第一話 赤い逃亡者
われ山にむかひて目をあぐ
わが扶助はいづこよりきたるや(詩篇)
今が朝なのか夜なのかすらわからない。彼はただ床に転がったまま、赤い壁と赤く反射する自身の虚像を見つめていた。頭がぼんやりする。長く眠ったあとのような、ずっしりとした倦怠感が体すべてに重くのしかかっていた。
ここはどこだろう。
――わからない。
床は冷たく、血のように赤い。常に磨かれているのかそれともそういう材質なのか、手当たり次第にあちこちのものを映しこんでいる。貪欲な赤色。あまり好きではないな、と少年は思う。
横たわったまま目だけを動かし、少年は胸を塞がれる想いを味わった。
部屋には窓やドアといった内外を繋ぐ手段がいっさいなかったのだ。外界と断たれた空間だった。だんまりを決め込んだ赤い壁が四方から少年を囲んでいるだけなのである。牢獄よりもなお凶悪な箱に彼は収められているのだ。
少年は固くまぶたを瞑り、じっと胸の不安を抑え込んだ。
ぼくはどうしてここにいるのだろう。
――わからない。
わからないことだらけだ。
なにかまとまった事を考えようとすると掴みかけたものが霧のなかへ消えていく。疑問はすべて虚空に飲まれ、返事の響きを期待できそうにもない。記憶もまた、彼と同じく堅牢な箱に閉じ込められてしまったようだ。
ただひとつ理解できたのは、ここにいてはいけないということだけだった。
その思いだけが少年のからっぽな体を熱く突き動かしていた。ここから出なければ。出て、そうしてどこかへ行かねばならない。
その先になにがあるのかわからなくとも、彼は進まねばならないのだ。絶対に。
青い瞳が、開かれる。
今日はずいぶんといい天気だね、とプラターヌに言われ、少女はこくりと頷いた。
プラターヌポケモン研究所の開け放たれた窓からは、初夏のさわやかな風が舞いこんできている。耳を澄ませばミアレシティの賑やかな喧騒も遠くに聞こえてくるが、研究所は今日も静かなものだ。都市部とはいえ、中心街から離れた場所に研究所を構えているおかげだった。
プラターヌは分厚い論文を机にぽんと放り出し、凝った肩をほぐすために大きく伸びをした。あごに生えた不精ひげとシワの寄った白衣から察するに、どうやらまたしても長い間研究に打ち込んでいたようである。他の研究員が帰宅したあとも徹夜で作業をしていたのだろう。
プラターヌは眠気覚ましのコーヒーをすすろうとして、マグカップの中がからっぽだと気づき、ようやく重い腰を上げた。コーヒーくらい助手である少女に頼めばいいものを博士はいつも自分で淹れている。少女も手が空いている時には淹れるようにしているのだが、いつも寸分の差でプラターヌの方が早いのだ。
「エクセラ、少し息抜きでもしてきたらどうだい?」
エクセラと呼ばれた彼女はノートパソコンの画面から目を上げ、小さく首をかしげた。
襟足の短な黒髪は額できっちりと七三の割合でわけられており、いかにも真面目な研究員といった風態だ。しかし、落ちついた雰囲気ではあるものの年頃は十代の半ばといったところか。まだ若い。プリーツスカートから覗く素足がプラターヌにしてみれば眩しすぎるほどだ。
彼女はプラターヌの優秀な助手兼弟子である。
二年ほど前にプラターヌは研究も兼ねて、カロス各地の少年少女たちにポケモン図鑑とパートナーとなるポケモンを託した。彼らは冒険のかたわら、メガシンカに関係する事柄を調べながらそれぞれの夢や目標に向かって邁進していた。エクセラもその子どもたちのひとりだったのである。
他の子どもたちは一年前にプラターヌへ図鑑を返却し、新たな旅立ちを果たしたのだがエクセラは今も図鑑を携えている。新たな子どもが旅立ち、また帰ってきてもエクセラはプラターヌの弟子として研究所に残った。しかし彼女の夢はポケモン研究者ではないとプラターヌは知っている。だがそのことを口に出すような無粋なまねはしない。エクセラが立ち止っているのなら、見守るのが自身の務めだと思っているからだ。
不意に大きな――コフキムシの悲鳴のような音が響き渡った。音の発生源は間違いなく……。
エクセラはしばらく宙を見つめ、すくりと立ち上がった。
「わかりました。お昼ごはん、買ってきます。博士はいつものでいいですよね」
「あ、いや、そういう意味で言ったわけじゃあ――」
「わかってます」
慌てるプラターヌに向かって少女は頷いてみせ、軽やかに身をひるがえした。
「それでは、いってきます」
「あ、ああ、いってらっしゃい。気をつけるんだよ」
「わかってます」
少女の後ろ姿を苦笑しながら見送りつつ、プラターヌは小さく息を吐いた。振り返れば窓の外には鮮やかなコバルトブルーが広がっている。本当に、いい天気だ。
こんなに清々しい天気なら何かいいことがあるに違いない。
そう思えるほどの、晴天。
研究所を飛び出したエクセラは肩で風を切るように颯爽と街路を歩いていた。
ミアレシティはカロス地方でも一番大きな街だ。ポケモン、金融、商業、貿易、ファッション、情報――すべての中心地とも呼ばれ、遠い国からの旅行客や定住者も多い。それゆえに街の至るところで豊富な種類のポケモンたちが見受けられる。今もエクセラの横を赤く小さなポケモンが駆け抜けていった。六本の丸まった尻尾――あれは確かカントー地方に生息するロコンというポケモンだ。大切に育てられているのだろう、ロコンの体毛は燃えているように美しい朱色をしている。トレーナーがロコンを抱きあげ、にこやかに何事かを話しかけながら歩いていく。
あまりにも巨大なポケモンは市街地での連れ歩きを条例で禁止されているが、ロコンのトレーナーのようにポケモンを連れ歩いている人はたくさんいる。エクセラの手持ちのポケモンたちも連れて歩けないというわけではない……だが、なにぶん万人受けするタイプではないし、そんな理由で一匹だけを連れ歩くのはもう一匹に申し訳ないというものだ。
それに、陽の光があまり得意ではないポケモンだっている。
エクセラの対向から走ってくるポケモンだってそうだ。
あのまんまるとしたシルエット。特徴的な赤くて大きな目。謎が多いと言われるゴーストタイプのなかでも特に研究者の頭を痛ませる、シャドーポケモンことゲンガーに違いない。その特殊な進化方法ゆえにか自然体の観察が非常に難しく、捕獲によって生活行動も著しく変わってしまうという厄介なポケモンで、未だにその生態は詳しく解明されていないのである。
「すみませーん! どいてどいてぇー!」
ゲンガーの後ろから、ぼさぼさの赤髪を振り乱して少年が走ってくる。水たまりの上で転びでもしたのだろうか、と首をかしげてしまうほど、高級そうな白いロングジャケットは泥と埃で汚れていた。その身なりを嫌がって通行人が避けるため、少年は思いのほか早い速度で人込みを抜けていく。
「待てー!!」
ゲンガー、少年と続いてその後ろから、赤いスーツを身にまとった派手な男が息も絶え絶えに追いかけてきた。頭もサングラスも赤い。おまけに靴まで真っ赤っかだ。いくらミアレがファッションの街といえども派手すぎる格好である。誰よりも目立っている。
そして男の隣を走るあのポケモンは、エクセラの記憶に間違いがなければヘルガーだろう。むき出しの牙の間からは白く湯気が上がっており、殺気立っているのが遠く離れていてもわかるほどだった。興奮状態のポケモンをボールに入れずに連れ歩くとは呆れた人もいたものだ。
「待つわけないでしょ! ちょっとすみません、通ります!」
「クッソォ! ちょこまかと! ヘルガー、ひのこだ!!」
エクセラの脇を素早くかわそうとした少年の背に、ヘルガーの口から放たれた火が襲いかかった。驚いたゲンガーが振り返る。少年が前のめりに倒れていくのが、エクセラの目にはスローモーションで見えた。
まさか、ポケモンに人を攻撃させるなんて!!
突然のことに周囲の人々も立ちつくしている。悲鳴を上げるでもなく、本当に何があったのかわからないといった表情で。焦げた臭いが鼻をつく。
だが、エクセラが唖然と見守るなか、少年はにやりと笑った。
彼は何事もなかったかのように両手を石畳につき、逆立ちの形をとってから一回転をして難なく着地した。こつん、とブーツが軽快な音を鳴らす。
少年はエクセラをちらりと見やり、澄んだ青い瞳をひとなつっこそうに細めた。してやったり、といったふうである。
「――ったくもう! 普通、こんなとこでそんなことするかなぁっと!」
言いながら少年は手近にあった街路樹を駆けあがった。
よじ登ったのではない。駆けあがったのである。エクセラの目には確かに少年が木肌を蹴り、垂直に駆けのぼったように見えた。注目していなければ飛び乗ったのではないかと思うほどの早さだった。エイパムも顔負けの、あり得ない運動神経である。
少年に続いてゲンガーがにやにや笑いながら浮遊する。それを見てようやく我を取り戻したスーツ男が、慌ててヘルガーに命令をしようとした。が、街路樹に向かったヘルガーは思わぬ障害によって弾き飛ばされてしまった。
「ああ! ヘルガー!」
スーツ男が情けない声を上げる。
街路樹の上で少年が目を丸くした。彼を助けたのは一匹のリザードと、ひとりの少女だった。少女――エクセラは、からのモンスターボールを構えたまま、真剣なまなざしで男を見つめている。きりりとしたその佇まいに通行人も固唾を飲んだ。
「な、なんだよ、おまえっ関係ないだろ! 邪魔するなよ!」
「はい、確かに関係はありません。でも」
エクセラの目配せでリザードは起きかかっていたヘルガーの首根っこを押さえ、再び地面に伏せさせた。
「ポケモンで人を傷つけるなんて見過ごせません」
「くそおおお! もし逃げられたりしたら俺がお仕置きされるんだぞお!!」
「そんなことはどうでもいいです」
「な、なにぃ……」
「そこのあなた、今のうちに!」
頭を抱えるスーツ男を無視し、エクセラが少年を振り仰ぐ。
「――うん、ありがとう!」
礼を言うと、少年は街路樹のてっぺんからとんでもない跳躍力で近くのポケモンセンターの屋根へ飛び乗った。他の建物よりずっと低いとはいえ、やはりエイパム顔負けである。あっという間に少年はポケモンセンターの向こう側へと姿を消してしまった。
スーツ男の肩がわなわなと震える。男はびしっと音が鳴りそうな勢いでエクセラを指差した。
「こうなったらおまえにこの怒りをぶつけてやるー!」
とんでもない、言いがかりと八つ当たりだ。
男の手からモンスターボールが投げられる。ぱかりと開いたその中から飛び出してきたポケモンが、音もなく着地した。すらりとした四肢に長く優美な尾、紫色の毛に独特な斑点模様――。図鑑を出すまでもなく、エクセラはそのポケモンの生態に思い当たった。
「レパルダスか」
れいこくポケモンと分類されているあくタイプのポケモンだ。発達した筋肉と気配を感じさせない動きによって神出鬼没とさえ言われている。
ヘルガーとレパルダスの二匹で挟み撃ちをされてもリザードなら勝てるが、それはバトルフィールドが街路の場合を除いて、だ。これだけ一般人が多いなかで大立ち回りをしては迷惑がかかり過ぎる。あまりにも危険だった。
現に今、ヘルガーを捕えていたリザードを、レパルダスがみだれひっかきでひるませている。主人である赤スーツはそれほど有能だとは言えないが、ポケモンたちはかなり優秀だ。赤スーツの命令が拙いものであっても自分たち二匹でコンビネーションをはかり、決定的な打撃を与えられまいとしてくる。隙があらばこちらを倒そうと狙っているのが手に取るようにわかる。
ならば、ここは早期決着が望ましい。
それになによりエクセラの二匹目も正義の闘志を燃やしているようで、先ほどからホルスターのなかを勝手に飛び出さんばかりのいきおいでボールを揺らしていた。
「いくよ、デュラン!」
投げられたボールから光と共に一振りの剣が舞い出る。
否、剣ではあるが、違う。それは独りでに飾り帯で鞘を抜き放ち、ぎょろりと動く一つ目で敵を捉えた。不気味な剣から伸びた影が、レパルダスの背後から襲いかかる。かげうちという技だ。必ず相手より先に動くことができる、特殊な技である。不意を突かれたレパルダスが後退する。
後退したレパルダスと入れ替わるようにして、ヘルガーがひのこを吐きかける。狙いは浮遊する剣――ヒトツキだ。ヒトツキというポケモンはゴーストタイプと鋼タイプ、二種の属性を兼ね合わせており、それゆえに鋼タイプが苦手とする炎攻撃には弱い。そのことを知ってか知らずか、ヘルガーは執拗にヒトツキを追いかけはじめた。リザードをヘルガーにあてたいところだが、そうはさせまいとレパルダスが妨害をしている。
「よーし、いいぞいいぞ。そのままやっつけちまえ!」
スーツ男が期待するままやっつけられることはまずあり得ないが、これではらちが明かない。奇策、というほどではないが一策使わねばならないようだ。
「デュランは出来るだけ相手の左側面に回って。アーサーはそのままデュランの方へ」
ヒトツキが何度もヘルガーの左側へ回り込み、やたらめったらに体を振るう。そのたびにヘルガーがうっとうしいというふうに噛みつくが、ヒトツキはひらりと避ける。それを数度繰り返すうちに互いの尾を追いかける形に移行していく。そしてリザードはレパルダスの妨害を受けながらも、懸命にヒトツキのいる方へと向かおうとしている。そうしていればやがて近いうちに、エクセラの望む機会が訪れるのだ。
リザードがヒトツキの背後に到達したその時、エクセラが手を大きく一度叩いた。
「今よ、アーサー!」
合図を受けたリザードは闘気をまとわせた腕を素早く振りあげ、そのまま体ごとヒトツキに向かって下ろした。
「馬鹿なやつだ! 自分のポケモンに自分のポケモ――」
男の嘲る言葉はすぐに途切れることとなった。ヒトツキの体をリザードの闘気だけが潜り抜け、ヒトツキのすぐ傍にいたヘルガーの顔面にぶつかったのだ。
予想外のことに一瞬迷いが生じたレパルダスには間髪いれずにヒトツキが迫り、華麗な胴体に一太刀浴びせた。
ドッとヘルガーとレパルダスの二匹が倒れ込む。
「は、へ……いったい、なんで」
主人である少女の前に、誇らしげな騎士がふたり並ぶ。
周りから拍手が湧き起った。
「ちくしょう! 覚えてろよ!」
ポケモンをボールに戻した赤スーツ男が顔すら真っ赤にさせながら、野次馬と化していた人々を押しのけていずこかへと走っていく。
エクセラは追いかけようとはせず、自分のポケモンたちに視線をやった。
「アーサー、デュラン。久しぶりなのにちゃんとわかってくれてありがとう。あなたたちのおかげで怪我人も器物損壊も無さそうよ」
エクセラに褒められて二匹は嬉しそうに鳴声をあげ、そのままボールへ戻った。
「キミ、すごいね!」
「え?」
突然、目の前に逆さまの顔が現れ、エクセラはよろめいた。その背をひやりとする大きな手が支える。振り返ると人懐っこそうなゲンガーがエクセラを押している。と、すると。
視線を上げると吊り看板から逆さにぶらさがった少年と目が合った。
「ヒトツキはゴーストと鋼を併せ持つポケモン。すなわち格闘タイプであるかわらわりは通り抜けてしまう。それにキミのヒトツキはずっとヘルガーにれんぞくぎりを当てていた。れんぞくぎりは炎タイプにはほとんど効果はないけど使えば使うほど切れ味の上がる技だ。わからないように少しずつヘルガーの体力を削っていき、レパルダスを一撃で倒す。作戦としては初歩的なものだけど、あれだけ外野がいてとっさに取れる判断じゃあないよね」
少年は一息で喋りきると、アクロバティックな動きで――両腕を振って、看板にかけていた足をひきぬくと空中で一回転をして――エクセラの前に立った。
きらきらとした純粋そうな青い目がエクセラの微妙な顔つきを映しこみ、泥に汚れた手のひらが強く彼女の手を包み込んだ。そのまま激しく上下に振られ、エクセラはがくがくと縦に揺れる。
「さっきはありがとう! ほんと、すっごく助かっちゃったよ」
「あ、あ、あの」
「ぼくったら逃げるくらいしかできなくて、でもあの人とポケモンがずっと追いかけてくるし、この街ったら人がいっぱいいるでしょ。こんなとこで暴れられたら困るから引き離して撒くわけにもいかないしさ。それにしてもキミ、さいこーだよ! あのタイミングでヘルガーの口を押さえなかったらどこかに飛び火して火事になってたかもだからね」
「あの!」
「うん?」
「わ、わかりましたから! 手、ちょっと離してもらっても、いいですか」
エクセラがなんとかかんとか伝えると、少年は「しまった」といったふうに顔をしかめ、ぱっと手を離した。まだ揺さぶられているような気がしてエクセラは思わず息をついた。
「ごめん! 嬉しすぎて、えっと、だいじょうぶ?」
「ええ、だいじょうぶです」
「そう、よかったあ。恩を仇で返しちゃうとこだったよ」
バツが悪そうに頭を掻くその姿は、さきほどまで興奮したヘルガーに狙われていたとは思えないほどのんきなものだった。背格好からしてエクセラよりも二つほど年上のようだが、言動はどうにも子どもっぽいところがある。
と、その時、不意に大きな――コフキムシの悲鳴のような音が響き渡った。音の発生源は間違いなく……。
「ぼく、もう二日ほどなにも食べてないんだよねー」
少年は自分の腹部を恥ずかしそうにさすり、屈託のない笑みを浮かべた。