第二章
第十三話 パンジー登場
 二段ベッドの上段に寝ころんだまま、パスカルはホロキャスターをもてあそんでいた。室内はすでに消灯されており、同室のポケモントレーナーたちの健やかな寝息と、夜半特有の遠い街音が聞こえてくるのみである。プラターヌ博士は自宅に泊まりに来ないかと申し出てくれたのだが、さすがにそこまで図々しくはなれず、パスカルはポケモンセンターへやってきたのだ。
 多くのポケモンセンターに宿泊施設が常設されており、ホテルに泊まるよりもずっと安価に利用できる。ただし大抵はいまのように複数人が同室で眠るような、いわゆるザコ寝部屋である。それを嫌がるトレーナーももちろん多い。パスカルの場合は特に気にも止めていなかったが、カルムたちはホテルに宿泊したようだった。はじめての旅ということもあって、祝いをかねて奮発したのだろう。
 ほの白い光を放つ画面を指先でなぞる。フラダリに渡されたホロキャスター内には、必要最低限のアプリがすでにダウンロードされていた。基礎的な扱い方はエクセラに教えてもらったが……教えてもらいながらも、彼には自分がこの機械を扱えるという妙な確信があった。
 記憶喪失という事実を不安に思わないわけではない。覚えていない経験と、些細な違和感が常にパスカルを苦い気持ちにさせ続けている。フレア団、それにホロキャスターをくれたフラダリという男。彼らはなぜパスカルに関わろうとしてくるのか。その答えはおそらく過去の記憶のなかにある。

「ぼくは誰なんだ」

 ホロキャスターを脇によけ、枕に顔を押しつけた。
 いつか思い出せるのだろうか。それともこのままなのか。
 まぶたを閉じるとあたたかな闇がパスカルを包み込む。今はともかく、休息をとるとしよう。







 ミアレ出版に着いたのは集合時間の五分前だった。昨日とは打って変わって街には小雨が降っている。雨粒の跳ね返る音は、停電によって疲弊したミアレシティを優しく包容しているようだ。
 ニョロモを模した傘の下で、エクセラは七三の前髪を整えた。雨が心地いいのだろう、道の向こう側をのしのしと歩くゴーゴートはあえて水を受け止めているように見える。ゴーゴートに騎乗しているトレーナーが急かしても、ポケモンの歩みはおだやかなままだった。

「エクセラー! ごめん、お待たせ!」

 そんな声が聞こえて振り返ると、レインコート姿のパスカルが慌てた様子で走ってくるのが見えた。エクセラはそれほど待っていないことを伝えてからぺこりと頭を下げる。

「おはようございます」

「おはよ。うーん、ここがミアレ出版かー。これがなかったら迷子になるとこだったよ」

 そう言ってパスカルは手にしたホロキャスターを軽く振った。確かにミアレシティは慣れていないとマップ無しで歩くには広大で、入り組んでいる。ありとあらゆる道と道がつながっているので歩いていればいつかは目的地に着けるが、先に疲れきってしまうのはいうまでもない。
 パスカルがレインコートを脱ぎ終わるのを待ち、ふたりはミアレ出版に足を踏み入れた。慌ただしげに鳴り響く電話の音や、絶えず聞こえる人々の会話に思わず圧倒される。入り口であぜんとしていると、女性がこちらに気づいて近寄ってきた。

「ミアレ出版へようこそ! 赤いカエンジシ頭に背の高い男の子……ずばり、きみが妹の言ってたパスカル君ね。で、そっちの彼女は」

「エクセラと申します。お忙しいところお時間を割いていただきまして、ありがとうございます。今日はよろしくお願いします」

「丁寧にありがとう。こっちこそよろしくお願いします」

 カジュアルな服装の彼女は音が鳴りそうなほどきれいなウインクをし、流れる動きで名刺をふたりに渡した。

「自己紹介が遅れちゃったね。わたしはパンジー。ビオラのお姉さんでジャーナリストよ。妹から話は聞いてるけど、もしよければあなたたちからも話を聞かせてもらえるかな」

 ここではなんだから、と言ってパンジーは上階へ続く階段を指さす。断る理由もない。パスカルとエクセラは互いにうなずき合い、パンジーの後について階段を上った。そうして行くと少しずつ喧噪は遠ざかり、応接室の扉を閉めた頃には空調機の低いうめき声だけがかすかに残った。

「単刀直入に聞くけど、本当に記憶喪失なのね?」

「はい。厳密に言うとここ四日間の記憶しかないんです」

「でも妹とバトルをして勝ったって聞いたんだよね。いくら非公式戦だからってあの子が手を抜くとは思えないし。そうすると社会的な事は覚えてるけど自分に関する事は覚えてないってわけか。ポケモンに関する知識はかなりある方?」

「たぶんそれなりにあると思います」

 パスカルの返答は控えめだ。
 ビオラはこの答えに納得したのか、携えていたノートパソコンをふたりに見えるように置いた。表示されているのは過去のポケモンリーグやバトル系の大会の参加者名簿と、そこに紐づけされたトレーナーたちの顔写真である。ざっと数百以上あるだろう。すべてに目を通そうとすれば数日かかってしまいそうだ。

「ビオラから連絡もらってこっちでもパスカル君の事を調べてみたんだけど、ここ四年の間カロスで開催された大会には名前がなかったわ。まだ他の地方までは調べられてないし、すぐに答えを出せるような問題じゃないんだけどね。それからこっちの資料、これはわたしが数年かけて撮ったカロスの写真とメモね。メモリーカードにコピーしておいたから後でゆっくり見られるよ」

 必死に覗き込むパスカルにパンジーがメモリーカードを差し出す。ホロキャスターでも見られると聞いて、ようやくパスカルは少し体を起こした。それでもまだ視線はパソコンの画面にくぎ付けだ。だが、エクセラとしては他の事が気がかりだった。今日一緒についてきたのもそれについてパンジーから、プロのジャーナリストから助言がほしかったというのもある。

「パンジーさん。フレア団という組織についてなにか知っていませんか」

 あれだけ派手な格好をして街中を闊歩している集団だ、きっとなんらかの噂にはなっているだろう。そう思ってエクセラなりにインターネットを使って調べてみたのだが、収穫は予想外にゼロだった。
 コミュニケーションツールのひとつである「ポケッター」という短文投稿サイトでもフレア団の名前はおろか、影すら見つけることができなかった。エクセラとフレア団の男がバトルをした際に外野のひとりくらいはホロキャスターで写真を撮っていただろう、と決めつけていたので、エクセラはずいぶんと驚いた。近頃はちょっとした事でもすぐに写真を撮ってポケッターに投稿する人が多いのだ。街中での目立つバトルなら、本人たちの許可も取らずにアップデートしそうなものなのだが。

「フレア団? フレア、フレア……。確か前に一度取材しようとして、うやむやになってた慈善団体がそんな名前だったような気が……」

 眉間にしわを寄せてしばし考えこんだ後、パンジーは大きくうなずく。

「思い出した! 取材の準備をしてたら急に上から別の仕事がまわってきて、落ち着いた頃には他の人に担当が移ってたのよね。そのままお蔵入りしちゃったやつだわ」

「お蔵入りってことは、記事にはならなかったんですね」

 パスカルが残念そうに言う。

「そうそう。確か購買数を稼げる記事にはなりそうにないって話になっちゃったらしくて。でもどうしてフレア団の事を? もしかして表向きは慈善団体だけど実はメディアすら掌握する悪の組織で記事を握りつぶした挙句、パスカル君の記憶喪失もフレア団の仕業で、謎を知ったがためにしつこく狙われている――なーんて考えすぎか。ごめんごめん、つい癖でなんでもかんでも関連付けしたくなってくるのよね」

 謝るパンジーの声を遠くに聞きながら、エクセラはある嫌な想像が飛来するのを呆然と見守っていた。
 フレア団がメディアを掌握している。そんなことはあるはずがない。だが、現に彼らの存在は無かったことにされている。あるはずがないことが起こっていた。そこになんらかの情報操作がなされていると仮定すれば、はまらなかったピースを埋めることはできる。
 しかしそれは絶望的な真実をエクセラに想定させた。得体の知れない巨悪が、パスカルだけでなく、カロス全体を脅かしているのではないか。そしてその事実に誰も気がついていないのだとしたら。エクセラは唾を飲み込む。恐ろしい考えだ。

「フレア団についてはまた調べておくとして、パスカル君の記憶喪失は解決してあげられるかもしれない」

「本当ですか!?」

 驚きのあまりパスカルの長い足がテーブルに当たり、大きな音を立てる。痛みに涙をにじませながら、それでもパスカルは期待のまなざしをパンジーに向けた。

「君たち、ヒャッコクシティのジムリーダー、ゴジカさんは知ってる?」

「ええ、エスパータイプのエキスパートでご本人も超能力をお持ちだとか」

「わたしが思うに、ゴジカさんの超能力を借りればパスカル君の封印された記憶のカギが掴めるはずよ!」

「うっ……うさんくさい!」

「なんだとパスカル君! せっかくお姉さんが提案してあげたのにうさんくさいとは何事!」

 わーわーぎゃーぎゃーと騒ぐふたりだったが、エクセラはいつも通り生真面目な顔で思案にふけっている。
 彼女の提案も一理ある、と思ったのだ。エスパータイプのポケモンは特に精神的な面におよぼす強い力を秘めているものだ。ジムリーダーならその力を最大限引き出すこともできるだろうし、なによりゴジカに関してはいろいろと不思議な逸話も耳にする。エクセラが聞いた話でもっとも印象に残っているのは、星の声を聴いて自然災害を予知し、事前に住民を避難させたという一件であった。それほどの人である。頼ってみるのはいいかもしれない。
 もっとも、どうするかを決めるのはパスカルだ。
 身を乗り出したパンジーに頭を掴まれながら、パスカルは次の方針を決意した。

「わかりました! ヒャッコクシティに行きます!」

 行けばいいんでしょう、と悲鳴に近い声がミアレ出版に響く。パンジーが満足そうに、にっこりと笑った。

さねたか ( 2016/10/25(火) 00:31 )