デリバードからのプレゼント
僕は忘れていた
 僕の秘密基地の名前は秘密基地という名前だった。格好いい名前を付けようと思ったことはあったのだけれど、いろいろ考えた結果、僕が考えたどんな名前よりも「秘密基地」という漢字四文字が一番格好いいと思ったのだ。家の倉庫をひっくり返した末に見つかった大き目の旗に「秘密基地」と汚い字で書いてそこに持って行ったのだが、今思えばそれじゃあ秘密でもなんでもない。馬鹿だなあと自分のことながら思うが、当時の僕は秘密基地というロマンがつまった場所を独り占めしたかったのではなく、その秘密を共有する人が欲しかったのだ。家族はまったく興味を示してくれない女ばかりの家族だったし、学校まで凄く遠いこともあり、僕の家まで遊びにくるような友達もいなかった。馬鹿な旗は、誰かが見つけてくれたら一緒に遊べるのにな、というちょっとした期待だったのかもしれない。
 秘密基地の場所は、家の裏山を登り、舗装された道を逸れて獣道に入っていき、しばらく行ってくねっと曲がった木のすぐ隣だ。誰が作ったのかわからない、それはそれは立派な木でできた小屋がそこにはあった。一人で小屋の中を一生懸命掃除し、家から客用の布団を持ち出してそこに敷いたり、なるべく平らな石を椅子にしたり、家で使っていない折りたたみ式の小さなテーブルを持ち込んだ。自分の部屋はあったが、こうやって自分だけしかいない場所、というものに僕はもの凄くわくわくした。日が暮れるまでそこにいて、敵なんかいないのに敵が来ないか偵察とかいって小窓から外を双眼鏡で観察した。緊急マニュアルを汚い字で作って壁に貼った。旗はどうやって掲げればいいか わからなかったので、結局入口横の壁に無理矢理ガムテープで貼りつけるというお粗末なものだった。姉が飽きて放置した人形や親に買ってもらったぬいぐるみを秘密基地に持ち込み、仲間の代わりになんてこともした。僕はここを共有するやつが欲しくてたまらなかった。

 秘密を共有したかった僕は誰でもいいからこの場所を教えたくなり、それとなく二つ年上の姉ちゃんに秘密基地のことを教えたこともあったが、案の定「ふうん」の一言で一蹴されてしまった。学校の友達はやっぱり家が遠すぎて連れてくるのも憚られた。やっぱり誰もこの場所には来てくれないのかなあと思っていた矢先、僕の願いは思わぬ形で叶うこととなる。小屋の前にイシツブテが転がっていたのだ。石が転がっているのは知っていたが、まさかそれがポケモンとはつゆ知らず。平らじゃないため椅子にもならず、その存在に触れることさえなかった。ある日小屋にいたとき、突然降ってきた雨を窓から見ていると、小屋の前に雨を嫌がってコロコロ転がっているイシツブテを発見。水が嫌いなイシツブテを助けようとすぐに小屋の中に入れた。僕は同時にやっとここを共有できるやつが現れた! と思い「大丈夫かい?」と言いながら心でガッツポーズしていた覚えがある。十五年も経った今でもそれはよく覚えていた。その嬉しさだって今も覚えている。秘密基地は僕とイシブテのものとなったのだった。
 イシツブテは僕が秘密基地から家へ帰ろうとすると、そのゴツゴツした身体に似合わない声で鳴いた。無機物のような生き物に愛着なんていう感情が湧くのは不思議な話だが、それがポケモンでもあり人間でもある。十歳になりたてだった僕は、迷わずイシツブテを自分のポケモンとし、家へ連れ帰った。

「あら、あんたの最初のポケモンはイシツブテなのね」
 母さんは帰った僕のとなりで転がるイシツブテを見ながら言う。
「山で仲良くなったんだ」
「きちんと育てるのよ。お互い、大事なパートナーになるんだからね」
「わかってるよ」
 そんなこと言われなくてもわかっている。
 僕はその頃から、イシツブテと一緒にトレーナーとして旅へ出ることを夢みた。注目のトレーナーを紹介するテレビ番組を見ながら自分もいつかこんな風に、なんて想像し、イシツブテがどんなポケモンなのか、一生懸命勉強した。姉達が遠い地方へ進学したり、僕が羨むトレーナーとして先に旅へ出たり、どんどん先に行ってしまう姿を後ろから眺めるような頃になった時には、僕もだんだんとあの「秘密基地」という場所から遠ざかっていった。あれだけ楽しかった場所も、ずっと同じことの繰り返しだと飽きてくるのだ。それはしょうがない事のように思う。それでも、とうとう旅へ出るという時まで、僕が秘密基地へ行かなくなるということはなかった。流石に毎日行かなくなっていたが、一週間に何回か、イシツブテと出会ったそこに行って時を過ごした。山でバトルの練習を積み、その休憩場所として使っていた。行く回数が減ればだんだんと秘密基地は汚くなる。掃除もしなくなり、手入れもやめた。僕が見つける前の姿みたいになった頃、僕はとうとう旅へ出る機会を得た。スクールを卒業したのだ。父は「男の子なら大冒険の一つでも夢見るもんだ。俺も昔はそうだった」と腕組みしながらうんうんと頷いていた。母は「この子ちょっと抜けてるから心配ねえ」なんて、しっかりものの姉と僕を比べ心配した。
 そんな二人に見送られながら旅へ出るその当日、僕は出発前最後だと思い秘密基地へと向かった。いつもの通り山を登り、獣道へ入り、くねっと曲がった木を目印にそこへたどり着く。慣れたものだ。家へ帰るのと同じようにそこへ行くことが出来る。誰かと共有したい、とそこへ立てかけて置いた旗は、その時には別の意味を持っていた。本当に僕とイシツブテ以外の誰にもここを知られたくない。本当の意味で、その時初めてそこは僕達の「秘密基地」となった。旗は取り外して小屋の中へしまった。中のテーブルも椅子も布団も、緊急マニュアルも双眼鏡も、使われなくなった箒も塵取りも、仲間が欲しくて持ってきた人形もぬいぐるみも、全部全部そのままにした。いつかまた帰って来たとき、ここに来て懐かしめればいいなと思った。何せここはイシツブテと出会った場所でもあるのだ。飽きてしまったとは言え、僕にとって大事な場所であることに代わりはなかった。
「次ここへ来るとき、僕と君はどうなっているだろうね」
 なんて格好つけたことを言い、僕はイシツブテと共にそこを後にする。僕の旅はそこからスタートだった。


  ◆       ◆


 人間なんて適当な生き物で、大事だと思っていても、触れていないとすっかり忘れてしまうことがある。


  ◆       ◆


「久しぶりに帰ってきて少しは変わったかと思えば、あんたはそのままだねえ」
 帰って来た息子に対し、母はそんなことを言う。こたつでぬくぬく温まりながらだらりとしている僕は、確かに昔と変わらない気もする。それでも僕はもうすっかり大人になって、いつの間にやら随分歳を取っていた。
「そりゃ僕は父さんや母さんの息子だもの。久しぶりに帰ってきても息子は息子でしょ」
「偉そうなこと言わないの」
 なんて少し嬉しそうにしながら、母さんはこたつから出て台所へと立った。何か作ってくれるのかな。母さんの作る、この近くの山で採れる山菜のスープが飲みたいなあなんて思いながら、お湯を沸かし始める母さんの後ろ姿を眺めた。久しぶりでも、変わらない光景。こうやって帰って来られる場所がまだあることは、幸せなのかもしれない。親の前でくらいだらんとした僕でいようと、僕はこたつの暖かさを満喫する。
 家の中はほとんど変わらない。懐かしい掛け時計はまだ時を刻み続けている。定時になるとゴーンと鳴り響くあの音がなくても、まだ耳で再生できる。立てかけてある家族の写真も僕が旅へ出る前のまま。テレビもこの時代になってまだ厚みのあるものを使っている。
「変わらないなあ、本当に」
 久しぶりの実家を満喫している僕だが、何故帰ってきたのかというと、しばらくぶりに姉さん達も揃って帰ってくるという話を聞いたからだった。皆家庭があるし、仕事もしている。もちろん僕だって仕事がある。家族五人勢揃いなんて本当に久しぶりのことだった。僕が旅へ出てからというもの、一度もなかったかもしれない。姉さん達も随分と変わっている。前に合ったときは随分と綺麗になっていて驚いた。僕をいじめていたいじわるな真ん中の姉が、夫の前でしおらしくする女になっていた。思わず笑ってしまって、後で二人になったとき頭を小突かれて、やっぱり姉は姉なんだと思った。家に戻ればうちの家族はみんなそのポジションへジョブチェンジ出来るのだ。素直でよろしい 。家に戻れば、僕も習って同じように息子モードへ変身出来る。
 思えば長年旅をして来て、僕も随分変わったものだ。トレーナーとして旅へ出て、ジムに挑戦したりバトルの大会に出てみたりしたものの、何年か経つころにはバトルは僕に合わないのではないかと思い始めたのだ。イシツブテもゴローンになり、それなりに強かったかななんて自負はあるけど、それだけ。トレーナーとしてずっとやっていける程その世界は甘くない。旅先で出会った育て屋さんに会ってからというもの、僕はポケモンを戦わせるのではなく育てることに夢中になった。住み込みで弟子入りしそこに転がり込み、僕は腰を落ち着けた。バトルはそれっきりまともにやっていない。ポケモン同士運動させるとか、育て屋の仕事の一貫としてはやっているだけだ。
 バトルトレーナーとして過ごしていた時間は、僕にいろいろな知識や経験をつけてくれた。何一つやって無駄だった事なんてない。夢破れた自分に恥じる事もない。僕は育て屋としてやっていくことに何の不安も感じていない。むしろそれからのことを楽しみにしているくらいだった。ゴローンに進化したあいつは、育て屋として働くこととなった僕にしっかりとついて来てくれている。その大きな体と力強さは僕の力になってくれていた。育て屋に預けられたポケモン達の世話をよくしてくれているが、何せあの力だ。最初は怪我させてしまわないか一抹の不安もあったが、やらせてみれば、僕の師匠もゴローンを見て「お前より役に立つんじゃないか?」なんて言っているし、僕も同意見。任せて間違いないのは明らかだった。
 育て屋の仕事は、思ったよりも僕に合っている。ポケモンの機嫌をとったりしつけたり、身体を鍛えてみたり体調を管理したり、一見その地味ともいえるような仕事だけど結構大変だ。ポケモンがすくすくと丈夫に、迎えにきたご主人が喜ぶように育てるのはなかなかやりがいがある。
 そうやってせっせと育て屋に精を出していたおかげか、僕は育て屋十一年目にして独立の話がもらえた。
「まだ物足りない部分もあるが、お前はよく勉強しよく働いている。そろそろ自分一人で歩き出してもいいんじゃないのか? 正直俺が教えられることはもうほとんどないんだ。後はお前が一人で気づけ。そこからだっさい育て屋になるか、かっこいい育て屋になれるかはお前次第だ」
 師匠からそう言われ、自分でも随分考えた。僕に足りない部分ってなんだろう。それに一人でなんて、僕は大丈夫なのか? と、育て屋としての不安も初めて芽生えた。何かクレームがついても、ミスをしても、師匠がいれば今まではなんとかなっていたのだ。そういうことも含め、全部を一人でやらなければならない。
「お前ならやれるさ。それとも何か? お前は俺の見立てに不安があるのか? 俺だぞ? この俺にそう言ってもらえてるんだから自信もて」
 師匠のその自信家なところが羨ましい。ポジティブな僕でもなかなか独り立ちすることにはすぐ踏み切れない。結局そうやって迷ったまま、家族全員が揃うという稀有なイベントが訪れたのだ。
「久しく帰ってなかったので、顔見せに行ってこようと思います。家族全員揃うみたいですし」
「そうだな。育て屋として、お前の初代師匠にたまには挨拶してこい」
「僕を育てた両親だから初代師匠って言ってるんですか? 師匠、それうまいこと言えてるみたいで全然言えてないですよ」
「うっせ! さっさと行って来い!」
 師匠は自分の言葉に酔う癖があるのだ。この辺は見習わないでいきたい。
 かくして休暇をもらった僕は、こうして久しぶりの故郷を訪れている。前に来たのは一番上の姉が結婚するということで、婚約者を家に連れてきた時だ。一番上の姉さんは僕にやさしく、凄く綺麗だったから、その夫になるやつの顔をどうしても拝みたいと思って家に帰ったのだ。それ以来帰っていないから、もう何年も前のことになる。僕が育て屋見習いとして数年、駆け出しの頃だ。両親には育て屋をやる、とだけ言ってから何も話していないので、近況報告という意味でも今回の帰省は意味があった。電話で連絡を取ってはいても、やはり顔を合わせるのとは違う。
「姉さん達はいつ帰ってくるの?」
 台所で何かを作っている母の背中に僕は話しかける。
「夜になるって言っていたわ。お父さんも帰ってくるのは夜だし、あんたが早すぎるのよ」
 トントントン、とリズミカルな音。これも懐かしい。
 じゃあ夜までは暇なのかなあ、とごろんと横になる。家の天井が目に入った。色もそのまんまだ。まあ随分と久しぶりだ。夜までどうしよう。家で一眠りするというのもありだなあ。故郷には他に会いたい人もいないしな。ゴローンを外で遊ばせるのもいい、かなあ。うん。そうしよう。そういえばここに来てからゴローンを外に出してやっていない。長旅させておいて僕は何をやっているんだ。育て屋のくせに情けないなと思いながら、「ちょっと外出てくるねー!」と母さんに一声かけ、大きな引き戸の扉をガラリとあけた。
 綺麗に手入れされた緑の庭を横目に、家を出てすぐ前の道路でモンスターボールを出し、そのスイッチを押す。ゴローンが出てきて、うーん! と伸びをした。その体で伸びなんてする意味あるのか? といつも思う。
「久しぶりだろ、この辺」
 ゴローンも久しぶりの僕の実家に笑顔を見せた。後で母さんに合わせよう。こいつが僕以外に一番懐いていたのは母さんだからな。
 はしゃぎ回るゴローンを見ながら、さあこれからどうするかねと、僕も体を回したり伸ばしたりする。別段やることもないなあと、体を思いっきり後ろに逸らしたところで僕目には上下逆さまの山が目に入った。山。そうだ。やることならあるじゃないか。何で思いつかなかったんだというか、何で今の今まで忘れていたのだろう。旅に出る前、「次ここへ来たときはどうなっていただろうね」なんて師匠みたいに恰好つけたことを言ったはずなのに。
「ゴローン! 秘密基地だ! 秘密基地へ行こう!」
 僕は早くあそこに行きたくて仕方なくて、まるであそこを見つけたときみたいに嬉しくなって走り出した。家の裏山へ入っていく。ゴローンはその巨体で上り坂をすいすい上っていく。昔と変わらない。一緒に秘密基地へとかけていた頃を思い出した。あのときのわくわくした気持ちが甦ってくる。暑い夏、青々とした緑の葉っぱ。立派な木。急な登り坂。ずっと変わらない獣道。どの辺で木の根っこが飛び出しているのかもなんとなく覚えていて、ぴょんぴょん飛び越える。ゴローンは問答無用で転がっていく。目印のくねっと曲がった木も昔のままだった。あれだ、あの横にある。僕は気を更に高ぶらせて走った。

◆      ◆


 変わらないものもあれば、変わるものもある。変わっていたのは僕達だけではなかった。思えば当たり前の話だ。僕が見つけて、ずっと遊んでいたその場所。思い出の場所は、随分と酷い状態になっていた。何があったのだろう。ロマンで溢れていたその場所は、秘密基地と呼ぶには難しい、随分とボロボロな場所になっている。心なしか斜めに傾いている気がするし、壁の板が何枚か剥がれている。屋根も穴が開いているし、そもそもドアがない。あれじゃ隙間風なんてレベルじゃないだろう。中で過ごすなんて無理だ。誰だ僕の秘密基地をこんな風にしたやつは。
 ゴローンも茫然とその元秘密基地を眺めている。自分の知っている場所と違う、そう言いたげに。
「ま、まあ一応、入ってみよう」
 ゴローンをぽんと叩いて、僕達は歩き出す。中を見るのが少し怖い気がした。けれども中がどうなっているのか、そっちの方が上回る。ゆっくりと、ドアあった場所にそっと立ってみたとき、僕はボロボロになった小屋の外観を見たときより、さらに唖然とした。まるでここだけ時間が停止している。変わらないものもあれば、変わるものもある。それはもちろんそうだが、それにしたって不自然だった。僕がこの小屋で遊んでいた頃みたいに、掃除する必要なんてまったくない。小屋の中の物にどれもこれも見覚えがあって、これら全部を掃除して捨ててしまおうなんて到底思えなかった。椅子替わりの平らな石。家から持ってきた折りたたみ式のテーブル。その上に置いてあるレンズが汚れていそうな双眼鏡。流石に汚くなっているが綺麗に敷かれている布団。そしてなにより、黒ずんではいるが、まだぎりぎり「秘密基地」という文字の読めるお粗末な旗。旅へ出るとき、僕がとりはずして小屋の中に入れておいたものだ。小屋の外側はあんな状態なのに、中はしっかり保存されている。誰かが手を入れているとしか思えないが、思い当たる人はいない、そんなはずはない。ここは僕とゴローンだけのものだったのだ。おかしいおかしい、と小屋の中をもう一度見渡したところで、僕は一つだけ昔にはなかったものを発見した。あんなぬいぐるみを持っていた記憶はない。黒いそれは壁に寄りかかり、だらんとしている。確かに僕はあれを持っていなかったけど、僕はそれを知っていた。旅をしていて学んだ知識は、大いに役立ってくれる。しかしその知識は、僕に罪の意識さえ与えた。隅っこでちょこんで寄りかかっているのは、ジュペッタだった。その隣にある人形は、姉さんが飽きて遊ばなくなったのでもらったやつだ。ということはやっぱり、あのぬいぐるみは僕のもの。小さい頃家で抱いて歩いていたやつだ。
 ゴローンを外に待たせたまま、僕は小屋の中へ足を踏み入れた。久しぶりなのに、まったく懐かしさを感じられない。ぼうっと前を見つめるジュペッタに近づくのが怖かった。
 捨てられたぬいぐるみに怨念が籠り、ぬいぐるみはジュペッタとなる。本来ならばジュペッタになったぬいぐるみは自分を捨てた子どもを探すと言われているが、こいつは僕を探さずこんなところにいる。
 君はこんなところで何を……。
 ボロボロの小屋、僕が置いていったものはどれもこれもそのまま。その中に、ジュペッタとなった僕のぬいぐるみがいる。そのジュペッタの口のチャックは壊れていて、もう閉まらなくなっていた。だらしなく開いた口から少しずつのろいのエネルギーが漏れ続ける。ジュペッタというポケモンは、ずっと口を開けていてはいけないのだ。よく見れば耳は半分ちぎれていて、身体も破れて中から黒い綿のようなものが飛び出ている。僕は恐る怖るその口を閉めたが、もう口は閉まらない。チャックを右にしても左にしても、それは変わらない。
「そんな、閉まれ、閉まってくれよ」
 ジィ、という音は、何も変えてはくれない。

 ジュペッタは、ずっと待っていてくれていた。
 ゆっくりとジュペッタに近づいていき、片膝立ちになってその身体を抱いて、何が起こったのか想像した。
 この山に住むポケモン達がこの小屋に住みつこうとして、ジュペッタが守ろうとしてくれたのかもしれない。周りに住んでいる子ども達がここ使おうとして、暴れたのかもしれない。荒れた天候の中、なんとか小屋を守り抜いたのかもしれない。何にせよ、この秘密基地に僕とゴローン以外のやつが争うとしたり踏み込んできそうになったから、それを阻止したのだろう。小屋がボロボロになっているのはきっとそのためだ。
 僕は思わず汚い字で書かれた緊急マニュアルが貼ってある方を振り向く。たしかにまだそこには僕が作ったものが貼ってあった。イシツブテと仲良くなってから、そこに無理矢理付け足して書いた、「僕とゴローン以外のものがここに足を踏み入る事を禁ずる」の欄がしっかり残っていた。
「ごめんよ……僕が、なかなか戻ってこないばかりに」
 僕の言葉にようやく反応を見せたジュペッタは、そのボロボロの顔をこちらへ向け、にこりと笑った。僕は思わず、震える両手でその体を持ち上げて抱きしめた。その感触は、変わってしまっても僕が昔抱きしめていたものと同じだった。忘れていた。僕はずっと、忘れていたのだ。
 最早力さえ入らないのか、ジュペッタはぬいぐるみだったころと同じようにただ僕に抱きしめられる。そんな中、わずかに動いた腕が僕の身体を触る。音になったかわからないような小さい声で、ジュペッタは小さく一鳴きすると、それっきり、動かなくなった。


 ◆      ◆


 僕は育て屋として一人でやっていくことに不安を感じていた。それは育て屋として師匠の手を借りずにやっていけるかどうかの話だと思っていたが、どうやら違ったのかもしれない。僕にはまだ足りない部分がきっとあったのだ。ジュペッタの最後のあの表情を見て、僕は自分の中で足りなかったものが分かった気がした。
 僕はポケモンが好きで、ポケモンを育てるのが好きだから育て屋をやっている。それは別に悪いことでもなんでもない。けれど、僕はずっとお客様のポケモンをお客様が喜ぶように育てる事に必死だった。ポケモンが良い最期を迎えられるようになんて、今まで考えたこともなかった。確かに育て屋としてポケモンの育成や客とのやりとりを覚えることは重要かもしれないが、きっと育て屋は商売根性だけでやっていける職業じゃない。預けたまま戻って来ない人もいるのだ。もっともっとポケモンの側になって考えていかないといけない。僕はまだまだ半人前だ。


◆      ◆

 
「師匠、僕一人でやってみますよ。自分の考え方が合っているのかどうか、自分で確かめたいです」
 家族への挨拶もそこそこにすぐに家を飛び出して師匠のところへ戻ると、僕はすぐにそう口にした。
 育て小屋の後ろに広がる緑の広場で喧嘩するコラッタ二匹を掴み、「おらお前らあんまり喧嘩すんな」と呟く師匠は、僕の方を振り向くとニヤりと笑った。
「育て屋立ち上げには少し協力してやるから、とりあえず今日はうちを手伝え。このコラッタ達俺よりお前のに懐いてんだよ。面倒みろ」
 しょうがないな師匠は。
「わかりました。ではそのコラッタ達は僕の育て屋で引き取りますよ」
「あほかお前、預けた客はここに迎えに来るんだぞ」
「ポケモンセンターにあるような、ポケモンを送れる機械を導入しましょう。そうすれば大丈夫です」
「だからあほなのかお前は。まったく一人立ちはまだ早いか? あの機械いくらすると思ってるんだ」
 僕は意外と真面目にそれを考えていた。師匠の育て屋か僕の育て屋、どちらか合う方に居てもらった方がいいんじゃないかな。
「師匠のところと僕のところで、ポケモンにとって居心地がいい場所に居てもらうというのはどうですか?」
「なめんなよ馬鹿弟子。お前俺と並んだつもりか? 百年はええぞ」
 師匠はそう言うと大きな身体で僕の方に近づいてきて、コラッタ二匹をずい、と僕へ預ける。
「まだお前が面倒を見られるのはお前が目の届く範囲のポケモン達だけだ。あんまり急ごうとするな。ゆっくりやれ」
 僕はコラッタ達を両手で抱えながら、たしかにそうかなと思った。
 いけないいけない。急いじゃだめだ。
 育て屋として、急ぐというのは一番いけないことだった。早く一人前になりたいと修業に励み、ポケモンを「育てる」ということに一生懸命で、僕はジュペッタの可能性に、ポケモンの最期に気付けなかったのだ。同じことは繰り返せない。
「こらこらお前ら、僕の手の中で喧嘩すんな」
 育て屋っていうのは難しい。でも、やりがいはある。
 喧嘩するコラッタ達をなだめながら、僕は改めてそう思った。


早蕨 ( 2013/05/14(火) 21:21 )