ミツキ 01
新聞社の朝は早い。特に、ここ──ミツキが所属する社会部の警察班は特にそれが当てはまる。だいたい、警察という生き物は朝から晩までずっと働いている。そんなやつらを捕まえようと思ったら、まず早朝か深夜から仕事をしなければいけないのだ。
ともあれ、最近はろくに事件がないせいか警察も比較的落ち着いている。だから、社会部の記者もサトルがいじめられているのを面白そうに見ていたのだろう。
ミツキは見ていていたたまれず、真っ先に社会部の部屋を飛び出してきた。あの様子だと、ハナオカはまたサトルに嫌味を言ったのだろう。ホワイトボードには代理休暇と書いてあったのに、なんとも愁傷な話だ。
どうしてかは知らないが──ハナオカに理由を求めても無駄であるが──ハナオカは妙にサトルを嫌っている節がある。最も、ハナオカはサトルだけでなく自分より上の人間が全員好きで、自分より下の記者が全員嫌いな男であるが。
花形のポケモンリーグ部で幅を効かせて社会班の警察部デスクになったのだから、記者として有能な上に社内政治も得意なのだろう。全く、性質の悪い話だ。ともかく、いつまでも社内にいては顔を合わせたとき嫌味の一つや二つ言われる。ミツキはトイレの鏡と向かい合ってだらしなくぶらさがっていたネクタイをきゅっと結び直し、髭剃りで無精髭をなくす。二日酔いでまだずきずきと頭が痛んでいる。警察との飲みはどうしても激しくなる。まだ飲め飲めの文化が残っているのだろう。
ミツキはトイレを出ると、急ぎ足で廊下を歩いてガラス張りの扉の前まで行く。そして、トレーナーカードをかざしてキーを解除すると、警備員とそのポケモンであるライチュウに頭を下げて、ポケモン管理室という札がかかっている部屋に入る。
さて、今日はどうなっているかと壁に張り付いている電光掲示板の表示を見る。電光掲示板には飛行用ポケモンの隣に「貸出中」「貸出可」と横に書かれている。
ピジョットは貸し出されていた。きっと、トレーナーの中でもかなり強い人──もしかすると、サトルが──借りて行ったのだろう。ミツキは電光掲示板の下についている電子端末を慣れた手つきでタップする。
ミツキは小さくため息をつく。ジムバッジを四つ持っていたらピジョットなどの飛行用ポケモンを借りれたのに、三つしかジムバッジを持っていない自分はピジョンしか借りれなかった。
最も、記者になるための入社テストにはジムバッジを三つ持っていたら十分だと言われている。だいたいの社員が三つから五つぐらいだろう。八つ持っているサトルなんて社内随一の実力者だろう。だから、周囲から嫉妬されるところもあるのだろう。全く、くだらない話だ。
さて、前回借りていたピジョンは貸し出されていた。残念だ、おとなしい性格で卸しやすかったのに。仕方ない、とミツキは代替のピジョンを選ぶ。性格はおっとりしていて操りやすいが、空を飛ぶスピードは少し劣るらしい。まあ、じゃじゃ馬に乗って振り落とされそうになるよりはマシか──ミツキは諦めてそのピジョンをタップした。
「トレーナーカードを出してください」
機械の無機質な声に従い、トレーナーカードをかざす。すると、ごろんという音と共に、社名の頭文字である「T」が刻み付けられたモンスターボールが機械から排出される。
「お待たせしました、飛行用のピジョンです。業務終了五分前までにお戻しくださいませ」
「ああ、わかったよ」
無意味と知りながらミツキはその機械の声に応える。そして、転がってきたモンスターボールを無造作に放り投げた。
低い鳴き声とともにピジョンが出てくる。軽く撫でてみたが、ピジョンは無機質な目でミツキを見返す。育て屋がかなりきめ細やかに育て上げたのだろう。下手に懐かないようにしているのか。
まあいいか、とミツキは首を振る。そんなことを考えていても仕方がない。とりあえず、仕事だ。ミツキはピジョンの背中に乗って「クチバシティ」と短く告げた。
──今日もそれらしきネタは抜けなかったか。
ミツキはハンカチで額の汗を拭う。昨日、飲み屋で聞いた話を元にいろいろ嗅ぎ回ってみたが、どうも酒の勢いでガセをつかまされていたのだろう。まあ、当たり前の話だ。冷静に考えれば──冷静に考えなくても、サントアンヌ号の隣にあるトラックが麻薬を運んでいるわけがないだろう。そこらの与太話を書く週刊誌ですら真に受けるわけがない。
焦っていたかな、とミツキは煙草を咥える。世の中のあちこちに特ダネが落ちているわけがないのだ。記者が取材するネタが百あるとすれば、その中に新聞に載せるに値するネタは二、三あればいいほうだろう。そうそう簡単に、それもまだ新米の記者である自分が特ダネを見つけられるわけがないのだ。
ともかく、一日を無駄にした。また一からネタの収集か──。ため息をついて、ピジョンにまたがった。その時だ、スマホロトムが小刻みに震えた。
「もしもし」
「俺だ」
渋みのある声が電話口から聞こえてくる。刑事のタグチだ、とすぐに脳が声を結びつける。ミツキはピジョンの背を叩いて飛ぶのを押しとどめさせた。
「お久しぶりです、タグチさん」
「名乗っていないのによくわかったな」
「そういう仕事なので」
ミツキは苦笑とともに言葉を返す。警察関係者とあらば、一つの手違いで機嫌を損ねておまんま食いっぱぐれることがあるのだ。
「飲みに行かないか」
「今晩ですか?」
「ああ。タマムシの近くで飲みたい」
ミツキは腕時計に視線を落とす。今から本社に帰ればいい時間に落ち合えるはずだ。
「わかりました。19時にタマムシジムの前はどうでしょう」
「おお。それでいい」
刺身を食べたいな、とタグチがこぼして電話を切ったのをミツキは聞き逃さなかった。
新聞記者に求められているのは文章力じゃなくて酒の強さだろうな──。運ばれてきたビールを飲みながら、ミツキは頭のどこかでそう思う。
酒、煙草、麻雀。記者の三種の神器といえばこれだろう。四、五はメンタルで六にようやく文章力だろうか。
ともあれ、ミツキは酒を飲むことは嫌いでなかった。特に、目の前で酒を飲む刑事ことタグチは、警察の中でも比較的落ち着いて話すことができる相手だ。少なくとも、いきなり頭からビールをかけられるということはない。
「どうだ、最近は」
「全然ですよ。デスクに怒鳴られっぱなしです」
ミツキは苦笑いしながらグラスを口元に運ぶ。タグチもああ、と口を緩めた。
「噂には聞いているな。ハナオカってやつのパワハラがひどいんだって?」
「まあ、そう言っている人もいますね」
ミツキは微妙に言葉を濁した。酒の席言えど、そこにいるのは情報を引き抜くべき相手である。そして、逆に引き抜かれる可能性もあるのだ。腹に一物持って和やかに笑い合う。それが警察との付き合いであろう。特にタグチは警察という男社会で腐臭がする場所にいながら、今どき珍しいくらいに厳粛なのだ。このタイプの人間は腹の奥底に何か飼っていても、簡単に口を開きはしないだろう。だから、ミツキも無理に情報を引き抜ことはしない。
「どうした、箸が止まっているぞ」
タグチの促しに、ミツキはすみませんと言って鮪を口に運ぶ。美味しいな、と素直なつぶやきが漏れる。魚が絶品という評判は間違っていなかったようだ。こういうとき、記者の間で飯の情報を共有できるのは大きい。
「これうまいぞ」
「アクアパッツァですか?」
「ああ。特別な訓練を受けたヒノアラシが焼いたんだってさ」
「火付け役から凝るんですね」
「らしいな。ガラルの方ではカレーを作るのに、ポケモンに手伝わせるのが流行っているらしいぞ。何でも、絶妙な火力のポケモンが重宝されているようだ」
はあ、とミツキは曖昧な声で答えた。独り身だからか、食事に対するこだわりはほとんどない。せいぜい、アリバイ作りに野菜ジュースを飲んで罪悪感を紛らわせるくらいだ。ミツキはアクアパッツアを控えめに自分の皿へ取り分ける。
「食わないのか?」
「最近また太ったんですよ。この部署に移ってから太りましたし」
「嫁さんは貰わないのか」
「勘弁してくださいよ」
ミツキは苦笑いしてごまかす。興味ないわけではないが、この忙しさに付き合ってくれる相手がいるわけない。よしんばいたとしても、自分のだらけた生活に呆れて千年の恋も冷めるだろう。
そうか、とタグチはグラスを傾ける。ビールが入っていたグラスはもう空になった。
「何か飲まれますか」
「焼酎を」
タグチは頷き、焼酎のロックを頼む。珍しいな、とミツキは密かに驚く。タグチはいつもここまで飲まない。付き合ってもビール一杯か二杯だろう。
「それにしても、今日はどうしてお誘いいただけたのでしょうか?」
純粋に不思議だった。普段、タグチとサシで飲むことはほとんどない。
ああ、とタグチがほおをかいた。そして、おもむろにスマホロトムを取り出すと、それをサトルに見せてくる。
「娘が生まれた」
しわくちゃな赤ん坊の泣き顔が目に飛び込んでくる。泣き喚いている赤ん坊を、女性が微笑んであやしていた。
「おめでとうございます!」
「ありがとう」
タグチが照れて顔をほころばせる。だが、すぐさみしそうな表情をすると携帯の電源を切った。
「しばらくは帰れないからな。娘と会うのは帰ってからのお楽しみだ」
「へえ。何か調べているんですか?」
何気なく聞き、しまったとミツキは身を強張らせる。この手のタイプに直接聞くのは良くないだろう。特に、めでたい話をしていたのに気を悪くさせないか。だが、タグチは気分を害したような表情を見せなかった。代わりに焼酎のグラスをきゅっと呷り、氷をからんと響かせた。
「シルフカンパニー」
ぽつりとタグチが言葉を漏らす。は、とミツキは思わず声をあげた。タグチの口から漏れた言葉、それは本来出てきていいものでなかった。
タグチが所属している部署は凶悪犯罪や企業ぐるみの大規模な収賄を取り扱っている。そこがシルフカンパニーを調べているなんて、アルコールが回っている頭でもどれだけのことが起こっているかわかる。
「タグチさん」
「つまらない冗談だったな」
低い声でタグチはそう言うと、ゆっくりと酒を飲み干した。それから口を真一文字に結んでしまう。
だが、ミツキはそれどころではなかった。一企業でありながら、世界のインフラとも言うべきシルフカンパニー。モンスターボールをはじめとして、トレーナーになくてはならない商品を生産している。
そこで、何が起こっているのか。警察に調査されるような、何が──。