第二章
第十四話 美しさ
 コーヒーの芳醇なかおりが室内に立ち込めている。
 女は無意識の優美さでカップを持ち上げ、黒い鏡に映る自身の顔を見下ろした。不安そうな目ね。ゆっくりまばたきし、カップに口をつけた。苦いが、青い果実を彷彿させる風味が余韻を残す。焙煎とブレンド、双方に並々ならぬ情熱を注いでいるからこその味だ。そのうえ食器といい、彼女を包み込む椅子といい、すべてが調和した美しさを醸しだしている。そのことに奇妙な違和感を抱きながらも、彼女は穏やかな笑みを相手に向けた。

「若さイコール美しさとは限らないし、それに、なんであれ変化はつきものよ。人もポケモンも毎日変化していく、だから私はおばあちゃんになったらそのことを楽しみつつ、演技を続けていきたいわ」

「もっとも美しい時を取り戻せるとしても、ですか? デビューしたあの頃に戻って、いつまでも若い役を演じられるとしてもあなたはそう言えるでしょうか」

「それは……おかしな質問ね。でもそうね、もし若いまま老いずにいられるとしても、私は老いていくことを選ぶでしょう。それが生きるってことだと思うから」

 相対する男は彼女の想像通り、ふっとほほ笑み、自分のカップにミルクを垂らした。
 彼、フラダリラボ代表のフラダリは、時たま彼女に緊張を強いることがある。はたからすれば他愛ない話にすぎないだろうが、彼女からすれば間違えてはいけない命がけの問いのように思える時がしばしばあった。なにか一言でも彼女らしからぬ事を言ったが最後、ぐらぐらと燃えさかる炎の坩堝に落とされてしまいそうな、そんな不吉な予感がするのだ。普段から紳士的なフラダリのことだからそんな意図はないだろうと、そうわかってはいても、つい気を張ってしまう。
 それにしても、どうしてそこまで美しさにこだわるのだろうか。
 フラダリは、女優である彼女よりも美しさに余念がないように思える。肉体的なものだけでなく、内面的な精神の美しさにまで及んでいる。たとえばホロキャスターによって得た多額の収益を、慈善事業に寄付したという事例がある。それにポケモンセンターに最新医療を配し、ホロキャスターを無償提供していることもあって、ポケモントレーナーたちの多くが彼を尊敬している。時に彼の思想や活動に賛同した人々が慈善活動に加わることもあるくらいだ。あまりにもまっすぐで、それゆえに自身に妥協を許さない姿勢は称賛に値するだろう。しかし、彼女からしてみれば、それは少々行き過ぎた価値観なのではないかと思えてならなかった。

「いつまでも美しくあることが、女優として選ばれたあなたの責任なのだとは考えませんか」

「そんなこと、考えたこともなかったわ」

「そうですか。では、これからは是非考えてみてください」

「ええ、そうしてみようかしら。それで、よければあなたならどうするかを訊いてみたいわね」

 彼女が問い返すと、フラダリは少しだけ驚いた顔をした。そうすると急に若返って見えたが、よくよく思えばフラダリはカルネと大きく歳が離れているわけではない。いつもにこやかではあるが、大企業の長として恒常的に神経を尖らせているのと、あまりに落ち着いた物腰のせいで実際よりも歳をとって見えるのだ。
 彼はしばし物思いにふけるような遠い目をしたあと、普段通りの自信あふれる笑みを浮かべてみせた。

「私なら世界を一瞬で終わらせ、あらゆる美しさを永遠のものにするかもしれない。世界が醜く変わる前に止める。それが私の使命であり、責任なのです」

 フラダリはコーヒーを味わうと、静かに言葉をつづけた。

「私はアルファであり、オメガであるのだから……」

 彼女は何かを言おうとして言葉を探したが、口を開く前に諦めた。カップの底で見つめ返す瞳は、やはり不安に揺れているようだった。







 恰幅のよい、それでいて顔色が極端に悪い男が何度も卓を指先でたたくのを、向かいに座る女がじろりとにらみつける。他人の苛ついている姿を見せられると余計に焦れこむものだ。しかし上座に腰を据えた男は余裕の表情を崩さない。それどころか、どこか嬉々としているようにすら見える。
 報告を聞き終えた上座の男は、青い瞳をもう一方の男へと向けた。ただ見られているだけにも関わらず、男はすっかり委縮して冷汗を浮かべ始めた。威圧するような視線ではない、だが、恐ろしい。

「それでいまだに逃走中ということだな、クセロシキ」

「も、申し訳ありません! 部下のひとりが勝手に追跡装置を壊してしまったんだゾ!」

 クセロシキの部下が独断でポケモンをけしかけたのだと、女が説明する。報告書にある通り、ゴロンダを使っていた元フレア団は彼らの流儀で罰された。相応の処分が下されたことに対して、彼らのボスは特に関心を示さず、うなずいただけだった。彼らが求める世界に必要がない、無駄な人間が一人消えたくらいで動じる人物ではないのだ。
 想像していたより怒られなかったことに安堵したのか、クセロシキと呼ばれた顔色の悪い、研究者ふうの男は卓をたたくのを止めた。おかげで女は赤いサングラスの下でクセロシキを見続けずに済んだ。
 クセロシキとは対照的に、彼女は魅惑的な容姿の持ち主だった。もしここに部外者が紛れ込んだとして、この赤い円卓を囲む一団を目撃したとしても彼女の存在によってある種の納得を得たことだろう。ああ、新しい番組の打ち合わせでもしているのだ、と。そう、彼女はカロス地方に住む者なら誰もがその姿を知っている人気ニュースキャスターであり、ポケモントレーナーの憧れである四天王のひとりでもある、パキラその人なのだから。

「フラダリ様、引き続きあとを追わせますか?」

「いや……その必要はない。あれは必ずここに戻ってくる」

 フラダリの確信に満ちた言葉に、クセロシキはほっと胸をなでおろした。あの強烈に厄介で、魅力的かつ恐ろしい被験体が戻ってくるのは、クセロシキにしても大いに喜ばしいことだ。しかし、追いかけろと言われると非常に迷惑極まりないのもまた事実だった。なにせここ数か月、あの邪魔者の影を部下たちを総動員して追いかけ続け、ようやく捕まえたと思えばあっという間に逃げられてしまったのだから、堪ったものではない。なぜ戻ってくるのか、という疑問はあったが、今日はこれ以上ボスを怒らせるようなことはしない方が賢明だろう。口にチャックをして資料に目を落とす。
 本来なら今回の定例報告に載せるはずだった情報がないのは、少々残念ではあったが、しかたがない。クセロシキが焦って部下にくだした命令を隠蔽する代わりに、今回得た情報を報告しないことがパキラの要求だったのだ。とはいえ、クセロシキは報告するに足りうる確固とした情報を手に入れていたわけではなかったので、パキラの要求を快く受け入れるに至ったのだ。いまのうちに、拘束した際に被験体から採取したありとあらゆる情報の解析を進められる。機械の誤作動が重なっているのか妙な数値ばかりが出るせいで、クセロシキ直属の部下たちは珍しく作業に手を焼いていた。きちんとした報告ができるのは当分あとのことになるだろう。

「あれは記憶喪失になっている、とドクター・クセロシキの報告にありましたが……」

「そうなんだゾ。拷問も投薬も、奥の手でカラマネロの催眠も試したのに成果なしだったからな、うむ、間違いなく記憶喪失なのだ。捕まった時のために何か手を打っていたに違いないんだゾ」

「その確認は私がすでに済ませてきた。確かに記憶を失っているようだな。非常に興味深いことだとは思わないかね」

「まさか、御自らが確認に行かれたのですか!」

 思わずパキラは立ち上がったが、フラダリの視線に気づくとすぐに着席した。その様子を失態に狼狽えていると判じ、彼は安心させるように軽く手を振って否定した。

「なに、ことのついでだ。キミの対処が遅かったわけではない、気にしないでくれ。それに、あれが私を見て特に反応を返さなかっただけで判断をつけられるのだから、私が出向くのは道理に適っているよ」

「演技をしていた可能性は?」

「ない。だが、多少の覚えは残っているらしい。旅の目的についていっさい話そうとしなかった……防衛本能というやつだろう。私のことを警戒していたようだからね」

 わずかな邂逅を思い出し、フラダリは低く笑う。クセロシキや研究員の報告を待つまでもなく、彼のなかには確信があった。彼だからこそ持ち得る確信が。
 続く報告を聞きながら、フラダリはまぶたを閉じた。
 永遠の美をこの手に収める、その時を知らせる福音は近い。


さねたか ( 2017/11/30(木) 14:56 )