カントーに捧ぐ夜
01
 本日は非番なり。
 サトルは会社の屋上で大きく伸びをする。吹き抜ける風が夜勤明けでべたっとした髪を凪いでいく。夜遅くまでネタ元を探して走り回り、それで情報を得ることもできず門前払いされる。そんな仕事から解放され、今は晴れやかな気分だ。都会の空気で普段は濁っているタマムシシティの風も、朝のためか澄んでいる。最も、それはようやく休みが取れるという開放感から来るものがあろう。
 今日は丸一日休みを取った。つまり半日も休みをとることができる。何と素晴らしい会社だろうか! ぐしゃっとコーヒーの缶を握りつぶす。とりあえず、午前中に残っている仕事を片付けよう。そう思ってベンチから立ち上がろうとすると、ぎいっと屋上のドアが軋む音が聞こえた。反射的に身を小さくする。
「お疲れー」
「……おっす」
 サトルは緊張を解いて短く返事をする。やってきた痩身の男──同期のミツキはサトルと同じくコーヒーを片手に手を挙げた。
 ああって何だよと苦笑しながらミツキはサトルの隣に腰掛けた。端正な顔に無精髭が生えている。記者の習性か、無意識のうちに表情を観察してしまっている。
 いかんな、とサトルは顔をそらしてコーヒーを一口含む。ミツキもサトルと同じようにコーヒー缶をぐいっと傾けた。
「夜勤明け?」
「いや。警察の飲みに付き合わされてた」
 最悪だよ、とミツキが表情をしかめる。それでも元気そうに見えるあたり、ネタ元から何か情報を得たのだろうなと邪推した。
「吸っていい?」
「喫煙所は一階だろ」
「ハナオカがいるかもしれねーからな」
 ああ、とサトルは呻き声を漏らした。あの狭い喫煙所で、巨漢のハナオカがぷるぷると唇を震わせながらタバコを吸う姿は、想像するだけで生理的な嫌悪感が湧く。
 ミツキは胸ポケットに手をやってぽんぽんと叩いてみせた。サトルが頷くと、さんきゅと言って胸元から電子デバイスを取り出し、それを咥えた。
「紙じゃないのか」
「最近は喫茶店も電子タバコにしろってうるさいんだよ。それより、吸わないの?」
「ああ、まあな」
 曖昧な言葉でお茶を濁した。煙草の匂いを嫌うポケモンも少なからずいる。ほとんどのトレーナーは気にしないが、サトルは慎重だった。それがどれくらいコンディションを左右するかは知らない。だが、その可能性があるものは全て取り除きたかった。
 悪いね、とミツキは追求せずにタバコをくゆらせ、美味そうに煙を吐いた。まだ自分と同じ年齢なのに妙な色気がある。よくも悪くも記者らしい男だ。
「最近どう」
「ぼちぼちかな」
 あえて言葉を濁して答える。数少ないネタはたとえ同僚であっても明かしたくない。最も、今はネタなんてないのだが。
「ま、頑張ろうな」
 ミツキは笑顔でサトルの肩をぱんと叩くと、お先にーと言いながら屋上を出て行く。サトルは後に続かず、相変わらずコーヒーの缶を握りしめていた。
 スマホが小さく振動した。サトルはそれを取り出してげっと呟く。着信は上司──デスクのハナオカからだ。





 夜討ち朝駆け。新聞社からこの言葉が表向きには消えて久しいが、もちろんそれは表向きに過ぎない。無知な若者を騙して新聞社の労働力を手にするための方便であり、ワークライフバランスなどこれっぽちも考えていない。騙されたと誰かが泣き言を吐いて退職届を叩きつけたり、病院に入って出られなくなることは新聞社の風物詩でもある。幸いリーグトレーナーをやっていたおかげで、体力だけはあるのが救いで、サトルは今日まで仕事を続けることができていた。もっとも、サトルにとって新聞記者が天職なわけではないが。
 わざとゆっくり廊下を歩く。わざわざハナオカが自分を呼びつけたということは、何か一つ嫌味を言うためであろう。
 どんよりとした気分で社会部がある部屋のドアノブを握る。相変わらず嫌な雰囲気だ、とサトルは内心で毒づく。神聖な社会部を気取っているのか知らないが、この部屋はポケモンや女が入ることは許されないという不文律がある。誰が考えたのか知らないがクソッタレな文化だった。紙を刷れば誰かが買っていた時代は終わりを告げているのに、この体たらくとは。
 机に積んであるコピー用紙を崩さないように気をつけてデスクの方へ向かう。すると、ちょうど出社したばかりの社員が一斉に自分の方を見てくる。
 やられた、とサトルは顔をしかめる。わざわざハナオカがこの時間に連絡してきたということは、外回りをする前の記者に自分が怒られている姿を見せつけるためだろう。そんな内心の動揺を出さないようにしつつ、サトルは部屋の奥でふんぞり返るガマゲロゲのような男の方まで向かって歩いた。
「おはようございます」
 できるだけ平坦な口調で挨拶する。このハナオカという男だけには隙を見せたくない。ハナオカはそんなサトルの様子に、一瞬不快そうに顔を歪めたが、すぐにねっとりとした笑顔を貼り付けた。
「サトルくん。どうして朝から呼ばれたかわかっている?」
 黒縁眼鏡の奥からどんよりと暗い目が舐めるように覗き込んでくる。サトルはいえ、とまた平坦な声で答えた。
 ハナオカはふんと鼻を鳴らすと、でっぷり脂ぎった手で原稿を机の上に乗せる。自分の原稿だ、サトルはすぐに気がついた。
「なんか変なところに気がつかない?」
「……いえ」
 ざっと原稿を読み返したが、文法がおかしいところはない。ハナオカに突っ込まれるような隙はなくしておいたはずだ。
「君さー」
 ばん、と太った手がデスクの隅に叩きつけられた。さっきまで聞き耳を立てていた社員たちが、隠そうともせずに自分の方を見てくるのが振り返らなくてもわかった。かあっと耳が熱くなるのを感じる。ハナオカは嫌味ったらしく指でぱんぱんと原稿を叩いた。
「年齢。シオンタウンの警察署長は一つ年下。三十三歳じゃなくて三十二歳なの」
 は、と声が漏れそうになった。確かに自分はそれを確認したはずだ。だが、自分がそれを確認するよりも早くハナオカは原稿を引っ込めた。
「見せてください」
「いや、もうこれはいいよ」
 びりびりとハナオカは原稿を破った。サトルはそれを呆然と見ることしかできない。やがて、原稿が紙吹雪のようになると、ハナオカはぱんと手を叩いた。
「ごめんね。フジタくんを呼んでくれないかな」
「フジタさんは別に……」
「いや、そういうのいいから。早くフジタくんを呼んで」
 口調こそ柔らかいが、有無を言わせない。自分で呼べ、と叫びかえしたくなったが黙っておいた。周囲の視線が相変わらず突き刺さっているのを無視して、直属の上司であるフジタに電話をかける。フジタはわかった、と短く答えるとすぐに電話を切った。
 ハナオカはサトルを無視して原稿のチェックを始める。サトルは背中に突き刺さる視線と屈辱を感じながらも、その場に直立するしかない。いつもなら取材に行っているはずの記者も、その場にのろのろと残って事の顛末を見守ろうとしている。性悪どもが、とサトルはぎゅっと拳を握りしめた。
 それからどれぐらいの時間が経っただろうか。ぜえぜえと息を切らしながら、フジタが駆け込んできた。ハナオカはフジタに気がつくと、おおと不自然なばかりの猫撫で声を出した。
「フジタくん、最近調子はどう?」
「ええ、おかげさまで元気です」
「ネタは取れている?」
「まあ、ちょっとだけですかね」
 フジタは媚びるような笑みを浮かべると、親指と人差し指で「ちょっと」を表現する。ハナオカはその面白くもない仕草に声をあげて笑った。
「それだけあれば十分だ。期待しているよ」
「ええ。……ところで、何があったんですか」
 フジタは口元こそ笑っているが、目は笑っていない。ちらちらと気にするようにサトルを横目で見る。ハナオカはああ、と含み笑いした。
「彼ねー。ちょっとねえ」
「えっ、何をしたんですか」
「まあねえ。それより、今晩どう?」
 ハナオカはフジタの質問をかわして盃を持ち上げる仕草をする。フジタは少し引きつった笑みで喜んで、と答えた。
「じゃあ今晩ね。美味しい海鮮でも食べよう」
 期待しているよ、と言うとハナオカは書類を持って立ち上がった。途端に部屋の時間が戻ったかのように、サトルとハナオカを見ていた記者たちが慌てて出かける。
 フジタははあ、と息を吐くと近くの椅子にどっかりと座ってサトルを手招きした。
「お前、なにやらかしたんだ」
「年齢の裏を取れていなかったようです」
「ばっかじゃねえの。何年目だお前」
 吐き捨てるようにフジタが言うと、機嫌が悪そうに貧乏ゆすりした。年齢の裏は取った。ハナオカはろくに確認させてくれずに記事を破いた。そう言いたかったが、サトルは黙っていた。フジタは機嫌が悪そうに持っているボールペンをくるくると回した。
「今晩、タマムシ近郊でいい感じの海鮮屋を予約しておけ。デスクが気に入るような店だ」
 そう言い残すと、フジタは乱暴に立ち上がって部屋を出た。気がつけば部屋に残っている人はほとんどいない。
 くそ、と毒づいて立ち上がったが、足がもつれて近くの机にぶつかる。事務職の女性が迷惑そうに顔をしかめた。たかが事務員のくせにと悪口を言いそうになったが、それを抑えて部屋を出る。
 周囲にほとんど味方はいない。週刊誌という僻地に配属された自分が、一年ほどで本社に戻ってきたあたり面白くないのだろう。全く、くだらない嫉妬だ。自分は記者になりたくてここにいるわけではないのに。こんな状況下で唯一信用できるといえば、同期のミツキくらいだろう。彼もまた、他部所で手柄を立てて社会部までやってきたという経歴を持つ。最も、ミツキの方が周囲の風当たりは柔らかいが。
 それでも、ハナオカの自分に対する嫌がらせは一段とひどい。もともと、部下へのパワハラが多いことで有名だったが、自分はとりわけ目の上のたんこぶのように扱われている。単なる嫉妬ではなく、非常に深い恨みのようなものすら感じるが、サトルには心当たりが一つもなかった。そも、ハナオカは社内のエリートコースを邁進している。自分など気にするべき存在ではないはずだ。
 イライラしながら休憩室に入ってスマホを取り出す。週末の今日、あのハナオカが気にいるような店を探さなければいけないのだ。いっそのことゴミ収集場の住所でも送りつけてやろうかという気持ちになった。
 かたかたとモンスターボールがポケットの中で揺れた。周囲に誰もいないことを確認すると、緊急噴出ボタンを軽く叩く。
 らるぅ、とラルトスが小さく鳴き声を上げる。そして、サトルの膝にぴょんと飛び乗って不安そうに見上げた。
「ごめんな、ラルトス」
 ラルトスの頭をそっと撫でると、鞄の中からポロックケースを取り出し、ももいろポロックをラルトスの口に含ませる。ラルトスは嬉しそうに笑い、くるくると膝の上で踊る。サトルはラルトスの頭を撫でていたが、内心では全く別のことを考えていた。
『とりあえず三年はやってみろ』
 前の上司であるツネカズはそう言った。記者になり、ポケモンや人間をよく見ろ。そこから見えてくるものがあるはずだ、と。自分はそれに従い、記者としてある程度成果を出してここにいる。二年目からカントーに配属されるなんて、新人記者ではかなり早いほうだろう。しかし、こんなことをやっていて自分の“本当の夢”に届くのか。
 ──チャンピオンになるという夢は。

竜王 ( 2021/06/27(日) 13:34 )