01
その晩、空には雲ひとつなく、完璧な球体が黒い舞台のうえでひときわまばゆく輝いていた。あまり景色に頓着しないゲットウの目にも、満月は特別美しく映った。
煌々と光る月を見上げる男のわきを、ピンク色をした布地のかたまりがすり抜ける。絶妙なバランスで違和感を伴うそれは、大きなピクシーの形をしていた。通常のピクシーは耳先まで含めて一メートル程度の身長であるが、このピクシーはそれよりも五十センチ以上高く、また横幅も広い。ピクシーは前を行くピッピを追いかけているようだった。
ゲットウはピクシーを見つめた。
しかしピクシーはゲットウなど眼中にもないようで、さっさと歩を進める。巨大ピクシーがのっしのっしと向かうのは山頂にある湖だった。ゲットウもあとを追って歩き始めた。さきほど相伴にあずかったインスタントラーメンが胃の中で跳ね返る。振舞われたラーメンは、普段はもっと質のよい物を口にしているゲットウにとって汁が塩辛すぎだったし、麺は固すぎたが、なんとはなしに懐かしい思いを抱かせた。子供の頃に立ち寄った駄菓子屋。そこで買い求めた菓子の味に似ていたのかもしれない。
不意にピクシーの足が止まった。暗くて見えずらい足元ばかりを気にしていたゲットウは、ピクシーに思い切り胴をぶつけた。ふっかりとした感触がゲットウを包み込む。クッションのようなやわらかさとはいえないが、予想していた痛みはなかった。抗議の声をあげようとしたゲットウを、ピクシーが後ろ手に制止する。もう片方の手で指さす方を見れば、ゲットウも小言を飲む込むしかない。
澄みきった水面は、まさしく鏡と呼ぶのにふさわしいものだった。銀色に輝く湖の周りには、いったいどこから来たのだろうかといぶかしむほどのピッピたちが集っている。彼らはいちように、水面に映るもうひとつの満月を讃え、ぴっぴっぴと鳴き声をあげている。そのなかへ、ピクシーの先導を切っていたピッピが加わった。ピッピたちの唱和がはじまる。
ピッピは湖を中心に円を描き、両手を一定のリズムで振りながら踊りだした。ピッピたちの体はやがて白い光を帯び、徐々に彼らの姿を変えていく。進化の時だ。
「ここの地面に大きいつきのいしが埋まっとるんです」
ピクシーがこっそりとゲットウに耳打ちする。言われてみればピッピたちだけではなく、地面がところどころ発光している。大地に星空が映り込んでいるようだった。
進化したピクシーたちが次々に夜空へ舞い上がる。ピッピすべてが進化するわけではないようだ。もっとも湖に近い場所で踊っていたピッピが、進化という名誉を受ける主役だったらしい。仲間の門出を祝うように、残りのピッピたちが踊り続ける。その周りを、月光とつきのいしの光がやわらかく満たしていく。
三十年近く生きてきて、こんな光景を目の当たりにするのは初めてだ。ゲットウは他の人間よりも仕事の都合上、さまざまな物やポケモンを目にする。だが、これほどまでに神秘的で、自分が場違いだと思わせる場面はなかった。
今日はやたらと妙な一日だ。
ことのはじまりは数時間前。ゲットウはその時、悪態をつきながら山道を突き進んでいた。
第一話 ぼうけんをはじめる
ざらついた岩肌に右手をそわせながら、ゲットウは視界の悪い洞窟を進んでいた。それなりに通行者の多いおつきみ山だが、野生ポケモン保護の観点から強力な明かりの使用は禁止されている。さほど入り組んだ道ではないとはいえ、ちいさな懐中電灯ひとつでは遠くはおろか、数歩先すら闇の中だ。
それにここ数年の間、おつきみ山で新人ポケモントレーナーが落石に巻き込まれる事故が多発している。迂回ルートが推奨されているものの、徒歩ならおつきみ山を突っ切った方が三倍ほど早くハナダシティへ着ける。もちろん交通手段があれば別だが、ポケモンを探している新人トレーナーが公共交通機関を利用することは少ない。彼らはまだ見ぬ野生ポケモンを捕獲するチャンスを、虎視眈々と狙っているのだ。
今回ゲットウがこんな田舎の山に派遣されたのも、頻発する落石事故が関係していた。落石の原因を調査し、報告書にまとめるようにという指令だが、原因がわかったところで誰かが得をするとは思えない。ポケモンが関わっている場合なら、前述した野生ポケモン保護の観点から対処の範囲も限られており、自然災害ならばこのまま一般人の立ち入りが禁止されるだけである。どちらにせよ、おつきみ山はかつてのように容易に立ち入れる場所ではなくなるだろう。野生ポケモンにすればありがたいが、人間は得をしない……だとしても、ゲットウには関係のない話である。
それにしても。
「いくらなんでも歩きにく過ぎるだろ」
何度もつまづき、いい加減に堪忍袋の緒が切れそうだ。そもそも今度の調査は地元のポケモントレーナー安全推進協会が取り仕切るべき案件ではないのか。ゲットウが所属する組織は野生ポケモンおよび自然の保護活動、ならびに野生ポケモンからの人的被害を抑えるためにある。なのに彼に与えられた任務はカントーの田舎町にある、ひなびた山の地味な現地調査なのだから不満がたまるのも当然だろう。なぜ自分が。他にも暇なやつはごまんといるだろうに。
そうは言ってもゲットウは自分が指名された理由をよくわかっていた。彼がカントー出身であることと、他の同僚と違って対戦に特化したポケモンをパートナーにしているからだ。カントーはバトルの本場といわれるほどポケモントレーナーがわんさかと所在し、日々バトルの腕を競って切磋琢磨している。そういう地方柄、ポケモンを所持しているだけで目と目が合えばバトルをしかけるのが常識、という地元ルールが幅を利かせている。
おかげで普段あまり対人戦をしない同僚たちは「カントーのトレーナーとバトルをしたら身ぐるみをはがされる」などというデマに本気で震えていた。ゲットウと目を合わせたがらない職員もいる。つまりカントー地方というクサイハナに、ゲットウというクサイハナをぶつけてやろうといったところか。周囲になじむ努力をいっさいしないゲットウは、彼が中途採用だというのも相まってあまり職場で歓迎されていない。ゆえに軽く飛ばされてしまったというわけだ。
ぶつくさと文句を垂れながら、それでもゲットウは惰性で歩を進める。おつきみ山とは名ばかりである。山どころかこれでは洞窟だ。おつきみするにも空が見えない。山登りには慣れているがこんなに暗いと慣れていようがいまいが、ほとんど変わらない気がする。
カントー生まれのカントー育ちだが、ゲットウはおつきみ山を登ったことがなかった。彼が新人トレーナーとしてジム巡りをしていた頃、ハナダからニビへは電車で向かったのである。珍しいポケモンが生息しているという噂は聞いていたが、彼のパーティメンバーはすでに確固としたものであったし、なにより当時のゲットウ少年は周りと同じことをするのを嫌がった。つまるところただの反抗期だ。
暗くて狭くてあちこち擦ったりするおかげで、真っ赤なジャケットは土とほこりに汚れ、黒いズボンはどこかで引っかけたらしく繊維が裂けてしまった。制服の支給申請ちゃんと通るかな、などと考えながら果てない薄暗闇を手さぐりする。
こういう時にズバットの一匹でもいれば「キャプチャ」することによって力を借りれるのだが、あいにくと先ほどからイシツブテしか見かけていない。正確には見てはいないのだが、何度もイシツブテに足を取られているから間違いなく生息している。そこいら中に転がっているイシツブテに気をつけながら、ゲットウはようやく広間らしき部分にたどり着いた。
オペレーターから渡された資料によると、このあたりに抜け道があり、そこからさらに進むと頂上へ向かう山道に出られるようだ。脳裏で地図を思い浮かべつつ、ゲットウは壁をこする。そうやってしばらく周囲を探っていると、手が宙をきった。よし。息をつく。抜け道だ。
ゲットウは足早に抜け道を通り、新鮮な外気を肺いっぱいに吸い込んだ。目の前には生い茂る木々が続いており、ようやく山らしい風体を見せている。おつきみ山は八割近くが岩でできたハゲ山だが、こうして緑豊かな一面もある。
汗をぬぐい、一息つきながらゲットウは地図を取り出した。事故が多発しているのは推奨ルートより東に逸れた、山を突き進む形でのびている道のようだ。他の道にも注釈つきの丸印がついている。すべて見て回るとして、まずは一番危険なところから調査を始めるべきだろう。嫌なことは先に片づけるに限る。
さすがに事故が多発しているとあって、問題のルートへ続く道には立ち入り禁止をうながす看板が立てられていた。それでも進む怖いもの知らずがいるのだろう、踏みしめられた土には真新しい靴跡が残っている。ゲットウは無謀な旅人に対して呆れ混じりのため息をついた。自分も無謀だということはすっかり棚の上だ。
看板を通り過ぎ、しばらくすると極端に道が狭まっていった。足下を見やって思わずひやりとする。靴のすぐ傍に急斜面が寄り添っており、一歩間違えれば滑っていってしまいそうだ。大人ひとりがようやく通り抜けられる道だが、気を抜けば一気に落ちてしまうだろう。こんなに危険な道を子供が通るなんて、カントーはゲットウの知らぬ間に過酷な場所になってしまったらしい。真っ暗闇のなかを手探りで進むのもたいがいだが、命綱もなしにこんなところを行く方がどうかしている。
ふと、振動音が聞こえたような気がしてゲットウは足を止めた。
いや、爆破音、だろうか。地面だけでなく、壁面も振動している。なんだろうかと首をひねっていると、先ほど感じたのとは比べ物にならないほど大きな揺れが全身を突きあげた。ゲットウの足が縁を踏み外す。視界が傾く。
落ちる――!
ゲットウは体勢を崩しながらも腰のモンスターボールをつかもうとしたが、岩だなにしたたか左肩をぶつけ、そのまま滑落していった。痛みに呻きつつ、右手でなんとかキャプチャ・スタイラーを振る。木陰にキャタピーの姿を見つけたのだ。スタイラーが射出され、キャタピーを高速で囲んだ。
「いとをはく!」
キャタピーのうるんだ瞳がゲットウに向けられ、数秒後にはゲットウの落下は止まっていた。キャタピーが吐く粘着性の強い糸によって、彼の体は間一髪、近くの木にぶら下げられた。
「サンキューな、キャタピー」
息も絶え絶えにゲットウが感謝すると、キャタピーはひと鳴きして葉っぱの咀嚼を始める。キャプチャは一時だけポケモンの力を借りることができる道具だ。ポケモントレーナーとその手持ちのポケモンとは違い、一期一会の関係だが、突然の災難に見舞われやすいレンジャーにとっては有り難いものだった。それにキャプチャによって興奮状態のポケモンを鎮めることもできる。
安心すると激痛が走った。ゲットウは血圧が低下しているのを感じつつ、なんとか片腕だけで糸をたぐり、地面へと慎重に向かう。助かったとはいえ、高さはまだ十分にある。油断すれば大事故に繋がりかねない。焦れば糸が切れてしまう。
痛みはゲットウを急かしたが、先ほど出し損ねたモンスターボールがそれを制していた。降下の邪魔にならない程度にモンスターボールが揺れている。内部でポケモンが動いているのだ。相棒からの叱咤激励を受けつつ、なんとか無事に着地した。
痛み止めを飲み、湿布を貼ると、少しだけ気分がよくなった。とはいえすぐに立ち上がることもできず、木の幹に体を預けたまま、痛みがひいていくのを待つしかない。幸いにも、あれだけの高さを滑落したのに打撲で済んだ。
心配そうに揺れる赤白のボールにこつんと軽く拳を当て、ゲットウは「ありがとな」と声をかけた。相棒の存在は心細さを払拭してくれる。大した怪我でなくとも、ひとりでは不安になっただろう。
さすがに今回は肝が冷えた。山へ入る前に地元の警察に届け出はしているものの、危うく自力で帰れなくなるところだった。ポケモンレンジャー、おつきみ山で遭難する、なんて笑えない話である。
ひとまず、動けない間に荷物の点検をしようとボディバッグの中身を広げる。応急手当用の薬品袋、非常食、圧縮ポケモンフーズ、折り畳み式の食器、地図、水筒、懐中電灯、ポケギア、インスタントカメラ。どれも外傷はなく、ゲットウは自分の運に感謝した。滑り落ちて骨も折らず、荷物も無事。あとはさっきの揺れの原因を探るだけだ。
どう考えても落石からの揺れではなかった。それに微かに聞こえた爆発音。いるはずのズバットがいない洞窟、転がるイシツブテ、そしておつきみ山といえばとある物が有名だ。
「つきのいしと、化石か?」
一般人が少しばかり掘りだして持帰ることは禁止されていないが、マニアに高く売れるということで大量に掘り出そうとする者が後を絶たない。まあそれでも、無茶な採掘をすれば管轄の警察が取り締まるので、あまり大ごとにはならないのが普通だった。しかし、警察の追尾を組織立ってすり抜け、無茶苦茶な大量発掘を繰り返している者がいる
としたら。
それはもう、ポケモンレンジャーの管轄だろう。
よし、とゲットウはカントーへ行けと言われて以来初めて、仕事の顔に切り替わった。誰かが爆破装置を利用しておつきみ山の生態と、自然を破壊しているのならば気合も入るというものだ。絶対にふんじばってやる、と鼻息荒く彼は立ち上がった。
肩の痛みはいつの間にか意識の片隅に消えていた。