背中が痒い
ある朝、
小深田憲弘が不安な夢からふと覚めてみると、ベッドのなかで自分の姿が一匹の、とてつもなく大きな毒虫に変わっているのに気が付いた。
でっぷりとして脂ぎった手足は、ハサミのように鋭いものとなり、おまけに本数も増えている。そして立ち上がるには重すぎる体も妙に軽くなっていた。
鋭い爪で引っかかった布団を苦しみながらも何とか外し、ごろりと床に転がり落ちる。掃除していない部屋からは栗のような匂いと埃が舞ったが、彼は気にしなかった。
食べ物のカスと積み上げられた漫画、そしてピッピ人形を雑に払いのけていく。そしてようやく姿を表した薄汚れた窓ガラスを見て彼は納得する。
彼はパラセクトになっていた。オレンジ色の姿をして、背中に毒々しいキノコを背負っている。なかなかの容姿であった。ふーん、と一つ感嘆の声をあげようとするが、代わりに出たのはパラセクトに特有の低い鳴き声で、それが家中に響き渡った。
憲弘の妹が何事かと兄の部屋を開ける。次に彼女は悲鳴をあげた。どうしたんだ、と階下から父親が叫ぶ。働かない息子の心労から年に見合わぬくらい老けてはいたが、腐りきっている息子とは違い妹のことは溺愛しており、悲鳴に駆けつけないわけがなかった。オロオロとしていた母親に警察に電話をかけるよう怒鳴りつけ、そして杖を持ってよろよろと二階へと上がった。そして、彼も愕然とする。そこにいたのは巨大なパラセクトだ。どこから入ったのか、おぼつかない足取りでそこに立っている。父は反射的に腰につけたホルスターに手をかけようとするが、寝間着姿であったからモンスターボールを持っていない。その代わりに、右手に持っていたリンゴを反射的に投げつけた。
「出て行け! このパラセクトが!」
老人とは思えないくらいの鋭い投擲は、見事なまでに憲弘の背中に突き刺さった。憲弘はくぐもった悲鳴をあげると、慌てて階段を転がり落ちるように逃げていった。
全く、息子のようなパラセクトだと父はため息をついた。戦うそぶり見せず、少し攻撃されたらすぐに逃げるか閉じこもる。あんなに情けない存在が、息子以外にいることが信じられなかった。そういえばしばらく息子の顔を見ていない。嫌味の一つや二つでも言ってやろうかと顎髭を撫でながら部屋を覗く。そして、はてと首を傾げた。淫らな本が散乱し、カップラーメンとポテトチップス、そしてコーラの空き缶が転がる部屋の主が、見渡す限りどこにもいないのだ。
☆
さて、家から追い出されて数週間が経つが、この男は現状をなかなか気に入っていた。幸いにもポケモンの体というものは強く、リンゴによってできた傷もすぐに癒える。おまけに木の根元にくっつけば、養分を簡単に取れる。スナック菓子やラーメンほどでないが、なかなか美味い。何よりもわざわざ捕食をしなくてもいいことが楽であった。さらに、この辺りは強いポケモンも少ないので、最終進化系であるパラセクトというだけで一目置かれる。昔は海パンに小突かれてエリートトレーナーに鼻で笑われ、挙げ句の果てに虫取り少年にカツアゲされるくらいだったのだ。それに比べれば、現状は天国であった。……本当は、ブツブツと何か呟いて白目を剥いて笑う憲弘が不気味で、誰も近づきたくないだけであったのだが。
可愛らしいアゲハントやパチリスは憲弘の姿を見ただけでどこかへと逃げていくが、それは人間のころから変わっていないので平気だった。そもそも彼は女が嫌いである。学生の頃から自分の顔を見るなり、バカにしたような目をして離れていく。隣の女の子が消しゴムを落としたので親切に拾って渡そうとしたが、「それ、あげる」と明らかな拒絶を受けた。勇気を出して告白しようと手紙を出したら、その女の子のヤンキーに身の程をわきまえろ、と数時間説教された後にボコられた。そして家に帰れば、父親にはやり返せ! と怒鳴られ、妹からは蔑みの目で見られるそれに比べれば、今はなんと幸福なことかわからなかった。体は軽くてあちこち這い回れるし、不躾な視線を浴びせてくる人の粗探しが趣味な近所のおばさんも、地元に残って結婚した元同級生のヤンキーもいない。漫画やアニメはないが、親に怯えることもなく自由に妄想することができる。
そんななかなかに恵まれた環境ではあるが、憲弘には一つだけどうしても解消できない悩みがあった。
ーー背中が、痒い。正確に言えば、きのこと背中の甲殻の間が痒い。
ふざけんな、と小深田憲弘はキレた。自分の体くらい自分で掻けずして、何がポケモンかと憤りを感じた。この小深田、いくら墜ちたと言っても、自分で背中を掻きたい。彼が人間だったときに一人できたことは、ときおり床を叩いて親に飯を持って来させることと、ベッドで寝て自分がレッドだったらという妄想をして一日をやり過ごすこと。そして、背中を掻くことだけであったのだ。一人でできる、三つのうちの一つを奪われ、彼のプライドは傷ついた。トレーナー時代に挫折してからふてくされ、十数年間親の脛を齧り続けてきた彼ですら傷ついた。
頑張ってその手を伸ばしては、絶妙に掻けないことにイライラする。背中を地面に擦り付けてみるが、背中についたきのこはなかなかに分厚く、思った通りに擦れてくれない。
仕方ない、誰かに相談しようと憲弘は決意する。卑屈なくせにプライドはやたら高いと矛盾した二面を持つ彼ですら、誰かに頼らざるを得ないことを理解した。
そういえば、野生のポケモンたちが、困ったことがあれば物知りのキュウコンに相談しろと言っていた。憲弘は密着していた木から離れると、かさかさと音を立てながら歩き始める。這い回る姿が気持ち悪かったのか、ひそんでいたコラッタたちは逃げていくが、そのことに憲弘は気がつかなかった。
☆
キュウコンはこの辺りで有名な智者である。その昔、長い間トレーナーと一緒に旅をしたこともあって、外界にも詳しい。トレーナーの死後にここに移り住んだが、その穏やかな物腰と豊富な知識を分け与える姿勢から、誰からも慕われていた。
さて、そんなキュウコンだが、最近は退屈をしていた。なにせ、自分のところを訪ねてくるポケモンが少なくなっていたのだ。しかし、自分の神秘的なイメージを崩さないためにも、キュウコンは他のポケモンを訪れたりはしない。ただ一匹、森の奥にある大木の虚で、きりりとした表情で待つだけである。
そんなときに、遠慮がちにとんとんと木を叩く音が聞こえた。思わず浮かんだにやけ面を慌ててかき消し、わざと億劫そうな表情で現れる。
「……何か願うことがあるのか、迷えるポケモンよ」
決まった、と内心で自分を褒める。こんな風に出てくれば、大体のポケモンは尊敬に満ちた目で見てくるのだ。しかし、いつまでたってもノックをしたポケモンは姿を見せない。もしや、誰かが来たというのは自分の勘違いだったのだろうか。顔を赤くしてキュウコンは虚へ戻り、その尻尾で体を包み込む。
退屈なのだ。寂しいのだ。キュウコンはポケモンも人間も大好きである。しかし、困ったことにキュウコンは大変なナルシストでもあったのだ。寂しいと言って他のポケモンと軽々しく交流することはしたくなかった。もっとこう、神聖な存在でありたいと思っている。
ひょっとしたら自分は疲れているのかもしれない。もふもふの尻尾を引き寄せて体に巻きつける。少し眠ろう、そう思ったその時だ。
こつんこつん、とまたもノックが聞こえる。今度こそ、誰か来たのかと思って目を開いて外に出る。今度もお決まりの口上を言うか悩んだが、もしも誰もいなかったら恥ずかしいのでやめた。
案の定と言うべきか、誰もいなかった。空耳か、そう思ってまた虚に戻るとまたノック音が鳴る。今度こそ、と思ったが誰もいない。戻った。ノックされた。誰もいない。戻った。ノックされた。誰もいない。
これにはさしもの温厚なキュウコンもキレた。そして大声で叫んだ。
「さっきからイタズラしおって! やめぬのならこちらにも考えがあるぞ」
「あの、ここです」
ゴニョゴニョよりも小さな声が聞こえる。キュウコンは思わずうわっと仰け反った。そこには、パラセクトが張り付いているではないか。
「……お、おお。すまない、見えなかった。して、何用か」
思わぬ事態にキュウコンも少し声を震わせながら答える。しかし、パラセクトはなかなか答えない。あー、とかうー、とか何やら意味もわからない言葉を呟いたあとに、ぼそりと言った。
「……掻きたい」
「は?」
「背中を、掻きたい!」
☆
キュウコンは頭を抱えた。ここに来るポケモンはやれ恋愛相談だの、やれ食糧が足りないなどの話をしにやってくる。それならば、長く行きたキュウコンの経験からそれらしき回答を提示することはできる。しかし、背中が痒いという悩みを持ってここにきたポケモンは、これまでに見たことがなかった。生きた時間がいくら長いとはいえ、背中が痒いと言ってきたパラセクトを見たことがない。おそらく、専門家ですらパラセクトから痒みを訴えられたことはなかろう。
おまけに、このパラセクトはおどおどしていて何を言っているのかよくわからない。どうも背に乗ったきのこと背中の間が蒸れて痒いようだ。しかし、どう体を捻ろうが、その手が患部に届くことはない。キュウコンも呆れながら掻くのを手伝おうとしたが、彼の手では小さなその隙間に手を入れることはできない。
はてさて困った。手も届かずに、かといって木の枝を差し込んでも中で引っかかるのか届かない。力加減も微妙なのか、痒い場所に到達しても今ひとつ快感が得れない、と。
だが、キュウコンは諦めたくなかった。もし自分が諦めたりすればどうするのか。きっとキュウコンは痒いという卑近な悩みすら解決できないポケモンと言いふらされてしまうかもしれない。そうすれば、自分に向けられていた尊敬の念は全て消えてしまうだろう。それは嫌だ。絶対に嫌だ。
表情には出さないようにして頭をフル回転させる。そして、簡単な真実にたどり着いた。手が太いポケモンが背中を掻こうとするからダメなのだ。手が薄いポケモンに頼むのがいいだろう。
この時点で、キュウコンは半分負けたかのような屈辱を覚えていた。他のポケモンの手を借りなければいけない自分に苛立っていた。しかし、パラセクトを放り出すわけにもいかなかった。もし放り出せば薄情者と言われるだろう。
憲弘はかさかさとキュウコンの後ろを付いてきていた。何やらキュウコンが顔をしかめているが、そんなことは彼にとってどうでもいいことだ。今はただ背中が痒い。掻いてほしい。
はたとキュウコンが草原の一画で立ち止まる。すると、わあっと歓声が上がって草原にいた草ポケモンたちが集まってきた。そして、憲弘を見て一歩遠ざかった。
「キュウコンさん、お久しぶりです!」
「みなさん、しばらくぶりです」
キュウコンは軽く微笑むと、黄色い声があちこちから湧く。どこに言っても顔がいいやつはモテるんだな、と憲弘は軽く地面を蹴飛ばした。どうせなら、自分もストライクあたりのかっこいいポケモンになりたかったと一瞬思う。だが、冷静に考えれば顔のかっこよさと自分の情けなさのアンバランスさにより、もっとダサくなっていたかもしれないと思い直した。やっぱり自分はパラセクトでいい。だが、この痒さだけはなんとかして欲しかった。早くしてくれ、と憲弘は談笑しているキュウコンを睨む、しかし、もしバレたら怖いので、遠巻きに生暖かい目で睨むことにした。
どれだけ時間が経っただろうか。憲弘が諦めて帰ろうとしたところ、ようやくキュウコンは話題の口火を切る。
「実はマダツボミさん、貴女にお願いがあるのです」
「はい、何なりと!」
「……心苦しいお願いとなってしまうのですが」
「そんなこと決してありません! 貴方のお願いなら、たとえ地の果てや空の果てでも付いていきましょう!」
葉っぱでできた手でキュウコンの足を握り、熱く叫ぶ。周囲から嫉妬の視線が突き刺さるが、マダツボミはまるで気にしなかった。彼女はキュウコンのファンである。望みとあらば、海でも火山でも、それこそ宇宙でも行くつもりであった。いや、もしキュウコンと一緒にどこかへ行けるのならば、死んでもいいかもしれない。いや、死ねばこのキュウコンは自分の手を取って泣いてくれるかもしれない。
想像しただけで、メロメロになりそうだ。
「では、お願いできますか」
「お任せください! 一体、どんなお願いなんですか?」
「……その、大変申し訳ないのですが、彼の背中を掻いてやってくれませんか」
「……は?」
思わぬ頼みにマダツボミは静止した。キュウコンが指したほうには、陰気な表情を浮かべるパラセクトがいる。背中というのは、おそらくきのこと背中の間に手を突っ込めということであろう。じいっとパラセクトの方を見る。見れば見るほど、背中に乗っているきのこはおぞましい色に見えた。どくタイプの背中を触れては、自分の手も無事ではないだろう。まだキュウコンの尻尾を引っ張って祟られた方がマシだ。
「ごめんなさい、無理です」
マダツボミははっきりと拒絶した。
☆
さて、キュウコンは自らの住処へと戻り、再び頭を抱えていた。冷静に考えれば、パラセクトのキノコには強烈な毒が閉じ込められており、草タイプのポケモンがそれに触れればダメージを負ってしまうだろう。そのあとも何匹かのポケモンに頼んだが、誰もが嫌そうな顔をして断った。あんまり頼んだら自分の評判も下がるだろうと考え、頼みを打ち切りにした。憲弘もそれを咎めなかった。むしろ、これ以上拒絶されたら自分の心の方がもたなかっただろう。しかし、痒い。心に刺さった拒絶の言葉とトラウマが終われば、また背中は猛烈な痒さを主張していた。たまらずに自分の体を木に擦り付けるが、掻くことはできない。
その動作が、キュウコンには「早く俺の依頼を解決しろ」という仕草に見えた。急がねばならない。誰か、確実に掻いてくれそうなポケモンを探さねば。
いや、待てよとキュウコンは昔の記憶を手繰り寄せる。確か、ニンゲンは痒さを感じた時に掻かず、患部を冷やすと聞いた。なれば、その手法を取ればいいだろう。
思い立ったが早いか、今度は憲弘を連れて川辺へと向かう。そこには、悠々と寝転がるヤドンたちがいた。
「んー、キュウコンさん。こんなところに来るなんて珍しいねえ」
「お久しぶりです、ヤドンさん。一つお願いがあるのですが」
「なんだい?」
「この者のきのこと背中の間に、れいとうビームを撃ってもらえないでしょうか。どうもそこが痒いみたいで」
「おっけー。任せてー」
憲弘は昔の友人を思い出した。といっても友情を抱いていたわけではない。なんとなく、余り者同士で一緒にいただけである。憲弘は内心その友達のことを見下していた。きっと、同族嫌悪だったのだろう。しかし、そいつの方が自分より勉強が格段にできると知ったとき、心の中にあった最後の防壁が崩れ落ちた。そいつがどうなったのかを憲弘は知らない。風の噂によれば、ずっと真面目に勉強し、タマムシ大学に入ったそうな。一方、憲弘はその場だけ真面目にやってやり過ごし、気がつけば立派なニートである。
ヤドンもそうだ。ぱっと見は愚鈍そうであるが、れいとうビームという威力の高い技を使いこなせる。こいつは敵だ。だが、ヤドンはそんなことに気がつかないように口をすぼませる。なんだか腹が立ってきた。どうして、自分はポケモンの世界にまできてカーストの上下差を知らされなければいけないのか。自分はパラセクトと言うだけで這い回ることや木を枯らすことしかできないのに。
「それじゃあ行くよー」
「……ぁ、その」
「うん、どうしたの?」
間抜けな表情で聞いてくるヤドンが、愚鈍な同級生の顔に重なった。ちくしょう、どいつもこいつもバカにしやがって。全員マユルドになって、一生進化しなければいいんだ。
「ねえ、何か聞きたいことでもあるの?」
そんな憲弘の様子が気になったのか、ヤドンはもう一度尋ねる。それが、憲弘にはバカにしているかのように感じられた。
「……なんでもないッス」
ふてくされて答える。もうやぶれかぶれだったし、背中が痒くてイライラが爆発しそうだった。これさえなんとかできればもうなんでもいい。
「わかった。じゃあ、“れいとうビーム”!」
☆
キュウコンは頭を抱えていた。手で掻くことはどう頑張ったってできやしない。しかし、パラセクトの背中を掻けそうなくらい手が細いポケモンはみんな頼みを断る。れいとうビームで患部を凍らせれば解決かと思ったが、最大限に威力が弱められたれいとうビームの一発で戦闘不能になったのだ。そして、目が覚めれば今度は冷たい冷たいと叫ぶ。仕方なくキュウコンは“おにび”で氷を溶かしたのだが、今度は氷が溶けて蒸れ、もっと痒くなったと叫ぶのだ。さしものヤドンも、少し呆れた表情を浮かべてたくらいだ。もうどうしようもなかった。
「パラセクトよ」
「……ぁ、はい」
一応呼びかけてみると、小さくそのパラセクトは返事をした。そのおどおどした様子に、無性に腹が立って仕方がない。
そのうちキュウコンの心に怒りがこみ上げてくる。そうだ、そもそもあのきのこが邪魔なのだ。あんなものがあるから蒸れて痒くなる。そんな邪魔なものは燃やしてしまえばいい。
「今から、お前の背中にあるきのこを燃やす」
それは、脳の痒さに届く甘美な答えであった。キュウコンも、またこの難問に脳が痒くなっていたのだ。この痒みさえ取れるのならば、それがどんな行為でも構いやしない。彼の頭には、意地っ張りという名の病巣が巣食っていた。
「……は?」
「安心しろ。そのきのこがなければ、お前は存分に背中を掻けるはずだ。いざ!」
キュウコンが返答すら聞かず、本能のままに口から“かえんほうしゃ”を迸らせる。まさかの攻撃に、憲弘は避けようがなかった。
「あづづづづづ!」
憲弘はのたうち回った。“かんそうはだ”という特性も手伝ってか、火の通りがやけに良くて熱い。別に、ここまでしてもらいたいとは思わなかった。ただ、彼は痒いのをなんとかしたかっただけなのだ。
死んでしまうのか。自分はキュウコンの気まぐれに付き合わされて死ぬのか。引きこもって、ようやくポケモンになれたのに虚しく死ぬのか。嫌だ、嫌だと川に飛び込んで必死に水をかく。憲弘は泳ぎが苦手だった。顔に水をつけることがやっとですらあった、しかし、今の彼は火事場の馬鹿力とやらで、虫ポケモンに似合わないくらいの速さで泳いでいる。しかも、どんどんと火傷が回復していくではないか。そういえば、と憲弘はトレーナースクールで習ったことを思い出す。パラセクトの特性は、確か“かんそうはだ”だ。水に浸かれば体力も回復するだろう。よし、と自分にグッジョブをする。なんだ、自分の記憶力もなかなか捨てたものではないかとなんの慰めにもならない自画自賛をする。
どれだけの距離を泳いだだろうか。もうキュウコンが追ってきていないことを確認すると、憲弘はそっと川から這い出る。
そして、気が付いた。背中にあったきのこが元気なくしぼんでいることを。そして、どっと疲れがやってくる。きっと本気で泳いだときに、きのこの中に溜め込まれた養分をすべて消費してしまったのだろう。
恐る恐るきのこの上に手を乗せてみた。ぺたんと萎れたきのこに、もう背中を掻くときに障害となるほどの強度はない。
とりあえずめちゃくちゃ掻いた。数日ぶりの背中を掻いた感触は足が攣りそうになるくらい気持ちが良かった。
☆
あれから数日が経つ。あの日に起きた火事騒ぎは、野生のポケモンのみならず、人間も巻き込んだらしい。そして、混乱状態になっていたキュウコンは警察によって確保された。憲弘は人間が捨てた新聞を読んでそれを知った。ちなみに自分が行方不明だという記事は今日も見つからなかった。結局、両親も家族も警察に被害届けを出さなかったのだろう。
「ポケモンも、楽じゃあないな」
焼けた後の山を見ながらぽつりと憲弘は言う。先日ようやく掻くことができた背中は、蒸れてまた痒くなってくる。きのこも気がついたら少し膨らんできていて掻き辛くなっている。ならば、この痒みは一生付き合わなければいけないだろう。
だが、生きようと思った。情けなくても、背中すら掻けなくても生きようと思った。