鉄を編む
老人は独り、鉄を打つ。牢屋を思わせる暗い作業場できんきんと音を響かせる。振り乱した白髪は炭で黒く汚れ、暑さで紅潮した顔は小皺の一つまで紅が差す。それでも、老人は滝のように流れる汗も拭かずに鉄を叩く。やがて、鉄を叩く律動が遅く繊細になっていく。
その様子を青年は脇目も振らずに見つめていた。老人の手捌きから鉄を叩くのは簡単そうに見えるが、実はそうでないことをよく知っていた。火に通したばかりの鉄は意外に脆く、少し叩く力加減を間違えるだけで曲がってしまう。さりとて慎重に叩けば鉄は冷めてしまい、中途半端な形で仕上がるのだ。それを老人はあたかも楽器のように小気味よい音を響かせて見事なナイフを作り上げる。その技術は職人が多いこの街、クロガネシティでも指折りの腕前と言えよう。
やがて鉄を叩く音が止まり、老人はできあがった鉄をしげしげと見た。しかし、すぐにそれを背後に控える青年にすっと流すように渡した。
「捨てろ」
老人は低い声でただそれだけ言う。そこでようやく老人は頭に巻いていた手ぬぐいを外して額を拭った。しかし、手ぬぐいは煤で汚れており余計に顔が汚れただけだ。青年はどうぞ、と清潔で濡らされた手ぬぐいを渡す。老人は何も言わずにそれを受け取ると顔を丹念に拭き、几帳面にそれを四つ折りにする。続いて渡された水筒からぐいっと水を半分呷り、また火床へと向き直る。そして、平箸をまた手に取った。
あれから何本かナイフを作り上げ、それらを全て青年に捨てさせた。そして、ようやく老人は窓の外をちらと見る。日は落ち始め、まもなく夜が顔を覗かせようとしていた。老人は鑢を置いて黙々と片付けを始める。青年も師に倣うようにして、箒で煤や飛び散った鉄の破片を掃く。この間、師は何も言わない。いや、そもそも作業しているときすら何も言わない。一度教えたら二度はないということだろう。青年も人間なので間違えることはあったが、そのとき老人は間違っているとも何とも言うわけではない。ただ少し黄色で濁った目をじっと青年の方に向けるだけであった。これならば怒鳴られた方がいいと青年はいつも思う。弟子を取らないと断る老人に頼み込んで弟子入りしたはいいが、老人は自分に何も言わない。優しく褒めることもなければ厳しく叱ることもなく、ただ時々「鑢」や「火」と単語で何をやってほしいか命令するだけである。
老人は無駄を嫌う。朝は六時に起きて家の掃除と読書、読経に食事を済ませる。そして、八時時には家を出て一時間ほどかけて作業場に向かう。それから夕方五時まで、昼に休憩を挟む以外にはひたすらナイフを作り続ける。しかもその時間は一分一秒たりともずれることはない。街に住む人が、老人が家を出る時間に合わせて時計を設定するという噂を聞いたことがあるが、それもあながち嘘ではないだろう。
「鍵」
老人は短く言って荷物を背負う。つまり、掃除はもうよし。鍵を閉めろということだろう。青年は少し錆びた大きな南京錠を苦労して閉めると、既に歩き出している老人の後を追った。そして作業衣に入っているモンスターボールを確かめるように数度撫でた。
夕方、暗くなった時間には野生のポケモンが飛び出してくることがある。この時勢にして珍しくポケモンを持っていない老人は、もし錯乱したポケモンに襲われたら抗う手段がない。だから、青年は帰り道の警護を頼まれている。
とはいえ、野生のポケモンが飛び出してくる機会はそうそうない。よしんば出てきても、このあたりのポケモンは大人しいので人間を見たらすぐに去るだろう。つまり、帰り道は無言の老人の後について数十分歩かなければならない。それは、青年にとって苦痛な時間であった。老人は無為に話しかけられることを嫌う。青年もそれを知っているから帰り道はモンスターボールの感触を確かめながら歩くだけ。しかし、作業中と違って老人の技術を盗むことはできない。一人なら相棒のブースターをモンスターボールから出して歩くくらいできるのだが。
老人は青年の挙動など気にせずにしゃんと歩く。痩せて柳のように細い体であるが、背筋はぴんと伸びているし、歩幅も狂いがない。なるほど、街の人が老人を見て時計の時間を合わせるわけだ。
「あら、お帰りなさい」
家の前を箒で掃除していた老婦人が手を止める。老人は軽く頷くと、どんどんと家の中に入っていく。老婦人はその様子に慣れているのか、箒を玄関に立てかけると青年に微笑みかけた。
「待っていてね。今、お給金を渡すから」
老婦人は家屋に戻ろうとする。すると、ひょいと老人が顔を覗かせた。
「母さん。飯をもう一人前作ってくれ」
「あら、どうしたの?」
「そいつの分だ。食材に余りはあるだろう」
老人が青年のほうに顎をしゃくらせる。青年は驚き、何かを言おうとして舌を噛んだ。老人は青年に声もかけず家の方へすっと戻っていく。そんな青年に老婦人は申し訳なさそうな表情を向けた。
「ごめんなさいね。急なお誘いだったでしょ?」
「え、ええ」
思わず青年は取り繕わずに答えてしまう。老婦人はやっぱりと苦笑して髪を触る。
「無理しなくていいのよ。何か用事があれば帰っても……」
「いえ。もしよろしければ、ご一緒させてもらいたいです」
これは本音であった。青年は老人を尊敬こそしているが、話したことはほとんどない。弟子入れさせてくれ──初対面ながらそう頼み込んだ時の会話が一番多かったほどだ。老人は青年の熱意に負けて渋々受け入れてくれたが、仕事中に用なく話しかけるなと再三言われた。そのせいで聞きたいことはほとんど聞けていない。だが、食事を一緒にすればその機会があるのではないか。
老婦人はそんな青年を見て温かく微笑む。そしてきゅっと髪留めで後ろに髪をまとめるとこういった。
「他人の家のお漬物、苦手じゃないかしら?」
気まずい食卓だ、と青年は箸を運びながら思う。老人は白米に梅干しを乗せてわしわしと食べる。その間、一度も青年の方に視線を向けない。いくつか老人に聞きたいことがあったが、この雰囲気ではとても質問などできないだろう。食事は美味しいが、和室で正座をして食べているので膝に痛みが走ってくる。老婦人が気を使って座布団を敷いてくれたが気休めにしかならない。
それでも空気が悪くないのは青年に気を使って話しかけてくる老婦人と、機嫌良さげにポケモンフードを食べるブースターのおかげだろう。ブースターをモンスターボールから出すときは老人に何か言われるかとびくびくしていたが、老人はちらとブースターの方を見ただけで何も言わなかった。
それにしても、師は健啖だ。酒こそ飲まないにしろ、あの柳のように細い体のどこに食べ物が入るのか不思議に思うほどの量を平らげていく。二人前はあろうかというビフテキをぺろりと平らげて、焼いたメザシを美味しそうに食べる。終いには白米を何度かお代わりして、色鮮やかな漬物すら全て食べる。やがて老人は丁寧に手を合わせて一礼した。
「ごちそうさま」
「おかわりは」
「いや、結構」
老人は首を振って老婦人の申し出を断ると青年の食膳をちらと見た。
「よく食え。鍛治職人には体力も必要だ」
老人は青年にそう言い残す。そして返事も聞かずに老人はさっと立ち上がって和室を出ていく。呆気にとられて青年は返事すらできなかった。
「もう足を解いて大丈夫よ」
老人が和室からいなくなったことを見届けると、老婦人はそっと青年に言う。そこでようやく青年は自分の足に感覚がなくなっていることを思い出した。それでは失礼して、と青年は足を解いた。ぼきぼきと骨が鳴る音と一緒に、足にじんわりと血が巡っていく感触がする。
──あ、これはまずい。
次の瞬間、痛みがわっと足を駆け上がっていった。無言で青年が足を抑えて苦しんでいると、ブースターが心配そうに近寄ってぺろぺろと青年の鼻を舐める。青年は痛みに耐えながらブースターの頭を柔らかく撫でる。ブースターは気持ちよさそうに目を細めた。
「いいポケモンね」
「ええ。自慢の相棒です」
青年は痛む足を抑えながら言った。卵のころよりこの手で育て、イーブイからブースターにまで進化させたのだ。戦闘には向いていないのんびりとした性格だが青年は気にしなかった。自分は将来、鍛治職人になる。そのとき炉にはブースターの火を入れたいと考えている。
そこでふと青年は違和感に気がついた。この広い屋敷なのに、お手伝いをするポケモンが一匹もいないのだ。
「ポケモンは飼っていないのですか?」
「ええ」
「なら、どうしてポケモンフードがあるのですか?」
「たまーにここに野良のポケモンがやってくるから、あの人に内緒でこっそりご飯をあげているのよ」
「師匠はポケモンが嫌いなのですか」
「嫌い、ではないと思うわ。単にリズムを狂わされたくないのでしょうね。毎日、同じ時間に起きて同じ時間に仕事に行き、同じ時間に寝る。あの人を基準にして電波時計の時間が決められているかもしれないわ」
老婦人は苦笑しながら言った。それを聞いて青年はぎゅっと膝下で拳を握りしめる。
「なら、どうして僕を雇ったのですか?」
雇ってもらえたのは嬉しい。嬉しいが不思議でもあった。老人は自分を雇ってなお、ほとんど手伝わせることはない。せいぜい細々とした雑用を代用するくらいだ。それですら老人は最初のころやり辛そうにしていたのだ。自分が老人の歯車を狂わせる原因になっただろうことは想像するに難くないだろう。
「聞いていないの?」
老婦人は驚いたようにきゅっと眉をひそめた。老眼鏡がわずかに揺れ動く。
「ええ」
「困ったものねえ」
ふう、と老婦人は大きくため息をついて声をひそめる。またやわらかくブースターの体毛を撫でた。
「あの人ね、不調なの。数十年前から最近まで、ずうっとあの人は一人でナイフを作り続けていたのよ。だけど、最近はうまくいってないわ」
その発言に青年は小さく頷く。確かに最近作ったナイフは満足がいかないのか、作り出してはすぐに捨てるということが多くある。問題はその原因だ。
「僕が来たからですか?」
ぽつ、と青年が言葉を落とした。老人に師事してしばらく経つが、その間にナイフが出来上がったのはほとんど見たことがない。もしかすると自分が来たことによって調子を崩しているのか──。
「いえ。それはないわ。むしろその逆で、煮詰まっているからあなたを雇ったの」
老婦人は青年の悩みを否定するようにゆるゆると首を振る。そして老眼鏡を外し、布でそっと拭った。
「あの人は今、十本のナイフを作ろうとしているの。夏の“たたら祭り”でお焚き上げにする予定のナイフをね」
「それは……」
青年は言葉を失った。“たたら祭り”はクロガネシティで毎年開かれる、鉄の神へと捧げる伝統的な祭りである。その中でもナイフの焚き上げは祭りの目玉行事だ。十本のナイフを焼き、煙をはるか天上にいる鉄の神へと捧ぐことで商売の繁盛を願うというものだ。
「ナイフは九本まで出来上がっている。でもね、十本目がうまくいかないの。納得いくものができないみたい。だから、初めて弟子をとったのよ」
頼むわね、と老婦人は微笑んで青年の方を叩いた。その手は柔らかいのに、妙な重みがこもっていた。
翌日、青年はいつものように山の片隅に建てられた工房へと向かう。辺鄙なところにあるせいか、周辺にはこの工房以外に何もない。ただ青々とした山が広がるのみ。来るのにも一苦労だが涼しいのが幸いか。
そんなことを考えていると工房の前にたどり着く。と、そこで青年はいつもと違った光景を目にした。いつもより少し早い時間なのに老人が腕を組んで工房の前にいる。何かあったのかと青年は顔を強張らせ、急ぎ足で老人の方へ向かった。
「どうされましたか」
「ポケモンを持っているな」
「は、はい」
藪から棒に何を言うのかと青年は訝しむ。老人は無言で工房の中へ青年を連れていく。青年は思わずあっ、という声をあげた。自分たちの前に先客がいる。最初は玉鋼かと思ったそれはもぞもぞと動き、静かに息をしている。てつヨロイポケモンのココドラだ。
「追い出せ」
老人は顔をしかめてうるさそうに手で払った。ココドラは鉄鉱石を見つけては食い荒らすことで有名だ。それにやられて莫大な損失を被った鍛治職人は少なくない。だから、ココドラが出ないクロガネ炭鉱の近くで鉄を打つ職人が多いのだ。
青年はごわごわの作業服からモンスターボールを取り出して放った。
「ブースター、“アイアンテール”!」
モンスターボールから現れた相棒に鋭く命じる。ブースターは眠そうな顔をしていたが、おまかせあれとばかりに鋭く鳴き声を上げるとココドラを尻尾の一撃を向ける。しかし、ココドラはそれをさっとかわして藁箒の上に飛び乗った。続けて二、三度ブースターに指令するが、ココドラは意外に速く、捉えきれない。
青年は焦っていた。作業場は狭く、また大事な道具が散らばっているためブースターに“かえんほうしゃ”などの大技を命じることができない。しかもこのココドラ、一向に鉄鉱石を食べようとせずにゆらゆらとブースターの攻撃をかわすだけだ。青年がまごついていると、老人は冷たい視線を青年に向けた。
「もういい」
「しかし」
「もういい、捨てよ!」
老人は声を荒げる。珍しい怒鳴り声に青年は体を震わせる。だが、老人は何事もなかったかのように塗り台の方に向き直り、鋭い眼光で銘を掘っていく。青年は老人の技を盗もうと手元をしっかり見るが、ココドラが気になって集中できない。いつ鉄鉱石を食べ始めるか──。
しかし、ココドラは鉄に目もくれず、ただ老人の手捌きを穴が開くほどに見つめる。まるで自分と同じように。老人はもうこちらに意識を向けていなかった。かんかん、と一定の間隔で鉄を叩く音だけが作業場に響く。
当然ながら、鉄を打つことは簡単な作業ではない。律動を狂わされたせいか、老人の動きはいつものより手際が悪い。玉鋼を熱した後に水で冷やし、小槌で叩いて強度を確かめる作業があるのだが、老人は舌打ちして叩いたそれを放り捨てる。これでもう五回目だ。
ナイフを打つ玉鋼はもちろん相応の質を求められる。それがお焚き上げに使うナイフとあらば、混じりのない質の良いものを選びたいだろう。だが、いい玉鋼を見分けるのは相応の苦労が必要である。外見では綺麗に見えても、熱した後に叩いてみれば石が混ざっていて質が悪いなどよくあることだ。それだけの苦労を重ね、ようやくナイフを作る玉鋼を見出す。だが、それで油断はできない。最後にナイフを叩いてみたら、作業の工程で脆くなっており、叩いたら壊れてしまうこともあるのだ。全てが水の泡である。優れた職人ですら良い玉鋼を見極めることは簡単ではない。つまり、総当たりするしかないのだ。数百もある玉鋼から、あるかわからない良き材料を求めて。
今日はそれがうまくいかない。鉄を火に当て、冷ましてはそれを放り投げている。きっとこれ、というものが見当たらないのだろう。玉鋼を投げる動作もどこか荒っぽい。それに気がついているから、青年も少し落ち着かないし、ブースターもトレーナーの感情が伝播してそわそわしている。そんななかで唯一静かだったのはココドラだけだ。ただ老人の様子を見るだけ。一応、ブースターに見張らせていたがぴくりとも動く様子を見せない。まるで鋼に同化しているかのようであった。
結局、その日は一本もナイフを仕上げることができなかった。
その次の日も、ココドラは昨日と同じように工房の隅でじっと座っていた。不思議なことに玉鋼へと食らいついてはいない。またか、と青年はため息をつく。昨日は作業が終わると見るや、ぴょんぴょんと跳ねてココドラはどこかへ逃げてしまったのだ。そして今日も何食わぬ顔をしてここに来ているのだろう。
だが、青年には対策があった。昨日購入したわざマシン、それを一晩かけてブースターに覚えさせたのだ。青年は懐からモンスターボールを放り投げた。
「ブースター、“こわいかお”!」
鋭い指示の声に従い、ブースターがココドラを圧倒するような表情で睨みつける。怯えたのか、ココドラはびくっと後ずさりした。こんな可愛らしいポケモンでも恐ろしい表情をするのだな、頭のどこかでそんなころを考えた。
「そのまま追い詰めろ!」
青年が叫ぶと、ブースターはココドラを工房の端へ端へと追い詰める。“こわいかお”には対象のポケモンの速度を下げる効果がある。これならばブースターも工房の中にあるものを壊さずに追い詰められるだろう。目論見通り、ブースターはうまくココドラを工房の片隅へ追い詰めた。
「“アイアンテール”」
ブースターの柔らかな尾が鋼鉄のような硬さをに変わり、ココドラの頭を叩きつけた。すかさず青年は懐からモンスターボールを取り出して投げつけた。ボールはココドラの眉間らしきところに当たって、ぱかっと開いて飲み込んだ。ココドラは抵抗しているのか、ボールはかたかたと揺れたが、やがて完全に静まり返った。
──うまくいった。
青年は額の汗をぐいっと拭ってモンスターボールを拾い上げた。これでココドラに邪魔されることはなくなる。だが、モンスターボールはなかなか拾い上げられなかった。一度は完全に静まり返ったものの、ボールはかたかたと震えている。外に放り出せばよかったかなと青年はため息をついた。
後ろからがたと扉を開ける音が聞こえた。ようやく老人が来たようだ。
「何をしている?」
「ココドラを捕まえました」
しゃんと背筋を伸ばし、少し得意そうな表情を押し隠しながら答えた。ココドラを捕まえたモンスターボールはまだ震えている。
「そう、か」
老人は何か含みがある口調でそう答えてモンスターボールを見た。相変わらずボールの中でココドラが暴れているのかがたがたと揺れている。
結局、老人は何も言わずに工房の奥へと進んで作業台の前に座った。何か言われるかと身構えていた青年は肩透かしを食らったような気になりながらもブースターをモンスターボールの中へ戻す。さあ、仕事の時間だ。そう気分を切り替えようとしたが、相変わらずココドラが入ったモンスターボールは小刻みに揺れていた。
老人は独り、鉄を打つ。牢屋を思わせる暗い作業場できんきんと音を響かせる。振り乱した白髪は炭で黒く汚れ、暑さで紅潮した顔は小皺の一つまで紅が差す。それでも、老人は滝のように流れる汗も拭かずに鉄を叩く。やがて鉄を叩く律動が早く杜撰になっていく。
青年は黙って老人に水を差し出した。老人はそれをごくごくと飲み干すと、青年の服を見て顔をしかめる。
「それは何とかならないのか」
老人が言ったのはココドラが入ったモンスターボールだろう。小刻みに揺れているせいで、何度か青年の服から零れ落ちるのだ。そのたびに青年は慌てて拾っていたが、それが老人の気に触っていたのだろう。
「……すみません」
青年はただ頭を下げる。自分もポケモンを捕まえるのは初めてで、モンスターボールの扱いには慣れていない。
そのとき、一段と激しく揺れたモンスターボールの緊急噴出ボタンが指に強く当たった。しまった、と思った時にはもう遅い。赤い粒子とともにココドラが現れて、玉鋼が入っている桶に突進していく。
青年は慌ててモンスターボールのボタンを叩き、ココドラを戻そうとする。しかし、赤い粒子がうまくココドラを捉えてくれない。そうあたふたしている間に、ココドラは桶をがらがらとひっくり返し、玉鋼を口に咥えた。
「この──」
「待て」
老人はココドラを止めようとした青年とブースターを手で制する。そしてココドラを鋭い眼光で射抜いた。ココドラは老人の顔を見て遠慮したように一つの玉鋼を押し出す。
「これか」
老人は汗を拭いてココドラから渡された玉鋼をじいっと見つめる。ココドラは何も言わない。ただ、何かを訴えるように老人をじぃっと見つめる。ぶつぶつと老人は何かを呟き、渡された玉鋼を手で弄ぶ。やがて、何も言わずにそれを火床へ投げ込んだ。火床を覗き込む老人の顔には、熱気のためか皺に汗がたまる。やがて火床から玉鋼を出し、水につけて引き上げた。なるほど、外見は美しい。何も混じり気もない玉鋼だ。
「これで作る」
老人は静かな声で宣言する。青年も、そしてブースターやココドラもまるで意味がわかっているかのように頷いた。
日は暮れて、窓の外からほのかな月明かりが差していた。いつも帰るはずの時間はとうに過ぎている。だが、老人も青年もそんなことを口にしない。黙々と二人は玉鋼へ向き合う。言葉どころか、風の音が邪魔をすることを惜しんで窓を閉めた。一切の雑音はこの場に必要がない。
玉鋼を持ち上げ、伸ばし、慎重に叩く。形も少しずれたら空気を吸うので、寸単位の定規を用意して寸分の狂いも許さないよう慎重に叩く。ただただ叩く。複雑な行程はなさそうに見え、実際にはそこに職人芸の極みがある。だから青年は老人のリズムを狂わせないよう、自分が人間であることを忘れて働くようにしていた。
やがて、玉鋼はナイフへと変化していく。老人の丹念な工夫のためか、外見はほぼ狂いがない。老人は袂からレンズを取り出し、しげしげ眺めると頷いた。
さて、いよいよ仕上げだ。ナイフの強度を確かめるべく、一度強く叩かねばならない。そこで壊れたら、全てが夢となる。
老人は小槌を受け取ろうとして、それを取り損ねた。痩せた手は少し震えている。だが、その震えを落ち着かせると、ナイフへと一気に振り下ろす。
青年も思わず目をつぶった。機械のような正確さを持ってなお、最後は神のみぞ知るだ。運否天賦は、神の手へ委ねられた。
がつん、とナイフがぶつかる音がする。青年はしばしとまり、ゆっくりと目を開く。そして、拳を床へと打ち付けた。
ナイフは割れなかった。それどころか、一層の輝きを見せる。神へ捧げる供物として、これ以上のものはないだろう。
「やりましたね」
興奮で弾んだ声で青年は言う。ナイフの素朴な銀が艶やかに光る。老人は答えずに懐から和紙を取り出し、そっとなぞった。ひらりと舞うようにして和紙が落ちていく。それに青年は見とれていた。何とも美しいナイフだ。
老人はナイフを手でいじり回し、感触を確かめるように軽く振った。そして、ナイフから顔を上げると、ココドラへできあがったナイフを投げ出した。
「やる」
思わぬ老人の行動に、ココドラはびっくりしたかのように鳴き声をあげた。いや、ココドラだけではない。後ろに控えていた弟子はココドラより驚き、立ち上がって拳を握りしめた。
「どうして、せっかくできたナイフを捨てるのですか」
「こんな美味しそうなものを、いるかもわからぬ神に捧げるのはもったいない」
平然と老人は言葉を返してナイフへと視線を落とす。青年も無意識のうちに老人の仕草をなぞり、ナイフを見つめていた。
あ、と青年は思わず喉を鳴らす。できあがった刀は鉄であることを忘れ、まるで飴細工のように艶かしい。人でありながらもココドラの気持ちがわかる。なるほど。もし自分が人でなくココドラであらば、恥外聞なくそれをばりばりと噛み砕いていたであろう。これは、ナイフであってナイフではない。妙な色気を放つそれは、自分がナイフであることを忘れている。
ココドラは戸惑ったように老人と青年を見つめる。しかし、青年も老人も自分を止めずにじっと見守っているのを感じ取ったのか、ぱりぱりとナイフを折って食べ始めた。
「そうか。うまいか」
珍しく老人はふっと口元を緩ませた。青年は驚いて老人を見つめた。弟子になって数年、老人が顔をほころばせるのは見たことがない。しかし、老人はすぐに火床へと向き直ると、後ろ手で小槌を寄越せの合図をした。
「次」
「はい」
老人の言う通り、青年は小槌を渡す。しかし老人はなかなか鉄を打ち始めない。おもむろに振り返ると青年の目をじっと見た。
「一本、お前が打ってみろ」
老人の言葉を咀嚼するのに数秒かかった。だが、それをココドラのようにごくんと飲み込んだ。
「はいっ!」
青年は大きな声で返事をする。そして、小槌を手に取った。
青年は一人、鉄を打つ。その後ろには鋭い目つきでじっと見る老人に、ココドラとブースターがいた。