第十話 ハクダンジム
パルテール街道は手入れのよく行き届いた庭園が続いていた。開花時期を合わせて植えられているのだろう、いろとりどりの花がいっせいに咲き誇っている様はみごとな景観である。それに風が吹くたびにあたり一面に立ち込める、花蜜のなんともいえない香りが非常に心を穏やかにしてくれる。そのためか、考えなしに花畑に足を踏み入れないかぎり野生のポケモンも人を襲うようなことはなさそうだった。
プラターヌ博士からおつかいを引き受けたふたりもそんな気持ちのいい街道をゆったりと歩いて――いなかった。花畑の中心に設えられた噴水広場は今、簡易バトルフィールドとなっている。相対するのはローラースケートを履いた少年と赤い髪の少年パスカルだ。他のトレーナーたちが見守るなか、ふたりのトレーナーは白熱した空気を肺にいっぱい吸い込んでいた。
対になったタッツー像から吹き上げられる水流にポッポのかぜおこしが当たり、空中に無数のしぶきを撒きちらす。陽光を受けて光る水滴はさながら透明なダイヤモンドのようである。旋回するポッポを見上げ、パスカルがゲンガーに指示を出そうと片手を上げる。ゲンガーは右足を一歩後ろにひき、両手の間にエネルギーを溜めはじめた。一度距離をとったポッポが再び最接近するその時こそ好機だ。
「今だ! シャドーボール!」
まがまがしいエネルギー弾がゲンガーの手から放たれる。
「ポッポ、正面からかぜおこしだ!」
ポッポのトレーナーが鋭く命令し、ポッポはシャドーボールから逃げず速度を上げたまま翼をはためかせた。まき起こったつむじ風はゲンガーのシャドーボールを内包して突き進み、技を放ったゲンガーに大きなエネルギー弾をはじき返した。あまりの速度に防御すらできず、攻撃を受けたゲンガーが大きく後方に吹き飛ばされる。
エクセラが駆け寄るとゲンガーはすっかり目を回していた。かぜおこしだけのダメージならばまだしも、ゴーストタイプの技も受けてしまったのだからこうなってしまうのは当然のことである。彼女はバトルの続行が不可能であると判断し、少年ふたりを振り返った。
ゲンガーとポッポが仲良くオレンの実を分けあうのをしり目に、パスカルは重い息をこぼす。これで三連敗目だ。モンスターボールを腰に提げているとあちこちのトレーナーから勝負を挑まれる。昨日あれだけの怪我を負ったゲンガーに無理はさせたくなかったのだが、ゲンガー自身はやる気まんまんだったのでしぶしぶ申し込みを受け入れた。しかし――ここぞという時にあっさり負けてしまう。ゲンガーに問題があるわけではない。昨日今日の短い付き合いだがゲンガーはパスカルの指示をよく聞いて動いてくれるし、技の威力もかなりのものだ。明らかに敗因はパスカルにあった。もしかしたらトレーナーとしての才能なんてこれっぽっちもないのかもしれない……。そう考えると惨めな気持ちになり、パスカルは肩を落とさざるをえなかった。
ポッポのトレーナーであるタカトがそんなパスカルをなぐさめるように背を叩く。
「そんなに悪いバトルじゃなかったって! なんていうか、タイミングがずれたとかそういう感じだよ。ローラースケートでも少しすべりが甘いとトリックが決まらなかったりするしさ。勝敗は運で決まることだってあるんだから元気出せよ、な!」
「でも三連敗だよ……さすがに落ち込んじゃうって……」
暗い顔をしていじけるパスカルに、エクセラはなんと声をかけていいかわからずペルルの噴水を見上げた。規則的に流れる水が日光を反射してやわらかなベールのように空を横切っている。もう少し暑くなると通行人やポケモンがこの噴水で涼を得るのだろう。調和の象徴だと言われる理由もわかりそうだ。
それにしても、エクセラからみてもパスカルのこの連敗は意外なものだった。彼は少なくともヘルガーを連れていたあのフレア団の男よりポケモンバトルに詳しく、ゲンガーとの連携もとれている。とっさに戦略を練る発想力だってあるのだ。技を出すタイミングがずれただけでこう何度も負けるとは思えない。まるで目に見えない何かが足を引っ張っているような……そんな感じを受けた。しかし本人はそう考えていないのかずいぶんと自信を失ってしまったようである。
ゲンガーたちがオレンの実を食べ終えたのを見計らって、エクセラはえへんと咳払いをした。
「パスカルさん、まずはハクダンシティへ急ぎましょう。新人トレーナーの方たちもきっと首を長くしてまっていらっしゃるはずですから」
「うん、そうだね……行こうか。それじゃあ、タカト、バトルありがとう」
「こっちこそありがとな。またバトルしようぜ!」
しっかりと握手を交わし、トレーナーたちは別れた。
プラターヌ博士から図鑑とポケモンを受け取ることになっている新人トレーナーは三人だ。博士から渡された情報によると三人とも出身地はまったく異なるようだがハクダンシティにあるトレーナーズスクールの生徒らしい。ポケモン博士の称号を得た研究者の多くが、このようなトレーナー専門学校に特別待遇学生となる新人トレーナーを選抜してもらっている。プラターヌの場合はやや変わっており、自分で生徒たちのなかから選んでいた。エクセラもそうして選ばれ、図鑑を託されたのである。どうして自分が選ばれたのか、エクセラにとって疑問が残り続けている。旅すら中途半端に放り出してミアレに戻った自分が、選ばれるべきトレーナーであったとは思えないのである。もっとふさわしい人がいたはずなのに、と。そう考えると多くの学友たちがまぶたに浮かぶようだ。彼らならプラターヌの研究にもっと貢献できただろうに。そしてエクセラは旅に出ていなければ今のようにはなっていなかったかもしれない。何もかもが掛け違えたボタンのように思えた。
「エクセラはハクダンシティにいったことはある?」
よく手入れされた庭園を歩きながらパスカルが聞いた。エクセラは前を向いたまま答える。
「はい。以前、ジムに挑戦したことがあって、その時に」
「じゃあ、ジムリーダーとバトルしたんだ! どっちが勝ったの?」
「そうですね……」
二年前、ハクダンのジムリーダーと対峙した時、緊張で手足が震えだしたことは鮮明に覚えている。エクセラは冷えきった手でモンスターボールを繰り出した。飛び出したのはまだ進化していなかったアーサーこと、ヒトカゲだ。ほかの手持ちはいなかった。今になって思えば手持ち一体だけで公式戦というのは失礼だったのだとわかる。通常公式戦は最低でも三体のポケモンを揃えて行われるのである。だが、ジムリーダーは特に不快を表さず、むしろエクセラとの戦いを歓迎してくれた。誰よりもにこやかに。
バトルの流れは、虫タイプに対して相性のいい炎タイプを出したエクセラが制した。それでもジムリーダーに勝てたとはどうしても言えなかった。相手の手加減を悟らぬほどエクセラは無邪気でも未熟でもない。ジムリーダーが全力で、かつ最善の手持ちを出していたならば、タイプ相性など脆く崩れさり、手も足もでなかっただろう。
ゆえに。
「バッジはもらえましたが、勝負は引き分けです」
彼女の答えにパスカルはあっけにとられて目を丸くした。それでも何か得心したのか、数瞬後には「そっか」と朗らかに相づちをうった。
「もう一度バトルできるといいね」
その言葉にエクセラはあいまいな笑みを浮かべる。
もう二度とジムに挑戦することはないのだと、心の奥で過去の自分がつぶやいた。その声に悲しみと悔しさが混じっているような気がして、エクセラはそっと目を背けた。
ハクダンシティのポケモンセンターでゲンガーを回復したあと、パスカルとエクセラは二手に別れることにした。エクセラはトレーナーズスクールへ新人トレーナーを迎えに、パスカルはハクダンジムへといった具合だ。ゲンガーを連れているとまたバトルを挑まれるかもしれないと危惧し、ゲンガーはボールの中に入れたままにしておいた。パスカルは外に出たそうな相棒に「ごめんね」と謝る。
去っていく少女を見送ったあと、パスカルはぐるりと周囲を見渡した。バラの花がそこかしこで甘く洗錬された香りを放ち、街の中心部にはペルルの噴水よりは小規模だが立派な噴水が据えられている。ロゼリアの両手のつぼみから水が流れ落ちる様は壮観だった。さっきはバトルのことで頭がいっぱいになっていてろくに噴水を見られなかったなあ、と思い返して少し残念に感じた。帰りにまた立ち寄れるだろうか。
景色を楽しみながらも、パスカルはこの街もまた自分の求める場所ではないようだと感覚的に知った。それでもジムリーダーを訪ねないわけにはいかない。ここが探している場所でないとしても、目的に繋がる糸が一本もないとは限らないのだ。そもそも目的が何なのか、場所そのもの、はたまた人物かそれ以外なのかすらわかっていないのである。前途多難だなぁ、とひとりごちた。
ハクダンジムは地理に疎いパスカルにもすぐに見つけられた。美術館か個展会場かと見間違うような立派な建物で、しかし掲げられた看板には「ハクダンシティ ポケモンジム」というしゃれた文字が踊っている。この看板がなければ見過ごしていたに違いない。
なんて言って入ればいいかな。やっぱり普通に「こんにちは」か。それとも「頼もう!」かな。いや、それだと誤解されそうだ。ここは無難なもので……。
扉の前でうんうん唸っていると、不意に扉が内側から開けられた。
「やっと来たな未来のチャンピオン! ほらほらジムリーダーがお待ちかねだぞ! まったく、最近のトレーナーは申請時間通りに来ないんだから。遅れるなら遅れるって連絡をくれないと困るよ、きみ」
「へ? なに? なにごと?」
現れた男はまくし立てるとパスカルの腕をむんずと掴んだ。そのまま建物内へと引きずり込まれる。
大理石の敷かれた長い廊下の両壁に、ずらりと写真が展示されている。その一枚一枚が虫ポケモンを被写体にしており、撮影者の熱意が伝わってくるようだった。アゲハントが一輪の野花にとまる写真、トランセルが進化する瞬間をとらえた写真、バルビートとイルミーゼの光のダンスと続く。引きずられてさえいなければ、立ち止まってまじまじと鑑賞したかったくらいだ。自分を引っ張っていく男には審美眼が備わっていないのだろうか、とパスカルはいぶかしむ。このすばらしい歩廊を行くのに、そんなに音を立てて足早に歩いていくのは失礼じゃないか。
受付カウンターを過ぎて大扉を一枚開くと、その先には植物園が広がっていた。混乱の渦のなかにありながらも、パスカルは眼前に広がる光景に驚いた。広大なバトルフィールド、それを取り囲む観客席を半ば飲み込む形で群生する緑彩の木々に圧巻される。
「ビオラさん、挑戦者が到着しました!」
男がパスカルをバトルフィールドに押し出す。よろめくパスカルと向かい合う場所に女性が立っていた。
タンクトップに動きやすそうなズボン、そして首からかけられているのは大きなカメラだ。おそらく彼女が廊下に飾られた写真の撮影者なのだろう。
「ようこそチャレンジャー。わたしはハクダンシティポケモンジムのジムリーダー、ビオラよ。あなたの名前は?」
「ぼくはパスカルです」
「そう、パスカル君ね。それじゃあ、さっそくバトルを始めましょうか」
「――ちょ、ちょっと待ってください! ぼくはビオラさんから話を聞きたくて来ただけなんです!」
両手を大きくふって否定するパスカルに、構えたモンスターボールをおろし、ビオラは眉をひそめた。
「あなた、挑戦者じゃないの?」
「はい」
「でもポケモントレーナーなのよね」
「……一応は」
「それじゃあバトルしましょう」
ビオラの有無をいわさぬ気迫にパスカルは覚えず後ずさった。ただ話を聞きに来ただけだというのに。
よほど情けない顔をしていたのだろう、ビオラは苦笑しながら安心させるように片手をふった。
「非公式戦ってことで、ね。一時間以上待っててこの子もわたしもいい加減うずうずしてるの。バトルしてくれたらいくらでも話をしてあげるから。どうせ申請したトレーナーも今日は来ないだろうし」
「そういうことなら。でもぼく、あまりバトルが得意じゃなくて……」
ハクダンにたどり着くまでに三連敗。その事実がパスカルを弱気にさせる。
「だいじょうぶだいじょうぶ。手持ちは一匹? それなら一本勝負ね。さ、ボールを構えて!」
こうなれば応じるほかない。パスカルは腰のモンスターボールを掴み、構えた。
「ビビヨン、お願い!」
「ゲンガー、いくよ!」
赤と白のボールがふたつ、宙を舞う。
ビオラの前に現れたのはりんぷんポケモンに分類されるビビヨンだ。住んでいる場所の気候や風土によって羽の模様が大きく異なるというポケモンで、その鮮やかで大きな羽は時に相手を威嚇するためにも使われる。また、模様が違うビビヨンだけを集めているコレクターが多く存在している。珍しい模様のビビヨンは密売されているほどだ。
片やパスカルの前に立つのはゲンガーである。突然のバトルだったが、準備万端とばかりに短い手を上下させている。相棒の頼もしい背中にパスカルは腹をくくった。
「シャッターチャンスを狙うように勝利を狙うわよ! かぜおこし!」
「ゲンガー、地面に向かってシャドーボール! そのまま間合いをつめてさいみんじゅつだ!」
かぜおこしの欠点は一直線にしか風を発生させられないところにある。一度風に当たれば吹き飛ばされるか堪え忍ぶことしかできないが、気流を読んで避けられれば間合いをつめるには絶好のチャンスだった。ゲンガーはシャドーボールを地面に放ち、ロケットさながらに上空に跳び上がる。彼の意図に気づいたビオラがビビヨンに方向転換を命じる。だが、遅い!
ゲンガーの両手の平がビビヨンの前に突き出された。赤い目がよりいっそう不気味な光を帯び、ビビヨンの体がわずかに傾いだ。眠り状態にはならなかったが隙が生じる。そこへたたき込むのは渾身のシャドーボールだ。
「ビビヨン!」
トレーナーの声に間一髪、ビビヨンは直撃を避けた。逃げきれなかった胴体にダメージは与えられたが、試合を続行するのに問題にならない程度だった。ひらりと上昇し、ゲンガーと距離をとる。
いまの一撃を避けられたのは痛いな、と思いつつもパスカルは気分の高揚を感じずにはいられなかった。試合が始まるまでは困ったことになったとしか思っていなかったのに、今はいかにして勝利を引き寄せるかを考えている。今の自分には負けるという未来がまったく見えない。
それにしても、ゲンガーに攻撃を命じる声が自分のものではないようだ。鼓動が高まる。状況を分析しようと視線が走り、頭の回転がいっそう速まる。そうなると自分自身がひどく拡散されていくような気がする。誰か他の人が己の耳をそばだたせ、目を見開かせ、口を動かしているかのような錯覚を抱く。そんなわけはないのだが。地面を踏みしめているのは自分の足で、汗ばんだ手のひらの感触もあるのだから。そんな自分をなんとか抑え込もうとパスカルは拳を強くにぎった。この感覚に流されてはダメだ。
「ゲンガー、上へ逃げるんだ!」
パスカルの警告にゲンガーは跳躍した。その直後、ソーラービームが先ほどまでゲンガーの立っていた地面をえぐる。危なかったと胸をなでおろす暇を与えず、ビオラがするどく指示を飛ばす。
「ビビヨン、ねむりごな! 続いてかぜおこし!」
「体勢はそのままでいい、シャドーボールで振り払えっ」
すばしっこいゲンガーの動きを弱める手を選んだビオラに、彼は真っ向から勝負を挑むことにした。ねむりごなを巻き込んだ風は空中でゲンガーをとらえる。しかし、風は黒い影によって霧散した。ゲンガーはシャドーボールを放った姿勢のまま、すとんと着地した。思わずビオラは笑みをこぼす。
ビビヨンの特性は「ふくがん」だ。命中率が他の個体より高くなる特性だからこそ、ビオラはねむりごなを技のひとつに組み込んである。それを技ではねのけるとは。
この子、意外とやるじゃない。
できればこの勝負をカメラに収めておきたかった。だが、一瞬でも気を逸らせば押し負けると長年の経験と勘がビオラに告げていた。バッジをかけていない非公式戦だからこそ、負けたくない。負けられない。
「きみって変わってるわね。すごくいいんじゃない! でもこっちも負けてあげられないわ。切り札を使わせてもらおうかな」
ぱっとビオラが右手で宙をないだ。それが合図だったのか、ビビヨンが触覚を揺らす。
パスカルはよろめいて三歩後退し、ゲンガーがとっさに身構えた。
「サイコキネシス!」
青い光がゲンガーを包み、浮かせたかと思うと力強く地面にたたきつけた。土煙があがる。煙の晴れる前に再びソーラービームが放たれ、立ち上がろうとしていたゲンガーの影を高エネルギーが貫いた。容赦のない戦い方だ。
決着がついたとみえた。煙のなかの影は前のめりに倒れて消え去り、ビビヨンはゆうがに宙を舞っている。しかし、パスカルの目には諦めの色がない。少年の表情にビオラはまさかとフィールドを凝視した。
「こっちにも切り札はある。ゲンガー!」
土煙のなかからヘドロの塊が投げつけられる。意想外の攻撃にビビヨンはヘドロをかぶってしまった。ねばつくヘドロはすぐには振り落とせず、音を立ててビビヨンは墜落した。なんとか起きあがろうとしているが、毒を含んだヘドロは少しずつ体力を削っていく。ゲンガーはシャドーボールを打てるよう、手にエネルギーを集めている。
ソーラービームで貫いたのはヘドロの塊だった。あがった土煙を逆手に利用し、相手に気取られぬようにみがわりに仕立てあげたのである。ビームによって崩れたヘドロを掴んで投げれば攻撃までのモーションが減り、みがわりに気づかれる前に命中させられるというわけだ。
「……わたしの負けね」
肩をすくめ、ビオラはモンスターボールをビビヨンへ向けた。光線が当たり、ビビヨンはボールへと吸い込まれる。
「ありがとうビビヨン。ゆっくり休んでね」
ビオラはまぶしい笑顔をパスカルに送った。
「楽しいバトルだったわ! ありがとう!」
はじめての勝利にゲンガーがとび跳ねながらパスカルに抱きついた。ゲンガーを抱きとめてやりながら、しかしパスカルは胸中にとぐろする不安を押しやれずにいた。
バトルの最中、自分が感じたあの錯覚はなんだったのだろう。攻撃を指示する自分と防御を指示する自分が重なり、お互いに拮抗しているような……。どちらに転じても勝算はある、とパスカルは思う。タカトのポッポとバトルした時もそうだ。かぜおこしを拡散させようと思うのと同時に避けようとも思い、結果ああなった。どちらかの意思を優先させれば勝てていただろうに。まるで。
――ぼくのなかに、ぼくが知らない誰かがいるみたいだ。
その考えはあまりにも腑に落ちて、そしてあまりにも気味の悪い響きを伴っていた。その誰かは記憶を失っていなかった頃の自分、なのだろうか。
「それじゃあ、約束通り話をしましょう」
ビオラの声にようやくパスカルは当初の目的を思い出し、ゲンガーの勝利を労いながらボールに戻した。胸の不快感よりもまず、目的を果たさなければ。ぐっとつばを飲み込み、パスカルはビオラに説明を始めた。