広告は舞う
「いや」と「すき」しか知らなかった私に「美しい」を教えてくれたのは、幼少期に親に無理やり連れて行かれたガラルチャンピオンカップだった。
うるさいし、ポケモンもそんなに好きじゃないし、つまらない。そんな私の感情を打ち砕いたのはローズ委員長の声だ。
『──さあ、ここに宣言しましょう。ファイナルトーナメント、開催です』
静かで抑揚があって、しかしどこか熱が迸るはじまりを告げる声。観客を盛り上げる解説にチャンピオンと挑戦者にふさわしい服飾。さらに巧みなカメラ捌きと響き渡る音響に場を彩る照明。
それら全てが、キバナのジュラルドンにダンデのリザードンの激突に注がれていた。ポケモンとポケモンの原始的な闘争を、華やかな物語へと変化させる。技巧の極地が凝らされているチャンピオンカップは、何よりも美しかった。
そして、今。
件名: 明日の会議につきまして
本文:
19時から第三会議室です。死んでこい。
草々
部長がくれたメールはとてもわかりやすくて涙が出そうだ。上司に詰められて破られた企画案、曖昧なアドバイス。そして深夜を告げるホーホー時計。
「無理」
力任せに私はノートパソコンを閉じると目を揉む。ちらとデスクの上を見ると、ビリビリに破かれたコンペ案が転がっている。我ながらつまらないというコンペ案を出したので当然破られるべきであったのだが、問題は代わりのアイデアが思い浮かばないところ。代わりに思い浮かぶのは重役の皮肉に同僚の冷たい視線。そして、胃がねじ切れるくらいのプレッシャー。
後ろでアママイコが心配そうに鳴いた。
謝罪メールの送信と適当なコンペ案を叩きつけ、ローズタワーを出たときにはもう時刻は二時を回っていた。流石に終電もなく、そらとぶタクシーくらいしか家までの交通手段は残されていない。
会社に残って無意味な泊まりをする元気はなかった。かといって、家に帰る元気もなかった。砂が詰まったように重い頭を振って、月明かりに朧と照らされたローズタワーを見上げる。まだいくつかのフロアは電気がついていた。私はショルダーバッグを背負い直すと、ぼんやり月明かりに導かれるようにして歩き始める。ざくざくざく、と真夜中に雪を踏みしめる音が響く。
寒冷で食物の育ちも悪く、文化も資源も貧しいガラル地方。そこで根付いた唯一の娯楽はポケモンバトルだった。近代化を遂げて産業革命を経てなお、人々の熱い視線はポケモンと人間が織りなすバトルに注がれている。だが、そんな華やかなポケモンバトルの歴史を語るには、広告代理店という闇にも触れなければならない。彼らは高い演出力と石にかぶりつくような根気でガラルのポケモンバトルを世界に広げるムーブメントに火をつけた。
いつしかガラルには他の地方に勝るとも劣らないポケモンバトルの文化が根付き、共にローズタワー最上階を広告代理店が占めるようになった。あの売り出し人気トレーナーの手持ちポケモン構成から靴下の裏、果てはボブの店まで全ては広告代理店の息がかかっている。
「……っと」
刺すような寒気に、気がつけば私はワイルドエリアまで迷い込んでいることを知った。さすが無法地帯、深夜でも入れるのだな。戻る気分にもならず、ざくざくと前に進む。この時間は流石に野生のポケモンも寝ているのか、昼ほど活発ではない。
ふと私はワイルドエリアに来るのがかなり久しぶりであることに気がついた。昔トレーナーをやっていたころは何度か足を踏み入れたことがあったが、入社してからは全くと言っていいほど来ていない。
いや、と私は足を止めた。新入社員歓迎会が終わった後、酔っ払った同期と一緒にここに来た。あの時、はしゃぎすぎて吐いた同期の一人はクライアントに吐瀉物の混じった酒の一気飲みを強要されてやめた。静かな表情でにこにこと笑っていた同期は誰にも助けを求めることができず社内で倒れて以来顔を見ていない。
そして、次は私だ。私が関わっていた巨大プロジェクトで契約していたトレーナーがまさかのジムトレーナー資格剥奪という大惨事が起こってしまった。おまけに担当者だった元上司は逃げて責任の残りは私に押し付けられている。そして投げられた仕事が「ビートの抜けた分を補填するようなコンペ案を考えろ」という無茶苦茶なものである。実質的なクビ宣告だろう。
会社に味方はもういない。味方になってくれるだろう人は全員もうやめていた。それに、私にまるっきり責任がないとは言えない。上司の指示があったとはいえ、何度もそのトレーナーと会ってきたのは私だ。そのときに、彼の傲慢な態度を見ながらも看過してきたことは事実である。トレーナーと代理店は今や切っても切れない関係だ。
「どうしようかな」
ぽつりと呟いた。昔を思い出してしまうくらいには心が疲弊している。とりあえず、何かを書かなくてはという強迫観念でスケッチブックとペンを取り出す。
とりあえず、書かないと。そんな焦りに導かれてペンを走らせたが、手が震えて文字にならずにかすれて震えた線だけが引かれる。
ここまでこれだけの苦しい思いをしてようやくチャンピオンカップの案件に携われるようになったのだ。限界だった。
その時だ。がさがさっと草が揺れて何かが飛び出してくる。私は反射的に避けて飛び出してきた何かを見る。なんだ、ヌイコグマか。一瞬私は気を抜き──無我夢中でモンスターボールを投げた。
「おいで、アママイコ!」
反射的にモンスターボールを投げて相棒を呼び出す。アママイコはヘタを使ってギリギリで何とかキテルグマのアームハンマーを受け止める。まさか、こんなところでキテルグマに会うとは。アママイコはなんとかキテルグマの攻撃をかわしているが、攻撃技も使えていない。私の指示を待っていた。だけど、真っ白になった頭には技名の一つも浮かんでこない。
キテルグマは大きく両手を振っている。私のことを逃すつもりはないのだろう。私も手持ちのポケモンもしばらく実戦からは遠ざかっている。付け加えれば、ピッピ人形も持ってきていない。逃げ切れる自信はない。
しかし、仮に逃げてどうするのか。逃げたところで逃げ切れるわけではないのに。その時だ。
「いくよ、ガルーラ!」
誰かの声がした。まず巨体のポケモンががっちりとキテルグマと組み合った。次にぽん、という音と共に藍色の花びらが舞う。そして雑踏を踏みしめながらモンスターボールを持った女性が現れた。
「めざめるパワー!」
冷気がほおの横を通り過ぎた。
死ぬかと思った、本当に死ぬかと思った。近くにある木にもたれかかってぐったりと身を預ける。結局、ガルーラの一撃ではキテルグマを倒しきることができずに走って逃げるしかなかった。
「あー、びっくりした」
けたけた笑いながら、その女性はモンスターボールの表面を軽く撫でた。あれだけの目にあったのに、どこか楽しそうだった。私と違って。
「あの、助けてくれてありがとうございました。えっと……」
ここで私は助けてくれた女性の名前がわからずに言葉が詰まる。
「私はアヤ。あなたは?」
「私はリナです」
「そう、リナね」
いい名前ね、とアヤは微笑む。私は曖昧に微笑んだ。名前もそうだけど、私にはもう一つ気になっていたことがあった。
「あの、失礼ながら、出自はどちらですか?」
「ジョウトだけど、どうして?」
「その技」
ああ、とアヤは合点が言ったように頷いた。めざめるパワーはカントー地方やその周辺で使われているとはよく聞く。だが、おかしい。
「どうしてその技を?」
れいとうビームを覚えられるポケモンがめざめるパワーを覚えさせる意味がない。
「私、ポケモンバトル苦手なんだ」
アヤはそう言ってガルーラの鼻を軽く撫でた。ガルーラは気持ちよさそうにぐる、と唸った。
「うちの子もそうなの。れいとうビームを覚えられなかった」
「それは」
「そう。私もガルーラもバトルには不向き。もしジムチャレンジをやったら一瞬で脱落していたでしょうね」
ガラルに住む人なら口にしないようなことをあっさりとアヤは言う。呆気に取られている私を見て
アヤは少し困ったように笑い、そして空を見た。
「ねえ、よかったら私とガルーラを見てほしいな」
「見るって、何を」
「私、来週コンテストがあるの。でもちょっとスランプでね」
取り繕うように苦笑いしながら彼女は言う。私は頷いてその場に座った。アヤはすう、はあと息を吐くとボールを放った。
「おいで、ガルーラ!」
彼女はまたもモンスターボールをぽんと放り投げる。穏やかな藍色が舞い、静かにガルーラが目を閉じる。星空を背景に彼女とガルーラは阿吽の呼吸で舞う。戦いには似ていないそのテンポで、しかしゆるりと。
「おんがえし!」
緩から烈と変わり、ガルーラが岩を叩き潰す。ガラルにはその技を使うポケモンはいない。長い年月の果てに、ポケモンバトルには不要と言われて顧みられなくなった。コンテストもそうだ。強さを是とするガラルの風土にコンテストは根付かず廃れていった。しかし、どうしてだろう。星空を背景に舞う彼女のポケモンは、あの日のファイナルトーナメントのように美しかった。
会議室にはすでに重役が集まっていた。たかが一社員のコンペとはとても思えないくらいの圧迫感がある。これは、私の提案を聞く会ではない。私にどう落とし前をつけさせるかの裁判だ。まずは、どうにかして裁判をコンペに変えなければならない。負けるものか、と自分を奮い立たせる。
「お手元の資料をご覧ください。これは、弊社の契約を切って他社に取り替えたトレーナーのリストです。第一線で活躍しているトレーナーは他社に乗り換えています」
できるだけ感情をこめず、抑揚のない声で一気に言い切る。重役は渋い顔をしていたが、誰も反論してこないくらいに会社の財政状況は悪化している。プロジェクトが炎上したこともあって今季の決算はかなりしょっぱい。ただでさえ広告代理店という存在に眉をひそめる人は少なくないのだ。事実、ジムリーダーの何人かは広告代理店嫌いを公言している。今回の事件でその風当たりはSNSを中心にかなり強まっている。まあ、その原因を辿れば私(と、元上司)に行き着くのだが。
「一方で、契約数自体はそこまで減ってはいません。多くのトレーナーは引き続き弊社と契約を続ける意向を」
「もういいよ、君」
重役の一人。読む価値もないとばかりに資料をばさりと投げた。
「それより君の責任の話だ。そもそもこの事態を招いたのは君だろう?」
「ええ、それは……」
「じゃあこんな茶番をやる意味はないな」
居丈高にその重役は言った。私はあえて俯き何も言わない。こういう時のおっさんに言い返すのは得策ではない。重役は転がった資料を見てふんと鼻で笑った。
「まさか、残ったトレーナーを使って他社に勝つと言うんじゃないだろうな」
「手段は、あります」
ここぞとばかりに小さな声ではっきりと口にした。むっとした重役は何かを言い返そうとして。
「お待ちなさい」
思わず身を乗り出した重役を、鋭い口調で社長が制する。ようやく、私は社長と向かい合う。
重役のほとんどが男性の中で、中央に座っていた社長は初老の女性だ。それでも、広告代理店という男社会で頂点に立っただけあって誰よりも威厳がある。
「耳が痛いですね。確かに弊社はジムチャレンジに挑戦しているトレーナーとの契約は厳しい。来年以降もその傾向は変わらないでしょう」
穏やかな口調だが、言葉は重い。ここだ、ここを間違えてはいけない。
「あなたが言っていることが全部あっているとしましょう。それで、次はどんな一手を打つのですか」
メガネの奥で社長の目が光った。私は身を乗り出すと、もう一枚の書類広げた。
「方法は一つあります」
それは、ガラルでは栄えずに静かに消えていった他国の文化。厳しい冬の気候によって根付いた弱肉強食の文明に似合わないと顧みられてこなかった舞台。
「ポケモンコンテストの復権です」
書類に手を叩きつけて、思いっきり宣言した。