、私は彼の元から去る気はない。このまま腕を磨いて、彼の役に立つ事を優先する。
「これでいい。このために頑張って来たんだ」
一人決心し、明日の事を考えた。
敬語も、入った頃に比べれば随分まともになった。言われた通りラッタやゴルバットと一緒に鍛えてきたし、事務仕事だって問題ない。
瀬田さんの顔に泥を塗らないよう、せいぜい頑張れ。いつだったか誰かにそう言われた。明日こそ、きっちりしなければいけない時だ。
【十一】
「頼んだぞ」
それ以外の言葉は無く、また私も何も求めなかった。デスク越しの瀬田さんに力強くそう伝えられ、私は指定された場所へ向かった。
行先は何故かゲームコーナーだった。そこで待ち合わせてから、どこかへ行くのだろうか。どこかの店で会食という事なのかもしれない。
一番最初に貰った仕事の事を思い出しながら、夜のタマムシを歩く。楽な仕事だと思いながら歩いていた頃が懐かしい。「加崎さんに会いたいのですが」の意味は、未だに分かっていない。
私が街のチンピラをやめてからも、町にはずっと何等かの揉め事で溢れている。それと同時にただ華やかで楽し気なタマムシの雰囲気も変わらずそこにあった。
この町は変わらない。シマを取り合っても、店が変わっても、人が変わっても、本質的なこの町の姿は変わっていなかった。うちのような組織と、華やかなタマムシが表裏一体である事はずっと続いている。
私はこの街でのポジションを変え、あの頃はズバットやコラッタだった二匹も、今や立派に進化している。ゴルバットはもう一つ進化を残しているが、時間の問題だろうと思う。
私達は変われた。この町の根っこに届く程に変われたと言ってもいいのかもしれない。
この数年を噛みしめながら、前と同じように少しだけ遠回りして、時間に余裕を持ってゲームコーナーの前に到着する。店の明かりは落ちており、閉店後の作業をする店員さえいないだろう。
それらしき人影はない。一体こんなところでどうしようと言うのだ。
「とりあえず、待ってみるか」
誰もいない暗がりで一人待つ。人の往来はまだある。
あの人か、この人か、と注意深く一人一人見ていたって、分かる訳がない。瀬田さんは時間と場所しか教えてくれなかったから、この先どうすれば良いのかはまったく分からない。
まだ約束の時間には少し早い。焦らなくても良いのかもしれないが、新調したばかりの慣れないスーツとコートが、妙に落ち着かない。身体が緊張を感じているのが分かる。
一体どんな人だろう。もの凄く大柄で、瀬田さんよりも風格ある人物かもしれない。それならすぐに見つかりそうだと思い、背の大きな人を探して見回すが、そんな飛び切り大きな人間はいない。
わざと私に教えなかったのだろうから突っ込んだ事を質問しなかったのだが、やっぱり聞いておけば良かったなあ、と半ば後悔したところで私の携帯が震え出した。
二つ降りの携帯を取り出して、相手を確認する。
知らない番号。
このタイミングだ。無関係だとは思えない。三回、四回とバイブレーションが続く。深呼吸。ゆっくりと通話ボタンを押し、耳に当てる。
「はい」
私の声が向こうに届く。相手の返答に構えたと同時に、背中に薄ら寒さを覚えた。
瞬間的に振り向く。ラッタとゴルバットが飛び出す。
最大限の警戒を持って、自分の後ろに立ち、携帯電話を耳に当てて立っていた男を睨みつけた。
「君が、瀬田が寄こした人間だな?」
「は、はい。そうです」
太い声が、耳元から聞こえてくる。間違いない。目の前に居るのが、目的の男だ。
ダブルの黒コートに、黒ハット。マスクをしているところを見ると、露骨に素性を隠している。
片手で少しだけハットを上げ、私をじろりと見た。僅かに確認できたその鋭い眼光は、確かにただものではないのかもしれない事を思わせる。
「良いだろう。着いて来なさい」
男はそう言って、ゲームコーナーの脇にある小さな路地へ入っていく。隣にはペルシアンを連れていた。
突然後ろに立たれた事に気付いて、咄嗟に反応した私達だったが、完全に反応が遅れた。
あの状態からだったら、何をされてももう遅い。
これはテストだったのだろうかと考えると、やってしまったと言わざるを得なかった。
貫禄あるペルシアンに睨まれた二匹も、必死に威嚇をする事で精一杯。やられた。唇を噛むくらいしか出来ず、ラッタとゴルバットと同じように警戒を解く事なく後をついて行く。
ゲームコーナーの裏側に回ったかと思えば、そのまま裏口のドアを開け、男は中へ入って行った。ゲームコーナーの関係者? ここのオーナーか? いろいろ考えつつ、恐る恐る中へ入って行く。
スタッフ専用のバックヤードだろう。雑誌や新聞、テレビにロッカーと、多少生活感のある休憩所に違いない。ここで腰を落ち着けるのか? と思いきや、男はそのまま休憩所を通り過ぎ、ホールへ出て行った。中は暗い。非常口を示す蛍光灯の明かりでわずかに照らされてはいるが、目が慣れて来るまでは歩き辛い。こんなところに来てどうしようと言うのだ。
躓かないように後ろへついて行く。今度はどこへ行くのかと思えば、すぐに足を止めた。コイン交換カウンターの脇。いや、壁?
「覚悟はいいかな?」
なんだ。どういう事だ。
まったく意味の分からない行動。何を覚悟すれば良いかも分からない。
訳が分からない故に恐ろしい。私は最早警戒なんて忘れてただ硬直していた。
「覚悟は、いいかな?」
再度男は壁に向かいながら呟いた。
「はい」
私の喉からはかろうじて掠れた声が漏れる。
男は壁、いや、壁に貼ってあるポスターを剥がしたかと思えば、その後ろの壁を手のひらで押した。一体何をやってる。何が起こるんだ。
シンと静まり返る店内に、ガッチャンと大きな音が響く。家のドア鍵を開けるかのような、ただ、音の大きさはそんなレベルではない。
ゲームコーナーにこんな仕掛けがあるとは。昼間だったら台が織り成す大音量でこんな音は掻き消える。店の隅にあるポスターの裏をちょっと押したからって、誰も気にしない。
「さあ、着いて来なさい」
男はポスターを戻すと、再び歩き出した。
今いた位置とは逆側。コイン交換カウンターを跨いだ反対側へ男は歩いて行く。
何かが開いたかのような音だった。このゲームコーナーから、一体どこへ行くというのだろうか。
待ち合わせて会食、などと悠長な事を考えていたが、全然足りていない。瀬田さんが心酔する程のボスの護衛なのだ。何が起きてもおかしくない、くらいの心構えでいなくてはいけなかったのかもしれない。
男はまた壁の前で止まった。目が少しずつ慣れてきて、着いて行くには苦労しなくなっていた。
次は何をするのかと思えば、今度は何の言葉もなく壁を押した。
雑に剥がされたポスターの跡が残っていて、そこが目印のようだった。鈍い音と共に、扉となっていた壁が開く。
奥は暗く、その先は見えない。
ラッタとゴルバットも、最早警戒しているというよりは、状況と雰囲気に飲まれているようだった。
私達は、タマムシの最奥部に足を踏み入れようとしている。
【十二】
隠し扉の奥は、下り階段になっていた。カツカツとこだまする二名分の靴音。ゴルバットの羽音に、音もなく階段を下りていくラッタとペルシアン。私は一番後ろから着いて行く。
踊り場だけ点灯しているチカチカした薄暗い蛍光灯が、怪しさを演出している。
男は自分の家かのように迷う事なく階段を下りていく。とてもではないが、話しかけられる雰囲気ではなかった。
一番下まで下りると、正面にはギラりと光る銀色の取っ手がついた、重そうな扉が一枚。
躊躇なくそれを引く。差し込んで来る光。
明るい。
突然の強い明かりに目がくらむ。
「ようこそ。ロケット団タマムシアジトへ」
男は扉を抑え、私を迎え入れる。
まるで似つかわしくない動作なのが、初対面の私にだって分かった。恐縮し、頭を下げて私はその先へ足を踏み入れる。
「なんだよ、これ……」
思わず口から漏れ出た。ゲームコーナーの下に、こんな入り組んだオフィスのようなフロアが広がっている。一体どうなってるんだこの街は。
呆気に取られて突っ立っていると、男は扉を閉めて再び歩き始めた。
「いろいろ気になるだろうが、今は黙って着いてきなさい」
言われなくともそうするしかない。私は言われるがままに再び男の歩を追い始めた。
随分と入り組んでいるように思える。タマムシアジトとまで言い放ったのだ。シンプルな作りではないはずだ。
いくつか曲がった先で、今度は電子ロックの扉にカードキーのようなものを差した。自動で開いた扉の先へまた進んでいく。セキュリティは厳重だ。本当にアジトらしい。
その先のエレベーターに全員で乗り込み、男は地下四階を押した。駆動音だけが闊歩する密室。一言も発する事を許さない緊張感がある。あまりに異質な出来事に圧倒される。ペルシアンだけが、私達をじとりと見定めるかのように目線を配り、男はただ突っ立っているだけなのに、不意打ち出来る隙も見せない。
地下四階に着くと、私達はまた男の後を歩かされる。
一体どこまで行くと言うのだ。ゲームコーナーの下にこんなフロアがあるだけでも頭がパニックなのに、それが地下四階まであるという。もう無茶苦茶だ。
「さあ、そこに腰掛けてくれ」
恐らく、ここが一番最奥部なのだろう。社長室、という表現がぴったりなのかもしれない。重厚感のある木目の、高級そうな長机。フカフカの黒椅子。応接用のテーブルに、うちの事務所よりも極厚の黒皮ソファがセットされている。誰がこんなところに来るというんだ、と思ったが、まさに今ここに通されている。
私はソファに浅く腰掛け、対してどっかりと深く椅子に腰かけた男の言葉を待った。
「君は、どこの出身なのかな?」
「タマムシです。生まれてから、ずっと」
「そうか。それは良い。この街でずっと暮らしている事は、それだけで強みだ」
「あ、あの」
「なんだ?」
「あなたが、ロケット団のボス、という事でよろしいのですか?」
我慢出来ず、私は口走った。
「私か。私は、誰でもない。どこの誰かだなんて重要じゃないんだよ。ジムリーダーかもしれないし、どこかの社長かもしれない。ただのポケモントレーナーかもしれないし、ただの親かもしれない。どこの誰だか分からない事こそが、重要なのだ。役職、階級、そんなものはどうでも良い」
「……分かりました。では言葉を変えますが、あなたが瀬田さんが仰っていたボス、なのですか?」
「同じ答えだ。瀬田が信ずるものは、この組織の持つ野望にある。特定の人物などではない」
いや、そんな事はないはずだ。瀬田さんはボスのためにと、そう言っていた。私が瀬田さんのためにと思う気持ちと、同じはずだ。
「気持ちで動いてはいけない。組織の運営とは、システマチックにやるものなのだよ。これは瀬田にも教えてきた事だ。奴はそれを良く理解している。このロケット団の一部となり、優秀な駒として働く事を誰よりも理解する人物の一人だと考えている」
何だ。何なんだこの男は。
「だからこそ私は瀬田に期待して、いくつかの課題を与えた」
「……課題?」
「三次団体とは言え、この組織の下部だ。期待通りタマムシを抑え込み、人心掌握の末優秀な部下を自分で育てろという課題だ」
人心、掌握?
「奴は、見事にお前のような男を掌握したと見える。他にも腕の立つ奴がいるのだろう? 話は聞いている。使える奴は上げてやる。大いに働くといい」
「いや、あの、すいません。何を言っておられるのですか? 瀬田さんはあなたからの課題として、タマムシを抑え込み、組織を強くし、強く心酔する部下を育てろという課題を忠実に熟したと言う事ですか?」
「そうだ」
「野望に忠実な部下として働き、駒としてただ無感情に仕事を遂行していると言いたいのですか?」
「そうだ」
「そんなはずはない!」
気づけば、立ち上がっていた。
「流石だ。よく心酔しているではないか」
火に油を注がれているようで、私は久しぶりに熱くなっていた。
「瀬田さんは、瀬田さんは本当に私達の事を考えてくれていました。面倒を見てくれて、色々な事を教えてくれて。生き残る強さを教えてくれた」
「それが組織で役に立つ」
「違う。瀬田さんはそんな人じゃない」
「分からなくても、今はまだそれで良い」
男は立ち上がって、ゆっくりと歩いてこちらへ向かってくる。私は心の中がぐしゃしゃで、次に何を言えばいいのか分からなくなっていた。
「なあ君。私が何故そのような課題を与えたのか分かるか?」
男は正面に立ち、私をじっと見つめながらそう言った。
「……分かりません」
「システマチックにやらなければならないとは言え、組織を運営するのは人間だ。人間である以上、感情を全て抑え込む事は難しい。だからこそ、そこを操り掌握を試みる事に価値がある。象徴である私がそうやって来たように、瀬田みたいな特定の人物にその役割を与え、その下を育て鍛えていく。そうして組織は強くなっていくんだよ」
「それでも、それでも私には、あの瀬田さんが全てあなたの言う通りそのまま動いているとは、とても、思えない……」
「人が信じられなくなるか? それでも君は瀬田を信じるか? 悩め若者、そうやって一つ一つ乗り越えて行くといい。ただ、この組織に合致しない時点で、ある程度の覚悟はしておけ」
「どういう事ですか?」
「最近幹部になった者にアポロという人間がいてね、そいつにはヤマブキの掌握を任せている。奴には同じく部下を育成させて、ここへ連れて来させた。街の様子と、部下のレベル。いろいろ総合し、アポロと比較し、瀬田を幹部へ引き上げるか決めるつもりだ。君の行いが、瀬田の未来を決めると言っても良い。わかるな?」
脅しているのか。
私が下手をやれば、瀬田さんに迷惑をかける。瀬田さんを担ぎたいと思う以上、従うしかない。
分かった。良いだろう。それなら乗ってやる。ここまで来て引き下がれるか。瀬田さんを担ぐ。私は彼を幹部に押し上げて見せる。
「……分かりました。瀬田さんがどう思って何を考えて行動しているのか、それはこの際どうでもいい。私が瀬田さんに世話になった事は事実です。それだけがあれば十分だ。私は忠実に働いて見せましょう」
男はくっくと笑い、合格だ、と呟いた。
「良い働きを期待している。護衛の件については、追って連絡をしよう。それ以外にも君に任せたい仕事がある。うまくやりなさい」
話は終わりなのか、男は入口側へ歩いて行く。また着いて来いという事なのかと思えば、立ち止まってこちらへ向き直った。
「上で会った時、君は良い反応をしていた。ポケモン達も、それなりに鍛えているのだろう? どうだ、力を見てやろう」
今までどこにいたのか、ペルシアンがゆっくりと男の元へ近づいていき、僕等に向かって牙を出し、戦闘態勢を取った。
横に陣取っていたラッタとゴルバットもやる気だ。上でやられた分、ここで見返してやる。
ゆっくりと立ち上がって、決して男とペルシアンからは目線を外さない。
「さあ、来なさい」
余裕かましやがって。見てろよ。
私が机を蹴って飛び掛かると同時に、ラッタとゴルバットも向かっていった。
やってきた事を出すだけだ。私達は強くなった。
【十三】
事務所で目を覚ました時、身体中が痛くて仕方がなかった。
ソファに寝かされているらしい。身体を起こして携帯を見ると、まだ随分朝早かった。事務所には誰もいない。
「夢、じゃないんだよな」
昨日の記憶を追えば追う程、現実感がなかった。タマムシの地下にあんなものがあって、誰もそれに気づいていない。
タマムシは既に掌握されていて、加えてヤマブキまでもが手に落ちているという。世界は一体どうなっているんだ。私は本当にとんでもない世界に足を踏み入れたんだなと思う反面、その実感がまるでない。
「ってえな……ボコボコにしやがってあの野郎」
記憶が途切れるその直前、男の右拳を顔面にもらったような気がする。
ペルシアンを相手にラッタとゴルバットが暴れている間、私も男に向かって行ったが、ものの見事にあしらわれた。
力が技が、知力が、経験が、全てが足りていない。
ペルシアンは優雅で、力強くまた水のように流動的に動いた。男がその隙間から殴打する。コンビネーションの基本のような、どこでそんな戦闘技術を身に着けたんだろうと、見惚れるくらいのものだった。もしかしたら、瀬田さんよりも強いかもしれない。
そう思わされるには、十分なくらいに私達は痛めつけられた。
「そ、そうだ。あいつらは」
腰のボールホルダーにモンスターボールがない事に気付いて、痛む身体を無理やり起こして事務所を見回した。生殺与奪の権利を完全に取られておいて何も言えないが、あいつらだけは返してもらわなくては。
またあそこに行けばいいのだろうか、と思い足を引きずったところで、事務所奥の扉が開いた。
「せ、瀬田さん、いらっしゃったんですか」
「起きたか」
瀬田さんは自分のデスクに腕を組みながら身体を預け、私にまだ横になっていろと命令した。
「でも、あいつらが、あいつらがいないんです」
「大丈夫だ。ラッタもゴルバットも無事だよ」
すぐにあのお方が二匹を回復してくれて、使いのものがさっきここにボールを運んできたよ。
そう言って、瀬田さんはポケットから出したボールをこちらへ放った。
強くボールを抱えて、目を閉じ二匹に謝罪した。俺にもっと力があれば……。
「ボスは、どうだった?」
ソファに腰かけつつ、私は昨夜の会話を思い出した。
「怖く、厳しく、強い、そんな方でした」
「そうだろうそうだろう」
と瀬田さんは普段はあまり見せないような笑みを浮かべている。この人は、本当にあの人の事を信じて行動しているんだ。昨日の会話が全部真実なのだという事が私の中に重くのしかかった。
「私は、瀬田さんの元で働いていたい。もっともっと力を付けたい。そう、思いました」
心の隅で思っている事は言えなかった。
それは私には関係ないからだ。瀬田さんがどう思って行動していようが、私の瀬田さんに対する気持ちは変わらないのだ。どうだっていい。
どうだって、いいんだ。
「ボスは、お前の事を高く評価していた。若く、勢いもある。何より強い。良い部下を育てたなと言っていたよ」
何が強いだ。あんなに一方的に痛めつけておいて、どの口が。
「お前がここまで育ち、私の右腕になってくれた事を、心から嬉しく思う」
吐いてしまいそうな程嬉しい言葉。
私の事を、指示通り組織の駒として育て上げたのだとすると、本当に凄い人だ。私はまんまとその術中に嵌っている。
だが、やっぱり、この人がそれだけの理由で私と接しているとは思えない。この新しいスーツも、食べさせてくれた飯も、何もかもあの男の言う通りなんて、信じがたい。
だってあいつは、私たちの数年間を実際に見てないんだ。この生活や時間、経験が、全て作り物だなんて、私にはどうしても思えない。
でも、それを私の口から確認する事とはまた違う。
これは私の中だけで押し留めていればいい。
「私なんかで良ければ、いくらでも使って下さい。もっともっと力を付けて、勉強もして、頼られるようになってみせます」
瀬田さんは頼んだぞ、と言って笑った。
彼は、自分の昇格がかかっている事をまったく話さなかった。そんな事はおくびにも出さない。幹部という立場に上がれるか上がれないか、それは彼にとって大きな問題だろう。
私がそれを理解している事も、恐らく知っているはずだ。それなのに、まるで問題にしていないかのような振る舞い。風格ある所作。器の大きさ。
やっぱりこの人は凄いと私は思う。
色々考えるのはやめよう、私はまだこの人について行く。そう思えれば、それだけで良い。
【十四】
私のボスは瀬田さんなので、あの男は大ボスという事にした。
瀬田さんは、団員であっても彼の実態はいまいち分からないという。その野望とカリスマ性で組織を引っ張っており、その影響力は絶大らしい。
このカントー地方の二大都市を掌握しようだなんて事を考えるのだから、とんでもない人物なのは間違いない。それに、掌握した後どうする気なのか。掌握する事が目的ではないのだろう。私なんかがそんな情報を知り得る事はないのだが、瀬田さんがそこに絡んでいるんだとすれば、私にも動く理由がある。
私の中で、瀬田さんのために動く事と、実際にやっている事は上澄みの結びつきでしかない。やっている事それ自体に賛同している訳ではない。かといって反対している訳でもない。
私は根っこの部分で自分の意見を持って動いている訳ではなかった。
「暇だなあ」
こんな事を考えてしまう余裕があるくらいに、私は暇を持て余していた。
ぼうっと考え事をしていても、音がうるさすぎて落ち着かない。
私はゲームコーナーを再び訪れており、言われた仕事を遂行していた。あのポスターの前に陣取って、見張りをしているだけ。ここ最近、色々大きく動き出すと言う事もあって、セキュリティを強化するとのことだ。
そういえば、最初に運びをやった時リュックを渡した強面の男もここに立っていた。店を回すと同時に、見張りも兼ねていたのだろう。
彼は、私に見張りを任せて存分に店に集中している。
護衛の話はどこへやら。任される事は決まっているらしいが、詳細がない。決まるまでの間は、ここの見張りをやっておけという事らしい。
あの地下フロアの事を知っていてここを見張っているのか、そうでないかでは立っていても気持ちが違う。何も知らずに立たされていたら、とてもではないが退屈過ぎて辛い。
団員は普段ここから出入りする事はないらしく、他の場所から出入りを行っているらしい。
要するに何も起きない。
誰がこんなところから入って来るんだ。
そうは思っても、口には出さない。警察が雪崩れ込んで来るなんて事は、あの地下フロアを巧妙に隠しきっているロケット団ならばまずないだろうし、正義の味方が正面突破してくる事なんて考え辛い。
対抗組織の回し者、なんて奴がいるのかもしれないが、例えここを突破して地下へ行けたとしても、とてもではないが生きては帰れないだろう。
「仕方ないか」
仕事は仕事。やれる事を精一杯やるしかない。
私は自分にそう言い聞かせ、その場に立ち続ける。
時計を見ても、時間は進まない。十分程経ったかと再度時計を見ても、五分も経っていない。
せめて店の見回りをさせて欲しい。こんなところにいて、何の経験になるんだ。
仕事なんだからやれるだけやろう。
でも退屈。
仕事なんだから仕方ない。
しかし退屈。
私の中でひたすらせめぎ合いが行われている。
今日は終わったらカイでも連れてどこか酒でも飲みに繰り出そうか、なんて事を考え始める頃には、私はほとんど何も考えずに突っ立っているだけだった。
そんな私の目に、見慣れない姿が映った。
こんなところに入ってくるには、あまりに幼い。少年、と言える年齢の男の子だ。店をちょろちょろして、何か探っている。スリか。あの歳でスリとは、ハードな人生を送っているに違いない。店員にどやされるぞ。
しばらく見ていると、案の定店員に捕まった。ここの店員は客の扱いが雑だ。ガキが入ってくるところじゃねえんだとかなんとか、追い出すつもりだろう。頷いている様子の少年だったが、素直に言う事を聞くつもりはないらしい。
しばらく店をちょろちょろした後、少年はコイン交換カウンターの前に立ち、別の店員に話しかけていた。
何をするつもりだ? 私が見ているのを察したのか、店員がこちらに目配せし、にやりと笑う。
話は終わった。少年はそのまま堂々とした姿で歩き、私の前に立った。何をしやがったんだあいつは、と店員の方を見れば、顎をクイと少年の方に向ける。
……もしかして、やりやがったな。
確かにあの店員には、見張りは退屈だなんて愚痴を零した。それを聞いてか、暇潰しにとこんな少年をけしかけたのだろう。
とんだ迷惑だ。これじゃ暇潰しじゃなくてお守だ。
”赤帽子の少年”は、少しだけ距離を取ると、私を真っ直ぐ見てモンスターボールを構えた。なんだやる気か? 店の中でバトルなんて、本気か?
「俺はこのポスターを見張ってるんだ。邪魔をすると、痛い目に合わせるぞ」
子どもと喋るのは、そういえば随分久しぶりだ。どうやって話せばいいのか分からず、ぎこちない雰囲気になってしまった。
少年は、黙ったまま動かない。吸い込まれそうな程純粋な目は、とてもスリをやるような人間には見えなかった。それどころか、何か大きな力を秘めた、底の見えない何かを感じるような気がする。
何をこんな子どもに気圧されているんだと、自分の情けなさに呆れたその時、少年はモンスターボールを放って、本当にポケモンを出した。
中から現れたのはリザード。しかしこんな小さな少年に遅れを取る私ではない。タッチの差で飛び出したラッタとゴルバットが、私とリザードの間に割って入った。騒ぎにせず、軽く捻ってやればいいだろう。
そう私が思ったのと、少年が不敵な笑みを浮かべたのは同時だった。
目の前にいるリザードが距離を詰め、その鋭い爪でラッタを切り裂く。慣れない場所、咄嗟の攻撃に反応出来ないラッタは、先制攻撃に後ずさった。
何故だ。いつどこでどんな状況でも、反応出来るような訓練をしてきたつもりだった。タマムシはそういう訓練に最適なのだ。
なのに何故。どうしてリザードの攻撃に反応出来ない。
次の瞬間には、リザードの隙をつき、ゴルバットが首元を狙った吸血――その絵は見えていた。だがどうだ。リザードは咄嗟に尻尾を勢いよく振り回したかと思えば、その炎の尻尾でゴルバットをなぎ飛ばす。
その間、赤帽子の少年はゴルバットの位置をリザードに伝えただけだ。
「ひっさつまえば!」
ようやく体制を立て直したラッタは、私の声を聞き目の前のリザードに向かって牙を立てる。
決まるタイミングだ。攻撃に耐えたラッタが返しのひっさつまえばを入れ、その勢いでバトルを決める流れは今までの勝ちパターンだ。
よし! と私もラッタも思ったはずだった。
一瞬消えたかのように見えたリザードが、下から勢いよく拳を振りぬく。メガトンパンチ。
飛ばされたラッタは壁に激突し、そのまま気絶。
倒したラッタには一瞥もくれない。一歩二歩と軽やかに助走をつけて跳ねたリザードは、回転しつつ、そのまま空中で立て直したゴルバットに頭から尻尾を振り下ろす。
地面に鈍い音をさせつつ叩きつけられ、ラッタと同じくそのまま気絶してしまった。
この間十秒もない。
「ちくしょう……」
子ども相手に負けた事ではない。トレーナーとしてのレベルの差に、素直に歯噛みした。
知識の差ではない。ポケモンとの連携が、意思の疎通の速さが普通ではない。まるでポケモンと意識をシンクロさせているのではないかという程の、ラグのなさ。
どうして……こんな少年とリザードがここまでの力を。幾年もの年月を経て、何千何万という同じ動作を繰り返し、思い出せない程の経験を積んだ先に得られるような、そんな、そんな途方もない力が、この”赤帽子の少年”とポケモンにはあるような気がした。
底が知れない……それこそ、あの大ボスのように。
リザードが私を制し、少年は私の横に貼ってあるポスターを剥がす。
私は最早この少年を抑え込む気など失せ、ラッタとゴルバットを戻して半ば恐れるかのように走った。途端、店内に鈍く響いた開錠音。押しやがった。ゲームコーナーの賑やかさでは、意識していなければ聞き逃してしまう音だ。
早く下の者達に伝えなければ。
気が動転した私は、そこが隠しアジトだと言う事も忘れ、壁にしか見えない扉を開き、その先の階段を駆け下りた。
奴は追ってくる。
あの純粋な目が、私の中で真に恐怖に変わりつつあった。
薄暗い階段が、背後への恐怖を膨らませる。
階段を下り、光を求めて扉を開ける。
あのフロアだ。夢じゃない、本当にあったこのフロア。今度はあの時とは違う。誰もいない隠しアジトではなく、黒服の集団がせかせかと歩き回っている姿が見える。
「お、おい! 上から、化け物みたいなやつが下りてくる!」
一人を捕まえ、両肩を持ってすがるように叫んだ。
一瞬ぎょっとした男だったが、すぐに理解したのか舌打ちをして携帯を取り出し、すぐに連絡を入れたようだった。
すがった私を捨てるように払いのけた黒服の男は、
「使えない奴め」
と吐き捨てて走り去った。やれる事がなくなって、呆然とアジトを歩き回り、私は自分がやってしまった事の重大さに気付き始める。侵入者を入れてしまったばかりか、自分からドアを開けて下りて来てしまった。
これではアジトの入口が丸分かりだ。
開錠音だけでは、どこから入ればいいのかなんて分からないはずなのに。
「一体俺は、な、何を……」
自分のやってしまった事の大きさに、震え始める。ずっと秘匿し続けてきたこのアジトが、衆目に晒される。私のせいで。
そう思ったらさらに恐ろしくなって、私はアジトをふらつき、鍵が開いていた倉庫として使われているであろう部屋に潜り込み、隅で小さくなった。
どうしよう。この責任は、私にある。一体どうすれば。
私は既にこの落とし前が一体どうなるのかと言う恐怖で頭が一杯だった。何をされる。拷問か。指でも詰められるのか。それで済むのか。
頭の中に、あの少年の不適な笑みがチラついた。何でよりにもよって私が見張りをしている時に……とこれ以上ない程恨み、同時あの少年の圧倒的な強さを思い出す。
何だあれは。一体何だというんだ。もしかして、これは試されているのか? あの少年も、大ボスが私を試そうとして送り込んだ奴なのか? だとすると、騒ぎは起こらないのか?
自分に都合の良い方向に物事を考えようとした時、私は自分の事しか考えていない自分に気付いた。
瀬田さんだ。瀬田さんはどうなる。本当に騒ぎが起こって、これが私の失態だと責められたら、瀬田さんの出世はなくなるかもしれない。
申し訳なさと情けなさ、今までの恩を仇で返してしまった事実、今後下される罰、先輩や仲間達の失望した顔。全てがない交ぜになって、圧し潰されそうになる。
頭がごちゃごちゃだ。
どうすればいい。私は一体どうすればいい。
加勢に行った方が良いか。ラッタとゴルバットは戦えないが、私自信が盾としてくらいなら役に立つのだろうか。
恐怖で動かない身体は、私の何かしなければという意思を容易に砕いた。
何回も何回も動こうとして、繰り返し私はその意思を自分で砕いた。
砕いて砕いて、震えて。
どれくらいそんな事をしていただろう。
アジトの中がやけに静かだと気づいた。侵入者とあらば、もっと騒いでも良いものだ。
私はようやく僅かにクリアになってきた頭で、おかしい事に気付いた。何も起こっていないのか?
現実に目を向けられない。本当は何も起こっていなかったんだと信じたい。あまりにも静かなこのアジトの空気が、私の身体を動かした。
倉庫を出てみれば、倒れている団員達がそこかしこに。
私の夢のような希望は簡単に砕けた。
あいつは下りて来て、このアジトに侵入した。そのまま団員達を蹴散らして……いや、何故だ。何が目的なんだ? どうして一人でこんなところに乗り込んで来る必要がある。
見つけたら警察にでも通報して、大人を集めれば良い。いや、子どもの言う事なんて信用しないって事か? それにしたって、いくらあの”赤帽子の少年”だって、こんな地下深くに根差した組織に一人で乗り込み、団員を蹴散らして進んでいくだなんて、そんなこと可能なのか?
だが、この目の前の事実が、それを可能にしている事を物語っている。
それでも、このアジトにはきっと幹部だって、もしかしたら大ボスだっているかもしれない。そうなれば、あの少年だってただでは済まない。いや、間違いなくここからは出られなくなる。
そうに決まってる。団員達がこんなにもやられているのだ。私の失態も少しは軽く……などとまだ自分の事ばかり考えている私の耳に、ポーン、とエレベーターが止まる音が入って来る。
静まり返ったアジト。誰かが上がって来た。
私は一瞬でまた分厚い恐怖に包まれる。エレベーターから出て、廊下を経た先の直線状の部屋から、私はこっそりと顔を出してその相手を見ようと伺った。
「そ、そんな事って……」
エレベーターから降り、アジトを出ようと駆けだして来たのはあの”赤帽子の少年”だった。
私は咄嗟に部屋に引っ込み、どうするか考えたが、最早そんな悠長に思考している猶予は私には与えられていなかった。
少年は私がいた部屋をただ駆けて行き、そのまま出て行った。こちらに目もくれず、全てを壊して去っていく。去り際、双眼鏡のような物を手にしていた事だけは確認出来た。
私と上で戦った時は、そんなもの持っていなかった。
まさかそれだけ?
それだけを手に入れるためにこんなところに?
そんなまさかと思ったが、最早常識だとか一般的とか、そんな事は全て通用しないのかもしれない。
何が何だか分からない。
理解出来ない場所で、理解出来ない事が起き、理解出来ない人間が暴れていた。
私にはもう、着いて行くことは出来なかった。
【十五】
静まり返ったアジトから出てみれば、ゲームコーナーは通常通りの姿だった。ただ、あの強面の男だけはおらず、任された店員が店を回している。突然消えて、突然現れた私にサボってんじゃねえよと店員が絡んで来たが、最早凄む気すら起きず無視して店を後にした。
タマムシシティは変わらない。
この町で一体何が起こっているのか、町の人間は何も知らない。その違和感があまりにも気持ち悪い。
全てが作りものの世界にようで、私は一人知らない世界に放り込まれた感覚で街を歩き、事務所へと戻った。
【十六】
三階へ上がって扉を開けてみれば、変わらない光景がそこにある。
あれ、見張りじゃなかったのか? どうした? と先輩達が寄ってくるが、ええ、そうなんですがと軽く躱して、私はソファに座った。
私の様子がおかしな事に気付いた人達が、一体どうした何があったんだと代わる代わる話しかけてくるが、何をどう話せばいいのか分からず、ただぼうっとする事しか出来なかった。
私の周りには人が溜まり、あまりの放心状態に何かまずい事が起きているんじゃないかという話になり始める。
やがて、何か焦った様子で電話を持ったまま近づいて来た先輩が、私の目の前に座った。
「……瀬田さんから連絡だ。当面の間は謹慎。後の事は心配するなってよ。お前、一体何をやらかしたんだ?」
皆の視線が集まる中、私は黙って立ち上がり、すいませんでしたと頭を下げて事務所を後にした。
【十七】
アジトが衆目に晒される事となり、幾人もの幹部や構成員が逮捕されていく中、ロケット団は急ぐように立て続けに大きな事件を起こし始めた。
シオンタウンでの老人誘拐事件。狙いが良く分からないと言われていたこの事件は、結果的には何者かの手によって解決した。不思議な事件だった。誘拐されていた老人が、何事もなかったかのように歩いて出て来たのだ。
そして、その僅か数ヵ月後、ヤマブキシティを完全に抑えたロケット団が、とうとうシルフカンパニーという大企業を乗っ取った前代未聞の大事件を起こす。連日テレビではこのニュースを取り扱っていたが、私はその浮世離れした事件をテレビの向こうの話として、ポカンと傍観する事しか出来なかった。
タマムシとヤマブキというよりは、カントー全体がロケット団の手に落ちようかという事件だ。シルフが乗っ取られるレベルと言う事は、軍事技術も危ない。あそこはそういうものにも絡んでいるという話を聞いた事がある。
きっとカントー全体に広がっているであろうロケット団下部組織の動きも活発になり、いよいよ大戦争か、などという話も現実味を帯びてくる。
ジムリーダーだけでは手に負えず、四天王やチャンピオンまでも駆り出される事態なのは火を見るよりも明らかだった。ヤマブキの乗っ取りを成功させる計画力、政治力は見事としか言う他ない。これまでカントーの乗っ取りを綿密な計画の元行い、そのカリスマ性で組織を引っ張っていたあの大ボスの事だから、何の手も打っていない訳がないだろう。四天王やチャンピオンが出張ってきたところで、彼らは所詮ポケモンバトルという競技内でのエリートだ。犯罪組織の撲滅エリートではない。
だが、この前代未聞の大事件も、エリート達の力を借りずとも、何者かの手によって突然の解決を見た。
シオンとヤマブキ、共通するのは何者かの手によって解決したという事。
警察やその他報道機関は、頑なにその人物を報道していなかったが、あいつしかいない。
あの”赤帽子の少年”だ。
私は確信していた。タマムシアジトの件だって、誰が潰したのかは報道されていないが、世間的には突然明らかになったように報道された。
本当に、あいつは一体何者なんだ。
一見ただの少年にしか見えないのに、嵐のような勢いで過ぎ去っていき、全てを薙ぎ払っていく。
正義感でロケット団の企みを潰して回っているようにも見えなかった。思い返すとどこかこう、アウトローな世界で自分の力を試しているかのようだった。
テレビの様子を見ていると、私が同じ場所に居た事が場違いにしか思えない。瀬田さんや、瀬田さんと同じくらいの力を持つであろうアポロという幹部。大ボスに、”赤帽子の少年”と、私が知っているだけでも登場人物は化物揃い。他にも強い人間、強いポケモンがゴロゴロしている事は容易に想像出来る。あの少年の事を抜きにしても、私はあの世界ではきっとやっていけなかったのだと思う。負けて焦って、アジトを露呈してしまった時の自分の慌てぶりは、とてもではないがあんな大きな犯罪組織でやっていくには厳しいだろう。
街の半グレ、下部組織で街のやつとゴタゴタ揉めるくらいで精一杯なのだ。
家で謹慎していて、私はだんだんと自分の身の丈を納得しつつあった。瀬田さんには申し訳ないが、期待に応える事はきっと難しい。
たまに近況を伝えにくるカイの話だと、瀬田さんはもう随分事務所に戻って来ていないそうだ。
カイは細かい事情を知りたがっていたが、私は頑なに口を割らなかった。瀬田さんの言っていた事――後の事は心配するな――というのは、私だけに向けられた言葉ではない。瀬田さんは事務所の皆だって賢明に守るに決まっている。私がここで話してしまっては、瀬田さんの行動が無駄になる。私が話して事務所の皆が何か行動を起こせば、今ならロケット団との関わりをすぐに疑われるだろう。あの組織に関わるというのは、それだけで大きなリスクを伴う。
お前はこの道でいいのか? という瀬田さんの言葉の重さを私は理解していなかった。いや、理解出来る訳がない。
しかし、私は全てを事前に話してくれなかった瀬田さんを責める気はまったくなかった。彼だってせめぎ合っていた。きっと苦しんでいた。
その中で彼がやってきた事は、事務所の皆を養い、育て、教育する事に尽きる。大ボスが言うような組織の駒を育てる事なんて、出来ていないのだ。彼は組織の人間に成り切れなかった。
あの人は身内に対して致命的に優しすぎる。私達は飽くまで彼のために頑張っていたし、タマムシという街で威張るために一生懸命だった。
だからこそ、私たちはきっと彼を責めない。捕まっても、こんな私たちの面倒を見てくれた瀬田さんに対して感謝しかない。
私達の繋がりは、私達と一緒に居た者だけが知っている。
他人にどうこう言われたくない。
やってきた事の内容とは関係なく、私達の繋がりはそこに居たものにしか分かり得ないものだからだ。
「たくさん、勉強させていただきました。ありがとうございました」
ロケット団という組織が、テレビの向こうで目に見えて崩壊していく様子を見つつ、私は一人頭を下げた。
【十八】
ヤマブキ、タマムシでの一斉摘発により、カントー地方が元に戻ろうとしていた。
事務所の仲間達も、ロケット団関係者の可能性があるということで摘発が続き皆警察に捕まっていく。誰も告げ口をする者はおらず、私の元に警察がやってくる事はなかった。
瀬田さんがどういう行動を取っていたのだとしても、きっとこの結果を避ける事は出来なかったと私は思う。
そんな中、私だけがこのままで良いはずがない。
瀬田さんからの連絡はずっとない。テレビで逮捕されたようなニュースも聞かない。
だが、彼はきっとその他大勢として捕まっているのだと思う。
ここらが潮時なのだろう。
親元を離れ、暴れに暴れたチンピラ時代から、瀬田さんに拾われ色々な事を教わった。
やってきた事が良い事だなんて思った事はない。裁かれ、批判され、制裁を受けるべき立場なのは間違いない。
だがそれでも、私は瀬田さんの元に、皆の傍に居られて幸せだった。
善と悪という二元論では収まりきらない、複雑な事情がタマムシには存在していたし、私達は私達のやり方を全うした。
だが、やりすぎだったのだ。
大ボスはやる事が大きすぎた。世界がそれを許さなかった。まるで神が罰を下すかのように、その使いとして現れたかのような、あの”赤帽子の少年”に蹂躙された。
歪みは戻され、また世界は元通りになっていく。
私は一人、
自首を決めた。
【十九】
ある晴れた青空の下、街のバトル場に息子のコキヒと繰り出し、私達は向かい合った。
「パパ! ちゃんと教えてよ! いいね!」
刑期を終えた私は、その後真っ当に仕事を続けた。カイとだけは繋がっていたので、皆の近況はそこそこに聞いていたが、最近ではそんな事ももうなくなってしまった。
カイだって今は立派に働いているし、私も、妻と子を持つ事が出来た。あの頃とはもう何もかも変わって、昔話をする事もない。
敢えてするなら、”赤帽子の少年”が史上最速、最年少チャンピオンとなり、伝説のトレーナーとして祭り上げられているニュースには、ギョっとした。。もっともっと怖い奴なんだぞこいつは、と声高らかに言いたいものだ。
瀬田さんとは、一度も会っていない。連絡も取っていない。どこにいるのかも分からない。
ただ、後の事は心配するなと言っていた通り、ロケット団としてではなく、まったく関係ない街の非合法組織の一員として私達は捕まった。
あの当時、カントー最大マフィアのロケット団員として捕まった者は、私達に比べれば重い罰を受けていたから、ロケット団と関係がないというだけで、私達はまだ早く外に出て来る事が出来た。
最後まで面倒見の良い人だ。
そして、常識的には悪い事でも、最後まで頑なに部下を守ろうとする姿勢は、変わらなかった。
私はまだ彼を尊敬している。彼のように慕われる人間になりたいと思う。
彼が私達にしてくれた事だけは、混じりっ気のない愛情であると信じているのだから。
「おーいコキヒ! リザードの他にはいないんだな? 倒したいのは一体だけでいいんだよな?」
私の左右に、ラッタとクロバットが控えている。
たまに小さなバトル大会にも繰り出して暴れさせてはいるのだが、こうやって手解きをするのは初めてだ。分かってるな、と目配せすると、二匹とも言われなくともとばかりに頷いた。
リザードには苦い思い出がある。こいつらにコキヒのサポートを任せていもいいのだが、やっぱりそれでは教育上よくない。
「えっと、リザードとねえ! ヘルガー!」
またそれは、随分な巡り合わせ。リザートにヘルガーか。なるほど、尚更こいつらに行かせてやりたくなるような展開だ。
「アキヒコ君が言っていたけど、リザードよりヘルガーの方が強いんだって! 耳に裂けた跡みたいに傷の残ったヘルガーなんだよ! 僕も見せて貰った!」
どきりとした。そんな事があるのか? コキヒの言うその特徴には、見覚えがあった。
裂傷が刻まれたヘルガーは、ラッタとクロバットの憧れの存在。私から見ても、とても素晴らしいポケモンだった。
「なあコキヒ! 今度友達とバトルをする時、私も見に行っていいか?」
「ええ! 嫌だよ! パパ付きなんて恥ずかしい! バトルには一人で行って来る!」
そう言うな息子よ。
私だってそのヘルガーを見たいのだ。
彼の期待には応えられなかったが、それでも一生懸命ここまで生きてきた。
今の私の姿を見てもらいたい。
あの頃の気持ちを、私は思い出し始めた。
「いいじゃないか! 私だけじゃなくて、ラッタとクロバットもきっと行きたがる!」
嫌がる息子をしぶしぶ納得させ、オニスズメとラッタが対面する。
私だって変われたんだ。コキヒだってオニスズメだって変われる。
あの人から教えて貰った事を、私は何一つ忘れていなかった。
今度は私が、伝えていく。
【了】