デリバードからのプレゼント
雲間
 ビルの屋上のフェンスにもたれかかりながら、たくさんの人が行き交う姿を見下ろしていた。公園の滑り台の下をウロウロしている蟻達のように、僕の見下ろす先には人間やポケモン達がいる。ヤマブキシティに住む人達は、皆忙しそうだ。毎日毎日せかせかと町をかけまわっている。そんな様子を見ていると、こっちまで疲れてしまい、ため息をつきたくなって、ふう、と息を吐く。漏れたのは息だけか。あとは、なんだろうな。そんな風に、なにとなく空を見上げる。地上を窮屈にする薄暗い灰色の雲が、町を覆っていた。
 静かで、何もない。この町にお似合いな車のエンジン音と風の音だけが聞こえる。それでも、この町の風はやはり少しだけ急いでいるようだ。まったく。もうやめてくれ。僕は急ぎたくない。
 でも急がないと、取り残される。その言葉通り、変わり行くこの町に取り残された僕と一緒にいる人など、いなかった。
 ここにいるのは僕だけだ。
 ヤマブキシティに並び立つビルのうち、目に入った非常階段を上りこの屋上まで来た。ここは下とは違っていた。静かだ。下よりも少しだけ、時間の進みが遅いよう。鳥ポケモン達も下より上がいいようだ。僕の隣で、フェンスに止まって鳴いている。
 この町は、曇り空がよく似合う。時折雲の間からさす日の光を求めて、みんな日々を過ごし続ける。いつその雲から雨が溢れだしてもおかしくはない。そんな張りつめた感じが、この町に似ている。
僕はもう、曇り空とはやっていけそうになかった。
 このままふっとフェンスから落ちてもいいような気がした。急降下する体が受ける重力が、僕の全てをぶちまけてくれる気がする。なんだかなあ。どうでもよくなって、ふっとフェンスを乗り越えようとしたところで、もう一度忙しい町の姿が視界に入る。はいはい。皆様ご苦労様です。僕はもういいです。
そんな投げやりな気持ちで、あともう少しで落ちようかというところで、僕は一匹のポケモンを見つけた。
 いそがしく駆け回る人達の中で、ピョコピョコと跳ね続けている。ううん、なんだ? なんだあれ? 遠目だとわかり辛い。あまりにも気になって、フェンスを乗り越えかけた体を戻し、僕は走った。この町で、僕みたいに取り残されたやつがいる。ピョコピョコと、それを気にすることもなく陽気に跳ね続けている。なんだそれ。凄い。さっきまでの、屋上から落っこちてしまおうなんていう考えはどこかに吹っ飛んだ。コンカンキンコンカン! 非常階段を駆け下りる。リズム良く、一段飛ばし。何故だか僕は急いでいた。少し目を離すといなくなってしまうのではないかと思ったからだ。下まで降り切り、見下ろしていた大通りへと走る。人をかきわけ、車道を横切り、右へ折れる。さっき見ていたのはこの辺だ。この辺に……。あ。
「いた」
 無意識に口から言葉が漏れた。忙しい町の中で、陽気に跳ねるやつ。空を仰いで、誰かに手をふっているかのよう。そんな姿を見ていると、ポツンと、突然、僕の頭がひんやりとしたものを感じた。はっと上を見上げると、それはどんどん落ちてくる。ポツンポツン。雲が我慢できなくなったみたいだ。全てをぶちまけ、どうでもよくなったように。
 途端に雨は、強くなっていく。僕はぼうっとその場に立ち尽くす。周りを歩く人は傘を差し、さっきと同じように歩き続ける。そんな中でも、そいつはまだ空を仰いではねていた。さっきよりも跳ねる高さが高い。水をあふれさせた雲を見ながら、ただ喜んでいた。誰にとらわれることもなく、気の向くままに。そんなポケモン、ニョロトノに僕は釘づけ。溢れだした水に打たれながら、僕は思った。
 そろそろ、立ち止まってみようと。


◆      ◆


「道也さん。嫌そうでしたね、凄く」
同僚にそう言われた。この前、シオンタウンのポケモンタワー頂上で、カラカラのお母さんを殺したときのことだ。きっとこいつには、そう見えたのだろう。
「誰のせいだと思っているの」
 そう言って、雨宿りのため入ったポケモンセンターのロビーで、その角のソファーに座りながら、濡れた頭をタオルで拭う。
「へへ、すいません」
 少しも申し訳なさそうな様子も見せず、その短髪の頭を掻く。蹴っ飛ばしてやろうかと思った。誰のおかげで僕があんなことをするはめになったと思っているんだ。
「なに笑ってんの」
「いやあ、あんなに嫌そうな顔をしながらも、一瞬であのガラガラをやっちまうなんて、流石だなあと思っていたところですよ。俺達じゃあ全然歯が立ちませんでしたからねえ」
「殺すつもりはなかったんだ。それに、あんなことが出来たって、本当は何にもならない」
「いえいえ、そんなことありませんよ。その力で、幹部にまでなるんですから」
「幹部ねえ」
 僕はまたふう、とため息をついて天井を見上げた。無機質で、冷たい。そこにはなにもない。僕の力も、何の意味もない。壊してばっかりで、僕は何やってるんだ?
「幹部とか、興味ない」
 上を向きながら、呟く。ほとんど、無意識に漏れていたと思う。
「……言うと思っていましたよ。まったく、もったいないですね。そんなに強いのに」
「強いだけだよ」
「それが凄いんじゃないですか」
 ボスの「強さ」に憧れてここ入り今までやってきたけど、カラカラのお母さんの方が、僕よりも強かったと思う。僕は負けたんだ。あのカラカラのお母さんは、カラカラを守ったんだ。僕はあの瞬間に、一瞬で冷めてしまった。今まで積み重ねてきたことが、一瞬で崩れた。あれ、僕なにやってたんだって、記憶喪失の少年みたいに、今までのことが全部夢みたいで、ぼんやりしていて、無為な気がした。
「僕、抜けるよ。もう、抜けるから」
「え? 何言ってるんですか。今から総仕上げってとこですよ? このカントーの中心、ヤマブキシティを乗っ取って、さらに僕達の名が知れて、一気に乗っ取るんじゃないですか」
「それをこんなところで、いくらもうすぐ作戦が始まると言っても、町の人達が聞こえるようなところで、お前みたいな下っ端が喋っちゃうあたり、先は長くないよ。多分ね」
 今までの僕に向けた、皮肉のつもりだった。
 でも、ボスならなんでもやってしまいそうな気がするのも事実。あの人は怖い。
 もうすぐにでもこの町は、うちの団員だらけになるだろう。既に始まっているゲートの封鎖をさらに強め、シルフを乗っ取り、軍事産業や科学技術をこちらに流すよう迫る。あまりにも強引だけど、その強引なやり方を押し通せるほどに、準備は整えてきた。あちこちを駆け回り、息をかけ、名を知らしめた。やれてしまう気がするのが、怖い。
「僕はもういいよ。リタイヤだ」
「バカですか道也さん」
「バカだよ。僕もお前も、みんなみんな、バカだ」
 精一杯、語気を強めて言った。僕はゆらりと立ち上がり、ふらつく足取りで、ポケモンセンターを後にする。ついてくる者は、誰もいなかった。どうせ嘘だとでも思っているのだろう。嘘じゃないぞ。僕はもうやめるんだ。

 カラカラのお母さんの、鋭いけど、子どもを守ろうというあたたかかったあの視線が、僕にいつまでもとりついている。謝ろうなんて、そんなこと思わない。僕に謝られたら、みんな、やっていられないと思う。今更、謝れない。僕はもう引き返せもしないし、先にも進めない。あのとき、僕を零にしたあの視線が、僕をずっと締め付ける。ここをどちらに抜け出しても、本当の意味ではもう抜け出せないよと、僕を縛り続ける。
 それでも僕は、もうここにはいたくなかった。
 ニョロトノの、あの嬉しそうな姿に憧れた自分が出てきそうになると、カラカラのお母さんに引き止められる。ふざけるなって、縛られる。首ねっこをつかまれて、抵抗できない、ものすごい力がかかる。陽気に飛んでいるニョロトノを思い浮かべながら、僕はそこから動けない。だから、僕は立ち止まるしかない。進めないし、戻れない。
 僕はもう、何もかもが嫌になっていた。


◆      ◆


 抜け出せば、なんということはない。雨があがった曇り空の中、自分と違う世界で歩いている人達をかき分けながらヤマブキシティを南下する。僕一人で歩き続ける。ついてくる人は誰もいない。僕のポケモン達も、逃がしてあげようかと思う。ラッタと、ニョロボン。昔から僕と一緒にいたこの二匹にも、嫌なことをさせてしまった。僕の言うことだからと、今までやってくれた。よくない。僕と一緒にいるのはよくない。そこまで考えて、僕は、自分が一人になりたいからこの二匹を逃がそうとしているのだと思った。こいつらのことを考えているわけじゃない。僕のために、逃がそうとした。
「嫌なやつ」
 自分に向かって呟く。あとで、聞いてみよう。まだ、僕と一緒に来る? と。
「……あ、今は通行禁止ですよ」
 周りも見ずぼうっと歩いてきたおかげで、ゲートまで辿りついたことに気付かなかった。ふっと、我に返ったかのように周りの風景が一気に広がる。
 一度立ち止まり、警備員をじっと見つめた。この人も、組織の者だ。無理矢理にでも通ろうとしたら、すぐに手が出るだろう。
「通るよ。通りたいんだから」
「ダメですよ。今は出るのも禁止なんです。あと数日で封鎖が解けますから、それまで待ってください」
 無視して通過だ。僕は警備員を尻目に歩き出す。三歩歩くと、ゲートのカウンターから手が伸びてくる。すぐにガシとつかまれた。ほうら来た。
「駄目だと言っているでしょ?」
 殴り飛ばしそうになるけれど、僕はポケットの中のものを思い出す。支部に入るときのカードキーが、まだサイフの中に入ってる。そんなところに入れるな、とよく怒られていた。
「なんですか? それ」
 後ろのポケットに入っていたサイフを引き抜き、中からカードキーを出して、警備員に差し出す。僕をつかんでいない左手でそれを受け取ると、すっと右手が離れた。
「あ、その、す、すいません!」
 カードキーを使う部屋は、上位の者しか入れない。
「通るよ」
「も、申し訳ありませんでした!」
 アホ。こんなところでそんなでかい声を出すなよ。どう見ても不自然だ。やる気あんのか。慌てた様子でカードキーを返してくるものの、僕はそれを断った。それはもういらない。
「君が幹部をやればいい」
 え? え? と戸惑いっぱなしの元部下を置いて、僕はゲートを通過する。
 開ける風景。見知った土地。ヤマブキシティの南に位置するここは、僕の故郷だった。だった、というのは、僕が十四のときこの町を飛び出したからだ。それ以来帰っていない。ボスに惹かれ、あの組織に入ることにして、両親にそれを話し、勘当同然で家を飛び出した。あの頃はまだ何もわかっていなかった。組織もまだそれほど大きいものではなかったし、弟子になる感覚だった。人の言うことなど、何も聞かなかった。あれから十年経ったけれど、母さんも父さんも、元気にしているだろうか。
 僕に故郷を懐かしむ資格なんてあるかな、と、草むらの間を歩いていく。クチバに入る前のこの六番道路も僕の故郷で、遊び場だった。草むらが生い茂っており、小さなポケモン達ばかりのこの場所は、町の子ども達の恰好の遊び場だ。たまにラッタなど、少しサイズの大きいポケモンが飛び出してくると、皆でキャーキャー言いながら逃げたものだ。ラッタも荒々しく僕らを襲ってこようなんてことはしなかった。僕らがそこを、ほかのポケモン達と遊んでいるだけだと知っていたからだ。思い出すと、途端に入ってみたくなる。舗装された道からはずれ、草むらに入ってみる。途端にポケモンが見つかる。ビードルだ。ただの、ビードルだ。わくわくなんて、しなかった。昔はビードル一匹で騒げたのに、今はのんきにこちらにも気付いていない様子のこいつに、なんの感慨も覚えない。草むらも、こんなに低くはなかった。
「あ、ビードル!」
 過去の自分と今の自分はこれほど違うのかと心の底からがっかりしていると、横から急に飛び出してきた少年が、ビードルを見て叫び出した。短パンで、半そでで、短髪。ポケモンを目の前に大声をあげる姿に、昔を見た気がした。
「君、トレーナーなの?」
「うん! この前やっと十歳になったんだ!」
 見知らぬ人にも物怖じせずに元気よく喋ってくる。
「このビードル、僕が捕まえたいんだけど、いいよね?」
「いいよ。きっとこのビードルも、僕に捕まるくらいだったら、君に捕まりたいだろうし」
「え?」
 どういう意味? とでも言いたげな少年の頭をポンポンと叩いて、僕はその場を後にする。草むらを出て、道に戻る。「あー! いない!」と、また大声。当たり前だよ。そんな声を近くで出されたら、びっくりして逃げちゃうに決まっている。がさがさと、少年の足音が遠ざかっていった。ふふ、と、つい笑ってしまう。手伝ってあげればよかったかな、と一瞬考えたけれど、初めてなんだから、一人で捕まえてみたいはずだ。僕だって、そうだったんだから。
 そういえば、僕が初めてポケモンを捕まえたときは、隣に住む女の子が一緒に居てくれた。いつも遊んでいて、僕がトレーナーになったときも、ポケモンを捕まえようと一緒にその草むらに入った。いつもの遊び場だったから、どこに何がいるかなんて覚えていて、「ねえ、コラッタを捕まえてよ」「えー、やだよ」なんて会話をしていたけど、彼女の一言で僕はコラッタを捕まえようと決めた。「わたし、ラッタってかわいいし強いし、好きなんだけどな」その一言が僕に対して言われたわけじゃないのに、なんだか嬉しいのと、捕まえたらその子が喜んでくれるのだろうと思って、すぐに捕まえた。父さんに借りたポケモンは頼もしくて、強かった。
「あのときのコラッタが、今ではあんな強いんだもんなあ」
 そう思うと、今度は感慨深い。あの子に見せたらなんて言うだろう。……なんて、見せられるわけがない。今の僕は、あの子に会っちゃだめだ。ラッタだけならいいんだけど、僕とラッタが一緒にいたら、しかもその僕がただの馬鹿だなんて。そんなの、ラッタにもあの子にも申し訳ない。
「だったらなんで僕はクチバに来たんだよ」
 ぶらぶらと歩いている間に、クチバシティについてしまった。潮風が漂う、爽やかな空気が少しだけ懐かしい。少し歩いて左手を見てみると、まだ何かを建てようと工事をしている。僕がいたころは、ワンリキーが地ならしをしていた。いつまでやっているんだろう……。
 ポケモンだいすきクラブの建物も、昔と変わらない。看板が新しくなっているようだけど、それ以外は一緒だ。
クチバジムにディグダの穴。僕が小さいころにサントアンヌが年に数回とまっていた港。僕達の第二の遊び場だった、ポケモン勝負をするトレーナー達が集まる11番道路。飛び出してきただけに、なんだか気まずくてずっと避けてきたけれど、帰ってきてみればなんということもない。ここはまだ、僕が住んでいた町だ。
なにとなく帰って来てしまったけれど、きっと僕は実家に帰りたいんだろう。父さんと母さんの顔を、今更だけどもう一度見たい。僕の足は自然と実家の方へ向いた。クチバへ入ってすぐの路地を右に曲がった二軒目だ。つりのオヤジさんが隣に住んでいたはずだ。今もいるのかな。足取りが自然と軽やかになる。ガラガラのことも、ニョロトノのことも忘れていた。二十五にもなって、実家に帰ることが嬉しかった。


◆      ◆


「あら、お帰りなさい」
僕は、母のその言葉に耐えられなかった。前掛けのエプロンで手を拭きながら、玄関に立つ僕にそう告げた母の姿。眩しすぎて、まともに返事もできない。何年もの空白なんてなかったかのようなその言葉に、感じていた懐かしさも吹っ飛び、玄関に上がることさえままらなかった。
「どうしたの? 上がらないの?」
「あ……いや、いいんだ。今更だけど、久々に、どうしてるかなって、心配になっただけだから」
「どうしてよう。少しくらい上がって行ったらどう? 疲れてるんじゃないの? ちゃんと食べてるの? お父さんだって、もう何も言わないわよ、きっと」
 母さんの言葉に、僕はさらに言葉を失ってしまう。組織のことなんかまったく聞かず、ただ僕の帰りを喜ぶ母さんを見ていられない。違うんだ。違うんだよ母さん。
「母さん、僕、やめたんだ。R団もう、やってない」
 母に全ての許しを請うように、僕は頭を下げて言った。母に言うことで、なんだか少しだけ救われる気がするけど、そんな自分がまた嫌だ。いつまで経ってもガキみたい。僕は結局子どもの頃と少しも変わっちゃいないのかもしれない。
「いいのよ、そんなこと。とりあえず、こうやって帰ってきてくれたんだから。今はそれだけでいいの」
 ごめんなさい。と口に出かけて、それを言うことはできなかった。僕はそれを言っちゃいけないんだ。許されようと、甘えてはいけない、
「ごめん、ちょっと急いでいるんだ。少し顔を見に来ただけだから。また、来るよ」
 それだけ告げて、逃げるように僕は家を後にする。もういられない。僕はあの家には帰れない。R団の幹部になりかけた息子なんて、知ってほしくないし申し訳なかった。十年前、父さんが怒り狂った意味が今ならわかる。
 母さんは僕を追っては来なかった。代わりに、玄関から顔を出して、「またね」と言った。「またね」と返すことしか、僕には出来なかった。
途端に、クチバシティが知らない町に思える。もう僕がいていい町ではない。僕がガラガラにしたこと、今までしてきたことは、それくらいのことなのだ。のうのうと故郷に帰れるはずがない。
 家を出て、僕は再び彷徨う。懐かしさなど消え失せた。未練さえ持てない。あまりにも、ふわふわしている。そんな僕の視界に、一つの表札が目に入った。いや、無意識だったのかもしれない。昔、家を出たらいつもこうやってこの家を見ていた。その習慣を、思い出したのかも。
 表札には、「柿本」と書いてある。柿本みさき。僕の隣に住んでいた女の子だ。今もまだここに住んでいるのだろうか。僕と同い年だから、流石にもう、いないのかもしれない。
 そういえば、僕がこの町を出たときも、みーちゃんだけは僕の味方をしてくれた。「悪いことはしちゃだめだよ。約束。それが守れるなら、道也のやりたいようにやってみなよ」って。
 全然守れていない。悪いことをしてばかりだ。どうしてこうなったのかなあ。
 僕がボスのところに行ったのは、みーちゃんに認めてもらいたかったということもあったのだ。強くなれば、認めてくれるのかもって思っていた。僕はみーちゃんのことが好きだったのだ。結局、何も伝えることはなくて、そのまま町を飛び出して、結局こんなことになってしまった。今の僕には、何も言えない。
 やっぱり、もう何もすることはない。彷徨い歩くしかないのだ。僕はふらふらと足を進める。この町ともおさらばかな、と来た場所からクチバを出ようとしたとき、ヤマブキのビルが目に入った。そうだ、あそこは今や組織の人間でいっぱいだ。既に乗っ取りが始まっているに違いない。僕がヤマブキのポケモンセンターを出てきてから随分経っている。
 ボスは、僕がいなくなったくらいで、計画を遅らせるようなことはしない。いまごろ町はめちゃくちゃだ。
 いろいろな人に、迷惑がかかるんだろうな。そんなことを考えられるようになったのは、最近だ。強さばかりを求め、僕はボスの魔力に酔っていた。あの絶対的なカリスマと強さの前にひれ伏していた。
 でも、今は違う。ガラガラの視線と、みーちゃんとの約束。両親と、僕が今まで迷惑をかけてきた人々――。
 けじめをつけるのは、今なのかもしれない。身に着けた強さを使うのは、ここなのかもしれない。僕は自然と、ヤマブキの方へ歩き出していた。ふわふわしていた気持ちが、落ち着いてく。
 僕は、強さと憧れの象徴だったボスに、初めての反抗を決めた。今までの自分を否定し、今更すぎるけじめをつけるために。
 一度立ち止まり、腰のモンスターボールに手をかけ、そのスイッチを押す。中からは、コラッタとニョロボンが現れる。
「ごめん。こんな僕の言うことを、あと一度だけ、聞いてくれないか?」
 そう言う僕の顔を見て、何かを悟ってくれたのだろうか。二匹は僕が眺めるその先へ、歩いてくれる。ありがとう。僕は心の中で呟き、二匹の間を歩く。
 このけじめがついたら、あの自由奔放なニョロトノに少しだけ近づけて、心の底から喜びを表し、心の底から謝って、心の底から気持ちを伝えられるだろうか。
 なんて、虫がよすぎるのかもしれない。
 でも、僕はこのけじめをつけることで何かが変わる気がする。僕のこれからやるべき事が、見つかるかもしれない。
「僕に、どこまで出来るかな」
 ヤマブキシティまではかなり距離がある。もう夕方だ。普通にあるいていたら、シルフに着くのは夜遅くになってしまう。完全にのっとられてからじゃ遅い。
 クチバを出るところまで歩き、「走ろうか」と二匹に目配せし、地面を蹴ろうとしたところで、「待って!」という声が僕の足を止めた。
 母さんか? と一瞬頭をよぎるが、声の主はもっと若い。僕は振り向き、その姿に思わず震え、「あっ」と言葉を漏らした。
「道也、帰ってきたのに、なんですぐに行っちゃううのよ」
 背が、伸びている。ふわとした白のスカートと、淡い色のカーディガン。薄い茶色のセミロング。僕が大きくなったように、みーちゃんも、大人になったんだな。
「みーちゃん……でも、どうして僕が帰ってきたってこと……」
「あなたのお母さんに教えてもらったの。ねえ、道也、またどこかに行くの? もう、帰ってきたんじゃないの?」
「帰ってきたけど、今の僕にはもう居られないよ。みーちゃんとの約束も破っちゃったし」
 気持ちが揺らいだ。僕がこのままみーちゃんのところに駆け寄っていいはずがないのに、走りたい衝動にかられた。
「じゃあ、いつ、大丈夫になるの?」
「これから、けじめをつけてくるんだ。そうしたら、何かが変わるかもしれないから、そうしたら、また来るよ」
「本当に?」
「本当さ」
 じゃあ、待ってる。みーちゃんはそう言ってくれた。戻ったところで、またすぐに出ていくかもしれない。裏切り者として、殺されることもありえる。
「またずっと来なかったら、行くからね。こっちから、行くから」
「わかった」
 みーちゃんだけが、昔のままのような気がした。十年前と同じように、僕に声をかけてくれる。こんな僕のために、十年も待っていてくれた。いや、そんなの思い上がりすぎか。気にかけていてくれた、だ。
「じゃあ、行ってくる」
 あの時、クチバシティを飛び出したときと同じように、僕はみーちゃんに笑いかけてから走り出した。「いってらっしゃい」の声が、昔のみーちゃんを思い出させる。
 あの時から、随分と時間が経った。十年間、馬鹿なことをしてきた僕でも、やっと気づけた。そして十年前と同じ光景。クチバから出る僕と、送り出してくれるみーちゃん。もう一度チャンスを与えられたよう。今度は間違えない。
 僕はクチバシティを後にし、強く強く、地面を蹴った。


◆      ◆


 裏切り者の粛清は、徹底されてきた。抜けた時点で、なんらかの形で襲われる。その覚悟はできている。どの道僕は戦うことになるんだ。
ヤマブキシティに入った瞬間から戦闘になることを覚悟し、気合いを入れてゲートをくぐった。わざわざふいをついてゲートを守る警備員を倒し、侵入した。
「なにこれ……」
 町はめちゃくちゃ。ロケット団員で町はいっぱい。なんていうことはなく、町は至って通常通り。夜も明るく、やかましいヤマブキシティがいつもと同じようにそこにあった。どこを歩いても、変わらない姿がそこにある。
「どうなってんの?」
 不思議な気持ちいっぱいのままぼうっと突っ立っていた僕をハっとさせる、一本の電話。
 携帯を取り出し、耳にあてる。
「道也さん……。あなたの言う通りになっちゃいましたよ」
 昼間の同僚だった。
「どうした? 何があった?」
「先は長くないって、言ってましたよね。その通りです」
「どういうこと?」
「作戦が始まって、一気に乗っ取って、そのすぐ後でした」
 同僚は、一旦そこで言葉を切り、息をのむような間をあけた。
「シルフにね、その辺の、どこにでもいるような少年トレーナーが現れたんですよ。それも二人。やたらめったら強くて、どんどん上に登っていって、挙句の果てに二人でバトルし始めて……。本当わけのわかんない連中ですよ。そのままその二人のうちの一人、赤いやつがボスのところまで行って、ボスを倒しちまいました。正直悪夢です。あんなのがいるなんて、悪い夢を見ているようです。この前のシオンタウンでのことも、タマムシ地下アジトに乗り込んできたやつも、その赤いやつだそうです。うちは組織も名前も半壊ですよ。こっぴどく、やられました」
 僕は、同僚がしばらく何を言っているのかわからなかった。ボスが負けた?
「お、おい、待てよ。何言ってるんだ? それは全部本当のこと?」
「はい。信じられないですけど、本当のことです。全部、そのまま、本当です」
 ぶらんと手をおろし、聳え立つシルフの方を見る。ヤマブキに立ち並ぶビル群のおかげで、シルフのビルは見えない。
 ……ボスが負けた? あのボスが? 僕の憧れだった人が? 信じられないことが、信じられないなりに、少しずつ僕の中に沁みこんでいく。この静かなヤマブキシティの理由が、わかってくる。すん、と全てが僕の中で腑に落ちたとき、「あはははははは!」と笑うしかなかった。こみあげてくる笑いが止まらない。両隣のラッタとニョロボンが、ギョっとして僕をみた。電話口では、同僚が何か驚きの声をあげている。
「ど、どうしたんですか? 道也さん?」
「どうしたもこうしたもないよ。まったく、僕は自分を強いなんて思ってたけど、それはどうやら全然違っているみたいだね。僕よりもずっと強いボスよりもさらに強いやつがいるなんて。なんだそれ、僕は全然上に登れていないじゃない。笑っちゃうよ。笑わずにはいられないよ!」
 あははははははは! なんだったんだろう。本当に、僕の十年はなんだったんだろう。強さだけを求めてやってきて、何も身についていない。いや、強さだけを求めてきたからこそ、強さが身につかなかったのかもしれない。今はそう思える。
 ここまでけじめをつけようと意気込んできたこともあって、一気に冷めてしまった。なんだよこれ。それじゃあ僕はどうすればいいんだ。
「仕方ない」
とりあえず、このままクチバに戻ることなどありえないので、僕は当初の目的通りシルフへ向かうことにした。
「道也さん! 道也さん!」
「なんだよ、うるさいなあ」
「今、うちの復活のためにはあなたが必要です。一人でも、影響力のある人がいるんです」
「知らないよ、そんなの」
「どうしてですか! あなたは!」
 同僚がその先を言う前に、僕は電話を切った。ポケットにそれをしまい、ラッタとニョロボンに「行こう」と声をかけ、僕は歩き始める。また、雨が降りそうだ。雲はもう少しで我慢できなくなる。
 シルフまでの道のりを歩きながら、僕はそのボスを倒したという赤いやつのことを考えた。僕も、倒してほしい。ポケモンバトルをして、こっぴどくやっつけてもらいたい。ラッタとニョロボンには悪いから、僕だけがポケモンにやられるだけでもいい。そうして、僕がやってきたことを咎めてほしい。どれだけ痛めつけられても文句は言わない。
 そんなことを考えながらヤマブキの町を歩く。会社帰りの人達が、昼間のようにせかせかと歩いている。この町の人は歩くスピードが速い。僕はそれに逆らうように、ゆっくりゆっくりと歩いていた。
 シルフ付近まで来ると、流石に様子が違う。ジュンサーさん達が集まり、現場検証を行っている。どうせ逃げ出したんだと思うけど、団員達はどうなったのだろう。僕が行けば、捕まるのかな。僕が団員だと、わかってくれるかな。捕まっても、それならそれでいい。僕は止まらずに足を進める。
 ふと、目の前の地面に水滴が落ちていることに気付く。次の瞬間には、僕の頭がひんやりとしたものを感じた。ポツリポツリ。ああ、また雨だ。最初はかすかなものだったが、すぐさま雨足は強くなる。すぐに周りを歩く人達は傘を差し始めるが、僕はまたずぶ濡れになりながら町を歩いた。雨に濡れても、何も洗い流せない。ただ、ずぶ濡れになるだけ。
 ――。
「あっ」
 シルフの少し手前で、見つけた。
 昼間のニョロトノ。こんな騒ぎも気にせず、ただただ空から落ちてくる水滴を喜ぶ。自由きままにピョンピョン跳ねて、他のことなんか気にする様子もない。
「はは。僕らなんて眼中にないってことかな」
 赤いやつといいニョロトノといい、まったく、うだうだ考えているのが馬鹿らしく思えてくる。うじうじして、自分がやってきたことが酷い事だからクチバへは帰れないとか、もう、そんなのやめにしたい。母は僕を待っている。みーちゃんは僕を気にかけていてくれた。父さんにだって、もう一度くらい会いたい。だったら、まずはその人達に会い、僕の言葉で伝えるべきことがあるだろう。これ以上、迷惑をかけるのはやめよう。
 それともう一つ。
「ねえ、君達は、まだ僕と一緒にいてくれるかい?」
 両側の二匹は、そんな僕の言葉など無視した。なに言ってんの? とでも言うかのように。そんな二匹に「ありがとう」とだけ伝え、二匹の間を歩き続ける。
 相変わらず、こちらには目もくれないニョロトノの前で立ち止まり、ただ整然と立ち続けているシルフのビルを一瞥し、僕らはそのまま反転した。
 まずはみーちゃんのところに行こう。ごめんと、ありがとうを伝えたい。そうしたら今度は、両親のところへ戻り、他の誰かを手助けしていきたいって、言ってみよう。
 覆水盆に返らず。僕がやってきたことはもう取り返しがつかない。このまま先へ進むしかない。
「赤いやつにも会ってみたいし、僕のやってきたことも償いたい」
 僕を零にしたガラガラの視線から逃げることなく、目を合わせ、頭を下げ、僕はもう一度だけ歩き出す。
 雨はしとしとと降り続き、僕をいつまでも濡らし続ける。雲が全ての雨を出し切るように、僕も自分の中のものを全て出したとき、やっと太陽の光が差し込む。僕がその淡い光に手を伸ばせるのは、きっと、それからの話だ。

【了】

早蕨 ( 2012/08/04(土) 14:49 )