第八話 めざめと帰路
まず目に入ったのは白い天井だった。パスカルはぼうっとする頭をなんとか動かそうとまばたきを繰り返し、ようやく、昨晩病院へ搬送されたことを思い出した。スプリングの利いたベッドは酷使された体に心地よく、このままもう一度眠ってしまいたいと思うほどのものだった。だが、パスカルの胸には起きる前から奇妙な焦りのようなものが渦巻いており、ふたたび訪れるであろう安穏とした眠りを妨げていた。一度まぶたを閉じてみてメリープの数でもかぞえれば……だめだ、もう眠れそうにない。
パスカルは体を起こすと、手足に巻かれた包帯をしげしげと眺めた。清潔で真っ白な布でぐるぐる巻きにされている。見た目だけならば重傷だ。でも痛みはない。たしかに覚えているかぎりでは痛くてしかたがなかったはずなのだが、いまはひりひりとこそばゆいだけである。自分が感じていたよりもずっと軽傷だったのか、それとも処置が効いたのだろうか。どちらにせよ、悪いことではない。この調子ならすぐにでも旅を再開できそうだった。
――それにしても。
個人病院なのだろう、こじんまりとした病室である。ベッドからそう遠くはない場所に窓があり、重い赤色のカーテンが掛けられている。それでも部屋のなかが明るいところからすると、いまは朝か昼頃らしい。パスカルの腹具合からすると正午前といったところか。長いあいだ眠っていたようだ。
「ゲンガーとあの子、だいじょうぶかな」
救急車に乗せられる直前にゲンガーを託した少女のことを思い返し、パスカルは眉をしかめた。
「名前、聞いてなかったな」
普通ならば自己紹介でもするはずなのだが、あの状況ではそんな悠長なことをしていられなかった。怒りくるうヘルガーに追いかけられながら名前を聞くなんて! 彼女はパスカルの名前をトレーナーカードで知ったがパスカルのほうは知らないままだ。せめてポケモンセンターへ向かう道中で聞いておけばよかった。恩人の名前すら知らないというのはなんともおかしな話だ。
まだポケモンセンターにいるだろうかと考え、パスカルは履物を探してベッドの下を見た。赤い目と青い目が互いに見つめ合い、そしてその数瞬後にパスカルは驚きのあまり大声をあげながらベッドにひっくりかえってしまった。
「ゲ――ゲンガー!? どうしてここに! ていうか元気になってる!」
跳ね起きたパスカルはそのままさっきと同じようにベッドの縁に手をかけ、下を覗きこんだ。ベッド下の暗がりのなかでゲンガーはなにも答えず、ただにたにたと笑みを浮かべながら収まっている。困惑するパスカルが顔をあげると、ドアが静かに開いた。
「おはようございます。……どうやら元気になったみたいですね」
呆れ半分といった表情の少女が両手いっぱいに荷物を抱えて部屋に入ってきた。昨日のタイ付きブラウスではなく、黒いワンピース姿になっている。彼女の色白な肌と黒い髪の色が引き立てられている。思わず見とれていると怪訝そうな顔をされてしまった。
「なにか?」
「ううん。あ、いや、そういえば名前まだ聞いてなかったなって」
少女はあっと声をあげ、申し訳さなさそうに表情をくもらせた。
「すみません、気がつかなくて。わたしの名前はエクセラです」
「……昨日は本当にありがとう、エクセラ。キミがいなかったらあの人たちに捕まってたよ。それと、嘘ついてごめん! さいみんじゅつで眠らせてごめん! なんかいろいろと迷惑もかけちゃったし、なんて言ったらいいか」
「そんなに謝らないでください。わたしが勝手にあなたを追いかけてきただけですから。それに昨日の嘘はもう無しです」
「うん。ありがとう、エクセラ。ところで、それなに?」
さきほどからエクセラが抱きしめている紙袋を指さすと、彼女はそうでしたと言って袋をふたつ、ベッドの上におろした。パスカルがしげしげと眺めていると開けるようにと促される。どうやらそれほど重い物ではないようだが、かなりの大きさだ。
「服だ!」
黄色のフード付きパーカーが一着と黒いカーゴパンツが一本、それから靴下が一足、きれいに折りたたまれて入っていた。もう一方の袋からは大きめの肩掛けかばんが出てきた。すでにふくらんでいるかばんを開けると、中にはぼろぼろになったパスカルの白いジャケットとズボンが入っていた。汚れはきれいさっぱりなくなっていたが焼け焦げた跡やら、やぶけた部分がたくさんある。
「昨日着ていた服だとこれから大変だと思って買ってきたんです。あのスーツの人たち……フレア団に見つかるといけませんし」
それに昨日の服だと人の注意をひきやすい。そう考えて出来るだけ無難な、よくある服を選んできたのである。ただ、パスカルの趣味ではなかったかもしれない。そう思い、彼の反応を窺ってみると、すっかり上機嫌になって服を広げていた。
「動きやすそうだし、めちゃくちゃかっこいいよ! そうだ、お金返さないと。えっと、カードは――」
唯一の荷物を探して部屋を見回すパスカルに、エクセラは言い難そうに行方を告げた。
「ゴロンダの攻撃が当たってしまったみたいで……直せないほど壊れていたんです。病院の支払いは免除してもらえたのですが、再交付には一カ月ほどかかるらしくて」
「つまり、いまのぼくは一文なしってことだ」
「はい」
「一カ月も」
「はい」
空気の抜けたフワンテのようにパスカルはベッドに倒れ込んだ。
一カ月! 一カ月だって!?
いくらなんでも、一カ月ものあいだ無一文で生活ができるほど世の中は甘くないとパスカルも知っている。記憶がなくてもわかる。いや、ポケモンと同じように野山にこもれば一月くらい生きてはいけるだろうが、大自然を悠長に満喫しているひまはないのだ。なぜなら彼はどこかへ行ってなにか大切だったものを探さなければいけないのである。それも早く。できるだけ早く。いますぐにでも。
頭のなかで誰かがささやく。
(はやくはやく。あの人のためにはやく)
ぐったりと天井を見上げるパスカルを心配そうに見つめ、ややあってエクセラが口を開いた。
「ひとつだけすぐに旅を続けられる可能性があるのですが」
退院の手続きは拍子抜けなくらいあっさりと通ってしまった。面倒な処理が終わるまで待合室にいるように言われ、ふたりと一匹はロビーの片隅にあるソファーに腰をおろした。他の患者はいないのでやけに静かだ。
待ち時間のあいだにエクセラが説明してくれたところによると、ゲンガーは怪我が全快したので野生に返される予定だったのだが、パスカルに懐いているのもあって特別に引き渡してもらえたのだという。規定では野生ポケモン保護法により手当の済んだ野生ポケモンは専門のトレーナー、または代行業者によって元いた場所やそれに近いところへ返されるようになっている。しかしごくまれに、助けられた相手に懐くケースがあり、トレーナーの側が受け入れさえすれば引き渡されることもあるのだった。今回のゲンガーの件もそういうことらしい。そのためのモンスターボールも支給されるのだと言って、エクセラはパスカルの手のひらに赤と白に分かれたボールを置いた。
「ぼくと一緒にいると危ない目にあうよ。それでもいいの、ゲンガー」
問いかけられたゲンガーは「当然」といったふうに胸を張り、ボールを指さして次に自身を指さした。パスカルは照れているのを隠して苦笑いし、ボールを操作した。記憶にはないが体はモンスターボールの操作を覚えているようだ。
球体の中央にあるスイッチ部分をゲンガーに向けると、赤い光がまっすぐにゲンガーへと走り、その体を光に変えてボールに吸い込んだ。こうしてしまえばポケットのなかにも入れられる……彼らがポケットモンスターと呼ばれる所以だ。ボールをしげしげと眺め「ありがとう」と心のなかで感謝してからベルトに収めた。
逃げ出す時からずっと傍にいてくれたゲンガーがこれからも一緒にいてくれるというのは、それだけでパスカルの気持ちを支えてくれる。これ以上ない相棒を得たのだと、彼は確信した。
「パスカルさん、手続きが終わりました。一週間分の抗生物質が出ています。毎食後一錠ずつ服用してください。それから、預かっていた所持品をお返ししますね」
「――え? あの、これ、ぼくが持ってたんですか」
薬と共に渡されたのは見覚えのない指輪だった。くすんだ石がはめられている。こんなもの、ポケットをひっくり返した時には入っていなかったはずだ。
首をかしげるパスカルに女性も不思議そうにしつつ「そう聞いていますが」と答えた。もしかすると他のポケットに入っていたのかもしれないと思いなおし、パスカルは指輪をぞんざいにズボンへしまい込んだ。
「それじゃあ、ありがとうございました」
「はい、お大事に」
見送られながら病院を出て、ふたりは昨日辿った道を再び歩き出した。昨晩通った時にはやけに暗く、さびしく感じられた道だったがあたたかな日差しの下で歩くとまた違ったふうに見えるのが驚きだ。広い道を利用してローラースケートを楽しむ人や、野生のポケモン相手にバトルをするトレーナーもいる。日常的な風景に、ゴロンダとヘルガーに襲われたのが夢のように思えた。もちろん夢ではないのだと、パスカルの傷が物語る。本来ならば一週間は安静にしていないといけないのだと医者に念を押されたその怪我は、フレア団と名乗る彼らが負わせたものなのだ。まだ彼らがこの辺りにいてもおかしくはない。パスカルはいつでもボールを取り出せるように意識しながら歩き続けた。隣を歩くエクセラも同じように緊張しているのを感じながら。
途中、エクセラの自転車を回収し、コボクタウンを発って一時間ほどで五番ゲートに到着した。相変わらず閑散としているゲートの様子にほっと安堵の息をもらした。
「昨日のお譲ちゃんに少年じゃないか! 無事だったんだな」
ゲートの受付をしていた男がぱっと立ち上がり、カウンターから身を乗り出した。エクセラになんでもなおしをくれた男だった。
「昨日はお世話になりました」
「いやいや、いいってことよ。ふたごの譲ちゃんたちもちゃんと親御さんが迎えにきてくれたから心配はいらないぜ。それにしてもあの赤スーツめ、やっぱり危ないやつらだったんだな。ほんと、無事でなによりだよ。ボーヤの方は重傷みたいだが」
「ぼく、ボーヤって歳じゃないと思うんだけど」
不服そうに唇をとがらせるパスカルを豪快に笑い飛ばし、男はそういえばと言葉を続ける。
「お譲ちゃんが出て行ったあとくらいに停電があってな。五番ゲートは稼働してるけど他のゲートは封鎖されてるんだよ。ミアレ中大騒ぎさ。発電所になにかあったのかねぇ。ま、そんなわけだから街はいまちょっとごたついてるけど気をつけてな」