第四話 少年奔走
凶悪なつっぱりがパスカルの体を吹き飛ばした。電柱すらへし折る、と言われている攻撃に少年は成すすべもなく地に伏した。同じように転がっているゲンガーも、すぐには起き上がれそうにない。勝敗は決してしまった。
襲撃者の赤い靴が見える。
痛みと衝撃にあえぎながらも、間違ってなかったなと彼はつぶやいた。
そう、判断は正しかったのだ。
「ママー、おにいちゃんがおうちにのぼってるよ」
母に連れられて買い物へ出ていたちいさな男の子が、驚きを以ってふくよかな手を空へ向けた。
「あら、それは大変ねえ」
母は苦笑し、重い買い物袋を持ち直すと息子の手を引いて歩いていく。男の子は引きずられながら不服そうにくちびるを尖らせたが、視線の先にいる少年が屋根の上からにこやかに手を振るのを見て自然と顔をほころばせた。遠ざかっていく少年に向かって一生懸命に手を振り返すと、男の子は母親にしがみついたまま今起こった嬉しい出来事をつたなく伝えるのであった。
親子が街角へ消えるのを見送り、パスカルはもう一度向こう側の建物との距離を目測し出した。
いくら建物が密集しているとはいえ、無理な跳躍をすれば危ういものだ。足を滑らせないとも限らないし、もし建材が欠けて歩行者の上に落ちでもしたらと思うとぞっとしない。時間がかかっても手堅く回り込むのが一番だろうか。しかし、とパスカルは腹這いになりながら街道を見下ろした。
赤い髪と赤いスーツの男女が何かを捜しているのか、しきりに左右を確認しては苛立たしげに語気を荒げて言い争っている。言葉の端々に上がる「あの子ども」という単語がどうやら自分を示しているらしいと予測し、パスカルはそっと息をはいた。思っていたよりも追手のせまるのが早い。もう少しかく乱できるだろうと見込んでいたのだがとんだ大誤算だった。このまま屋根から下りれば鉢合わせする可能性が高く、かといって対向する建物へ跳び移るのも賭けに近い。
ゲンガーのように透明になったり、浮遊できればどれほどいいだろうと想像して、パスカルは二度目のため息をついた。できないことを仮定することほど寂しいものはない。ここは諦めて様子見をするべきだろう。
そう考えていると、呆気ないことに二人組は北の方へにわかに歩き始めた。どうやら十三番道路に向かうらしい。今日はついてる日だな、とパスカルは思った。昨日など散々な目にあったものだ。逃げるためにヘドロのなかをほふく前進で突っ切り、空腹に目をくらませながらひた走り続けたあげく、足がうまく動かずに何度か転んでしまった。
完全に二人組が視界から消え、パスカルはほっと胸をなでおろした。青いアスコットタイを結び直し、名残惜しさを込めた目でポケモンセンターのある方角を振り返った。
自分の決断は間違っていないはずだ、と心の中で自己弁護めいたことを考える。
あの時に別れていなければ、少女にさらなる被害が及んでいたのだ。パスカルが思っている通りの連中ならば、いくら関係がないと主張をしても彼女を巻き込んだに違いない。現にヘルガーとレパルダスを使役していた男は無関係の少女に敵意をむき出しにし、周囲の人々に与える危険性を視野に入れることなく戦いを挑んだのである。彼女があれほどの使い手でなかったなら、きっと少なくない被害が出ていただろう。被害が拡大するとなればパスカルもさすがに降参するしかない。
そんな過激すぎる連中でも、まさかポケモンセンターの中にまで手出しはしないはずだ。
そう思いつつも、パスカルはぐずぐずとして足を踏み出せずにいた。だが、少女に感謝すればこそ、自分の弱さが招いた迷惑をかぶせ続けるわけにはいかない。自分がこの街から出れば、あの連中も少女をしつこく追うようなマネをする必要がなくなるのだから。
振り切るように頬を叩き、パスカルは身軽に脇道へ跳び下りた。そのまま何事もなかったかのように大通りに合流する。つい今しがたまで屋根を跳び歩いていたとは誰も想像できないだろう。彼はできるだけ目立たないように顔を伏せながら歩き、五番ゲートまでの距離を用心深く縮めることにした。
赤スーツだけが追尾者とは限らない。
この街はいたるところに様々な人がいる。赤スーツを着ていなくても彼らとなんらかの協力関係にある人がいたとすれば、パスカルは早々に捕えられてしまうだろう。考えすぎなのかもしれないが、警戒するにこしたことはない。
幾度となく関係のない角を曲がり、人込みに紛れ、時には屋根の上を伝い歩いて、ようやく数歩先に五の数字を掲げたゲートが見えてきた。ここまで来れば安心、とまでは行かないがそれほど気を張らなくても済むはずだ。姿を現したゲンガーと共にゲート内に足を踏み入れると、軽い冷房がかかっているのかホコリっぽいひんやりとした風が頬をかすめた。知らず汗をかいていたパスカルはぶるりと体を震わせる。長居すると風邪でもひいてしまいそうだ。
「ええっと、五番道路の先は……」
観光客用の壁に貼られた大きな地図に目を通す。モンスターボールを模したシールの貼られている部分が現在地で、道を辿っていくとコボクという町に着くようだ。口に出して読んでみるが心に引っかかる名前ではない。
「行きたいのはこの町じゃない、か。……ううー!」
早々に目的地が見つかるなどという甘い考えを抱いていた訳ではなかったものの、パスカルはずいぶんと落胆してしまった。うなだれ、頭をかきむしり、地団太を踏む。その異様な光景に、ゲートを通ろうとしていた老夫人が怪訝そうな顔をしながらパスカルを大きく避けていく。行動が奇怪なだけでなく、現在のパスカルは誰がどう見てもひどい有様をしていたのだからこれは明白たる反応といえた。泥まみれだった白いジャケットは背中が丸く焦げており、腹部を灰色の汚れがだんだらに染め、同じく元は白かったズボンなどはもう何がなんだかわからないくらい汚くなっている。清潔さからは何よりも遠く、おしゃれとは犬猿の仲といえる強烈な格好をしているのだ。それに、少しにおう。しかし本人に服装の乱れを気にしているほどの余裕はないので早期の改善は期待できそうになかった。
落ち込んでいるパスカルを心配したのか、丸い体を傾けてゲンガーが顔を覗き込む。パスカルはゲンガーの顔を見ると不敵に笑ってみせた。
「ふふん! ぼくはこれくらいじゃヘコたれないよ! なんてったって――えーっと、なんだろ。あはは……そうだよね。こんなとこで、がっかりしてられないよね。とりあえずこの街から離れよう」
照れくさそうに何度もうなずくと、パスカルはゲンガーを連れて五番ゲートを出た。
――カロス地方の夜は遅い。
他の土地と比べると日照時間が長く、夜の訪れはゆるやかにやってくる。おかげで夕方といえる時間になっても陽は高くに居座り、力強く大地を照らしてくれている。光の苦手なゲンガーは嫌そうにしているが、バックパッカーのような旅行者にとっては心強いことこの上ないだろう。もちろん、土地になれていないパスカルにとっても心強い。明るいうちに進んでおかないと野営の道具すら持たない少年には少々きついものがある。
風に舞い上がるハネッコの群れがちらちらと陽光を遮るのを見上げ、パスカルは最前まで沈んでいた気分をすっかり払拭してしまったらしい。ご機嫌にデタラメな鼻歌をくちずさむ。街に近いせいかあまり自然豊かとはいえないが、それでも緑は目に楽しい。目覚めてからこちら、赤い壁だの立ち並ぶビルだのといった無機物ばかり見てきたパスカルとしては高揚するのは当然の摂理であった。
「うわあーん!」
突然、てくてくと歩いていたパスカルの前方から子どもの泣き声のようなものが聞こえてきた。ゲンガーと顔を見合わせ、どちらともなく走りだす。声を辿って生茂る雑草をかき分けていくと、ふたつの小さなシルエットが見えてきた。
聞こえていたのは子どもの泣き声のような、ではなく正真正銘子どもの、それも幼い少女の泣き声だったようだ。四、五歳くらいだろうか。顔立ちのよく似通った子どもがふたり、頬を涙にぬらして地面に座りこんでいた。駆け寄って来たパスカルに気づいた女の子は身を固くし、指の色が白くなるくらいモンスターボールを強く握りしめた。怖がらせないようにパスカルはゲンガーに目配せをした。怯える子どもにゴーストタイプはあまり効果的ではないだろう。ゲンガーはパスカルの足元から伸びる影に、音もなくもぐりこんだ。自分の影にゲンガーが入ると体温を奪われる、といわれているがパスカルは平気そうである。
パスカルがしゃがみこむと、ずっと泣いていた女の子はしゃくりあげながらも彼を見やった。
「キミたちどうしたの? 迷子?」
「……ううん、ちがうの」
「うーんと、それじゃあ、どこか痛いのかな?」
「ううん。あ、あのね、あたちのマイナンちゃんが」
細い腕にポケモンが抱かれている。長い耳の先と頬が青く、全体は黄色い体毛に包まれている小柄なポケモンだ。つらいのか、力なく目をつむっており、息も浅いようだった。
「ちょっと見せてもらってもいいかな」
「おにいちゃん、マイナンちゃんをたすけてくれるの?」
「もちろんだよ。ぼくに任せて!」
女の子は涙のつぶをこぼしながらも、安心した様子でマイナンを優しくパスカルに手渡した。見たところあまり鍛えられていないポケモンだ。野生のポケモンと戦えば軽度の怪我をしていてもおかしくはない。パスカルは慎重な手つきでマイナンの耳や手足を調べ、外傷が特にないのを確かめた。
顕著になっているのは呼吸の乱れ、意識障害、血圧の低下。症状は明白だ。
おそらく毒タイプの技、どくガスを吸い込んだのだろう。そういえばこの子どもたちはパスカルが現れた時にひどく怯えていた。野生ポケモンに出会ったのだとすれば大きな音に敏感になるのも当然のことである。
ざわざわと揺れる緑の波間にひそむ謎の存在を想像し、パスカルは眉をしかめた。このまま草むらに囲まれているのは危険だ。しかし今無理に動かせば毒のまわりが早くなってしまう。最善策はパスカルがこのままミアレシティへ引き返し毒消しを買ってくることだが、彼は追われている身である。見つかってしまえばこの少女たちを助けることすらできなくなってしまう。他の方法を探さねばならなかった。
――このあたりに毒タイプのポケモンが生息しているということは、他の野生ポケモンたちも日々毒の脅威に晒されているはずだ。
なのにさっきから毒にかかっているふうなポケモンは見かけていない。毒タイプの犠牲になりやすい草タイプのハネッコですら気持ちよさげに空を舞っていたのだ。そう遠くない場所に毒に効くきのみが生っていると考えられる。見つけるのに時間はかかるだろうが、それが一番いい方法に思えた。
「キミのマイナンちゃんは悪いものを吸っちゃったみたいなんだ。元気になるためのお薬を探してくるから、怖いかもしれないけどこの子をモンスターボールに入れてふたりでじっとしててね。できるかな?」
ふたりは顔を見交わすと互いに手をつなぎ、こくりとうなずいた。
「うん……!」
「えらいえらい! それじゃ、ぼくは行ってくるね」
マイナンを女の子の膝に乗せ、パスカルは立ち上がる。ふたりの傍を通る瞬間、彼の影が奇妙にねじ曲がり、草むらから伸びる影へと何かが移ったように見えた。パスカルが地面に向かって軽く手を振ると影のなかから赤い瞳が笑いかけ、すぐに消えていった。
見つけなければいけないきのみはモモンの実だ。
モモンの実は非常に甘味が強く、食用に向いている。野生のポケモンたちのなかにも甘味を好くものは多いはずだ。パスカルは辺りを注意深く見回した。
土が空に上げられ、ばらばらと空中で崩れていくのを見つけ、パスカルは何かを思いついたのかそちらへゆっくりと近寄っていく。土は繰り返し打ち上げられ、粉々になって周囲に降りそそいでいる。その下で頭を地面に押し当て、器用に土を掘り進んでいるポケモンがいた。掘るために使われているのは手ではない……長い耳だ。カロス地方に多く生息するあなほりポケモン、ホルビーである。別名の通り、穴を掘ることにたけており、発達した耳を使って固い土をくり貫くことができるのだ。
パスカルはホルビーに見つからないように草むらのなかで屈みこんだ。彼に気づかず、ホルビーはいそいそと作業を続ける。仲間らしきホルビーも数匹穴を掘っているが、パスカルが目をつけたホルビーはせっかちなのか休む素振りすらみせずにひたすらに耳を動かしている。
せっかちなポケモンは甘い物を好む。その理屈はわからないが、統計上ではそう出ていた。このホルビーが腹を空かし、移動した後を追えば高い確率でモモンの実にたどり着けるはずだ。きのみを闇雲に探して野生のポケモンを刺激してしまっても、パスカルには応戦する手段がないのである。慎重に行動しなければならない。
じっと見ていると、ホルビーが急に顔を上げた。前屈みになり、ひょこひょこと跳ぶように走っていく。その姿がじゅうぶんに遠ざかってから、ようやくパスカルは後を追いかけだした。
モモンの実を押しつぶし、果汁を滴らせる。マイナンの薄く開いた口に汁の幾滴かが滑り込んだのを視認し、パスカルはマイナンの口を手で塞いだ。ごくりと喉がしなる。
ふたりの少女が見守るなか、マイナンは緩やかに目を覚ました。わっと、持ち主の少女が泣きだしたが、それは初めにみた涙とは違うあたたかなものだった。絶対にだいじょうぶだと思っていたものの、効果が出たことにパスカルは安堵した。
「マイナンちゃん! マイナンちゃん!」
「よかったね、クミちゃん!」
もうひとりの少女にクミと呼ばれた女の子はぽろぽろと泣きながら、マイナンを強く抱きしめる。すっかり毒気が抜けたのだろう、マイナンも応えるように女の子を抱きしめた。
「ありがとう、おにいちゃん! マイナンちゃんをたすけてくれて」
「どういたしまして。困った時はお互いさまだからね。でも、これからは毒消しとかちゃんと持って遊びにくるんだよ」
「うん!」
元気よくうなずいたクミは、しかし何かに怯えたかのように顔を強張らせた。マイナンの青い頬袋から小さな電気が弾ける。
「ようやく見つけたわよ、坊や」
「さっきの借りは返させてもらうぜ!」
「まさか……」
嫌な予感をおぼえつつ振り返ると、赤いスーツを着込んだ女と男がポケモンを従えて立っていた。男の方には見覚えがある――数時間前までパスカルを追いかけていたあの男だ。
パスカルは咄嗟に女の子を背中に庇い、赤スーツを見据えた。まずいことになってしまった。無関係の人を巻き込まないようにと街を出たというのに、こんなところで幼い子どもを巻き込むことになるとは予想だにしなかったのである。
退けることも一瞬考えたが、彼らが出しているポケモンはずいぶんと気性が荒らそうだ。ヘルガーは相変わらず極度の興奮状態である。対して女の傍で仁王立ちしているポケモンはパスカルの背など軽く追い越すほどの巨体であったし、なによりその太い腕から繰り出されるであろう攻撃はいかにも重そうだった。影にひそんだままのゲンガーに目配せをする。
「ふたりとも、逃げるんだ!」
パスカルが叫ぶとゲンガーが影から飛び出し、追いすがろうとしたヘルガーをじっと見つめた。吸い込まれるような眼差しにヘルガーは足を止める。
「ちっ! くろいまなざしか! ゴロンダ、アームハンマー!」
「ヘルガーはかみつくだ!」
子どもたちを守ろうと身をひるがえしたゲンガーにヘルガーが牙をたて、ゴロンダと呼ばれたポケモンが怯えきった子どもたちに腕を振りおろした。パスカルがゴロンダと少女たちの間に割って入ったのは、まさに拳が幼い命を押しつぶそうとしたその時だった。
「あ……おにいちゃん」
「にげ、る……んだ! はや……くっ」
ゴロンダの拳を両腕でなんとか防いだものの、パスカルは激痛を感じていた。あともう一発同じ技を繰り出されても防げる自信はない。頼りのゲンガーもタイプ相性の不利な相手に苦戦している。今、なんとか逃がす隙を作らなければ、皆やられてしまう!
「はやく!!」
クミは嫌だというように首を振っていたが、もうひとりの少女に連れられ、のろのろと走りだした。赤スーツは逃げる子どもたちをどうするか迷ったようだったが、捨て置くことにしたのだろう、すぐにパスカルへ視線を移した。その目に浮かぶ気配に、パスカルは背を粟立たせる。
「そうね……せっかくだもの、楽しませてもらおうかしら」
女の顔に、残忍な笑みが広がった。