第三話 少女決起
プラターヌは待ちかねたベーグルサンドを頬張りながら、どうしたものかと思案していた。視線の先には作業に打ち込む少女の姿がある。表面上は変わったところはないように見えるものの、パソコンのキーボードを打つ手が心なしか強く、そしてどことはなく近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。人によっては取っつきにくいところはあるかもしれないが、エクセラはすぐに怒ったり焦れたりするような少女ではない。彼女にしては珍しいことだった。珍しいといえば彼女が長く外出をしたのもまれなことである。普段なら一時間もしないうちに散歩を済ませてくるのだが、今日は何時間経っても戻ってこず、夕方になってようやく帰ってきたのだ。
不機嫌の原因をプラターヌなりに考えてみるも、心当たりはまったく見当たらなかった。何かがあったとすれば息抜きの最中、それもプラターヌと通話したあとのことだろう。本人に原因を訊くのはさすがにはばかられたので、プラターヌは黙々と食事を続けた。
明日、この研究所に図鑑とパートナーポケモンを受け取るために新人トレーナーが訪れる。
ポケモン図鑑は数年前にカントー地方のオーキド博士が考案し、作り上げたものだ。この図鑑は出会ったポケモンを自動で記録し、捕獲することによってさらに精密なデータを書きだす機械である。できれば数年ごとに定期的なデータの更新を行うことが好ましいとされているのだが、そのために博士や助手がたびたびフィールドワークに出かけていては効率が悪い。かといって、観察を怠れば研究結果は役に立たない文字の羅列になってしまう。そこでオーキド博士が実践したのは「新人トレーナーを臨時の弟子にする」ことだった。彼らの旅の後見人となる代わりに図鑑を託し、道中様々なポケモンの生態を記録してもらうのだ。しかし精密な調査を科すことはしない。あくまでもトレーナーたちの旅に付随するものとして託した。それが功を奏したのか、図鑑は一年足らずで完成し、他地方の研究者たちもオーキド博士に倣って新人トレーナーたちにポケモンの譲渡と図鑑の委託を始めた。プラターヌも三年前からポケモン図鑑を使用した調査を取り入れており、メガシンカに繋がる情報を新人トレーナーたちと日夜探している。
それに、子どもたちが気兼ねなく旅をできる環境を提供したいとプラターヌは日々思っていた。プラターヌ自身、今より若輩の頃ポケモンを伴ってカロスの各地を旅したことがある。彼の家は比較的裕福で、両親は息子の奔放な旅路のために援助を惜しまずにしてくれた。当たり前のように旅をしていたが、長じるにつれてプラターヌは己の境遇がいかに恵まれたものだったかを知った。現在のようにトレーナーに様々な免除が施されていても、旅をするにはそれなりの費用を要する。約半数の新人トレーナーは旅をせず、トレーナー免許を取得しても進学か就労かを選択するのだ。旅をしていればその期間が進学にも就職にも不利になると考える人々が多いのも要因だろう。しかし、ポケモン図鑑を託された子どもは一年の間だけ特別待遇学生扱いとなるので、依頼すれば引き受ける者が多いというメリットもある。
いつか新人トレーナーの誰もが気兼ねなく旅をできるようになれば、と思う。それによって図鑑を携えた旅を断られるようになったとしてもだ。
「博士、あとはこの子たちの所有情報を消去すれば完了です」
エクセラが汗ばんだ額をぬぐいながら告げる。プラターヌはベーグルサンドの包み紙をくしゃりと丸め、うなずいた。
「それじゃあ、念のために予備電源も接続しておこう。作業中に停電でも起きたら大変だからね」
「わかりました」
ドーム型のモンスターボール収納機のなかには、三つのボールが置かれている。現在の親情報はプラターヌになっているので、いったん逃がした状態にせねばならないのだ。交換という形で譲渡すると親情報が書き換えられず、新たなトレーナーの実力が低い場合には相手を認めないためにほとんど命令を聞いてくれないのである。ならば逃がしてから再度捕獲すれば強いポケモンでも命令を聞くようになるのか、と言われれば明確にそうだとはいいきれないところがある。けっきょくのところ、トレーナーの実力が未熟で彼らに対する愛情がなければ、戦いの場で一挙手一投足をあずけられるわけがないのだ。
予備電源への接続を確認し、プラターヌは白衣の裾で手を拭いてから収納機の前に立った。認証のためのパスコードを入力し、青いボタンを押した。モンスターボールの赤い部分に目で追い切れないほどの数字がびっしりと走った。
「よし、これで準備はできたね」
何事もなかったかのようにモンスターボールは元の色に戻り、収納機から低い作動音だけが聞こえている。ここに入れておけばポケモンの体調も悪くなることはなく、新しいパートナーに出会うまで眠り続けることができる。さながら無粋なゆりかごだった。
「エクセラ、ごくろうさま! 今日はもう帰ってもいいよ」
「……それではお先に失礼します」
おつかれさまでした、と丁寧に頭を下げ、エクセラは研究所を後にした。
外はまだ明るく、昼間よりは通行人も減っているものの賑わっていた。ヤヤコマの美しい歌声が喧騒のなかにとけ込み、ミアレでしか聞けないハーモニーをかもしだしている。人の行きかう流れに赤い髪を探そうとしている自分に気づかないまま、エクセラは自宅へと足を向けた。
歩き出しながら、彼女はポケットから一枚の紙切れを取り出した――。
ポッポ時計が六回鳴いたその音で、エクセラはにわかに覚醒した。
座ったまま気絶していたのだろう、身じろぎすると肩から毛布がずれ落ちた。視線を向けてみると、どうやらポケモンセンターで貸し出している緑色の毛布のようだった。ジョーイか手伝いのプクリンが掛けてくれたのだろうか。彼女がぼんやりしながら毛布をたたんでいると、モンスターボールが二つ乗ったトレーを手に、ジョーイが歩いてきた。
「あら、起こさなくてもだいじょうぶだったみたいですね。お預かりしたポケモンはすっかり元気になりましたよ」
「あ……ありがとうございます」
リザードとヒトツキの入ったボールを受取り、ホルスターにしまう。その一連の手つきがおぼつかなかったのを心配したのか、ジョーイは「もう少し休んでいきますか?」と声をかける。
「いえ、ご心配なく。それから毛布、ありがとうございました」
「あら、それなら男の子があなたに掛けていったんですよ。冷房でひえたら大変だって。仲がいいのね」
微笑ましいといわんばかりの言葉にエクセラは驚き、毛布に目をやった。
まさか。だってパスカルはあの時ゲンガーを使ってエクセラにさいみんじゅつをかけ、二時間近く眠らせたというのに。いったいどういうつもりなのだろう。
「あ、そうそう。お友達からこれを渡してほしいって言われてたんだわ」
そう言ってジョーイから手渡されたのは、二つ折りになったメモ用紙だった。
ジョーイが受付に戻るのを見送ったあと、エクセラはメモ用紙を開いた。ポケモンセンターの備品らしい薄くモンスターボールが印刷されている紙には、走り書きにしてはきれいな字が並んでいた。
――ぼくの話を嘘だと決めずに聞いてくれてありがとう。今はきっと全部嘘だと思っているだろうけど、もしどこかで赤いスーツと赤いサングラスの人に出会っても関わらないでください。これだけは信じてほしい。あの人たちは危険だ。
短い文章を何度も読み返し、エクセラは説明できない怒りのようなものが心のなかで煮えたぎっているのを感じていた。それは果たしてパスカルの優柔不断な言い分に対してなのか、それとも自分を侮られたと感じたからなのか。エクセラ自身ですら訳がわからないもやもやとした感情がうずまいている。
彼女は一瞬メモを捨てようかと迷ったが、元通りに折り、ポケットに入れた。
取り出したメモ用紙を見ていると、再びあの何とも言い難い気分になってくる。
これは怒り? それとも悔しさ?
自分の心を顧みてもそれは違う、と否定する応えが返ってくるばかりだ。ではいったいなんだというのか。じっとしていられなくなるような、熱い気持ちがひたすらエクセラを突き動かそうとしている。それは二年の間ずっと立ち止っていた彼女に懐かしいような、恐いような、奇妙ともいえる感覚を与えた。
――たまたま助けた人なのに、どうしてここまで気になるの?
思わず足を止めたエクセラの横を鮮烈な赤が掠める。はっとして目で追ったが、すらりとした女性が足早に去っていくところだった。今の女性が赤いサングラスをかけていたために赤スーツを連想してしまったが、サングラスぐらい誰だってかけている。赤いスーツだって一部で流行しているだけなのかもしれないのに。
これではまるで、赤いスーツと赤いサングラスの怪しい集団に出会いたいと思っているみたいではないか。
――違う。
ポケモンセンターで少年と話した時、彼が嘘を吐いているようには見えなかった。なのに彼は話している途中で今までのことをひるがえし、エクセラを眠らせて姿を眩ませてしまったのだ。もしパスカルの話が嘘ではなく本当の話だったとしたらどうだろう。彼が故意にエクセラを危険から遠ざけようとしたと考えられないだろうか。その考えがあまりにも甘く、パスカルという少年を買いかぶりすぎているのだとしても、彼を悪人とするよりは説得力があるように思えた。それにただエクセラを傷つけたかったのだとしても、こんなメモを残したり毛布をかけていく必要はない。
エクセラはもう一度自分の心に問いかけた。あなたはどうしたいの、と。
答えは簡単だ。
――わたしはもう一度パスカルさんに会いたい。
会って、ちゃんと話をしたい。
そう認めてしまうと胸のわだかまりはすっと清涼に消え去ってしまった。エクセラは走りだした。突風のように駆け抜けていく少女を、過ぎ去る通行人たちが何事かと振り返る。エクセラは暑さも息苦しさも忘れて、一心不乱に走った。走れば走るほど心が動く。
あの日からずっと、走りだせないでいた心が。
エクセラが暮らすアパートメントは研究所からそれほど離れていない。それでも到着した頃にはすっかり息があがってしまっていた。乱れる呼吸を整えながら、エクセラは駐輪場に停めてあった青色の自転車に飛び乗った。遠くで働いている父から誕生日プレゼントとして送られてきたものだ。普段はあまり乗らずにいたのだが、今日ほど自転車があって嬉しいと思ったことはない。
「十三番道路から回るか、五番道路から回るか……」
おそらく人目を避けて行動したに違いない。彼が人目を避けるとすれば。
エクセラの視線は自然と上へ向いていた。ビルの連なり。エイパム顔負けの運動神経。そこから導き出される答えは決まっている。
「五番道路!」
タイヤを軋ませ、エクセラはペダルを強く踏み込んだ。
時刻は七時を少し回ったくらいだった。今から急げば暗くなる前にはコボクタウンに着けるはずだ。それよりまずはゲートでパスカルを見かけなかったか聞かなければ。それからそれから……。
頭のなかをいろいろな事が飛び交う。明日のパートナーポケモンの受渡しには絶対に同席しなければいけないとか、もし五番道路の方にいなかったらとか、夕飯が遅れるけれどポケモンたちはがまんしてくれるだろうかとか。玉石混合の意識のままエクセラはペダルを漕ぎ続ける。
パスカルを赤スーツが先に見つけていなければいいのだが。彼はゲンガーと一緒にいる割にはバトルをしないようだったし、見つかってしまった場合は多勢に無勢だ。逃げきる可能性もあるが一度逃げられているのだ、向こうも手加減はしないだろう。ポケモンに人を攻撃するように命令するような人がいるのだ、嫌な想像を杞憂だと思うことはできなかった。
きゅっとタイヤを鳴らしてブレーキをかけ、エクセラは珠のような汗をぐっと拭う。ようやく辿り着いた五番ゲートは閑散としていた。休憩用のソファーに観光客らしい人が座っているくらいだ。
受付に近づくと、暇そうに欠伸をかみころしていた男がすっとんきょうな声をあげた。
「なんだい、お譲ちゃん」
「つかぬ事をお聞きしますが、数時間前に赤い髪のぼろぼろな少年とゲンガーが通りませんでしたか」
「ああ、あのボーヤの知り合い? 彼なら二時間くらい前に通っていったよ。それにしても、あの子すごい人気だなぁ。さっきも派手な二人組が聞いてきたし」
「もしかして赤いスーツの人ではありませんか!?」
「へ? あー、そうそう、真っ赤なスーツで頭も赤い……もしかして何か事件とか」
やはり赤スーツは他にもいたのだ。同じ方向に行ったのならすでに遭遇していてもおかしくない。先を急ごうとしたエクセラの首根っこを、身を乗り出した男がむんずと掴んだ。
「ちょっと待てよ、お譲ちゃん! あの二人組、えらく殺気立ってたぜ。あんた一人じゃ危ないよ!」
「でも、行かないと!」
「どうしても行くってんなら、これを持っていきな」
男は手を離すと受付台の下から何かを取り出してきた。
「これは……」
「役に立つかどうかはお譲ちゃん次第だけどな。いいか、気をつけていくんだぞ」
「はい! ありがとうございます」
貰った物をポシェットにしまうと、エクセラは今度こそ自転車に乗り込んだ。
目指すは五番道路、枯れた味わいの町コボクタウンだ。