ミツキ 03
さすがはカントーで一番大きい企業だな──。ミツキは通された応接間で居心地が悪そうに座り直す。いつも社会部の無骨な椅子に座っているせいで、ふかふかのソファーに座っていると尻が落ち着かない。応接間だけでなく、ここに通されるまでも場違いに思えた。スーツで身を固めていったが、中で働いている人のほとんどはオフィスカジュアルである。それでも自分の数倍は小綺麗である。しかも、会社内には環境に配慮しているためか、喫煙所が一箇所もない。代わりにチコリータが各階に一匹ずつ配備されており、一定の間隔でアロマセラピーを放つそうだ。そのおかげで、会社内はいつも綺麗な空気が保たれているらしい。元々はタマムシシティのエリカが提案したことであるとか。
だが、その清潔さがミツキには合わなかった。埃と紙で汚らしい職場が自分には合っているのだろう。そんな思いを抱きながら、出された冷たいお茶を飲む。グラスの中に入っている氷からはカルキの臭いがしない。ということは、わざわざ氷を一度洗っているのだろう。
無性にタバコを吸いたくなり、半ば無意識で胸ポケットに手を伸ばす。そのとき、がちゃりとドアノブが回る音がした。
「お待たせいたしました。シルフカンパニー広報部部長のクラウチと申します。本日はよろしくお願いいたします。」
健康的に浅黒く焼けたいかにも営業マンの男が、一礼して名刺を渡してくる。あわててミツキもう胸ポケットから内ポケットに手を移し、名刺を渡した。
「トレーナー新報のヤクシジ・ミツキです。このたびは取材を受けていただきありがとうございます」
「いえいえ。ぜひとも弊社の製品を宣伝してもらいたいです」
クラウチはキラリと歯を光らせて笑いかけてくる。ミツキは申し訳なさそうな表情を作って頭を下げる。
「すみません。今回はちょっと別件でお伺いしたいです」
「セキュリティについての取材ですよね。わかっています」
クラウチは口元に笑みを浮かべたまま、ミツキに着席するように促す。ミツキは失礼します、と頭を下げてソファーに座った。クラウチもミツキの正面のソファーにどかっと座った。
「しかし、警察班の記者さんが珍しいですね。どうしたんですか?」
「最近増加するインターネット犯罪に関して聞きたいと思いまして。御社はポケギアの開発に携わっているじゃありませんか」
「ははあ、なるほど」
ミツキは事前に用意しておいたでっち上げの理由を述べると、クラウチは納得したように腕を組む。柔和な笑みを浮かべてはいるが、目つきが一瞬鋭くなったことをミツキは見逃さなかった。
「ただ、うちのポケギアはもう市場でシェアを取れていませんよ? 今はマクロコスモスさんのスマホロトムがトップシェアじゃないですか」
クラウチは苦笑いを口元に浮かべる。ミツキは大きく首を振った。
「いえ、『ポケモン預かりシステム』はリリース以降、大規模な事件に巻き込まれたことはありません。今の社会の根幹を支えるシステムが悪用されていないのはどうしてなのでしょうか」
「褒めていただきありがとうございます。と言っても弊社では特別な対策をしているわけではないのですよ」
「特別な対策をしているわけではない?」
「はい。無論、セキュリティー関連の人材は優秀な者を選抜していますが、それだけではありません。弊社の公営企業という特別な形態に鍵があります」
「公営企業と言うと、ポケモンリーグから補助金を受け取って経営するということですよね?」
「よくご存知で。その代わり、弊社で働いている人物が退職後にポケモンリーグで働くことは禁止されております。逆もまた然りです。こうすることによって癒着が起こらないようにしています。もしも私たちが深い関係にあるのならば、国ぐるみで隠ぺい工作をすることも可能でしょう。そうせずに一定の距離を保つことで、お互いに緊張感を持って仕事ができるのです」
ここまでクラウチは一言で言い切ると、またお茶を飲んだ。ミツキはお茶に手を伸ばさず、かわりにあごに手をやった。クラウチの話に納得できないわけではない。しかし、どこか芯を捉えきれていない感触があった。もう少し探る必要があるな──。ミツキは話の筋を変えることにした。
「なるほど。しかし、ポケモンリーグと癒着することがなくとも、セキュリティーに関する機密情報を御社の社員が公表することもできるのではないでしょうか?」
わざと意地の悪い質問をぶつけてみる。これで、クラウチの出方を伺おうとした。しかし、クラウチは余裕を持った表情でゆるゆると首を振った。
「それはできません。そもそも、弊社のセキュリティーの中枢情報を知っているのはポリゴンだけです。私は愚か、IT担当のトップでもどのようなっているのかわかりません。もしも産業スパイが発生したところで、人が知っている情報ではセキュリティーを突破することはできません。まさか、ポリゴンから情報を聞き出すことはできないでしょう?」
こう言ってクラウチはまたお茶を飲む。完璧に切り返されたな、とミツキは頭をかいた。ここは素直に負けを認めた方が良さそうだ。
「申し訳ございません。不躾な質問でした」
「いえ。我々の対策がしっかりとしていることを証明できたようで何よりです」
クラウチは膝下で手を組んで、にこやかに笑った。そろそろ頃合いか、とミツキは時計をちらと見た。
「本日はありがとうございました。もしよろしければ、またの機会に『ポケモン預かりシステム』の開発に携わっている方からお話しを伺えないでしょうか」
「申し訳ございません。具体的なセキュリティー技術は企業秘密になっているのです」
「詳しい技術についてではなく、お伺いできる範囲だけで聞くことはできないでしょうか」
「それもできないのです。私としても何も話せず大変心苦しいのですが、こういった配慮が弊社のセキュリティーを担保しているのです」
こう言って、クラウチは申し訳なさそうな表情を作る。だが、その表情とは裏腹に何も語るまいという考えが透けて見えた。一瞬、視線がクラウチと交錯した。
「そうですか。無理を言って申し訳ございません」
ミツキは素直に頭を下げる。おそらく、これ以上突っ込んだところで実りのある話を聞けるわけではないだろう。そもそも、今日は適当な理由をでっち上げて取材しているのだ。あまり深く切り込んで怪しまれては本末転倒である。
「いえ。わかっていただけたようで幸いです」
クラウチは一礼して立ち上がった。もう面会の時間は終わりということだろう。ミツキもクラウチに続いて立ち上がった。
「出口までお送りいたします」
「お気遣いは大丈夫です」
「いえ。私もこのあと外に用事があるものですから」
広報も大変ですよ、とクラウチは苦笑しながらネクタイを締め直した。ミツキは同情するように頭を下げる。
部屋を出て、エレベーターに乗り込んだ。エレベーターに乗っているのはミツキとクラウチの二人しかいない。少し気まずさすらあった。
「トレーナー新報さんは最近どうでしょうか」
「厳しいですね。ネット全盛の時代なので、新聞の売上もなかなか伸びないです」
ミツキは苦笑いで返す。これは嘘ではなかった。新聞がネットに取って代わられて久しく、昔のように稼げなくなったと嘆く社員も多い。確かに、トレーナー新報も早期退職を募ったり、紙や文房具の購入に制限がかかるなど、所々に経営難が滲んでいる。最も、これはマスコミ業界の運命ではあったが。
「そう、ですか」
クラウチの表情から一瞬──ほんの一瞬であるが、笑顔が消えた。だが、それも一瞬でまた柔和な笑みを浮かべていた。
それでは、とミツキはクラウチに頭を下げてシルフカンパニーから出る。途端に都会の汚れた空気が口に入ってくる。それは不快ではなく、むしろ心地よくすらあった。どうしてか、シルフカンパニーは綺麗な空気の割に息苦しい。思ったよりも自分が強大な企業を取材しているのだという実感が空気と一緒に胸元を満たしていった。
喫煙所でようやく一息をつく。タバコの不健康な味が肺にまで染みていくが、それが不快ではなかった。むしろ、健康的なシルフカンパニーの空気の方が体に悪い気がしていた。
なにより、ニコチンが程よく体内を循環している時の方が思考が捗る。ミツキはタバコをくわえながら、ぐるぐると喫煙所内を歩いた。
正直なところ、役に立つ情報はほとんど得られなかった。個人で動いているのもあって、調査をする人手もなければ情報も足りない。セキュリティー関連に何かあるかと考えたが、しかし今後の参考になる情報は何も得られなくて。
──待てよ。
ミツキはふと立ち止まった。クラウチは確か広報部の部長と名乗っていた。しかし、それはおかしな話ではないか。自分は『セキュリティ関連の取材をしたい』と言ってアポを取ったのだ。それならば、IT担当者を連れてくるのが筋であろう。
だが、今回出てきたのは広報部である。そして話されたのも、結局シルフカンパニーの経営形態についてである。いくら企業秘密を気にしているとはいえ、IT技術の担当でない人物を出してくるだろうか。
つまり、ここから考えられる仮説は二つある。一つは、万が一にでも重要情報を流出させないよう、わざとIT技術に無関係な人物に取材の応対をさせた。あれだけ慎重な姿勢を取っているならば、あり得ない話ではない。
もう一つは、とミツキは新しいタバコを咥えて火をつける。邪推であるかもしれないが、シルフカンパニーはセキュリティー関連にやましいものを抱えているのではないだろうか。だからこそ、こちらの取材に対して毒にも薬にもならない応対をした。そうは考えられないだろうか。
ならば、残る手段はただ一つだ。シルフカンパニーの外にいる人物に取材をする。何か尻尾を掴むには、その方法しか思いつかなかった。