第二話 持たざる者
ぴゅーっとまぬけな口笛が隣であがった。そちらを見るまでもない。真っ赤な髪のぼろぼろな少年がショーケースに並ぶ豊富なベーグルサンドを讃えただけだ。はしたない行為をたしなめようかと一瞬思ったが、店員の穏やかなほほえみと、芳ばしいベーグルの匂いに免じてそっとしておくことにした。エクセラだってお腹はすっかり空いている。ぺこぺこのペロッパフだ。
ここはミアレでもかなり美味しい、ベーグルサンドを専門に取り扱う隠れ家的なカフェである。昼食の時間を過ぎているからだろう、客足は少なく、おかげで彼の身なりを見咎める者はいなかった。エクセラの勧めでようやく手だけはきれいになったものの、服はどう繕っても「あら元気に泥んこ遊びでもしたのね」程度にしか改善できなかったのである。
あのあと――エクセラは周囲から無遠慮に注がれる好奇のまなざしから、空腹を訴える少年を半ば引きずりながら逃れたのだった。エクセラだけならまだしも、事の発端と思わしき少年が現場に居てはまずいと判断したのだ。あの場の誰かが警察を呼ばなかったとも限らない。エクセラはその歳にしては珍しく法規制を順守する子どもだったが、どうにもこの哀れな男の子を放ってはおけなかった。同情というわけではない、と思う。彼女の強い正義感が無意識下に彼を助けようとしたのだろう。
エクセラはいつものようにプラターヌの好きなサーモンサンドと、自分用にハムチーズサンドを注文することにした。彼女が支払いのために財布を取り出すと、それまで必死にあれこれと見比べていた少年の赤い頭が上がった。嬉しそうだった数瞬前の表情とは打って変わって、彼の顔は不安にかげっている。
「どうかしましたか」
「ぼく、お金持ってない……」
汚れたジャケットを叩いて少年は肩を落とす。なるほど、ポケットには財布が入っているような膨らみはない。隣でゲンガーが同じ仕草をして肩をすくめた。
エクセラは自分の財布に目をやり、小さくうなった。ぱかりと開いたゴクリンの口のなかに、千円札が一枚と五百円が一枚と百円が二枚。お世辞にもたくさん入っているとは言い難い。貸すことができないわけではないのだが、これではひとつ買うだけで精一杯だ。今すぐにでも並べられたベーグルを片っ端から食べていきそうな少年が、たったひとつのベーグルサンドでカビゴンさながらの食欲を満たせるとは思えなかった。
「そうだ、トレーナーカード!」
ぽんと手のひらを打ったエクセラを怪訝そうに少年が見やる。
「なにそれ」
「なにって……ポケモン取扱免許ですよ。あなただって持っているはずです」
「え? あー、どうなんだろ。えっと、えー」
もごもごと独りごちながら、少年はポケットに両手を突っ込んでひっくり返した。盛大にめくれあがった左ポケットの布地から糸埃と、名刺大のなにかがこぼれ落ちる。少年は銀色ににぶく光るそれを危なげなく掴み、目を細めた。どうしてこんな物を持っているのかわからない、といったふうだ。
彼はそれをそのままエクセラに手渡した。訝しげに彼女は手元のカードを確認する。エクセラが知っているトレーナーカードと形状は酷似しているが、色は見たことのないものだった。彼女が持っているのは標準色の緑で、プラターヌは青いカードを持っていたはずだ。銀色。そんな色のトレーナーカードが存在するのだろうか。疑問を抱きつつ、エクセラはカード側面にある起動スイッチを押した。
銀色のプレートの表面にはトレーナーインフォメーションの文字が浮かび上がっている。そこを指先で軽く触れると、画面が瞬時に変わり、所有者の名前が表示された。ここまでは普通のカードと特に変わりはない。これは確かにトレーナーカードである。
「パスカル」
浮かび上がった単語を口にすると、少年が「なあに」と返事をした。ということは、間違いなくこれは少年のトレーナーカードなのだ。
「それでベーグル買える?」
「はい。銀行にお金が入っていれば買えますよ」
「銀行」
「はい」
「入ってるのかな、お金……」
「この画面で生体認証をすれば確認できます」
「へえ! なんかよくわかんないけどすごそう!」
この人、免許を交付されてから一度も確認してなかったのかも、と思いつつ少年ことパスカルにカードを渡す。そういえばプラターヌも免許更新の通知が来てようやくトレーナーカードの在り処を探し出す始末だった。バトルをめったにせず、クレジット機能を使わない人からすれば無用の長物なのかもしれない。トレーナーカードのクレジット機能は他の会社の同じようなシステムとは違い、上限が低めに設定されているため使わない人も多いのだ。
パスカルが静脈認証のために人差し指をカードに乗せた。
ぴろりん。
可愛らしい音と共にロック解除の文字が現れ、続けて残高が並んだがパスカルはその数字を認識した途端、眉間にしわを寄せてカードの電源を切った。
よほど残高が少なかったのかとエクセラが気遣わしげにうかがうと、彼はにっこりと笑ってみせた。
「なんていうか、あり得ない金額を見た気がするんだよね」
「それでは私のトレーナーカードで買いましょう」
もともとそのつもりだったのだ。エクセラも普段はクレジット機能を使わないのでシステム自体を忘れがちだったのだが、一応、常時トレーナーカードを携えている。ポシェットからさっと緑色のカードを取り出した。が、パスカルは慌てて彼女の手を押しとどめた。
「ううん、そういうわけじゃなくて。思ってたより桁が多かったというか……とにかく!自分で買えるからだいじょうぶだよ。ありがとう」
無事にベーグルサンドを買い、ふたりと一匹は店を出た。
市街地での戦闘などなかったかのように人の流れは穏やかだ。両腕いっぱいにベーグルサンドを抱えたパスカルと、その後ろにぴったりと張り付いているゲンガーを気にする通行人はいない。店を出た途端に襲われるのではないかという心配は杞憂だったようである。エクセラはボールホルスターから手を外し、パスカルに向き直った。
「まださっきの人があなたを探しているかもしれませんし、一度ポケモンセンターへ行きませんか」
人々の関心がこちらに向いていないとしても、騒ぎのほとぼりが冷めたとは考えにくい。それに、さきのバトルで多少なりともリザードとヒトツキは負傷している。仮に再度の戦いがあった時にダメージが残っていれば動きに支障がでるだろう。どれほど小さな怪我であれ、万全を期しておくにこしたことはない。
ちょうどここからなら、ローズ広場に隣接するポケモンセンターが近かった。パスカルは紙袋の向こうから顔をのぞかせ、遠目に見える赤い屋根を確認する。
「賛成! キミのポケモンを休ませてあげなきゃ。それに、ぼくも早くこれを食べたいな」
歩き出すとゲンガーはパスカルの足元から離れるしかなくなり、やや不服そうに鳴声を上げた。彼を心配しているのか、はたまた直射日光を避けたいのか。どちらにせよ、ゴーストタイプにしては愛敬のある行動だ。パスカルは無関心そうな素振りを見せながらも、ゲンガーのために歩幅を緩めたようだった。
十三番道路の方角から流れてくる川が、街を横切っている。ローズ広場へと続く小街道は澄んだ水面を風が走り、この道を歩くいきものすべてに涼気を与えてくれていた。時折、水中をトサキントらしき影が遊泳していく。ミアレは都会だが、街中で野生のポケモンを見かけることは比較的多い。生ゴミによるヤミカラスの被害は深刻だが、それを差し引いても豊富な種類のポケモンたちを見ることができた。川の環境保護もしっかりとされているので、こうして野生のポケモンたちが生きていけるのだ。
ポケモンセンターに到着すると、パスカルはあっという間にオープンスペースへ飛んでいった。よほど空腹を我慢していたのだろう、席に着くか否かの瞬間にもうベーグルサンドをくわえていた。
エクセラはモンスターボールを回復受付に預け、センターの片隅にずらりと並ぶパソコン型通信機へと向かう。予定よりもだいぶん帰りが遅くなっているのでプラターヌに連絡を、と思ったのだ。慣れた手つきでプラターヌポケモン研究所に発信すると、数コールも鳴らないうちに回線がつながった。
『やあ、エクセラか。どうしたんだい、ポケモンセンターからみたいだけど』
「すみません、博士。少し帰りが遅くなりそうです。できるだけ早く戻りますが……」
『気にしなくてもいいよ、ゆっくりしておいで。せっかくの息抜きだからね』
いろいろな意味で息抜きにはなりましたが、と胸の内で呟きつつ、エクセラは礼をのべた。どこまでも几帳面な彼女の対応に画面越しのプラターヌは優しい苦笑を浮かべ、そういえばと口を開く。
『新しい図鑑所有者が明日、こっちに来るそうだよ。迎えはジーナとデクシオが行くって張り切っていてね。エクセラはどうする?』
「そうですね……お二方に任せましょう。わたしはその間にあの三匹の最終チェックをします」
『そうしてくれるとありがたいな。おっと、詳しい話は研究所でした方がいいね。それじゃあ、楽しんでくるんだよ』
「ありがとうございます。それでは失礼いたします」
通信を終え、エクセラはパスカルの待つテーブルに足を向けた。驚いたことにもう五つほど食べ終えたらしく、テーブルの上には包み紙が散乱していた。
エクセラが長椅子に腰を下ろすと、彼は咀嚼していたベーグルサンドを音も立てずに飲み込んだ。がっついているにも関わらず、口の周りはまったく汚れていない。妙なところで気品を持っているらしい。
「パスカルさん、ひとつお訊ねしてよろしいでしょうか」
「うん、ひとつでもふたつでも」
快諾するパスカルに、エクセラは「では」と言葉を続ける。
「あなたを追いかけてきたあの男の人は誰なのですか」
「……それがぼくにも誰だかわからないんだ。たぶん、何かの集団だとは思うんだけど。全員同じ赤いスーツを着ていたから」
「追われる理由に心当たりはありますか」
「わからない。もしかしたら正当な理由があったのかもしれない」
そこでパスカルは逡巡するかのようにまぶたを閉じ、一度深く息を吐いてから再びエクセラを見据えた。
「実は――ぼく、二日以上前の記憶がないみたいなんだ。だからあの人たちがどうして追いかけてくるのかはわからない。自分の名前がパスカルってこと以外、何も覚えていないんだ」
現実離れした回答に、エクセラは覚えず瞠目した。
記憶喪失という謎めいた単語が脳裏をよぎる。しかし、目の前の元気な少年が記憶を失くしているなんて、とてもじゃないが信じられない。そんなエクセラの心情を察したのか、パスカルは困ったふうに頬を掻いた。
「まあ、信じられないのも無理はないさ。ぼく自身、目が覚めた時は何がなんだかよくわからくて戸惑ったし、今だってどうしていいのかさっぱりだよ。とりあえず、ぼくはどこかへ行って、何かをしなければいけないんだ。それ以外ちっとも思い出せないけど、きっとすごく大切な事だってのはわかるから。できれば今すぐにでもこの街を出て、目的の場所を探したいと思っている」
彼の声音は嘘を言っていると思いたくないほど真摯なものだった。自分の記憶を取り戻すことよりも、あったはずの目的を達成しようとするひたむきな姿勢――エクセラは出逢って間もないこの少年を信じるべきか、迷いを抱いた。
二日前からの記憶喪失に追ってくる妙な赤いスーツの人々……荒唐無稽な話かもしれない、だが、そうだとしても疑うべき根拠にはならないのではいか。彼の言葉を否定する材料をエクセラは持っておらず、また肯定する基準も彼女は備えてはいないのだ。
沈黙するエクセラにパスカルは特に気分を害した様子をみせず、明るく笑った。
「なーんてね! 全部嘘だよ。まったくもう、キミってば冗談が通じないんだから困っちゃったよー」
「う、嘘……?」
「そもそも赤いスーツの集団なんていたら目立ってしょうがないでしょ。いやー、まさかこんな簡単な嘘にひっかかっちゃうなんてなあ。真面目すぎると悪い人に騙されちゃうよ」
唖然としていたエクセラはふと、自分の視界がぐらりと揺らぐのを感じた。ゲンガーの目がぎらぎらと輝いている。
彼女は傾いていく視線と、重く閉じていく意識のなかでパスカルのさびしげな顔に手を伸ばした。パスカルは手を掴もうと腕をあげる。
「どう、し、て……」
「ごめんね」
ありがとう。
そんな言葉を境に、ふつりとエクセラの感覚は途切れた。
「――は順調に進んでいる。あれの目撃情報も信憑性のあるものがいくつか入ってきた。今度の計画が済み次第、そちらを追う。それではまた、連絡する」
精悍な面差しの男が告げる。しかしその姿は生身のものではない。ノイズ混じりの小さな上半身が机の上に浮いていた。機械から射出される青白い光により映し出された立体映像が、音声と共に再生されているのだ。
ホログラムメール。数年前にとある人物がホロキャスターという機械を開発し、普及させた連絡手段の一種である。主にポケモントレーナーたちに無償でこの技術は提供されており、おかげでカロスのトレーナーたちの情報交換力は飛躍的に向上した。特にホログラムメールを使用したニュースはその迅速かつ正確な情報から人気を博しており、現在ではなくてはならないものとして確立している。
ホログラムを凍えるような視線で一瞥し、しなやかな指が乱暴にホロキャスターの電源を切った。瞬時にして男の姿は掻き消える。
ステンドグラスの光の中、玉座に座る人影は舌打ちをした。燃えたぎるマグマのような苛立ちと怒りを感じさせるほど、強く。人影は立ち上がり、足音を高く響かせながら歩を進める。
大きな音を立てて扉が閉まり、そして誰もいなくなった。