第六話 作戦開始
「さあ、これでとどめよ!」
振りおろされた拳は情け容赦なく少年少女を打ち砕く――はずだった。
低く重い打撃音が響き渡り、ゴロンダが退く。ゴロンダの向こうにはヒトツキを掲げた少女が立っていた。手首にしっかりと布を巻きつけ柄を握る姿は、まさしく戦乙女のものだった。
「パスカルさんはゲンガーを」
毅然としたエクセラの横顔を見上げ、パスカルはうなずいた。
「……どうか無事で」
ふらつきながらもパスカルはゲンガーを背負い、手筈通りの方角へ歩いていく。実体がないといわれているゴーストタイプとはいっても、ゲンガーは意外と重量がある。パスカルが尋常ではない怪力を持っていなければ、ひどい怪我をしている状態でゲンガーを背負って歩くことなどできなかっただろう。
「まずい! あんた、坊やを追うのよ!」
フレア団の女が仲間の男に指示を飛ばすと、茫然としていた男はやっともたつきながら走りだした。手負いのパスカルになら、すぐに追いつくはずだ。しかしエクセラは男を追おうとはせず、ここで女を食い止めるのが自分の仕事だというようにヒトツキをゴロンダに向けた。剣と背筋をまっすぐにし、足は肩幅まで開いて、ゴロンダとの間合いをはかる。
遠い昔に戦場でポケモンとなった日を思い出すのか、それとも強きをくじき弱きを助ける正義の行為に魂を燃やしているのか。ヒトツキがいつになくやる気に満ちているのが腕に巻いた布から伝わってくるようだ。
本来、ゴロンダの使う格闘技はゴーストタイプには通用しない。女もおそらくそれを把握している。ならば不利なヒトツキとわざわざ戦う必要はないと判断するはずだ。
――でも、それだと困る。
パスカルはそう言って、ある案を出した。
あの女はトレーナーに対して敵意をむき出しにしている。ならば、トレーナーがヒトツキを持って戦えば回避せずに挑んでくるはずだ、と。もちろん危険な策だ。下手をすればトレーナーが傷つき、バトルどころではなくなってしまう。それでも上手くいけば確実に相手を仕留められる。
パスカルの予想は当たったらしい。女は口角をひきつらせながらも退きはしなかった。
「ポケモンと一緒に戦おうっていうの? バカバカしい。さっさと倒しなさい、ゴロンダ」
ゴロンダがアームハンマーを繰り出そうと腕を振り上げた瞬間、エクセラは一気に懐へ飛び込んだ。そのまま体をひねり、ヒトツキで切り払う。鋼鉄の刃が胴体を裂き、空中に赤い軌跡を描いた。ゴロンダの巨体がよろめいたが、足をふんばり、力任せに拳をエクセラに叩きつける。だが、拳はヒトツキの刃に弾かれた。
「つばめがえし」からの「まもる」だ。なにもエクセラだって考えなしに相手の懐に飛び込んだわけではない。つばめがえしは飛行タイプの技であり、ゴロンダによく効く技だ。無論、いくら効果的であっても鍛えられたポケモンを一撃で倒すなどという芸当は到底できない。倒せないとなるとすぐに反撃が来るが、何度もアームハンマーを打っているゴロンダは動きも鈍っていて軌道が読みやすくなっていた。これならば難なく防げる。
エクセラは柄を握り締め、ゴロンダの拳をはじき飛ばした勢いのまま、ヒトツキの刃を返した。今度は縦に赤い線が走る。ゴロンダは苦痛の咆哮を発し、ゆっくりと仰向けに倒れていった。軽い地響きとともに土煙があがった。
「な……! ゴロンダがやられるなんて、そんな」
唖然とする女にエクセラはヒトツキを突きつけた。
「まだやりますか」
「じょ、冗談じゃないわ!」
重傷のゴロンダをボールに戻す手間さえかけず、女がきびすを返して逃げ出そうとする。そんな彼女の前にヒトツキから伸びた影が立ちはだかった。女は悲鳴を上げ、尻もちをつく。
「金輪際、パスカルさんを襲わないと誓ってください」
「そんなことできるわけ――」
「してください」
座りこむ女の目の前にヒトツキが突き立てられる。その大きな目に睨まれ、先ほどまでの威勢はすっかりなえてしまったようだった。
「わかったわ。誓う、誓うからっ! これ、どけてちょうだい」
エクセラの腕から布を解くと、ヒトツキはふわりと浮かびあがった。目の前から刃物が消えてよほど安心したのだろう、女は力なくうなだれた。この分だとまだ戦う、ということはなさそうである。
「ありがとう、デュラン。ゆっくり休んでね」
ヒトツキをボールに戻すと、エクセラはパスカルを追って走りだした。
「ふん、なにが誓ってください、よ」
エクセラが十分に遠ざかると、女はすくりと立ちあがった。スーツに付いた土を払い、不服そうにゴロンダをボールに戻す。そしてもうひとつ、新たなモンスターボールを取り出した。怖がっていたのは演技だったのである。
「支給されてるポケモンはゴロンダだけじゃないのよ。今だけは調子に乗っておくことね、次はこのポケモンで坊やもろともしとめて……」
「しとめるって、誰をかしら」
冷たい声に女は思わず動きを止めた。
いつの間に、背後に立たれた? いったい誰だ。一般人か、それとも邪魔者か。
そんな考えが過るなか、声は淡々と言葉を続ける。
「クセロシキの独断にも困ったものだわ。あれを痛めつけてでも連れ戻すなんて、あの人の耳に入ればどうなるか。……それでもドクター・クセロシキはフレア団に必要な存在。ならば怒りの矛先は他に作るべき……そう思うでしょう?」
問いかけの形式ではあるが、そこには有無を言わさぬ威圧感があった。
赤スーツ男は当初のやる気もなく、ただの惰性で少年を追いかけていた。
正直に言って、今回の命令には初めからあまり乗り気ではなかったのである。ラボから逃げ出した被検体の回収作業、それも相手は人間の子どもだ。さらに大急ぎでときたもんだから、彼を含めたしたっぱ連中は上を下への大騒動だった。もしこの任務に失敗すればフレア団から脱退させるとまで脅された。フレア団の下級団員の多くが五百万という大金を払って入団したのだ、こんなところで急に退団させられてしまってはたまったものではない。全員が文字通り死にものぐるいで目的の少年を追いかけた。
誰も、あの少年がラボでなにをされていたのかはしらない。
もしかすると、とんでもなくひどい事をされていたのかもしれなかった。彼より長くフレア団に在籍している先輩スーツ曰く、ラボにはさらに奥まった研究室があり、そこで幹部クラスの研究員が人道に外れた研究を日夜繰り返しているらしい。その証拠に奥へ続く扉の近くを通ると時たま、ポケモンとも人のものともわからないおどろおどろしい悲鳴が聞こえてくるのだという。他の先輩などは何度か実験で用済みになったポケモンを運び出したこともあるとかないとか。どうにもまゆつばものだが、少年の並はずれた身体能力を目の当たりにするとさもありなん、と納得してしまうのもしかたがなかった。
今だってそうだ。あれだけ痛めつけられたというのに、少年はゲンガーを担いで逃げている。男が追いつけない速さではないが、それにしたってあれだけ殴られたあとなのだ、普通ではない。先輩の話が本当なら、男が子どもの頃から大好きだったヒーローのように、改造されて虫ポケモンの能力を手に入れてしまったのかもしれない。なるほど、それならばかっこいいし、スマートでいかしてるフレア団にこそふさわしい実験だ。何も悪いことなどない。そう、フレア団はいい組織なのだ。
今回の任務にあたって支給されたヘルガー、そしてレパルダス。お邪魔ガールによるお邪魔によってレパルダスはまだ回復できていないが、ヘルガーの方はそれなりに体力が残っている。戦う手段がない少年ひとりくらいなら、どうということもないはずだ。やる気のない自分に代わって少年を追いかけさせるにはちょうどいいだろう、と男は考えた。
「よし。そうと決まれば、いけっ! ヘルガー!」
ボールから出されたヘルガーはどこか力のない様子だった。尻尾は垂れ、目はどこを見ているのか虚ろだ。ヘルガーの様子に気づいた男は、そういえばと懐から注射器を取り出した。
「研究員からこれを打つように言われてたんだっけ。めんどくさいけど、よっと」
ヘルガーの首筋に針を刺し、液体を注入する。ヘルガーは一瞬けいれんを起こしたかのようにみえたが、すぐ何事もなかったかのように荒々しく吼えた。虚ろだった目も瞳孔が大きく開き、足が震えるほどに興奮している。普通のトレーナーならば危険だと判断するであろう状態なのに、男は別段気にする素振りもなくヘルガーに命令を下した。
「ヘルガー、ちゃっちゃとあの子どもを捕まえるんだ」
赤スーツの命令を理解したのか、ヘルガーが地面をえぐって走りだす。猛烈な走りだしのせいで土が舞いあがり、男はすっかり砂まみれになってしまった。
フレア団のおしゃれスーツは特注品だ。一着一着が目玉の出るほど高価なために、あまり裕福ではない団員などは替えのスーツを多く持てない。しかしスーツが少しでも汚れていると上司がうるさく言われるので、どの団員も細心の注意を払って汚れないようにしていた。この男もそうである。少年を追っている間に汚れてしまったスーツをちょうどクリーニングに出したばかりで、今着ているものが唯一の替えだった。その替えもすっかり砂まみれのまっしろけだ。
やっぱり今日はついてない。
地の底まで到達していたやる気のなさはここでついにマイナスになり、男はのんきに歩調をゆるめた。どうせ自分が走っていってもなにもすることはないのだから、といったふうである。ヘルガーに指示を出さなければいけないとか、ポケモンだけでなく自分も協力して挟み撃ちにしよう、などという積極性は持ち合わせていないらしかった。
そんな赤スーツが緩慢に迫ってきているなか、パスカルは汗を拭う暇もなく目的地へと向かっていた。ゴロンダのアームハンマーを数度受けていながらも、打撲程度で済んだのが幸いだった。これで骨の一本でも折れていればゲンガーを背負って歩くなどできなかっただろう。
女が手加減をするように命令したとは思えないので、ゴロンダが人間相手にちゅうちょしたと考えるのが一番あり得る答えだった。モンスターボールで捕獲され手持ちとなったポケモンは、人間に危害を加えることを嫌う傾向がある。ゴロンダも命令とはいえ本気で攻撃をしなかったのもそのおかげだ。
しかし手加減があったとはいっても、体を覆う痛みは強い。パスカルはともすれば折れそうになってしまう心をなんとか奮い立たせながら、一歩一歩を踏みしめて進んだ。
――きっと、何も間違いじゃないです。
パスカルはその言葉を聞いただけで、身の内にあった迷いが崩れていくのを感じた。
少女を巻き込むのは嫌だったが、彼女に助けてもらいたいと思う気持ちもあった。自分自身のことすらわからず、不安がないわけがない。誰も信じられない、誰もわからない、誰にも助けを求められない。そんななかで少女はパスカルの話を真剣に聞き、悩んでくれた。だからこそ巻き込みたくないという気持ちが大きくなって、ゲンガーのさいみんじゅつで眠らせるに至ったのである。そうしなければ、弱い部分をさらけだして、少女に助けを求めてしまうに違いなかった。男の意地もあったのだろう。だが、少女の安全を考えれば当然の行動だった。
不意打ちで眠らされ、その直前に騙されていたとなればきっと彼女は怒るだろうとパスカルは思っていた。もし話を信じかけていたとしても、パスカルを追いかけて面倒事に首を突っ込もうなどという気は起きないはずだ、と。
なのに彼女は、パスカルを再び窮地から救ってくれたのである。
――キミの力を貸してほしい。
昼間言えなかった言葉がパスカルの喉をするりと通りぬけた。少女はうなずいた。
巻き込んでしまった。自分の意思で。ならば、精一杯抗わなければならない。
ふいに、ポケモンの吼え声が聞こえてきた。尋常ではないその声に、パスカルは足を速める。目的地まであと少しだった。
ヘルガーが追いついた時、パスカルは屈みこんで何事かをしている最中だった。主人の命令を遂行するためにヘルガーは跳躍し、とてもかわせない速度で少年の背中へとせまっていく。あと数歩で牙が届くという頃会いになってようやく少年は振り返り、せまりくるヘルガーに恐怖の表情を……浮かべなかった。彼の疲弊しきった顔に広がったのは喜色だったのである。
ぐんぐんと速さを増す四肢が突如なにかに絡めとられ、ヘルガーは激しく転倒した。土が跳ね、小石が皮膚を摩擦する。ヘルガーがなんとか身を起こすと、パスカルは板状の物を持って立ちあがっていた。
「キミのトレーナーが一緒に来てなくてよかったよ。穴に気づいたらさすがに迂回させるだろうからね」
辺りの地面は一様に肌をえぐられ、でこぼこ道になっている。パスカルがモモンの実を探している時に見つけた、ホルビーたちの群れが掘った足場の悪い場所だった。気をつければ足をとられることはないが、トレーナーの指示もなく走りぬけようとする四足のポケモンがいたならば、確実にかかる自然のトラップとなる。
だがそれだけではヘルガーを諦めさせることはできなかったようだ。喉を鳴らし威嚇するヘルガーに退避の意思は見られず、いまにも跳びかかろうという気概に満ちていた。
「これを用意しておいたのも無駄じゃない、か」
エクセラから貸してもらったヒトツキの鞘を肩まで振りかぶり、パスカルはえいやっとそれを投げ飛ばした。ブーメランのように勢いよく飛んでいった鞘は、しかしヘルガーの真上を通過し、生茂る草むらのなかに消えてしまった。ヘルガーは鞘を気にも止めず、じりじりとパスカルとの間合いを詰めてくる。気を逸らそうとして投げたのだとすればどう見ても失敗だ。
間合いを詰めたヘルガーがついに後ろ脚を蹴りだそうとしたその瞬間、彼らの周りを小さな生き物が隙間なく囲んだ。緑色の体に黄色の触角が生えたポケモン――ゴクリンである。集まって来たゴクリンは怒っているのか、体の大部分を占める胃袋を膨張させてパスカルとヘルガーを威嚇している。ヘルガーもゴクリンたちを唸り声で牽制し、場に剣呑な空気が流れた。一石を投じればはち切れてしまいそうな、ぴんと張り詰めた糸が目に見えるようだ。
「おおーい、ヘルガー! もう捕まえたかー?」
暢気な声と、草をかき分け現れた赤スーツ男が糸をぷつりと立ち切った。
瞬間、ゴクリンたちは一斉に口から紫色の刺激臭がするけむりを解き放った。円の中心にいたヘルガーとパスカルは毒の煙に包まれていく。とっさにヘルガーは手近にいたゴクリンに体当たりをして霧から逃れようとしたが、その間にたっぷりと毒を吸い込んでしまったのか、数歩踏み出したところで倒れ伏してしまった。
「うわ、なんだこれ! あわわ……こ、こっちに来るなって!!」
ゆっくりとだが自分に近づいてくるゴクリンの群れに赤スーツは慌ててヘルガーをボールに戻すと、音を立てて唾を飲んだ。ゴクリンが一匹、また一匹と膨れだしたのである。この量のゴクリンが吐き出した毒を吸い込めばひとたまりもない。額に冷や汗が浮かぶ。
「こ、ここはスマートに――逃げる!」
ぱっと身を翻し、それまでの気だるさはどこへやら、男はあっという間に逃げ出してしまった。ゴクリンたちも地を這ってあとを追う。間抜けな悲鳴と断続的に空へ放たれる毒の塊が、彼らの進路を描き出していた。
悲鳴と毒ガスが薄れた頃、炎が穴のなかから飛び出した。いや、炎ではない。ぼさぼさ頭である。続けて汚れた顔が現れ、長い体が穴からすっくと立ち上がった。
パスカルは手にしていたスプレー缶を見て笑みを浮かべた。彼の手にあるのは半額のシールが貼られた「なんでもなおし」だった。ゴクリンたちが毒ガスを吐き出す瞬間に、事前に掘り広げてあった穴に身を沈め、内部に向かって薬を噴出したのである。
モモンの実を探している最中に見つけたホルビーの群れ。そのなかにいた、せっかちなホルビーが掘った穴は他の物よりずっと深く掘られていた。おかげで労力を最小限に抑えて逃げ込める場所をつくれたのだった。
「パスカルさん!」
ヒトツキの鞘を抱えた少女がパスカルに走り寄ろうとし、無数に空いた穴に気づいたのかたたらを踏んで立ち止った。彼女の姿を見て、パスカルは安堵の息を吐いた。
「よかった」
「それはこっちのセリフです。お怪我はありませんか? ゲンガーは無事ですか? それから――」
「ぼくならほら、だいじょうぶ。ゲンガーはあそこに」
木陰に隠されるようにして寝かされているゲンガーを見つけ、エクセラはようやく安心したようだった。
「モモンの実のにおいをつけた鞘を投げて毒タイプのポケモンを怒らせるなんて、危険すぎます。こんな状況じゃなかったら絶対に止めていましたよ」
鞘に塗られた果汁を草で拭いながら、エクセラはパスカルを睨んだ。
「あはは……危なかったねー」
「なんでもなおしが無かったらどうするつもりだったんですか」
「それはその、残ったモモンの実で解毒できたらなぁ、なんて」
「無茶です」
「だよねえ」
頭をかき、パスカルは空を見上げた。
紫色に染まりつつある天は暗く、風は冷たさを含みつつある。太陽の時間は終わりを告げ、辺りは刻一刻と月の時間になる。
ようやく、彼の騒がしい一日も終わりを迎えようとしていた。