第七話 コボクタウン
パスカルとエクセラがゲンガーを両脇から抱えて街道へ戻ると、すでに陽はとっぷりと暮れていた。この辺りはあまり車も通らず、それゆえに街灯の数も少ない。申し訳程度の灯りがより一層あたりの暗さを強調させているようだった。
「ここからならコボクタウンの方が近いみたいです」
エクセラは右手に持った機械を見てそう言った。この小さな機械はカロスのトレーナーなら大抵が所持しているホロキャスターという携帯端末である。ホロキャスターはもともと立体映像データを送受信するための装置だったのだが年々改良が加えられ、今では多様な機能が付属されている。いま表示されている地図もその機能のひとつだ。現在地が常に更新され、目的地への最短距離を自動で計算してくれる。
双子の少女たちを託して別れたリザードのことは心配だったが、彼ならひとりでも家に帰ることができるだろう。それか、プラターヌ博士の研究所に戻っているはずだ。
もちろんミアレに引き返す事も考えたのだが、肩で息をしているパスカルと傷ついたゲンガーの状態を考えるとできるだけ近い距離のポケモンセンターが必要だった。となれば、コボクタウンに行くのが最良の道である。それでも徒歩で、かつゲンガーを抱えているとなれば気が遠くなるほどの距離が広がっていた。思わず弱音を吐きそうになる己の心を叱咤し、エクセラはパスカルをうかがった。
「歩けますか?」
「うん、だいじょうぶだよ」
そうは言っているがパスカルの顔色は青白く、痛みに耐えているのだろう、その表情は険しいものだった。ヒトツキと共に受け止めたゴロンダの拳の重さを思い出し、エクセラはパスカルが受けた痛みを考えずにはいられなかった。下手をすれば骨が折れていても不思議ではない。きっと、歩くのもつらいはずだ。せめてポケモン用の傷薬のひとつでも持っていればよかったのだが、ここ数年バトルをしなくなっていたエクセラはトレーナーの必需品すら持ち歩いてはいなかった。そんな今の状況が自分のせいに思えて悔しくなる。だが、いまさらとやかく言ってもしかたがない。せいいっぱい力をふりしぼってゲンガーを支えることが、いまエクセラにできることなのだから。
それからの数十分はひどく長く感じられた。黙して歩き、たまに地図を確認してはまた歩き続ける。時間が過ぎれば過ぎるほどに疲労を感じずにはいられなかったが、立ち止ることはしなかった。ここで止まれば足を動かすことが嫌になるのはわかっていたし、パスカルにいたってはぜったいに気絶しないという保証もないのである。よく雪山で遭難したら寝てはいけない、という話を聞くがそれに近い緊張感が横たわっていた。パスカルは時おり足を上げられずに転びそうになりながらも、エクセラの励ましによって足を動かしているようだった。
そうして歩き続け、ようやく町明りが見えた時、ふたりは思わず歓声を上げた。
「町を見て泣きそうになったのは初めてだよ!」
「わたしもです!」
こんな状況でなければハグをして互いの肩を叩きあい、スキップでもしただろう。が、少年少女は顔を見合わせて笑みを交わすだけにとどめた。
こうしてエクセラもパスカルも直前までの疲労をすっかり忘れて元気よく歩き出したのだった。
コボクタウンのポケモンセンターは閑散としている。
緊急処置室に重傷のゲンガーが運びこまれ、一時騒然としていたが時計の針が真夜中を告げる頃にはいつもの落ちつきをとり戻していた。待合室で待つと言い張っていた少年もゲンガーと同じく重傷であるとジョーイに診断され、人間用の病院へと搬送されていった。いまは連れ立っていた少女がひとり、ぽつねんとソファーに座っている。ゲンガーの治療が終わるのを待っているのだろう。
ポケモンセンターに野生のポケモンが運び込まれてくることはさほど珍しくはない。密猟者が仕掛けた罠による怪我だけでなく、縄張り争いによる怪我などが重い場合にポケモンレンジャーをはじめとしたトレーナーたちが運び込んでくるのである。しかし、今回のゲンガーは少し事情が違うようだった。罠による怪我でもなく、野生同士の縄張り争いによるものでもないとジョーイは感じていた。どちらかといえば所有されているポケモンが執拗に痛めつけたという印象を受けたのだ。そうだとすればあの少年の怪我もただの事故というわけでもないだろう。
ジョーイは受付に立ちながらも、憂いを浮かべずにはいられなかった。
ここ最近、着実に世の中が剣呑になりつつある。小さな諍いはあって当然なのだが、野生ポケモンの乱獲や手持ちポケモンの解放運動、ポケモンを悪用した事件などといった話がニュースで日々報じられている。ポケモンセンターを訪れるトレーナーの多くがそのような事件とは無関係とはいえ、近年ポケモントレーナーの平均年齢が低下傾向になりつつあるのが非常に心配であった。年若いトレーナーたちが事件の被害者になるのではないかと思うと気が気ではないのだ。
仕事仲間のジョーイはよく「争いのない世の中にすればいいのよ」と力説しているが……ジョーイはそっと治療室を見やった。彼女の言うことはもっともなのだが、少々夢見がちであるのも否めない。どうやら彼女はある団体の活動に参加しているらしい。そこでは争いのない美しい世界を作ることを目標としているようで、同僚はことあるごとに活動のすばらしさを語っていた。ジョーイからすれば慈善団体以上のものには見えなかった。
だからまさか、病院に搬送されたはずの少年が別の場所に運ばれているなどとは考えもしなかった。
「それで、状態はどうなの」
女が苛立ちを隠そうともせず鋭く問いだたし、問われた研究員は身を縮めながらか細い声で「わかりかねます」と返した。この美しい上司の冷たい視線にさらされると全身が反射的に強張ってしまうのが常だ。恐らく体が「おしおき」の痛みを思い出してしまっているのだろう。できれば彼女の神経を逆なでしたくないものだと研究員は祈った。
病院によく似た清潔な一室には様々な計器類がところ狭しと並び、その中央の寝台には手術着をきせられたパスカルがベルトで四肢を固定されていた。どうやら眠らされているらしい。取りつけられた呼吸器が規則的にくもり、心電図は彼の心臓がただしく動いていることを淡々と知らせている。
「ただどうやら我々の――フレア団のことだけでなく自身のことも忘れてしまっているようです。医者のふりをして訊きだしてみましたが、名前以外のことは要領を得ませんでした」
「……しかたがありません。ボスに報告なさい。それから彼をどうするか決めるとするわ」
「はっ! ああ、そういえば部下が手荷物を回収しておりましたが確認なさいますか」
「確認しておこうかしら」
「私はボスに報告をしてまいりますので、すぐに他の者に持ってこさせましょう。そ、それでは失礼いたしますっ!」
白衣を足に絡ませながら慌ただしく退出する研究者に背を向け、女はパスカルを見下ろした。汚れていた体は丁寧に洗われており、ここへ来た当初の見苦しさはなくなっている。服も体も泥まみれになった少年をすぐに「彼」だとは思えず情報の真偽を疑ったものだが、こうして小奇麗にしてみると確かに「彼」に違いなかった。記憶の有無はこの際捨て置くべきだろう。こうなった原因が取り除かれればどうということはないはずだ。
それよりも彼が担っていた任務の進行が気にかかった。重要な目的、崇高な目標、それらが解決されなければ彼女たちが目指す場所へはたどり着けない。彼が握っていた鍵が未だにその手のうちにあるのか、それさえわかれば彼女にはどうでもよかったのだった。
「お持ちいたしました」
そんな声に女が振り返ると、赤いスーツの部下がトレーを抱えて立っていた。見ればトレーの上には銀色のトレーナーカードと石のはまった指輪がひとつ、乗せられている。
「指輪ははめていた?」
「いえ、ジャケットの裏ポケットに入っていました」
「そう」
銀色のカードに視線を移し、彼女はふとなにかを思いついたのかカードを手に取った。
「後々のことも考えるとこれは無用でしょう」
もう片方の手で女がモンスターボールを開くと、ぶわりと蒸気が広がった。それがポケモンのなかで燃やされる石炭から排出される煙だと部下は気づかず、ぼうぜんと立ち尽くしていた。部屋のなかは今やもうもうと立ちこめる煙で満ちている。
「ストーンエッジ」
主人の命令に従い、甲羅を背負ったポケモン――コータスは甲羅の穴から尖った石炭を飛ばした。主人の手からこぼれ落ちた銀色の板に石が突き刺さり、なんともいえない嫌な音が響き渡った。頑丈な作りとはいえ、近距離でストーンエッジを受ければただではすまない。結果、画面に無数の亀裂が走り、頑丈な筺体は衝撃に耐えきれず割れかけている。かつん、とせつない音を立ててカードが床に落ちた。
「それもあとで返してあげなさい」
「これも、ですか」
女の指示の裏にある意図を汲み取れず赤スーツは当惑しきった顔で、床に転がる無残なトレーナーカードを拾い上げた。起動するどころか少しでも強く持てば崩れてしまいそうである。こんなものを返されたらいくらなんでも少年が激怒するのは目に見えている。
そんな部下の懸念を感じたのか、女が薄い笑みを浮かべながら口を開いた。
「心配は無用よ」
彼が元に戻るにせよ、もしもこのまま放逐されるにせよ、トレーナーカードが破壊されていることを不思議がらないと女は確信していた。
「わたくしがやったわけではないもの」
その言葉の真意をはかりかねたまま、部下はあいまいに頷いた。